最近の教育評価・学習評価論におけるassessの語源に関する誤解について

 学校教育における学習評価論の転換を図る文脈で、近年よく取り上げられるのが、assessmentの元の動詞assessの語源です。いわく、assess の語源は「そばに座る(sit by/beside) 」の意なのだから「学習者に寄り添う」という意味こそ教育評価・学習評価の本義であるべきだと。これは日本に限ったことではありません。米国でも同様の例が多く見られます(“assess”+“sit beside”+“education”をキーワードとして検索エンジンにかければ、その手の記事がいくつもヒットするでしょう)。

 しかし、これには問題があると言わざるを得ません。もちろん、学習者(被評価者)に対するある種の支援的ないし共感的な評価の、あるいは、臨床的評価論と呼ぶべきものの重要性を唱えること自体に異論を唱えるつもりはありません。むしろ、その可能性は大いに議論されるべきだと思われます。けれども、その根拠として「語源」を持ち出すのであれば、その語源的理解が正確でない限り、語源を持ち出すことによる学術的権威性も、したがって、それに依拠した主張の有効性も掘り崩されてしまうことになるのではないでしょうか。

 結論から言えば、私の調べた限りで、assessが語源的に「そばに座る(sit by) 」という意味を持っていたことに誤りはないとしても、それは「被評価者のそばに座る」の意ではなく、「(別の主たる)評価者のそばに座る」という意味しかないと判断せざるを得ないのです。したがって、「学習者に寄り添う」という意味こそがassessの本義なのだという主張は成立しそうにありません。むろん、私の調べ方が足りないだけかもしれないので、以下の整理に誤りがあれば、ご批正をお願いできれば幸いです。

 手元にある電子辞書の1つ『リーダーズ英和辞典第2版』でassessを引くと、たしかに、[F<L assess‐ assideo to sit by]という標記が見られ、ラテン語由来で「そばに座る」という意味であったことが示されています。しかし、別の辞書『研究者新英和辞典第7版』のassessの項には、“〖F<L=そばに座る, (裁判官を)補佐する<AS―+sedere, sess― 座る (cf. session)〗”と、また『ジーニアス英和大辞典』でも、“〔初15c;ラテン語 assidēre. 「as-(…に)+-sess (座る)=(補佐として)判事の横に座る」. cf. session, sit〕”と記されており、assessの主語(評価主体)が「そばに座る」対象は「被評価者」の方ではなく、「(別の主たる)評価者」の側であることになります。この点を無視すべきではないでしょう。

 さらに別の資料も参照しておきたいと思います。ネット上にある『語源英和辞典』 https://gogen-ejd.info/assess/ でも、 “㋙㋫assesser(査定する)→㋶assesso(税金を決定する)→㋶assessus(裁判官の職を補佐した)+-to(反復動詞)→㋶assideo(裁判官の職を補佐する)→㋶ad-(~の近くに)+sedeo(座る)→㋑sed-(座る)が語源。「裁判官の近くに(ad-)座って(sedeo)課税額を決定すること」がもともとの意味。㋓session(議会)と同じ語源をもつ。”という記述があります。また、アメリ英語圏の最も主要な辞書ウェブスターのオンライン版 https://www.merriam-webster.com/dictionary/assess にも、“History and Etymology for assess Middle English, probably from Medieval Latin assessus, past participle of assidēre, from Latin, to sit beside, assist in the office of a judge — more at ASSIZE”と示されており、あくまで「裁判官室で補佐する」ことであるとされています。最後に、オンライン上の語源辞典として有名なOnline Etymology Dictionary https://www.etymonline.com/word/assess によると、

 

assess (v.) early 15c., "to fix the amount (of a tax, fine, etc.)," from Anglo-French assesser, from Medieval Latin assessare "fix a tax upon," originally frequentative of Latin assessus "a sitting by," past participle of assidere/adsidere "to sit beside" (and thus to assist in the office of a judge), "sit with in counsel or office," from ad "to" (see ad-) + sedere "to sit," from PIE root *sed- (1) "to sit." One job of the judge's assistant was to fix the amount of a fine or tax. Meaning "to estimate the value of property for the purpose of taxing it" is from 1809; transferred sense of "to judge the value of" (a person, idea, etc.) is from 1934. Related: Assessed; assessing.

 

というさらに詳細な情報を参照することができます。これによると、「裁判室で判事の仕事を助ける」「課税目的で財産の価値を見積もる」の意味が転じて「(人や思想などの)価値を判断する」ことを意味するようになったというわけです。

 以上に鑑みると、assessが語源的に「被評価者=学習者に寄り添う」ことを意味していたと考えることはできないことになります。要するに、従来の教育評価・学習評価を批判して、いまやより支援的・共感的で臨床的な評価が必要なのだという主張を補強する目的で、評価を意味する英語として、最近evaluationに代わってよく使われるようになったassessmentの語源を引き合いに出すことは端的に誤りだということになるでしょう。

 しかしながら、教育学においてeducational evaluationに代えてeducational assessmentを用いるようになったことの価値づけとして、このassessの語源に着目することが無意味であるというわけではないでしょう。この言葉がもともと「主たる別の評価者の補佐を務める」ことを意味していたのであるとすれば、評価者の側の「複数の視点」が含まれてよいという点の、すなわち、評価(の視点や規準)の多面性・多角性という点の重要性を強調する上で有効な知見として援用することは不可能ではないからです。実際、「環境アセスメント(EIA) 」とは、ある種の事業が環境に及ぼす影響(impact)を多面的・多角的に検討することを意味します。同様に、現代および将来の教育評価・学習評価においても、その多元性が重視されるべきだとすれば、そうした意味合いを読み込むことが可能な語源を有するassessmentをevaluationに代えて用いることの積極的意義の根拠として据えることは可能だと言えるからです。

「個別最適化された/個別最適な学び」という用語の意味理解と実践化をめぐる諸課題(その1)

  この記事は、おそらく次期学習指導要領に組み込まれることになると予測される「個別最適」という用語に関する研究メモである。そこには、思わぬ誤解や誤記等が含まれているかもしれないので、ご注意願いたい。そうした誤りを発見された場合には、ぜひご批正いただければ幸いである。

 今回は、この用語の意味理解に必要となる基礎中の基礎と言ってよい最低限の文脈を確認、整理しておくことから始める。その上で、もう少し詳細に立ち入った検討や、そこで整理した論点を敷衍する作業は、機会を改めて行いたい。

 

 「個別最適化された学び」という表現は、2018年6月25日に経済産業省によって公表された「『未来の教室』とEdTech研究会の第1次提言」において初めて登場したものと見られる[1]。ちなみに、EdTech(エドテック)とは、Education(教育)とtechnology(情報技術)を組み合わせた造語で、AIや動画、オンライン会話等のデジタル技術を活用した革新的な教育技法を指す用語として用いられている。この第1次提言が、経産省による「未来の教室」プロジェクトの端緒であった。この提言書における「個別最適化された学び」については、「もっと短時間で効果的な学び方」を可能にするものとして「学びの生産性」という要因が特に強調されているように思われる。

 それに対して2019年6月25日公表の同第2次提言では、「学びの自立化・個別最適化」という表現で、「個別最適化」が「自立化」という言葉と並列的に結合され、「一人ひとり違う認知特性や学習到達度等をもとに、学び方を選べる学び」という定義が与えられ、1. 知識の習得は、一律・一斉・一方向授業から「EdTechによる自学自習と学び合い」へと重心を移行すること、2. 幼児期から「個別学習計画」を策定し、蓄積した「学習ログ」をもとに修正し続けるサイクルを構築すること、 3.多様な学び方(到達度主義の導入、個別学習計画の認定、ネット・リアル融合の学び方の導入)を保障すること、という指針が提起されている。

 文部科学省は、これらを受けて、2019年6月25日に「新時代の学びを支える先端技術活用推進方策(最終まとめ)」と題した政策指針を公表し、その中では、「誰一人取り残すことのない、公正に個別最適化された学び」という表現が用いられるようになった。この「最終まとめ」は、そのような学びの実現に向けて、新時代に求められる教育の在り方や、教育現場でICT環境を基盤とした先端技術や教育ビッグデータを活用する意義と課題について整理したとされている。これ以降、2019年12月に公表されたGIGAスクール構想や「未来の教室」ヴィジョン等では、「個別最適化された」という形容語句には、「公正」さらに、その具体的なイメージを表す「誰一人取り残すことのない」というフレーズが付加されることになる。ちなみに、この「最終まとめ」という政策指針は、中教審の関与は全くなく、2019年5月に公表された教育再生実行会議第十一次提言等を踏まえて、柴山文科省(当時)のリーダシップのもとに公表された文書のようである。

