新学習指導要領の可能性と問題点

目次
1 改訂のポイント
A 主要ポイント
(1) 社会に開かれた教育課程とは?
(2) 資質・能力を中心とする教育課程とは?
(3)「主体的・対話的で深い学び」(いわゆるアクティブ・ラーニング)とは?
(4) カリキュラム・マネジメントとは?
B 上記以外に注目すべきポイント
(1) 学習評価に関して
(2) インクルーシブ教育に関して
(3) 道徳教育に関して
2 改訂ポイントが孕む問題点
A 主たる改訂ポイントについて
(1) 「社会に開かれた」というスローガンが持つ危険性
(2) 資質・能力を中心とする教育課程の限界
(3)「主体的・対話的で深い学び」の陥穽
(4) カリキュラム・マネジメントの落とし穴
3 展望--新学習指導要領の建設的批判へ
A 主たる改訂ポイントについて
(1)「社会に開かれた教育課程」というスローガンについて
(2) 資質・能力を中心とする教育課程について
(3) 「主体的・対話的で深い学び」について
(4)カリキュラム・マネジメントについて
B 上記以外に注目すべきポイントについて
(1) 学習評価に関して
(2) インクルーシブ教育に関して
(3) 道徳教育に関して


1 改訂のポイント
A 主要ポイント
 平成29年3月改訂学習指導要領においては、その改訂史上初めて、本文に先立ち「前文」(1200文字程度)が添えられ、そこで、教育基本法条文(第1〜2条)の引用に始まり、今次改訂学習指導要領を貫く基本理念が語られている。その語り口には理想主義的とも言えるトーンが漂う。それを象徴するのが「社会に開かれた教育課程」というスローガンであり、その中心軸が「よりよい学校教育を通してよりよい社会を創るという理念」である。その上で、「よりよい社会」の創り手になるために必要な「資質・能力」の育成を中心とする教育課程への転換が声高らかに歌われている。こうした響きは、今回の学習指導要領を、日本の公教育史における明治以来の画期として位置付けようとした中教審答申(2016年12月21日)の序文「はじめに」と共通する。
 このことは何を意味しているのか。この点を理解するために、今次学習指導要領の最も主要な改訂指針を確認しておこう。それは、(1)社会に開かれた教育課程、(2)資質・能力を中心とする教育課程とこれに基づく学習評価法の再編、(3) 「主体的・対話的で深い学び」(いわゆるアクティブ・ラーニング)の推進、(4) カリキュラム・マネジメントの確立という4点に集約できる。
(1) 社会に開かれた教育課程とは?
 社会に開かれた教育課程とは、要約すると、変化する社会状況を広く視野に収めて、よりよい学校教育によるよりよい社会の実現を目指すとともに、そのための社会参画に向けて育成すべき資質・能力を明確化する教育課程を指し、その実施にあたって学校外の人々と連携を図ることを旨とすることを意味する。ここで注目すべきは、社会や世界の変化に対応するという機能主義的・適応主義的な教育観に止まらず、学校教育によってより望ましい社会を構築しようとする社会改良主義的な、その意味で理想主義的な観点が明示されていることである。
(2) 資質・能力を中心とする教育課程とは?
