仕事で書いた小文⑤:図書紹介を兼ねた卒業生(教職履修者)向け挨拶文

 本務校の教職課程・学芸員課程を担当する部署(課程センター)では、毎年度末ニューズレターを発行している。その部署の責任者として、冒頭に挨拶文を書かなければならないのだが、最近は、図書紹介も兼ねている。慌ててまとめた駄文ではあるが、紹介した図書はどれも価値のあるものなので、ここに文章まるごと再録しておくことにした。

 なお、書影は全てリンクになっていて、クリックすると密林に飛ぶので、あしからず。

 

---------再録開始---------

教職に就くみなさん、教職を目指すみなさんへ

--フランシスコ教皇来校に寄せて--

 

 今年度も、教員採用試験に合格し来年度から教職に就くことが決まったみなさんをお祝いすべく、このニューズレターを発行できることを、教職課程担当教員としてたいへんうれしく思います。大半の方にとって、自学科の専門科目に関する学業を修めることにくわえて教職課程を履修し、その他の活動にも勤しみながら、なおかつ、様々な個人的事情を抱えつつ採用試験受験に向けた対策を重ねることは、多くの苦労や不安を乗り越えてこそのことだったと推察されます。もしそうだとすれば、喜びもひとしおでしょう。本当におめでとうございます。

  他方で、残念ながら志望を叶えられなかった方もおられるかもしれません。しかし、できれば回避したいそのような不成功や挫折の経験は、もし教師を目指すのであれば、周囲に支えられつつ努力を続けて一定程度克服することで、必ずや大きな財産になります。なぜなら、自らがケアし支援・指導することになるさらに若い人たちの中にも、同様の経験に落胆し、その気持ちを整理できずに困る人たちが少なくないからです。そうだとすれば、そうした類似の経験を持つものだからこそ、その事情や気持ちに対する高い感度をもって共感的に接することができる可能性が高まると考えられるからです。できるだけ早く気持ちを切り替えて、粘り強く次を目指してもらえればと思います。そして最終的には、あの時にあの躓きがあってかえってよかった、あのおかげで自分はまた成長できたと振り返れるような時が訪れるのを待ちたいと思います。

  いずれにせよ、現時点での結果は、長い目で見れば通過点にすぎません。もちろん、その時々の喜びや悲しみはそれ自体として自らにとって大事な意味を持つ経験の一部ではあるわけですが、同時に、そうした経験を自分なりに振り返り整理して、節目をつけ、次の見通しに向かって動き出すことも同様に重要だと言えるかもしれません。みなさんのさらに成長した姿が見られることを楽しみににしたいと思います。

 さて、例年同様、ここで宣伝しておきたいことがあります。来年度もAll Sophians Festival2020531日(日)午後(時間詳細は後日、上智大学ASFwebページに記載される見込み)、及び、年の瀬に近い20201212日(土)午後(詳細は、在学生には授業やLoyolaを通して、卒業生の方には登録されているメルアドに連絡予定)に、上智大学出身で教職に就いている方々と上智大学に在籍する教職履修者との交流会を開催することが決定しています。今からぜひ予定に入れていただければ幸いです。

 教職に就くみなさんも教職を目指すみなさんも、ぜひこのニューズレターに目を通して頂いて、その交流会で、「あ、この方が、あの体験記の」と思い出して頂ければなおうれしく思います。そうして、在学生のみなさんは、この交流会の場を活かして、ぜひ諸先輩に直接いろいろなことを尋ねてみてください。様々な経歴の持ち主がおられるので、参考になる話がたくさん聞けるでしょう。他方、現役教員として参加していただくことになる卒業生のみなさんは、立派なお話しばかりではなく、自分の職場では言えない愚痴をこぼしたり、シンプルに他の現場の様子と自分の現場を比べたりする場としてご活用いただいても結構かと思います。また、上智で教職課程を履修したもののいったん企業等に就職し、それでもやはり教員を目指したいという気持ちも残っている、という方にもぜひこれら交流会の場をご利用いただければと考えています。みなさんのお越しをお待ちしています。