 他方、2021年1月26日に公表された中教審答申「「令和の日本型学校教育」の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現~(答申)」では、上に概観した経緯を踏まえながらも、それらとは対照的に、より教育学的な文脈に深く根ざし、1996年の中央教育審議会答申(第一次答申)以降の学習指導要領でも用いられている「個に応じた指導」という視点と接続されているとともに、教育学者の加藤幸次がかつて理論化した「個別化・個性化教育」の概念を用いて、その再定式化が図られているところに特徴があると言える[2]。すなわち、全ての子供に確実に育成すべき資質・能力に関しては、子供一人一人の特性や学習進度、学習到達度等に応じ、指導方法・教材や学習時間等の柔軟な提供・設定を行うことなどを「指導の個別化」として、さらに、子供の興味・関心・キャリア形成の方向性等に応じ、教師が子供一人一人に応じた学習活動や学習課題に取り組む機会を提供することで、子供自身が自らの学習を最適となるよう調整することを「学習の個性化」として再定義し、この両者を、教師視点から整理した概念が「個に応じた指導」であり,この「個に応じた指導」を学習者視点から整理した概念が「個別最適な学び」であると定式化したのである[3]。細かい言葉遣いの問題ではあるが、そこでは、「個別最適化された」という表現に換えて「個別最適な」という形容動詞が用いられ、これが「協働的な」という対(つい)となる形容動詞と相互補完的な関係にあるものとして位置付けらえれている。

 経産省ラインの定義とは異なる視点から、この「指導の個別化」及び「学習の個性化」概念と接合するかたちで再定式化された中教審バージョンの「個別最適な学び」が、今後どのように具体化あるいは更新されて、学習指導要領に書き込まれることになるのかという点に関しては、現時点で容易に予想できない。けれども、こうした議論が次期学習指導要領の策定に深く関係する可能性が十分に考えられる以上、「指導の個別化」や「学習の個性化」という概念に関して、改めてその意味を吟味したり、今後の関係省庁における議論の展開に注目したりすることは、ここに見てきた動向を批判的に捉え、私たちが自分たちなりに次の時代の学校教育に関する構想を練って行く上で助けとなるかもしれない。

 

[1] ただし、この「第1次提言(案)」は、2018年6月4日開催の「第4回『未来の教室』とEdTech研究会」で提示されており、それに先立つ2018年5月7日「第3回『未来の教室』とEdTech研究会」におけるゲストスピーカーの1人山口文洋(リクルートマーケティングパートナーズ代表取締役社長・当時)の報告とこれに基づく委員たちによる議論に、その萌芽が見て取れる。

[2]  加藤幸次・安藤慧(編)『講座 個別化・個性化教育(1) 個別化・個性化教育の理論』(黎明書房、1985年)

[3] こうした再定式化には、中教審教育課程部会委員を務める教育学者奈須正裕による2020年7月27日に開かれた部会での発表内容が大きく影響しているとみなすことができる。次を参照。中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会 「教育課程部会(第118回)配付資料 資料1奈須委員発表資料」https://www.mext.go.jp/content/20200727-mxt_kyoiku01-000008845_2.pdf 及び「同奈須委員当日説明資料」https://www.mext.go.jp/content/20200727-mxt_kyoiku01-000008845_4.pdf((2021年2月18日閲覧) 

9月入学問題に関する資料集

先日、ひょんなことから、たまたまラジオに電話出演して、9月入学問題について「慎重派」として話さなければならなくなった。本番は事前に打ち合わせた台本がほとんど使われなかったので、全く不慣れな自分は焦っているうちに終わってしまったが、出演準備をかねて事前に関連情報を整理してはいた。

 

そこで、このブログ記事では、覚え書きとして、集めた情報を資料集的にまとめておくことにした。

 

今回の9月入学問題は、長期休校が新年度に入っても続くことになったことを受けて、東京都のある高偏差値高校の生徒が4月1日にSNSを通して「新学期の開始を、この機会に諸外国と同じ9月に」というメッセージを発信して多くの注目を集めた(4.1万RT)ことが最初の発端と言えるのかもしれない。
https://twitter.com/hby36/status/1245139751167901696

ただし、報道が加熱したのは、4月29日にオンライン開催された全国知事会でこの問題が俎上に登り、実際には反対派・慎重派(これらの発言は概して大手新聞地方版でのみ掲載)が少なくなかったにもかかわらず、東京都小池知事と大阪府吉村知事による積極的発言が全国紙に目立って紹介されてからだったように思われる。くわえて、この後、萩生田文科相安倍総理による検討の可能性を示唆する発言、国民民主党WTなどの積極的な提言等が続き、国民的注目を浴びることになった。

これらの積極派の動向を受け、これに対抗する慎重派の議論も目立つようになり、特に日本最大の教育系学術団体である日本教育学会も5月11日には「「9月入学・始業」の拙速な決定を避け、慎重な社会的論議を求める ――拙速な導入はかえって問題を深刻化する――」と題する声明(資料[13])を発表したことや、小学校長会が意見書(資料[14])を文科省に提出したもことも注目を集めた。

さらに、賛成反対とは別に、各種の調査・分析も見逃せない。何よりもまず社会調査研究センターが2020年5月6日に実施した世論調査で、賛成派が多いという結果が耳目を引いた(資料[18])。しかし、日本若者協議会室橋氏の独自調査は異なる様相を示している(資料[19][20])。また、賛否の割合とは別に、9月入学問題に関する学術的な検討を加えた論考として、経済学者中里透氏(資料[16][17])や中室牧子氏の知見(資料[22])も非常に参考になる部分を含んでおり、さらに、直近では、教育社会学苅谷剛彦氏研究チームによる分析結果(資料[23])も強い印象を与えるものとなっている。

これらに関する記事や資料を以下に列挙する。ちなみに、個人的には、カリキュラム・教育方法論の立場から見たときに、慶応大教授で教育方法学会理事の佐久間先生が公開された提言書は圧倒的で、この問題の賛否にかかわらず広く読まれるべき労作と考えている。

【積極派】
[1]
今でしょ!橋下徹氏が9月入学に大・大賛成…『ミヤネ屋』生出演で「やるんだよという大号令を」と政府に呼び掛け:
芸能・社会:中日スポーツ(CHUNICHI Web)
2020.4.29
https://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/entertainment/news/CK2020042902100072.html
[2]
2020年5月1日 「9月入学・9月新学期」案に関する提言
国民民主党文部科学部門 9月入学検討ワーキングチーム
https://www.dpfp.or.jp/download/48454
[3]
【世界裏舞台】作家・佐藤優 9月入学にかじを切れ
2020/05/10 07:51 産経ニュース
https://special.sankei.com/a/politics/article/20200510/0001.html
http://a.msn.com/01/ja-jp/BB13Qymt?ocid=st
[4]
「9月入学」には即刻政治決断が必要~6月決定では間に合わない
https://news.1242.com/article/222415
[5]
尾木ママが「9月新学期」と小学生「留年」解禁を提言〈週刊朝日AERA dot.
5/13(水) 9:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200512-00000011-sasahi-soci

【慎重派】
[6]
9月入学・新学期は進めるべきではない ― 子どもたちと社会への影響を重く見るべき4つの理由(妹尾昌俊) - Y!ニュース  
妹尾昌俊  | 教育研究家、学校・行政向けアドバイザー
4/28(火) 15:02
https://news.yahoo.co.jp/byline/senoomasatoshi/20200428-00175660/
[7]
休校が長引くことへの対策、政策を比較 ― 夏休み短縮・土曜授業、9月新学期、学習内容削減(妹尾昌俊) - Y!ニュース
妹尾昌俊  | 教育研究家、学校・行政向けアドバイザー
4/29(水) 21:45
https://news.yahoo.co.jp/byline/senoomasatoshi/20200429-00175852/
[8]
緊急事態下での「9月入学制度」の導入には「反対」です!:「学びをとめないこと」に焦点をしぼって、やり切ることの大切さ | 立教大学 経営学中原淳研究室 - 大人の学びを科学する | NAKAHARA-LAB.net2020.4.30 10:34/ Jun
http://www.nakahara-lab.net/blog/archive/11632
[9]
佐久間亜紀・慶応義塾大学教授による政党向け「9月入学制度に関する論点整理および喫緊の対応を求める要望書」
2020.4.30
https://drive.google.com/file/d/1HzfbVfKlVap4hJ0YHHpIXovm_MUtO2M7/view  
[10]
9月入学でますます加速する教育現場のブラック化!子ども・若者にいま政治家が果たすべき責任とは(末冨芳) - Y!ニュース 末冨芳  | 日本大学教授・内閣府子供の貧困対策に関する有識者会議構成員
4/30(木) 11:49
https://news.yahoo.co.jp/byline/suetomikaori/20200430-00176083/
[11]
火事場の9月入学論は危険だ/先進国で最も遅く義務教育を始める「コロナ入学世代」への懸念 - 末冨 芳|論座 - 朝日新聞社の言論サイト
2020年05月03日
https://webronza.asahi.com/national/articles/2020050200001.html
[12]
田中愛治・早稲田大学総長「9月入学」課題多く 現場の声聞き戦略緻密に:
2020/5/10 2:00 日本経済新聞 電子版
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO58900020Y0A500C2CK8000/
[13]
日本教育学会声明 2020年5月11日
「9月入学・始業」の拙速な決定を避け、慎重な社会的論議を求める ――拙速な導入はかえって問題を深刻化する――
http://www.jera.jp/20200511-1/
[14]
全国連合小学校長会 令和2年5月14日
9月入学・始業の導入に関わる意見書
https://www2.schoolweb.ne.jp/weblog/files/1350002/doc/169921/4316322.pdf
[15]
畠山勝太 大学国際化のための9月入学を今議論する愚かさ
2020/05/19 08:00
https://note.com/sarthakshiksha/n/ncefcb4203796