 教育課程を、教師が教えるべき知識・技能の内容項目を中心とするもの(コンテンツ・ベース)から子どもたちが身につけるべき「資質・能力」を中心とするものに(コンピテンシー・ベース)に転換するという企図は、今次学習指導要領の最大の眼目である。このトレンドは、日本のみならず多くの先進諸国の教育改革に共通に見られる方向性と言ってよい。アクティブ・ラーニングの推進もカリキュラム・マネジメントの重視も、このコンピテンシー・ベースの教育課程への転換という要因から派生的に帰結する方策である。
 では、資質・能力中心の教育課程への転換とは何を意味するか?それは、これまでの教育課程が、どのような知識・技能の内容を教えるべきなのかに照準するものだったのに対して、今後の教育課程は、どのような力を子ども・若者が身につけるべきなのかに重点を置こうとすることを指す。文科省は、これを「何ができるようになるか」という言葉で表している。
 ただし、ここで「何ができるようになるか」と呼ばれる資質・能力観は、汎用的な有用性を持つ力を意味する。すなわち、複雑かつ変化の激しい社会においては、今ここで有効とされている知識が、今後、他の場面でそうであり続けるかどうかは簡単に見通しがつかなくなるだけに、また、ICT環境の進化により多くの知識が居ながらにして参照できる時代であるだけに、多くの知識を習得すること以上に、獲得した知識や手に入れた情報をうまく活用して、新たな局面に対応したり、新たなアイデアや価値を創造したりすることができるような資質・能力が求められるということである。言い換えれば、学校内部や従来型の試験でしか役立たない網羅主義的で断片的な知識の暗記ではなく、子どもたちが現実の社会生活の様々な場面で出会う問題を主体的・協働的に解決していけるような力がより重視されるというわけである。
 なお、こうした能力は、一定のノウハウによって得られるような限定的で、特定の分野別の知識・技能に止まらず、領域横断的で不定形な能力や意欲・態度など非認知的能力を含む人格総体にまで及ぶものとして表象されることになる。このように考えると、育てようとする資質・能力とは、育てたい子ども・若者像と言い換えることもできる。よって、資質・能力を中心とする教育課程では、育てたい子ども・若者像を目標として明示する教育課程と等置されることになろう。
 さて、資質・能力を中心とする教育課程への転換に伴いクローズアップされることになるのが、のちに再度触れる学習評価法である。ここで確認しておきたいのは、次の点である。すなわち、そもそも、資質・能力を中心とする教育課程は、育成を目指す資質・能力=育てたい子ども・若者像を教育目標として明確化することを出発点とし、最終的に、その目標がどの程度達成されたかを評価するという作業を必然的に伴うという意味で、その評価法として目標準拠評価を要請するということである。
(3)「主体的・対話的で深い学び」(いわゆるアクティブ・ラーニング)とは?
 上記のような資質・能力論の導入、あるいは、学力観の転換は、教育方法にも刷新を要請する。すなわち、多くの内容項目の習得を優先する教育においては、効率的な知識伝達が可能な講義型(チョーク・アンド・トーク)の授業で不都合はなかったかもしれないが、新たな局面における創造的問題解決に向けて、局面に応じて、必要な情報を選択したり、既得の知識を活用したり、あるいは、他者と交渉・協働したりしていけるような資質・能力の獲得を主眼とする教育においては、できるだけ現実・本物に近い文脈において学ぶ側の主体性や能動性がより十全に発揮されるアプローチが求められることになる。
 ところで、ALに関して、今次学習指導要領改訂動向において着目すべきは、文科相による諮問文(平成26年11月20 日)からの定義変更である。同諮問文では「課題の発見と解決に向けて主体的・協働的に学ぶ学習」と表現されていたALは、最終答申文(2016年12月21日)及び今次改訂学習指導要領では、標記の通り「主体的・対話的で深い学び」と定義づけられることになった。