  今回も、せっかくの機会なので、普段の教職の授業では時間がなくほとんど取り上げる余裕がないものの、公教育にプロとしてこれから携わろうとしている学生のみなさんや上智出身で教職に就かれている方々と改めて共有しておきたい話題に触れながら、若干の書籍紹介をしておきたいと思います。

  今年度の上智大学で最も目立つ出来事の一つとなったのは、フランシスコ教皇の来校でした。この大学のヒューマニズムを象徴する“with others, for others”という理念は教職とも親和性の高い視座ですが、アッシジ聖フランシスコにその名を因む教皇は、このothersとして何よりもまず小さき人びと、弱き者に重きを置きます。今回の講演でも「上智大学キリスト教ヒューマニズムの伝統は、すでに述べたもう一つの優先事項と完全に一致します。すなわち、現代世界において貧しい人や隅に追いやられた人とともに歩むことです」という決然たる表現で、そのことを訴えました*1。現代では、単に少数者というだけでなく、社会的に弱い、不利な状況にある人々を時に「マイノリティ」という言葉で呼ぶこともあります。こうした人々ともに、そうした人々のために智恵(sophia)を注ぐよう、教皇は私たちを励まそうとしているのだと言えるでしょう(書影は、故上智大学名誉教授山田經三著『教皇フランシスコ -「小さき人びと」に寄り添い、共に生きる』明治図書2014年)。

  他方で、時に、こうした姿勢を「偽善」ではないかと訝しんだり、揶揄したりする人たちもいます。良識に満ちた理念というものは簡単には実現できないだけに、また、そうした理念を掲げる者とて私利から無縁ではないだけに、理念と現実のはざまで落ち着かない状態でいることに耐えられない人や、自らの利害を優先することを正当化したい人は、偽善という言葉をかざして自らを守ろうとするのかもしれません。夏目漱石も『三四郎』の中で、偽善を嫌うがために「偽善を行ふに露悪を以てする」という複雑な戦略を用いる人が少なくないことに触れて(いると文芸評論家の柄谷行人が紹介して)います。しかし、無視できない格差・不平等が存在する社会では、たとえ偽善と言われようと、露悪的居直りやシニシズムに陥ることなく、自らの限界を見定めつつも、むしろまっとうな綺麗事にコミットすることにあえて開き直る方がずっと望ましいのではないでしょうか。

 そもそも、そのような不平等や格差が歴然と存在するのかという疑問を持たれるかもしれませんが、話題の新書、松岡亮司著『教育格差』(ちくま新書2019年)を繙くと、たしかに、日本ではほぼ全ての人びとが中等教育段階を修了し、過半の人びとが高等教育にさえ進むという状況が達成され、社会階層を問わないメリトクラシーの大衆化状況=「大衆教育社会」(苅谷剛彦)という地点に到達しはしたものの、その中身、つまり、どんな階層の人々がどんな学校・大学で学ぶようになっているのかという点に目を向けてみると、その不平等・格差は近代黎明期以来あまり変化がない、すなわち、伝統的な社会階層が混合しながらも併存してきたことが理解できます。総体としての量的な教育拡大が前景化することで、そうした不平等・格差問題は多くの人々の意識にはのぼらなかったのですが、日本社会は、むしろ「緩やかな身分社会」であり続けてきた、その意味で、諸外国と比較しても「凡庸な格差社会」であったと認めざるを得ないのが実態なのです。しかも、松岡氏は、「教師が生徒の社会階層によって異なる期待・評価をしてそれに指導法を対応させ実際に学力に影響を与える」可能性を、要するに、「教師が社会階層再生産に寄与している可能性」を指摘し、だからこそ、教育格差問題を教職課程の必須項目にすべきだと同書で訴えています。この点で、小さき人びと、弱き者とともに、またそうした人々のために何かをなすということは、単に善意の問題ではなく、知識・認識の問題、つまりは、私たちの勉強・教養の問題でもあるわけです。