[追加-2020.5.22-1]

そろそろ9月入学の議論は延期して、もっと重要な課題に取り組むべき(妹尾昌俊) - Y!ニュース
2020.5.22 
https://news.yahoo.co.jp/byline/senoomasatoshi/20200522-00179635/
 
[追加-2020.5.22-2]
「9月入学・始業制」に関する提言書の提出と記者会見について « 日本教育学会 
 

[追加-2020.5.29]

全国国公立幼稚園・こども園長会

秋季入学についての意見 

https://www.kokkoyo.com/pdf/syuki-nyugaku.pdf


【分析・調査・推計等】
[16]
【SYNODOS】「9月入学」について考える――誰のために? 何のために?/中里透 / マクロ経済学・財政運営
2020.5.7
https://synodos.jp/education/23524
[17]
【SYNODOS】「9月入学」について改めて確認しておきたいこと/中里透 / マクロ経済学・財政運営
2020.5.17
https://synodos.jp/education/23561
[18]
若年層の過半数は9月入学制に賛成コロナ対応で評価できる政治家 トップは吉村大阪府知事、次いで小池東京都知事
時事ドットコム
2020年5月11日
https://www.jiji.com/jc/article?k=000000002.000056820&g=prt
[19]
「9月入学」移行案に当事者の学生はどう思っているのか?【独自調査結果】(室橋祐貴) - Y!ニュース 2020.5.13
https://news.yahoo.co.jp/byline/murohashiyuki/20200513-00178039/  

※室橋祐貴氏は慎重派といってよい。
[20]
未就学児とその保護者にとって「9月入学」はデメリットのみ?保護者からの切実な声(室橋祐貴) - Y!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/byline/murohashiyuki/20200515-00178387/
[21]
9月入学で教員2.8万人不足の推計 待機児童も急増:朝日新聞デジタル
2020年5月17日
https://www.asahi.com/articles/ASN5J5W43N5GUTIL052.html
[22]
科学的根拠に基づいて「9月入学」を考える
慶応義塾大学 総合政策学部中室 牧子
2020/5/18  自民党 秋季入学制度検討ワーキングチーム 第3回 配布資料
https://drive.google.com/file/d/1wGoEJPGRlSzFjOrqlQ-p5wsCZJqRiKZf/view?fbclid=IwAR01sOgLldpBzZquMMYzk9qFalfCPtrfjYDzgMmJGeRWDMqVF7auCRg9wSA
[23]
9月入学導入に対する教育・保育における社会的影響に関する報告書
呼びかけ人 苅谷剛彦(オックスフォード大学) 2020 年(令和二年)5 月 19 日発表
http://www.asahi-net.or.jp/~vr5s-aizw/September_enrollment_simulation_200519.pdf

[追加-2020.5.25]

9月入学導入に対する教育・保育における 社会的影響に関する報告書[改訂版](暫定)

呼びかけ人 苅谷剛彦(オックスフォード大学) 2020 年(令和二年)5 月 25 日改訂版(暫定)発表 (5 月 19 日初版発表)

 

[24]

9月入学の「隠れたコスト」――新卒者の「放棄所得」と国の「逸失税収」 / 荒木啓史 / 教育社会学・比較教育学 | SYNODOS -シノドス-

2020年5月20日

https://synodos.jp/education/23575

 

【その他】

[追加-2020.6.10]

「9月入学」なぜ見送り? | 特集記事 | NHK政治マガジン

https://www.nhk.or.jp/politics/articles/feature/39141.html

自民党内での議論の顛末に関する記事

このような各種報道や資料の公表が続く中で、識者による慎重派の意見が目立ってきているようにも見え、一部メディアでは、文科省が次のような意向、すなわち学習内容の遅れを数年間で解消するプランを持っていることが報じられたが、
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休校で学習遅れ、複数年で解消も 小6中3は優先登校、文科省方針(共同通信) - Yahoo!ニュース5/13(水) 11:46配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200513-00000063-kyodonews-soci
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官邸は9月入学への移行を諦めていないようで、学習内容ではなく、9月入学への移行を5年かけて、ずらしながら実施するという学年の分断にもつながる奇妙な案が検討されていることが報じられた。
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「9月入学」5年で移行案 新入生急増を分散―政府:時事ドットコム
2020年05月18日21時50分
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020051800919&g=pol
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私が入手した情報では、文科省の教育課程課は、9月入学に関心はなく、学びの保障をどう進めていくかに集中・腐心し、9月入学問題の動向に関しては蚊帳の外という状態のようだ。そもそも、こうした包括的な制度設計に関わる問題を、首相官邸を中心とする一部与党のワーキングチームでの議論を中心に検討されていること自体が大きな問題とも言える。

自分が所属する日本カリキュラム学会では、重要な教育政策の策定が、教育再生実行会議による官邸主導で行われ、さらに、そこに経産省ラインの政策が流入すると同時に、文科省あるいは中教審の自律性が毀損されていることを問題視して、2014年大会(関西大学)で、文部科学省初中局長だった前川喜平氏や教育社会学広田照幸氏を招いて、異例の合同課題研究(課題研究Ⅰ&Ⅱの合同開催)「現代日本の教育課程政策における政治・行政・経営をめぐる諸問題」を開催し、議論したという経緯がある。ここには、中教審委員でもあった当時の学会理事の方が抱いていた危機感(中教審教育再生実行会議の下請け機関化しているという)も強く反映されていた。

今後、日本教育学会でとりまとめられる提言案の内容については関知していないが、9月入学・始業移行案に関して五月雨式に流れてくる具体的な方策への対応だけでなく、こうした政策立案過程の正統性に関する問題を含めてより一般的な諸問題の水準に関する内容も含まれることを期待して良いのではないかとも思う。

他方で、内閣府・子どもの貧困対策検討会構成員、子供の貧困対策に関する有識者会議委員で、現在は、文科省の「大学入試のあり方に関する検討会議」委員も務める日本大学教授末冨芳氏(教育財政学)が立ち上げた署名運動も注目に値する。自分も賛同したが、さらに多くの方の賛同が期待される。
http://ow.ly/6KSa30qHzAT

蛇足になるが、思いつくままにいくつかの論点を補足しておきたい。

9月入学問題は、1980年代中曽根首相時代の臨教審時代から検討され始め、第一次安倍政権の教育再生会議でも議論され、それでもやはり、賛成反対が拮抗してきたこと、また、初等中等教育の入口の手前である就学前教育・未就学児と、出口の後にくる企業・官公庁とをはじめとする社会全体に大きな影響を及ぼすことが障壁になり、導入が困難であったという事情がある。この辺りは、2007年の第6回教育再生分科会の配布資料からも窺える。
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouiku/3bunka/dai6/6gijisidai.html
この非常時に、9月入学というアジェンダ設定がなされることで、より優先すべき課題に関する議論がその分後ろに退くことが問題であり、こうした複雑な問題についてショック・ドクトリン(火事場利用)的な議論は避け、子ども・若者に対するケアと学びの保障を最優先課題にすべきだろう。

また、9月入学がグローバル標準というのは端的に虚偽と言わざるを得ない。欧米諸国だけがグローバルでないわけで、入学・始業時期が国によって多様であることは外務省のサイトに行けばすぐにわかることであるということも踏まえておきたい。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/world_school/index.html

グローバル化に関してさらに言えば、グローバル化という要因に関して何を念頭に置くかで大きく立場が分かれる可能性がある。国際競争力や世界で活躍するエリート人材育成の方に大きな関心がある場合と、多くの移民や貧困状態に苦しむ人々をはじめとするより社会的に不利な立場にある人々の人権を重視する場合があるように見える。後者の立場は、そこまで9月入学問題を優先しないように思われる。

格差問題・学びの停滞問題にしても、グローバル化対応問題にしても、学校以外の教育リソースを豊富に得やすい環境にある家庭の子ども・若者と、教育リソースを学校教育に頼るしかない環境にある家庭の子ども・若者とでは、大きく立場が異なってくる。後者の方に相対的に高い比重をおいて、より手厚い措置をとるべきというのが私の立場だ。