 まず、「協働的」が「対話的」に変更されたが、その背景は、上記答申文でALに関する注記として、「形式的に対話型を取り入れた授業や特定の指導の型を目指した技術の改善にとどまるものではなく」(p.26)と、また、同答申文及び学習指導要領解説総則編で「対話的学び」に関して、「子供同士の協働」にくわえて「教職員や地域の人との対話,先哲の考え方を手掛かりに考えること等を通じ」と述べられていることから推察できる。すなわち、協働的な学習という言葉が使われることにより、ALと言えば、判で押したように小集団での話し合い活動ばかりになり、しかも、そこに従うべき特定の方法論があるかのような受け止め方をする傾向が、学校現場に少なからず見られたという事情を受け、対話的な学びという表現に変更した上で、対話という形態の幅広さを示すことで、ステレオタイプ化した学習のあり方に見直しを迫る意図があるものと考えられる。
 次に、「深い学び」という要素が付されることになった背景には、子ども中心主義的ないし経験主義的な教育への伝統的な批判が念頭にあると考えられる。たとえば、活動あって学びなし、這い回る経験主義といった指摘である。このように、主体的あるいは能動的な学びが必ずしも質の高い学びに帰結するとは限らないという問題意識に基づいて、質の高い学びを表す標語として「深い学び」が用いられることになったと言えよう。
 が、さらに特筆すべきは、この「深い学び」実現の鍵として、(特別の教科道徳を除く)各教科・領域で「見方・考え方」なるものが定義・導入されたことである。この見方・考え方という観点は、社会科や理科ではすでに「社会的な見方や考え方」や「科学的な見方や考え方」という表現で現行版(平成20年改訂版)でも既出なので、真新しい観点ではない。が、こうした全面的導入は学習指導要領改訂史上初のことである。それは、「その教科等ならではの物事を捉える視点や考え方」で、「各教科等を学ぶ本質的な意義の中核をなすものであり,教科等の学習と社会をつなぐもの」(中学校学習指導要領解説 総則編 p.4)とされ、(特別の教科道徳以外の)各教科・領域の「目標」に、この「見方・考え方を働かせる」ことが明記されることになった。これらは、それぞれ個別の知識を多く習得するということに止まらない当該教科・領域を学ぶことの本質的意義、つまり、その教科・領域はいったい何ができるようになるために学んでいるのかという問いに対する答えをできるだけ明確化し、その意義を踏まえた教育・学習を促すために定式化されたものと言えよう。
 くわえて、今次改訂版では「単元や題材など内容や時間のまとまりを見通し」という表現が頻繁に挿入されている点にも注目しておこう。これは、汎用性の高い資質・能力の育成や、そのための主体的・対話的で深い学びやその評価を、1時限の授業という短いスパンを基準として進めていくことはできないという理由からである。
(4) カリキュラム・マネジメントとは?
 カリキュラム・マネジメントとは、学校の教育目標(育てようとする資質・能力=子ども・若者像)を明確化し、その目標を達成できるようカリキュラムを計画・実施した上で、評価・改善していくという一連のサイクルを意味し、その際、教科横断的な視点を採用すること、子どもの姿やその実態を表す各種データに基づくこと、学校内外の様々な人的・物的リソースを有効活用すること、これらに配慮することが求められる。
 こうした取組が重視される背景には、上述の資質・能力中心の教育課程への転換という文脈がある。すなわち、各学校は、各教科別の知識・技能の習得にとどまらず、「育てようとする(汎用性の高い)資質・能力=子ども・若者像」を教育目標として明らかにし、目標実現への努力が求められることになるので、その目標を学校全体で共有し、特定の教科・領域に限らず全方位的に、さらに全学年を見通したビジョンをもって、カリキュラムの計画・実施・評価・改善を進める必要があるというわけである。とりわけ、教員の間で、学級・学年だけでなく教科という壁もできやすい中学校や高校では、そうした壁を超え、子ども・若者たちの育ちを、学校全体で、さらには学校を支える家庭や地域、外部諸機関と連携して支えて行くことが求められることになる。したがって、この意味でのカリキュラム・マネジメントは、管理職だけでなく学校現場の教員一人ひとりに要請されている。