 教育格差の問題は、言うまでもなく、貧困問題と密接に結びついています。特に先進国で重要な意味を持つのが相対的貧困(世帯所得が、等価可処分所得=世帯の可処分所得を世帯人員の平方根で割って調整した所得の中央値の半分に満たない状態と定義されます)という問題です。こういう状態に陥ると、他人に恥ずることなく暮らすこと、コミュニテイの活動(学校で言えば、部活なども含まれるでしょう)に参加すること、自尊の念をもつこと等々が非常に困難になります。これらの点で、格差の問題は、学力問題に限られません。そもそも、貧困問題は、学校に通うこと自体に、あるいは、学校で安心して学べるということ自体に困難が生じる可能性を拡大させる十分な可能性があります。こうした貧困問題への対策を教育支援に焦点化して講じる上での重要な視点や問題が整理され、さらに、解決策の具体的事例を紹介した好著が、末冨芳編著『子どもの貧困対策と教育支援─より良い政策・連携・協働』(明石書店2017年)です。

 他方、貧困問題の捉え方に対しては、子どもの貧困に注目が集まることで大人の貧困問題が後景に退き、貧困家庭の子どもへの教育・学習支援がクローズアップされることで、大人への経済的支援の重要性が等閑視されることにつながるという批判的指摘が見られることも事実です。おそらく、このような指摘の重要性を十分に加味しながら、同時に、学校をプラットフォームとした可能な対策を進めるというのがあるべき方向ではないかと思われますが、そうした批判的指摘を明示した上で、幅広いテーマを掲げて編まれた松本伊智朗氏編集代表による「子どもの貧困」全5巻シリーズ(明石書店2019年、第4巻のみ未刊)は教育関係者に広く読まれるべき好編です。関心を引く巻や章から読み始めると、関連する問題に関して視野が広がり、認識が深まることは間違いありません。

 必ずしも貧困問題にのみ関わる問題を扱っているわけではないですが、上述の末冨氏による編著書としてもう一冊オススメしておきたいのが、『学校に居場所カフェをつくろう! ─生きづらさを抱える高校生への寄り添い型支援』(明石書店2019年)です。大阪の西成高校で始まり、その後、大阪府だけでなく神奈川県の田奈高校に導入され、特に同県で大きな広がりを見せている「校内居場所カフェ」。学校内のサード・プレイスとして生徒たちがくつろぐことができ、教育の評価的視線が入り込まない空間、あるいは、教育と福祉が連携する場として注目されている空間でもあります。同書では、様々な困難を抱えている子ども・若者を、規律で縛るよりもむしろ、一人ひとりの生徒の存在を尊重・肯定することに力点を置く学習・生活空間として学校を再編することの一環としての注目すべき取り組みが、具体的にわかりやすく紹介されています。

  このような空間を、よりインクルーシブ(包摂的)な、という形容詞を付して呼ぶことが許されるとすれば、上智大学理工学部出身の西郷孝彦校長が改革を進めて話題になった世田谷区立桜丘中学校も、同様にインクルーシブな空間づくりが目指された学校だと言ってよいでしょう。校則をなくし、定期テストもなくした学校として全国的に名を馳せることになったこの学校を、私も本学で教職を履修する学生数名と一緒に実地に訪問し、西郷先生に直接お話を伺いましたが、生徒の人権と自己決定権を重視、インクルーシブであるだけでなくデモクラティックな空間を、生徒や他の教師たちと一緒に創造されていることに感心しました。この実践は、西郷先生自身の筆で書籍化されています(西郷孝彦『校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール: 定期テストも制服も、いじめも不登校もない!笑顔あふれる学び舎はこうしてつくられた』小学館2019年)。

  教育現場の変化に伴って、教職に求められる専門性は間違いなく高度化・複雑化していますが、上に触れた資料や学校を含めて、様々な議論や現場の実践に学びながら、“with others, for others”という理念を教育という営為を通して具現化する仕事に、みなさんとともに今後も取り組んでいければと思います。みなさんのさらなる成長、活躍を祈念しています。

---------再録終了---------

※これを校了したのが、1月初旬。今のような、卒業式にさえ影響が出る事態が生じるとは予想もしていなかった。この後も予断は許さない状況だけれど、とにかくみんな元気でいてほしい。そして、自分も、政治や社会の動きをできるだけよくウォッチして判断し、行動していければなと。月並みだけど。

 

*1:教皇フランシスコからのメッセージ『叡智の座の大学』で学ぶ者へ」の全文を掲載 | ニュース | 上智大学 Sophia University https://www.sophia.ac.jp/jpn/news/PR/20191129all.html