くわえて、こういう社会全体に影響を与える課題については、結論だけでなく、そのプロセスが非常に重要なので、結論を急ぐあまり、各方面での丁寧な議論の機会をないがしろにすべきではないだろう(「決められない政治」などと結論を急がせ、歪んだリーダーシップを加速させるべきではない)。より丁寧な議論が、民主主義社会としての成熟につながり、かつ結果として成立する新たな制度への信頼を生むはずである。その点で、賛成・反対以上に、その理由を丁寧に付き合わせていくこと大事だろう。9月入学そのものは将来構想として否定されるべきではないが、打出の小槌としてではなく、高卒・大卒一括採用や入試のあり方を含めて包括的制度の再設計の問題として議論していくべきだろう。

最後に、首相官邸は、9月入学問題で文科省を振り回すのではなく、同省が、早期に高校入試、大学入試に関する明確な実施方法・予定を、いくつかの場合に分けて示し、受験生や関係者に一定の見通しを与えて少しでも安心させられるよう、また、繰り返しになるが、何よりも子ども・若者のケアと学びの保障をどうすすめるかに集中できるように配慮することをこそ、自らの責務と考えるべきであろう。

 

[5月27日追記]

意外に早く決着がついた模様。上に掲げた資料に関わられた多くの方の努力の賜物。よかった。これで、子ども・若者のケアと学びの保障に集中できる。あとは、この方面で政府の補正予算措置を望むばかり。

21年度からの「9月入学」は見送り 政府・与党方針 教育現場混乱を回避  毎日新聞

2020年5月27日 21時03分(最終更新 5月27日 22時06分)

https://mainichi.jp/articles/20200527/k00/00m/010/255000c

 

[8月6日追記ー資料追加]

 竹内 健太 (文教科学委員会調査室) 「9月入学導入の見送り ― 新型コロナウイルス感染症拡大を契機とした議論を振り返る ―」『立法と調査』 2020. 7 No. 426(参議院常任委員会調査室・特別調査室)

https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2020pdf/20200731178.pdf

 

 

 

仕事で書いた小文⑤:図書紹介を兼ねた卒業生(教職履修者)向け挨拶文

 本務校の教職課程・学芸員課程を担当する部署(課程センター)では、毎年度末ニューズレターを発行している。その部署の責任者として、冒頭に挨拶文を書かなければならないのだが、最近は、図書紹介も兼ねている。慌ててまとめた駄文ではあるが、紹介した図書はどれも価値のあるものなので、ここに文章まるごと再録しておくことにした。

 なお、書影は全てリンクになっていて、クリックすると密林に飛ぶので、あしからず。

 

---------再録開始---------

教職に就くみなさん、教職を目指すみなさんへ

--フランシスコ教皇来校に寄せて--

 

 今年度も、教員採用試験に合格し来年度から教職に就くことが決まったみなさんをお祝いすべく、このニューズレターを発行できることを、教職課程担当教員としてたいへんうれしく思います。大半の方にとって、自学科の専門科目に関する学業を修めることにくわえて教職課程を履修し、その他の活動にも勤しみながら、なおかつ、様々な個人的事情を抱えつつ採用試験受験に向けた対策を重ねることは、多くの苦労や不安を乗り越えてこそのことだったと推察されます。もしそうだとすれば、喜びもひとしおでしょう。本当におめでとうございます。

  他方で、残念ながら志望を叶えられなかった方もおられるかもしれません。しかし、できれば回避したいそのような不成功や挫折の経験は、もし教師を目指すのであれば、周囲に支えられつつ努力を続けて一定程度克服することで、必ずや大きな財産になります。なぜなら、自らがケアし支援・指導することになるさらに若い人たちの中にも、同様の経験に落胆し、その気持ちを整理できずに困る人たちが少なくないからです。そうだとすれば、そうした類似の経験を持つものだからこそ、その事情や気持ちに対する高い感度をもって共感的に接することができる可能性が高まると考えられるからです。できるだけ早く気持ちを切り替えて、粘り強く次を目指してもらえればと思います。そして最終的には、あの時にあの躓きがあってかえってよかった、あのおかげで自分はまた成長できたと振り返れるような時が訪れるのを待ちたいと思います。

  いずれにせよ、現時点での結果は、長い目で見れば通過点にすぎません。もちろん、その時々の喜びや悲しみはそれ自体として自らにとって大事な意味を持つ経験の一部ではあるわけですが、同時に、そうした経験を自分なりに振り返り整理して、節目をつけ、次の見通しに向かって動き出すことも同様に重要だと言えるかもしれません。みなさんのさらに成長した姿が見られることを楽しみににしたいと思います。

 さて、例年同様、ここで宣伝しておきたいことがあります。来年度もAll Sophians Festival2020531日(日)午後(時間詳細は後日、上智大学ASFwebページに記載される見込み)、及び、年の瀬に近い20201212日(土)午後(詳細は、在学生には授業やLoyolaを通して、卒業生の方には登録されているメルアドに連絡予定)に、上智大学出身で教職に就いている方々と上智大学に在籍する教職履修者との交流会を開催することが決定しています。今からぜひ予定に入れていただければ幸いです。

 教職に就くみなさんも教職を目指すみなさんも、ぜひこのニューズレターに目を通して頂いて、その交流会で、「あ、この方が、あの体験記の」と思い出して頂ければなおうれしく思います。そうして、在学生のみなさんは、この交流会の場を活かして、ぜひ諸先輩に直接いろいろなことを尋ねてみてください。様々な経歴の持ち主がおられるので、参考になる話がたくさん聞けるでしょう。他方、現役教員として参加していただくことになる卒業生のみなさんは、立派なお話しばかりではなく、自分の職場では言えない愚痴をこぼしたり、シンプルに他の現場の様子と自分の現場を比べたりする場としてご活用いただいても結構かと思います。また、上智で教職課程を履修したもののいったん企業等に就職し、それでもやはり教員を目指したいという気持ちも残っている、という方にもぜひこれら交流会の場をご利用いただければと考えています。みなさんのお越しをお待ちしています。

  今回も、せっかくの機会なので、普段の教職の授業では時間がなくほとんど取り上げる余裕がないものの、公教育にプロとしてこれから携わろうとしている学生のみなさんや上智出身で教職に就かれている方々と改めて共有しておきたい話題に触れながら、若干の書籍紹介をしておきたいと思います。

  今年度の上智大学で最も目立つ出来事の一つとなったのは、フランシスコ教皇の来校でした。この大学のヒューマニズムを象徴する“with others, for others”という理念は教職とも親和性の高い視座ですが、アッシジ聖フランシスコにその名を因む教皇は、このothersとして何よりもまず小さき人びと、弱き者に重きを置きます。今回の講演でも「上智大学キリスト教ヒューマニズムの伝統は、すでに述べたもう一つの優先事項と完全に一致します。すなわち、現代世界において貧しい人や隅に追いやられた人とともに歩むことです」という決然たる表現で、そのことを訴えました*1。現代では、単に少数者というだけでなく、社会的に弱い、不利な状況にある人々を時に「マイノリティ」という言葉で呼ぶこともあります。こうした人々ともに、そうした人々のために智恵(sophia)を注ぐよう、教皇は私たちを励まそうとしているのだと言えるでしょう(書影は、故上智大学名誉教授山田經三著『教皇フランシスコ -「小さき人びと」に寄り添い、共に生きる』明治図書2014年)。

  他方で、時に、こうした姿勢を「偽善」ではないかと訝しんだり、揶揄したりする人たちもいます。良識に満ちた理念というものは簡単には実現できないだけに、また、そうした理念を掲げる者とて私利から無縁ではないだけに、理念と現実のはざまで落ち着かない状態でいることに耐えられない人や、自らの利害を優先することを正当化したい人は、偽善という言葉をかざして自らを守ろうとするのかもしれません。夏目漱石も『三四郎』の中で、偽善を嫌うがために「偽善を行ふに露悪を以てする」という複雑な戦略を用いる人が少なくないことに触れて(いると文芸評論家の柄谷行人が紹介して)います。しかし、無視できない格差・不平等が存在する社会では、たとえ偽善と言われようと、露悪的居直りやシニシズムに陥ることなく、自らの限界を見定めつつも、むしろまっとうな綺麗事にコミットすることにあえて開き直る方がずっと望ましいのではないでしょうか。