B 上記以外に注目すべきポイント
(1) 学習評価に関して
 今次改訂学習指導要領では「第3 教育課程の実施と学習評価」、同解説総則編では「教育課程の実施と学習評価」(第3章第3節)として、学習評価が節立ての冠として明記されることになった。その内容上注目すべきは以下の2点であろう。第1に、今次改訂学習指導要領の学習評価法に特徴的なのは、学校教育法第三十条に基づいて、資質・能力(学力)が[1]「知識及び技能」、[2]「思考力・判断力・表現力等」、[3]「学びに向かう力・人間性等」という3つの柱からなるものとして再編され、特別の教科道徳を除く各教科・領域別の「目標」もこれに準じて再定義されたこと基づき、学習評価の観点も、従来の4観点(関心・意欲・態度、思考・判断・表現、技能、知識・理解)から上記3つの柱に対応する3観点に再整理される見込みであるという点である。そして、次期指導要録の書式は、これにしたがって改訂されるとともに、この観点別評価が高等学校の指導要録にも導入される可能性が高い。第2に、資質・能力の三つの柱のうち、「学びに向かう力,人間性等」に関しては、観点別評価や評定になじまず、個人内評価(個人のよい点や可能性,進歩の状況について評価する)を通じて見取るべき部分があるということが指摘されている点である。
(2) インクルーシブ教育に関して
 中教審による最終答申では明記されていた「インクルーシブ教育」という文言が、学習指導要領にもその解説総則編にも一切登場せず、「インクルーシブ教育」と密接に関連する「合理的配慮」という概念にも全く触れられていない。同答申では、「教育課程全体を通じたインクルーシブ教育システムの構築を目指す特別支援教育」という表記で、その重要性が唱えられていただけに、この懸隔には注意を向けざるを得ない。
(3) 道徳教育に関して
 道徳が特別の教科として教科化されたことに伴い、今次改訂学習指導要領では、「第1章 第6 道徳教育に関する配慮事項」として、また同解説総則編では「道徳教育推進上の配慮事項」(第3章第6節)として、独立した節が設けられ、位置付けが格上げされている。ここで目を引くのは、同解説特別の教科道徳編では明記されているような「考える道徳」「議論する道徳」への転換という文言が、学習指導要領や同解説総則編では全く登場せず、むしろ、その叙述上の力点は、指導体制における校長による指導力の発揮や、指導内容における規律、規範意識、伝統・文化、愛国心などの重点化を謳うというトーン、道徳教育によっていじめを防止するという論調が目立つという点である。また、改訂学習指導要領の道徳教育に見られる全面主・徳目主義・網羅主義という特徴を反映して、いわゆる「別葉」の作成が示唆されていることも無視できない。
2 改訂ポイントが孕む問題点
A 主たる改訂ポイントについて
(1) 「社会に開かれた」というスローガンが持つ危険性
 「社会や世界の状況を幅広く視野に入れ、よりよい学校教育を通じてよりよい社会づくりを目指すという理念」それ自体は有意義とも言える。実際、文科省は、この理念を非常に理想主義的に語っている。が、ことはそう単純ではない。いったい社会や世界のどのような側面を特に視野に入れるべきものとして重視するのか、また、よりよい社会とはいったいどのような社会を意味するのかという点に、容易な合意はあり得ず、これらは常に対立・葛藤を伴う問いだからである。残念ながら、文科省にはそうしたメタ認知が欠如しているか、あるいはそうした認識を明示できないか、いずれかのようである。よりよい社会を目指すという社会改良主義的な理念を、権力・行政側が持ち出すのと、市民が持ち出すのとでは意味が異なる。こうした必然的に対立・葛藤を伴う論点を含んだ理念を、そういうものとして明示しない場合には、そうした対立・葛藤の存在や様々な立場の違いは等閑視され、ソフトではあれ危険な全体主義が忍び込むことになりかねない。