 そもそも、そのような不平等や格差が歴然と存在するのかという疑問を持たれるかもしれませんが、話題の新書、松岡亮司著『教育格差』(ちくま新書2019年)を繙くと、たしかに、日本ではほぼ全ての人びとが中等教育段階を修了し、過半の人びとが高等教育にさえ進むという状況が達成され、社会階層を問わないメリトクラシーの大衆化状況=「大衆教育社会」(苅谷剛彦)という地点に到達しはしたものの、その中身、つまり、どんな階層の人々がどんな学校・大学で学ぶようになっているのかという点に目を向けてみると、その不平等・格差は近代黎明期以来あまり変化がない、すなわち、伝統的な社会階層が混合しながらも併存してきたことが理解できます。総体としての量的な教育拡大が前景化することで、そうした不平等・格差問題は多くの人々の意識にはのぼらなかったのですが、日本社会は、むしろ「緩やかな身分社会」であり続けてきた、その意味で、諸外国と比較しても「凡庸な格差社会」であったと認めざるを得ないのが実態なのです。しかも、松岡氏は、「教師が生徒の社会階層によって異なる期待・評価をしてそれに指導法を対応させ実際に学力に影響を与える」可能性を、要するに、「教師が社会階層再生産に寄与している可能性」を指摘し、だからこそ、教育格差問題を教職課程の必須項目にすべきだと同書で訴えています。この点で、小さき人びと、弱き者とともに、またそうした人々のために何かをなすということは、単に善意の問題ではなく、知識・認識の問題、つまりは、私たちの勉強・教養の問題でもあるわけです。

 教育格差の問題は、言うまでもなく、貧困問題と密接に結びついています。特に先進国で重要な意味を持つのが相対的貧困(世帯所得が、等価可処分所得=世帯の可処分所得を世帯人員の平方根で割って調整した所得の中央値の半分に満たない状態と定義されます)という問題です。こういう状態に陥ると、他人に恥ずることなく暮らすこと、コミュニテイの活動(学校で言えば、部活なども含まれるでしょう)に参加すること、自尊の念をもつこと等々が非常に困難になります。これらの点で、格差の問題は、学力問題に限られません。そもそも、貧困問題は、学校に通うこと自体に、あるいは、学校で安心して学べるということ自体に困難が生じる可能性を拡大させる十分な可能性があります。こうした貧困問題への対策を教育支援に焦点化して講じる上での重要な視点や問題が整理され、さらに、解決策の具体的事例を紹介した好著が、末冨芳編著『子どもの貧困対策と教育支援─より良い政策・連携・協働』(明石書店2017年)です。

 他方、貧困問題の捉え方に対しては、子どもの貧困に注目が集まることで大人の貧困問題が後景に退き、貧困家庭の子どもへの教育・学習支援がクローズアップされることで、大人への経済的支援の重要性が等閑視されることにつながるという批判的指摘が見られることも事実です。おそらく、このような指摘の重要性を十分に加味しながら、同時に、学校をプラットフォームとした可能な対策を進めるというのがあるべき方向ではないかと思われますが、そうした批判的指摘を明示した上で、幅広いテーマを掲げて編まれた松本伊智朗氏編集代表による「子どもの貧困」全5巻シリーズ(明石書店2019年、第4巻のみ未刊)は教育関係者に広く読まれるべき好編です。関心を引く巻や章から読み始めると、関連する問題に関して視野が広がり、認識が深まることは間違いありません。

 必ずしも貧困問題にのみ関わる問題を扱っているわけではないですが、上述の末冨氏による編著書としてもう一冊オススメしておきたいのが、『学校に居場所カフェをつくろう! ─生きづらさを抱える高校生への寄り添い型支援』(明石書店2019年)です。大阪の西成高校で始まり、その後、大阪府だけでなく神奈川県の田奈高校に導入され、特に同県で大きな広がりを見せている「校内居場所カフェ」。学校内のサード・プレイスとして生徒たちがくつろぐことができ、教育の評価的視線が入り込まない空間、あるいは、教育と福祉が連携する場として注目されている空間でもあります。同書では、様々な困難を抱えている子ども・若者を、規律で縛るよりもむしろ、一人ひとりの生徒の存在を尊重・肯定することに力点を置く学習・生活空間として学校を再編することの一環としての注目すべき取り組みが、具体的にわかりやすく紹介されています。

  このような空間を、よりインクルーシブ(包摂的)な、という形容詞を付して呼ぶことが許されるとすれば、上智大学理工学部出身の西郷孝彦校長が改革を進めて話題になった世田谷区立桜丘中学校も、同様にインクルーシブな空間づくりが目指された学校だと言ってよいでしょう。校則をなくし、定期テストもなくした学校として全国的に名を馳せることになったこの学校を、私も本学で教職を履修する学生数名と一緒に実地に訪問し、西郷先生に直接お話を伺いましたが、生徒の人権と自己決定権を重視、インクルーシブであるだけでなくデモクラティックな空間を、生徒や他の教師たちと一緒に創造されていることに感心しました。この実践は、西郷先生自身の筆で書籍化されています(西郷孝彦『校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール: 定期テストも制服も、いじめも不登校もない!笑顔あふれる学び舎はこうしてつくられた』小学館2019年)。

  教育現場の変化に伴って、教職に求められる専門性は間違いなく高度化・複雑化していますが、上に触れた資料や学校を含めて、様々な議論や現場の実践に学びながら、“with others, for others”という理念を教育という営為を通して具現化する仕事に、みなさんとともに今後も取り組んでいければと思います。みなさんのさらなる成長、活躍を祈念しています。

---------再録終了---------

※これを校了したのが、1月初旬。今のような、卒業式にさえ影響が出る事態が生じるとは予想もしていなかった。この後も予断は許さない状況だけれど、とにかくみんな元気でいてほしい。そして、自分も、政治や社会の動きをできるだけよくウォッチして判断し、行動していければなと。月並みだけど。

 

*1:教皇フランシスコからのメッセージ『叡智の座の大学』で学ぶ者へ」の全文を掲載 | ニュース | 上智大学 Sophia University https://www.sophia.ac.jp/jpn/news/PR/20191129all.html

新学習指導要領の「見方・考え方」に関して

 先日参加したさる研究会で、いわゆる「見方・考え方」について、中教審のど真ん中にいると言っていい研究者に批判的な質問した。"見方・考え方=「(ブルーナーの言った)ディシプリンの構造」"という図式で言われているのなら理解できないこともないが、「総合的な学習の時間」にまで「見方・考え方」ってありえなくね?と。だって、総合的な学習の時間は、そういう特定の見方・考え方がないところにこそ存在意義があるのだからと。

 そうしたら、少なくとも部分的に、どう跳ね返されるのかなと思ったら、全く全面受容。「その通り。"総合的な学習の時間"にも見方・考え方?、なにそれ?ってことで"特別活動"はどうするの?尋ねたくらい。この辺は今後の課題。」という、しごくまっとう、かつ誠実な回答。

学習指導要領を無批判に読むとろくなことはないが、批判的に読む余裕が現場にないとしても、金科玉条のようにそれに服従させようとする教育委員会や校長がいたら、全て偽物であることは、上記のエピソードだけでも確定。

なお、直接関係ないけど、T大附属小の道徳教育専門の先生が、あの「別葉」について、さる研修会で受けた「あれって意味あるのですか?」という質問に対して「無意味」という趣旨の回答をしていたことも銘記されるべき。あたりまえだけど。

新学習指導要領の可能性と問題点

目次
1 改訂のポイント
A 主要ポイント
(1) 社会に開かれた教育課程とは?
(2) 資質・能力を中心とする教育課程とは?
(3)「主体的・対話的で深い学び」(いわゆるアクティブ・ラーニング)とは?
(4) カリキュラム・マネジメントとは?
B 上記以外に注目すべきポイント
(1) 学習評価に関して
(2) インクルーシブ教育に関して
(3) 道徳教育に関して
2 改訂ポイントが孕む問題点
A 主たる改訂ポイントについて
(1) 「社会に開かれた」というスローガンが持つ危険性
(2) 資質・能力を中心とする教育課程の限界
(3)「主体的・対話的で深い学び」の陥穽
(4) カリキュラム・マネジメントの落とし穴
3 展望--新学習指導要領の建設的批判へ
A 主たる改訂ポイントについて
(1)「社会に開かれた教育課程」というスローガンについて
(2) 資質・能力を中心とする教育課程について
(3) 「主体的・対話的で深い学び」について
(4)カリキュラム・マネジメントについて
B 上記以外に注目すべきポイントについて
(1) 学習評価に関して
(2) インクルーシブ教育に関して
(3) 道徳教育に関して