(2) 資質・能力を中心とする教育課程の限界
 第1に、資質・能力観、つまり、育成しようとする子ども像・若者像は、どのような社会を望ましいと考えるかという社会観と相即不離であるという点があげられる。このことは、教員側の社会認識が深まらないと、その資質・能力論も浅いレベルに止まる危険性があることを意味する。しかも、資質・能力観のベースに一定の社会観があるとすれば、上述のように、そこには必然的に対立・葛藤を伴うことになるので、そうした対立・葛藤の可能性を(特に権力側が)自覚できない場合には、ここでも、全体主義的風潮を呼び込むことになる。しかも、「学校として育成を目指す資質・能力が明確であること」は、教育課程編成の基軸を成す教育目標を設定する上で最も重要な要素の一つであることを考えると、この危険性を看過することはできない。
 第2に、流動化の激しい社会における汎用性の高い資質・能力、すなわち、人間性や主体性といった包括的な資質・能力というものは、明確な定義が本来的に困難で曖昧なものであり、実生活あるいは現実の活動場面から切り離された事前の試験によってつかみとれるようなものではなく、実生活あるいは現実の活動場面における具体的実践を通じて事後的に見いだせるものでしかないという点があげられる。
 第3に、資質・能力中心の教育に必然的に伴う目標準拠評価は、学習評価として一定の限界を有する。資質・能力中心の教育では、より本物の問題解決に資するスキルの獲得に重点を置くという点に一定の肯定的意義を見出すことは可能だが、目標準拠評価では、定義上、一定の目標(資質・能力の獲得)が達成されたかどうかを見る評価である以上、子ども・若者を到達目標から見ることになるので、彼女たち/彼らを、そうした資質・能力が欠如した存在として否定的に捉える危険性を孕んでいる。
 第4に、資質・能力中心の教育で、その学習評価が個人に照準することの問題点に目を向ける必要がある。個人にとって何らかの資質・能力を欠いているという事態そのものは、仮にその他の人々によってその欠如が補われたり、欠如そのものが困難を生まない環境が構築されたりしていれば問題にならないはずだが、資質・能力の育成という教育的視点が過度に優先されると、そうした欠如がもっぱら個人に帰責される風潮に棹差すことになる。しかも、現代的な資質・能力論は、包括的で全人格的な様相を帯びていることを踏まえると、この問題が持つ危険性も看過できない。
(3) 「主体的・対話的で深い学び」の陥穽
 第1に、先に参照した通り、「協働的な学習」に特定の型があるかのような誤解が生まれたという状況を是正するために、より広い概念として「対話的」という表現を用いることにしたという文科省の意図は一定程度理解可能であるが、この表現の変更は、より個人に照準する資質・能力論と親和的であると言えよう。こうした資質・能力観は、主体性の欠如を個人に帰属させるような評価的視線に偏ったり、関係性の中で生じるゆたかな学びを実践の場ですくい取れなかったりするという問題を生じさせかねないであろう。
 第2に、「深い学び」という視角に潜む危険性として、先ほど主として目標準拠評価に関して指摘したのと同様の問題が確認できる。当然のことだが、深い学びは、浅い学びに対する批判的視点を伴うものである。このことは、目の前で展開されている子どもの学びの姿を否定的に捉える視線が先行する可能性が十分にあるということを意味する。深い学びには一定のゆとりが必要であることを踏まえれば、性急に深さを求めることは、かえって深い学びの実現を損なう危険性がある。
 第3に、「深い学び」実現の鍵として導入された「見方・考え方」という視点に現れている限界について確認しておきたい。この視点は、先に見たように「その教科等ならではの物事を捉える視点や考え方」で、「各教科等を学ぶ本質的な意義の中核をなすものであり,教科等の学習と社会をつなぐもの」という趣旨で導入されている。特定の学問分野にその分野に固有のアプローチ、すなわち見方・考え方と呼びうるものが存在している場合もあろう。こうした学問的・科学的なものの見方・考え方を踏まえた授業は、表層的な知識の習得に止まらない概念的な理解への到達に資する可能性が高いという点で、学習の質向上に資する可能性があることは十分に理解できる。が、こうした文科省が示した「見方・考え方」には、異論を唱えることができる余地は十分存在し、決して、普遍的意義を持つとはいえない水準に止まっているものも少なくない。
 第4に、汎用性の高い資質・能力の育成を中心とする教育の転換には、Less is More.(より少なく学んでより多くを学ぶ)という標語で表される理念が重視されてよいが、今回の改訂では全く欠如している。つまり、より深い学びの実現に要する時間の確保に向けた教育内容の削減・精選が全く視野に入れられていないのである。学習指導要領が最低基準だとすれば、その指導項目は(特に高校で)多過ぎるのではないだろうか。
(4) カリキュラム・マネジメントの落とし穴
 カリキュラム・マネジメントは、マネジメントという用語がわざわざ適用されているという点でも、PDCAサイクルの確立や、利用可能な資源の有効活用が強調されるという点でも、ニュー・パブリック・マネジメント(NPM:公共部門・政策に、民間企業の経営管理手法を適用することで、効率化や提供するサービスの質向上を測ろうとする行政管理論)の新自由主義的なベクトルと無関係ではない。こうした文脈に無自覚でいると、その陥穽に陥ることになりかねない。以下では、カリキュラム・マネジメントが抱える限界を指摘しておきたい。
 第1に、カリキュラム・マネジメントは、各学校における教育目標を実現するためのあくまで手段であって目的ではない以上、そこで実現しようとする目標が十分な正当性や妥当性に欠けている場合には、かえって、価値のある教育の実現を阻害する危険性がある。
 第2に、学校現場における教育実践は、PDCAサイクルという言葉から連想されるような線形的なものではあり得ない。それは、多層的・多元的な状況への対応なので、むしろ、一定の柔軟性、曖昧さやいいかげんさを必要とし、それらが積極的な意義を持つことも多い。たとえ一区切りの実践を振り返った時に、その実践の意味づけを言語化できるとしても、子どもたちとの関係性の中で経験的に培われた「勘」を頼りに手探りで進めて行った学級経営が、なんとはなしに軌道に乗っていくが、事前にはPDCAサイクルに乗せられるほど明るい見通しも明確な計画性もなく、言語化もできてはいないという事態は十分考えられる。PDCAサイクルという工学的発想とは相容れないように見えるこうしたプロセスを、単に疑わしいものとして斬って捨てるべきではない。
 第3に、カリキュラム・マネジメントでは、学校内外の人的・物的資源の有効活用が要請されているが、この論理は、現に学校に配分されている資源を所与として、その配分の限界を批判的に捉える視線を奪うことになりかねない。要するに、学校に与えられている予算をはじめとする諸々の資源が不足していることや、学校が抱えている諸条件に無視できない限界があるという事情から、学校目標の達成に支障を来しているという場合でも、カリキュラム・マネジメントの論理だけに依拠すると、その責任は、資源を有効活用できていない学校やその教員にあるという「自己責任論」的見方の方が優先されることになりかねないからである。
3 展望--新学習指導要領の建設的批判へ
(1)「社会に開かれた教育課程」というスローガンについて
 まず、現場の同僚と、文科省が美しく語る理念の意義だけでなく、上述のようなその理念の提示の仕方が持つ危険性に関する認識を広めることであろう。その上で、何をもって社会に開かれた教育課程とするのかという問いについて各学校現場で葛藤・対立を含む議論を重ね、その答えはボトム・アップで模索・明確化し更新していくべきであろう。
(2) 資質・能力を中心とする教育課程について
 第1に、各学校において資質・能力論には、教員側の社会認識を不断に深めていくことが必要になる。同時に、資質・能力観がそれを支える社会観と不可分であるとすれば、そこには多様な立場の違いがあり得るだけに、ここでもトップダウン型で設定するのではなく、教員間で十分な議論と合意形成を通して明確化していく必要がある。