1 改訂のポイント
A 主要ポイント
 平成29年3月改訂学習指導要領においては、その改訂史上初めて、本文に先立ち「前文」(1200文字程度)が添えられ、そこで、教育基本法条文(第1〜2条)の引用に始まり、今次改訂学習指導要領を貫く基本理念が語られている。その語り口には理想主義的とも言えるトーンが漂う。それを象徴するのが「社会に開かれた教育課程」というスローガンであり、その中心軸が「よりよい学校教育を通してよりよい社会を創るという理念」である。その上で、「よりよい社会」の創り手になるために必要な「資質・能力」の育成を中心とする教育課程への転換が声高らかに歌われている。こうした響きは、今回の学習指導要領を、日本の公教育史における明治以来の画期として位置付けようとした中教審答申(2016年12月21日)の序文「はじめに」と共通する。
 このことは何を意味しているのか。この点を理解するために、今次学習指導要領の最も主要な改訂指針を確認しておこう。それは、(1)社会に開かれた教育課程、(2)資質・能力を中心とする教育課程とこれに基づく学習評価法の再編、(3) 「主体的・対話的で深い学び」(いわゆるアクティブ・ラーニング)の推進、(4) カリキュラム・マネジメントの確立という4点に集約できる。
(1) 社会に開かれた教育課程とは?
 社会に開かれた教育課程とは、要約すると、変化する社会状況を広く視野に収めて、よりよい学校教育によるよりよい社会の実現を目指すとともに、そのための社会参画に向けて育成すべき資質・能力を明確化する教育課程を指し、その実施にあたって学校外の人々と連携を図ることを旨とすることを意味する。ここで注目すべきは、社会や世界の変化に対応するという機能主義的・適応主義的な教育観に止まらず、学校教育によってより望ましい社会を構築しようとする社会改良主義的な、その意味で理想主義的な観点が明示されていることである。
(2) 資質・能力を中心とする教育課程とは?
 教育課程を、教師が教えるべき知識・技能の内容項目を中心とするもの(コンテンツ・ベース)から子どもたちが身につけるべき「資質・能力」を中心とするものに(コンピテンシー・ベース)に転換するという企図は、今次学習指導要領の最大の眼目である。このトレンドは、日本のみならず多くの先進諸国の教育改革に共通に見られる方向性と言ってよい。アクティブ・ラーニングの推進もカリキュラム・マネジメントの重視も、このコンピテンシー・ベースの教育課程への転換という要因から派生的に帰結する方策である。
 では、資質・能力中心の教育課程への転換とは何を意味するか?それは、これまでの教育課程が、どのような知識・技能の内容を教えるべきなのかに照準するものだったのに対して、今後の教育課程は、どのような力を子ども・若者が身につけるべきなのかに重点を置こうとすることを指す。文科省は、これを「何ができるようになるか」という言葉で表している。
 ただし、ここで「何ができるようになるか」と呼ばれる資質・能力観は、汎用的な有用性を持つ力を意味する。すなわち、複雑かつ変化の激しい社会においては、今ここで有効とされている知識が、今後、他の場面でそうであり続けるかどうかは簡単に見通しがつかなくなるだけに、また、ICT環境の進化により多くの知識が居ながらにして参照できる時代であるだけに、多くの知識を習得すること以上に、獲得した知識や手に入れた情報をうまく活用して、新たな局面に対応したり、新たなアイデアや価値を創造したりすることができるような資質・能力が求められるということである。言い換えれば、学校内部や従来型の試験でしか役立たない網羅主義的で断片的な知識の暗記ではなく、子どもたちが現実の社会生活の様々な場面で出会う問題を主体的・協働的に解決していけるような力がより重視されるというわけである。
 なお、こうした能力は、一定のノウハウによって得られるような限定的で、特定の分野別の知識・技能に止まらず、領域横断的で不定形な能力や意欲・態度など非認知的能力を含む人格総体にまで及ぶものとして表象されることになる。このように考えると、育てようとする資質・能力とは、育てたい子ども・若者像と言い換えることもできる。よって、資質・能力を中心とする教育課程では、育てたい子ども・若者像を目標として明示する教育課程と等置されることになろう。
 さて、資質・能力を中心とする教育課程への転換に伴いクローズアップされることになるのが、のちに再度触れる学習評価法である。ここで確認しておきたいのは、次の点である。すなわち、そもそも、資質・能力を中心とする教育課程は、育成を目指す資質・能力=育てたい子ども・若者像を教育目標として明確化することを出発点とし、最終的に、その目標がどの程度達成されたかを評価するという作業を必然的に伴うという意味で、その評価法として目標準拠評価を要請するということである。
(3)「主体的・対話的で深い学び」(いわゆるアクティブ・ラーニング)とは?
 上記のような資質・能力論の導入、あるいは、学力観の転換は、教育方法にも刷新を要請する。すなわち、多くの内容項目の習得を優先する教育においては、効率的な知識伝達が可能な講義型(チョーク・アンド・トーク)の授業で不都合はなかったかもしれないが、新たな局面における創造的問題解決に向けて、局面に応じて、必要な情報を選択したり、既得の知識を活用したり、あるいは、他者と交渉・協働したりしていけるような資質・能力の獲得を主眼とする教育においては、できるだけ現実・本物に近い文脈において学ぶ側の主体性や能動性がより十全に発揮されるアプローチが求められることになる。
 ところで、ALに関して、今次学習指導要領改訂動向において着目すべきは、文科相による諮問文(平成26年11月20 日)からの定義変更である。同諮問文では「課題の発見と解決に向けて主体的・協働的に学ぶ学習」と表現されていたALは、最終答申文(2016年12月21日)及び今次改訂学習指導要領では、標記の通り「主体的・対話的で深い学び」と定義づけられることになった。
 まず、「協働的」が「対話的」に変更されたが、その背景は、上記答申文でALに関する注記として、「形式的に対話型を取り入れた授業や特定の指導の型を目指した技術の改善にとどまるものではなく」(p.26)と、また、同答申文及び学習指導要領解説総則編で「対話的学び」に関して、「子供同士の協働」にくわえて「教職員や地域の人との対話,先哲の考え方を手掛かりに考えること等を通じ」と述べられていることから推察できる。すなわち、協働的な学習という言葉が使われることにより、ALと言えば、判で押したように小集団での話し合い活動ばかりになり、しかも、そこに従うべき特定の方法論があるかのような受け止め方をする傾向が、学校現場に少なからず見られたという事情を受け、対話的な学びという表現に変更した上で、対話という形態の幅広さを示すことで、ステレオタイプ化した学習のあり方に見直しを迫る意図があるものと考えられる。
 次に、「深い学び」という要素が付されることになった背景には、子ども中心主義的ないし経験主義的な教育への伝統的な批判が念頭にあると考えられる。たとえば、活動あって学びなし、這い回る経験主義といった指摘である。このように、主体的あるいは能動的な学びが必ずしも質の高い学びに帰結するとは限らないという問題意識に基づいて、質の高い学びを表す標語として「深い学び」が用いられることになったと言えよう。
 が、さらに特筆すべきは、この「深い学び」実現の鍵として、(特別の教科道徳を除く)各教科・領域で「見方・考え方」なるものが定義・導入されたことである。この見方・考え方という観点は、社会科や理科ではすでに「社会的な見方や考え方」や「科学的な見方や考え方」という表現で現行版(平成20年改訂版)でも既出なので、真新しい観点ではない。が、こうした全面的導入は学習指導要領改訂史上初のことである。それは、「その教科等ならではの物事を捉える視点や考え方」で、「各教科等を学ぶ本質的な意義の中核をなすものであり,教科等の学習と社会をつなぐもの」(中学校学習指導要領解説 総則編 p.4)とされ、(特別の教科道徳以外の)各教科・領域の「目標」に、この「見方・考え方を働かせる」ことが明記されることになった。これらは、それぞれ個別の知識を多く習得するということに止まらない当該教科・領域を学ぶことの本質的意義、つまり、その教科・領域はいったい何ができるようになるために学んでいるのかという問いに対する答えをできるだけ明確化し、その意義を踏まえた教育・学習を促すために定式化されたものと言えよう。
 くわえて、今次改訂版では「単元や題材など内容や時間のまとまりを見通し」という表現が頻繁に挿入されている点にも注目しておこう。これは、汎用性の高い資質・能力の育成や、そのための主体的・対話的で深い学びやその評価を、1時限の授業という短いスパンを基準として進めていくことはできないという理由からである。
(4) カリキュラム・マネジメントとは?
 カリキュラム・マネジメントとは、学校の教育目標(育てようとする資質・能力=子ども・若者像)を明確化し、その目標を達成できるようカリキュラムを計画・実施した上で、評価・改善していくという一連のサイクルを意味し、その際、教科横断的な視点を採用すること、子どもの姿やその実態を表す各種データに基づくこと、学校内外の様々な人的・物的リソースを有効活用すること、これらに配慮することが求められる。