 第2に、実生活あるいは現実の活動場面における具体的実践を可能な限り意識したテストであっても、人工的な環境設定にならざるを得ないテストという手段では、現在重視されている類の資質・能力を測定することには大きな限界を有する。そうした試験の結果が学習評価の対象として優先されると、一人ひとりの子どもの生にとって学習が持つ意味、学習のゆたかさは切り詰められてしまうだろう。従来型の学力テストを見直し、改善していくことには意義があるものの、テストで測定できる能力には限界があり、筆記ないし情報入力によるテストという形式である限り、実生活あるいは現実の活動場面における具体的実践を通した本物の問題解決能力の育成よりも、出題傾向への対策に重点が置かれてしまうという懸念は払拭できない。この点で、学力テストの結果が各学校における実践で最優先されないように訴えていくべきであろう。
 第3に、目の前の子ども・若者たちの実態からカリキュラムを編成し、一人ひとりの子ども・若者にまず肯定的な眼差しを向けることを最優先するならば、目標準拠評価とともに、あるいは、それ以上に、個人内評価やゴールフリー評価(目標にとらわれない評価)の重要性を打ち出し、後者に重点を置いた学習評価・授業評価・カリキュラム評価のあり方を、各学校現場での実践活動や協議を通じて具体化していくべきであろう。
 第4に、個人の資質・能力を育成するためにも、その前に、また、その基盤的前提として、一人ひとりの子ども・若者にとって自らの存在が尊重・承認されていると感じられ、安心して楽しく過ごせるインクルーシブな空間を学校に実現するという目標を優先し、この視点を日々の実践においても評価においても一貫させる必要があろう。
(3) 「主体的・対話的で深い学び」について
 第1に、子どもたちの学びが深いか浅いかの前に、また、子どもたちが学びに向かっているかいないかの前に、目の前にいるその子どもたち一人ひとりの存在をまず肯定し、ケアするという側面を優先させるとするならば、深い学びの達成を熱心に目指すあまり、子どもに対する否定的な評価視線が先立つということは回避されるべきであろう。これは、学びは浅くてもよいということではない。が、深い学びは、その基礎としての学ぶ意欲や学びの楽しさと切り離せないと考えるべきだろう。また、学びが深いか浅いかという点でも、子どもたちの姿を通して、その声に耳を傾けることによって判断するという構えを忘れないでおくべきだろう。子どもたちは、自らの学びが浅い場合には、その学びに内在的に動機付けられなくなる可能性が非常に高いからである。
 第2に、各学校現場は、文科省が深い学びの鍵として示した「見方・考え方」を金科玉条とせず、あくまでその教科・領域における学習の中核的意義を再考するためのヒントとして、対話の相手として参照すべきであろう。
 第3に、文科省は、ゆとりか詰め込みかという二項対立的な観点を否定し、学習内容の削減は行わないと宣言しているが、限られた授業時数の中で多くの知識項目を扱わなければならないとすれば、じっくり時間をかけて深く学ぶということが必然的に制約されざるを得ないだけに、教育内容の精選を現場レベルで認められるように運動を展開していくべきであろう。ALの場合、各教員に相応の工夫とその工夫に費やすための準備時間がより多く必要になることが多いため、最低基準としての学習指導要領における指導項目が削減されないとすれば、指導項目の精選に関する裁量が各学校現場に全く与えられないとすれば、多忙化に拍車をかけることになろう。
(4)カリキュラム・マネジメントについて
 第1に、一部教科における学力テストの成績向上を優先的な教育目標とするカリキュラム・マネジメントには、明確な異議申し立てがなされてしかるべきであろう。
 第2に、カリキュラム・マネジメントで実現が目指されている学校目標それ自体の問い直しや再評価が、ボトムアップで不断に実行されていくべきであろう。その点で、PDCAサイクルを含むカリキュラム・マネジメントの手続きの厳格化に走るのではなく、常に、カリキュラム・マネジメントと呼ばれる作業過程そのものを、メタレベルで観察し、検証する作業が必要になるだろう。
 むしろ、カリキュラム・マネジメントの中心軸となる学校目標には、何よりもインクルーシブな学校空間の構築に資するような指針が据えられるべきであろう。それによって、何よりもまず、どんな子どもも排除されず、一人ひとりの存在が肯定されるような学びの空間の構築が目指されるべきであろう。
 第3に、学校の教育目標にとらわれずに子どもの学びの姿を振り返るという意味でのゴールフリー評価に基づいて、つまり、子どもたちの実態に基づいて教育課程を見直すということが視野に入れられるべきであろう。
 第4に、カリキュラム・マネジメントは、管理職や教務担当者のみが関与する取組ではなく、学校全体で実施することが要請される取組であるとすれば、最終責任を管理職が負うにしても、ここでも、トップダウンではなく、ボトムアップ型の民主的な意思決定を尊重したカリキュラム・マネジメントが推奨されるべきであろう。管理職のリーダーシップの主眼も、権威主義的な統率力にではなく、多様な教職員の一人ひとりを活かす対話型のコミュニケーション能力に置かれるべきであろう。子どもたちを民主的な主体として育成していくためにも、まずはカリキュラム・マネジメントという学校全体で実施すべき取組に関して、民主的な職場環境を整備していくことが重要な意味を持つだろう。
B 上記以外に注目すべきポイントについて
(1) 学習評価に関して
 観点別評価が、高等学校にも導入される見通しであることが確実であるが、高等学校の場合には、通信制定時制をはじめとして、多様な状況を含んでいる。その中で、指導要録における評価の観点がどのように改訂されるのかという点に関して、ひきつづき注視する必要があろう。また、こうした評価方法の導入が多忙化問題の悪化に繋がらないように、指導要録改訂動向を注視する必要があるだろう。
 他方で、従来型の知識項目の習得中心の学力試験一辺倒の評価から、学習指導要領改訂に伴う教科書改訂、大学入試改革等に伴って、観点別評価が導入されることは、生徒たち一人ひとりをより多角的に捉え、今後の社会で必要になる資質・能力を生徒たちが獲得できる可能性につなげることによって、よりゆたかな学びの実現につなげるチャンスにもなりえよう。目標準拠評価の限界を十分に踏まえた上、という条件付きではあるが、従来の狭い評価観から脱却する学習評価のあり方を検討していくことも考えられてよいだろう。
(2) インクルーシブ教育に関して
 障がい者権利条約の批准を受けて、中教審答申で明確に項目立てされていたインクルーシブ教育に関する記述が、学習指導要領では全く削除されてしまった点に関しては、学習指導要領にも明記されることを求めて行く必要があるだろう。
 また、インクルーシブ教育の実現に不可欠な「合理的配慮」の概念も、現在の学習指導要領における「特別な配慮」という曖昧な概念とは別に明示されるように求めていくと同時に、文科省がこの観点を導入しなくても、学校現場における合理的配慮の重要性を訴えていくべきであろう。
(3) 道徳教育に関して
 今回の特別の教科化に際して強調されている「考える道徳」、その際に「多角的・多面的に考え、判断する力」、「道徳科の授業では,特定の価値観を生徒に押し付けたり,主体性をもたずに言われるままに行動するよう指導したりすることは,道徳教育の目指す方向の対極にある」という、総則で明記されてはいない諸点こそ重視されるべきであり、総則にこれらのポイントが明記されていないことに関しては、道徳教育重視のもう一つの方向性である同化主義・国家主義権威主義というベクトルの表れとして警戒していくべきであろう。
 さらに、改訂学習指導要領における道徳教育の全面主義・徳目主義・網羅主義という特徴に対して批判的な認識を各学校現場で共有するとともに、こうした特徴を反映して、各教科各単元と道徳の内容項目とをリンクさせて一覧にする「別葉」の作成は義務では全くないこと、及び、このような「別葉」の実際的有効性が極めて疑わしいということの認識も広めていくべきであろう。