 こうした取組が重視される背景には、上述の資質・能力中心の教育課程への転換という文脈がある。すなわち、各学校は、各教科別の知識・技能の習得にとどまらず、「育てようとする(汎用性の高い)資質・能力=子ども・若者像」を教育目標として明らかにし、目標実現への努力が求められることになるので、その目標を学校全体で共有し、特定の教科・領域に限らず全方位的に、さらに全学年を見通したビジョンをもって、カリキュラムの計画・実施・評価・改善を進める必要があるというわけである。とりわけ、教員の間で、学級・学年だけでなく教科という壁もできやすい中学校や高校では、そうした壁を超え、子ども・若者たちの育ちを、学校全体で、さらには学校を支える家庭や地域、外部諸機関と連携して支えて行くことが求められることになる。したがって、この意味でのカリキュラム・マネジメントは、管理職だけでなく学校現場の教員一人ひとりに要請されている。
B 上記以外に注目すべきポイント
(1) 学習評価に関して
 今次改訂学習指導要領では「第3 教育課程の実施と学習評価」、同解説総則編では「教育課程の実施と学習評価」(第3章第3節)として、学習評価が節立ての冠として明記されることになった。その内容上注目すべきは以下の2点であろう。第1に、今次改訂学習指導要領の学習評価法に特徴的なのは、学校教育法第三十条に基づいて、資質・能力(学力)が[1]「知識及び技能」、[2]「思考力・判断力・表現力等」、[3]「学びに向かう力・人間性等」という3つの柱からなるものとして再編され、特別の教科道徳を除く各教科・領域別の「目標」もこれに準じて再定義されたこと基づき、学習評価の観点も、従来の4観点(関心・意欲・態度、思考・判断・表現、技能、知識・理解)から上記3つの柱に対応する3観点に再整理される見込みであるという点である。そして、次期指導要録の書式は、これにしたがって改訂されるとともに、この観点別評価が高等学校の指導要録にも導入される可能性が高い。第2に、資質・能力の三つの柱のうち、「学びに向かう力,人間性等」に関しては、観点別評価や評定になじまず、個人内評価(個人のよい点や可能性,進歩の状況について評価する)を通じて見取るべき部分があるということが指摘されている点である。
(2) インクルーシブ教育に関して
 中教審による最終答申では明記されていた「インクルーシブ教育」という文言が、学習指導要領にもその解説総則編にも一切登場せず、「インクルーシブ教育」と密接に関連する「合理的配慮」という概念にも全く触れられていない。同答申では、「教育課程全体を通じたインクルーシブ教育システムの構築を目指す特別支援教育」という表記で、その重要性が唱えられていただけに、この懸隔には注意を向けざるを得ない。
(3) 道徳教育に関して
 道徳が特別の教科として教科化されたことに伴い、今次改訂学習指導要領では、「第1章 第6 道徳教育に関する配慮事項」として、また同解説総則編では「道徳教育推進上の配慮事項」(第3章第6節)として、独立した節が設けられ、位置付けが格上げされている。ここで目を引くのは、同解説特別の教科道徳編では明記されているような「考える道徳」「議論する道徳」への転換という文言が、学習指導要領や同解説総則編では全く登場せず、むしろ、その叙述上の力点は、指導体制における校長による指導力の発揮や、指導内容における規律、規範意識、伝統・文化、愛国心などの重点化を謳うというトーン、道徳教育によっていじめを防止するという論調が目立つという点である。また、改訂学習指導要領の道徳教育に見られる全面主・徳目主義・網羅主義という特徴を反映して、いわゆる「別葉」の作成が示唆されていることも無視できない。
2 改訂ポイントが孕む問題点
A 主たる改訂ポイントについて
(1) 「社会に開かれた」というスローガンが持つ危険性
 「社会や世界の状況を幅広く視野に入れ、よりよい学校教育を通じてよりよい社会づくりを目指すという理念」それ自体は有意義とも言える。実際、文科省は、この理念を非常に理想主義的に語っている。が、ことはそう単純ではない。いったい社会や世界のどのような側面を特に視野に入れるべきものとして重視するのか、また、よりよい社会とはいったいどのような社会を意味するのかという点に、容易な合意はあり得ず、これらは常に対立・葛藤を伴う問いだからである。残念ながら、文科省にはそうしたメタ認知が欠如しているか、あるいはそうした認識を明示できないか、いずれかのようである。よりよい社会を目指すという社会改良主義的な理念を、権力・行政側が持ち出すのと、市民が持ち出すのとでは意味が異なる。こうした必然的に対立・葛藤を伴う論点を含んだ理念を、そういうものとして明示しない場合には、そうした対立・葛藤の存在や様々な立場の違いは等閑視され、ソフトではあれ危険な全体主義が忍び込むことになりかねない。
(2) 資質・能力を中心とする教育課程の限界
 第1に、資質・能力観、つまり、育成しようとする子ども像・若者像は、どのような社会を望ましいと考えるかという社会観と相即不離であるという点があげられる。このことは、教員側の社会認識が深まらないと、その資質・能力論も浅いレベルに止まる危険性があることを意味する。しかも、資質・能力観のベースに一定の社会観があるとすれば、上述のように、そこには必然的に対立・葛藤を伴うことになるので、そうした対立・葛藤の可能性を(特に権力側が)自覚できない場合には、ここでも、全体主義的風潮を呼び込むことになる。しかも、「学校として育成を目指す資質・能力が明確であること」は、教育課程編成の基軸を成す教育目標を設定する上で最も重要な要素の一つであることを考えると、この危険性を看過することはできない。
 第2に、流動化の激しい社会における汎用性の高い資質・能力、すなわち、人間性や主体性といった包括的な資質・能力というものは、明確な定義が本来的に困難で曖昧なものであり、実生活あるいは現実の活動場面から切り離された事前の試験によってつかみとれるようなものではなく、実生活あるいは現実の活動場面における具体的実践を通じて事後的に見いだせるものでしかないという点があげられる。
 第3に、資質・能力中心の教育に必然的に伴う目標準拠評価は、学習評価として一定の限界を有する。資質・能力中心の教育では、より本物の問題解決に資するスキルの獲得に重点を置くという点に一定の肯定的意義を見出すことは可能だが、目標準拠評価では、定義上、一定の目標(資質・能力の獲得)が達成されたかどうかを見る評価である以上、子ども・若者を到達目標から見ることになるので、彼女たち/彼らを、そうした資質・能力が欠如した存在として否定的に捉える危険性を孕んでいる。
 第4に、資質・能力中心の教育で、その学習評価が個人に照準することの問題点に目を向ける必要がある。個人にとって何らかの資質・能力を欠いているという事態そのものは、仮にその他の人々によってその欠如が補われたり、欠如そのものが困難を生まない環境が構築されたりしていれば問題にならないはずだが、資質・能力の育成という教育的視点が過度に優先されると、そうした欠如がもっぱら個人に帰責される風潮に棹差すことになる。しかも、現代的な資質・能力論は、包括的で全人格的な様相を帯びていることを踏まえると、この問題が持つ危険性も看過できない。
(3) 「主体的・対話的で深い学び」の陥穽
 第1に、先に参照した通り、「協働的な学習」に特定の型があるかのような誤解が生まれたという状況を是正するために、より広い概念として「対話的」という表現を用いることにしたという文科省の意図は一定程度理解可能であるが、この表現の変更は、より個人に照準する資質・能力論と親和的であると言えよう。こうした資質・能力観は、主体性の欠如を個人に帰属させるような評価的視線に偏ったり、関係性の中で生じるゆたかな学びを実践の場ですくい取れなかったりするという問題を生じさせかねないであろう。
 第2に、「深い学び」という視角に潜む危険性として、先ほど主として目標準拠評価に関して指摘したのと同様の問題が確認できる。当然のことだが、深い学びは、浅い学びに対する批判的視点を伴うものである。このことは、目の前で展開されている子どもの学びの姿を否定的に捉える視線が先行する可能性が十分にあるということを意味する。深い学びには一定のゆとりが必要であることを踏まえれば、性急に深さを求めることは、かえって深い学びの実現を損なう危険性がある。
 第3に、「深い学び」実現の鍵として導入された「見方・考え方」という視点に現れている限界について確認しておきたい。この視点は、先に見たように「その教科等ならではの物事を捉える視点や考え方」で、「各教科等を学ぶ本質的な意義の中核をなすものであり,教科等の学習と社会をつなぐもの」という趣旨で導入されている。特定の学問分野にその分野に固有のアプローチ、すなわち見方・考え方と呼びうるものが存在している場合もあろう。こうした学問的・科学的なものの見方・考え方を踏まえた授業は、表層的な知識の習得に止まらない概念的な理解への到達に資する可能性が高いという点で、学習の質向上に資する可能性があることは十分に理解できる。が、こうした文科省が示した「見方・考え方」には、異論を唱えることができる余地は十分存在し、決して、普遍的意義を持つとはいえない水準に止まっているものも少なくない。
 第4に、汎用性の高い資質・能力の育成を中心とする教育の転換には、Less is More.(より少なく学んでより多くを学ぶ)という標語で表される理念が重視されてよいが、今回の改訂では全く欠如している。つまり、より深い学びの実現に要する時間の確保に向けた教育内容の削減・精選が全く視野に入れられていないのである。学習指導要領が最低基準だとすれば、その指導項目は(特に高校で)多過ぎるのではないだろうか。
(4) カリキュラム・マネジメントの落とし穴
 カリキュラム・マネジメントは、マネジメントという用語がわざわざ適用されているという点でも、PDCAサイクルの確立や、利用可能な資源の有効活用が強調されるという点でも、ニュー・パブリック・マネジメント(NPM:公共部門・政策に、民間企業の経営管理手法を適用することで、効率化や提供するサービスの質向上を測ろうとする行政管理論)の新自由主義的なベクトルと無関係ではない。こうした文脈に無自覚でいると、その陥穽に陥ることになりかねない。以下では、カリキュラム・マネジメントが抱える限界を指摘しておきたい。
 第1に、カリキュラム・マネジメントは、各学校における教育目標を実現するためのあくまで手段であって目的ではない以上、そこで実現しようとする目標が十分な正当性や妥当性に欠けている場合には、かえって、価値のある教育の実現を阻害する危険性がある。
 第2に、学校現場における教育実践は、PDCAサイクルという言葉から連想されるような線形的なものではあり得ない。それは、多層的・多元的な状況への対応なので、むしろ、一定の柔軟性、曖昧さやいいかげんさを必要とし、それらが積極的な意義を持つことも多い。たとえ一区切りの実践を振り返った時に、その実践の意味づけを言語化できるとしても、子どもたちとの関係性の中で経験的に培われた「勘」を頼りに手探りで進めて行った学級経営が、なんとはなしに軌道に乗っていくが、事前にはPDCAサイクルに乗せられるほど明るい見通しも明確な計画性もなく、言語化もできてはいないという事態は十分考えられる。PDCAサイクルという工学的発想とは相容れないように見えるこうしたプロセスを、単に疑わしいものとして斬って捨てるべきではない。
 第3に、カリキュラム・マネジメントでは、学校内外の人的・物的資源の有効活用が要請されているが、この論理は、現に学校に配分されている資源を所与として、その配分の限界を批判的に捉える視線を奪うことになりかねない。要するに、学校に与えられている予算をはじめとする諸々の資源が不足していることや、学校が抱えている諸条件に無視できない限界があるという事情から、学校目標の達成に支障を来しているという場合でも、カリキュラム・マネジメントの論理だけに依拠すると、その責任は、資源を有効活用できていない学校やその教員にあるという「自己責任論」的見方の方が優先されることになりかねないからである。
3 展望--新学習指導要領の建設的批判へ
(1)「社会に開かれた教育課程」というスローガンについて
 まず、現場の同僚と、文科省が美しく語る理念の意義だけでなく、上述のようなその理念の提示の仕方が持つ危険性に関する認識を広めることであろう。その上で、何をもって社会に開かれた教育課程とするのかという問いについて各学校現場で葛藤・対立を含む議論を重ね、その答えはボトム・アップで模索・明確化し更新していくべきであろう。
(2) 資質・能力を中心とする教育課程について
 第1に、各学校において資質・能力論には、教員側の社会認識を不断に深めていくことが必要になる。同時に、資質・能力観がそれを支える社会観と不可分であるとすれば、そこには多様な立場の違いがあり得るだけに、ここでもトップダウン型で設定するのではなく、教員間で十分な議論と合意形成を通して明確化していく必要がある。
 第2に、実生活あるいは現実の活動場面における具体的実践を可能な限り意識したテストであっても、人工的な環境設定にならざるを得ないテストという手段では、現在重視されている類の資質・能力を測定することには大きな限界を有する。そうした試験の結果が学習評価の対象として優先されると、一人ひとりの子どもの生にとって学習が持つ意味、学習のゆたかさは切り詰められてしまうだろう。従来型の学力テストを見直し、改善していくことには意義があるものの、テストで測定できる能力には限界があり、筆記ないし情報入力によるテストという形式である限り、実生活あるいは現実の活動場面における具体的実践を通した本物の問題解決能力の育成よりも、出題傾向への対策に重点が置かれてしまうという懸念は払拭できない。この点で、学力テストの結果が各学校における実践で最優先されないように訴えていくべきであろう。
 第3に、目の前の子ども・若者たちの実態からカリキュラムを編成し、一人ひとりの子ども・若者にまず肯定的な眼差しを向けることを最優先するならば、目標準拠評価とともに、あるいは、それ以上に、個人内評価やゴールフリー評価(目標にとらわれない評価)の重要性を打ち出し、後者に重点を置いた学習評価・授業評価・カリキュラム評価のあり方を、各学校現場での実践活動や協議を通じて具体化していくべきであろう。
 第4に、個人の資質・能力を育成するためにも、その前に、また、その基盤的前提として、一人ひとりの子ども・若者にとって自らの存在が尊重・承認されていると感じられ、安心して楽しく過ごせるインクルーシブな空間を学校に実現するという目標を優先し、この視点を日々の実践においても評価においても一貫させる必要があろう。
(3) 「主体的・対話的で深い学び」について
 第1に、子どもたちの学びが深いか浅いかの前に、また、子どもたちが学びに向かっているかいないかの前に、目の前にいるその子どもたち一人ひとりの存在をまず肯定し、ケアするという側面を優先させるとするならば、深い学びの達成を熱心に目指すあまり、子どもに対する否定的な評価視線が先立つということは回避されるべきであろう。これは、学びは浅くてもよいということではない。が、深い学びは、その基礎としての学ぶ意欲や学びの楽しさと切り離せないと考えるべきだろう。また、学びが深いか浅いかという点でも、子どもたちの姿を通して、その声に耳を傾けることによって判断するという構えを忘れないでおくべきだろう。子どもたちは、自らの学びが浅い場合には、その学びに内在的に動機付けられなくなる可能性が非常に高いからである。
 第2に、各学校現場は、文科省が深い学びの鍵として示した「見方・考え方」を金科玉条とせず、あくまでその教科・領域における学習の中核的意義を再考するためのヒントとして、対話の相手として参照すべきであろう。
 第3に、文科省は、ゆとりか詰め込みかという二項対立的な観点を否定し、学習内容の削減は行わないと宣言しているが、限られた授業時数の中で多くの知識項目を扱わなければならないとすれば、じっくり時間をかけて深く学ぶということが必然的に制約されざるを得ないだけに、教育内容の精選を現場レベルで認められるように運動を展開していくべきであろう。ALの場合、各教員に相応の工夫とその工夫に費やすための準備時間がより多く必要になることが多いため、最低基準としての学習指導要領における指導項目が削減されないとすれば、指導項目の精選に関する裁量が各学校現場に全く与えられないとすれば、多忙化に拍車をかけることになろう。
(4)カリキュラム・マネジメントについて
 第1に、一部教科における学力テストの成績向上を優先的な教育目標とするカリキュラム・マネジメントには、明確な異議申し立てがなされてしかるべきであろう。
 第2に、カリキュラム・マネジメントで実現が目指されている学校目標それ自体の問い直しや再評価が、ボトムアップで不断に実行されていくべきであろう。その点で、PDCAサイクルを含むカリキュラム・マネジメントの手続きの厳格化に走るのではなく、常に、カリキュラム・マネジメントと呼ばれる作業過程そのものを、メタレベルで観察し、検証する作業が必要になるだろう。
 むしろ、カリキュラム・マネジメントの中心軸となる学校目標には、何よりもインクルーシブな学校空間の構築に資するような指針が据えられるべきであろう。それによって、何よりもまず、どんな子どもも排除されず、一人ひとりの存在が肯定されるような学びの空間の構築が目指されるべきであろう。
 第3に、学校の教育目標にとらわれずに子どもの学びの姿を振り返るという意味でのゴールフリー評価に基づいて、つまり、子どもたちの実態に基づいて教育課程を見直すということが視野に入れられるべきであろう。
 第4に、カリキュラム・マネジメントは、管理職や教務担当者のみが関与する取組ではなく、学校全体で実施することが要請される取組であるとすれば、最終責任を管理職が負うにしても、ここでも、トップダウンではなく、ボトムアップ型の民主的な意思決定を尊重したカリキュラム・マネジメントが推奨されるべきであろう。管理職のリーダーシップの主眼も、権威主義的な統率力にではなく、多様な教職員の一人ひとりを活かす対話型のコミュニケーション能力に置かれるべきであろう。子どもたちを民主的な主体として育成していくためにも、まずはカリキュラム・マネジメントという学校全体で実施すべき取組に関して、民主的な職場環境を整備していくことが重要な意味を持つだろう。
B 上記以外に注目すべきポイントについて
(1) 学習評価に関して
 観点別評価が、高等学校にも導入される見通しであることが確実であるが、高等学校の場合には、通信制定時制をはじめとして、多様な状況を含んでいる。その中で、指導要録における評価の観点がどのように改訂されるのかという点に関して、ひきつづき注視する必要があろう。また、こうした評価方法の導入が多忙化問題の悪化に繋がらないように、指導要録改訂動向を注視する必要があるだろう。
 他方で、従来型の知識項目の習得中心の学力試験一辺倒の評価から、学習指導要領改訂に伴う教科書改訂、大学入試改革等に伴って、観点別評価が導入されることは、生徒たち一人ひとりをより多角的に捉え、今後の社会で必要になる資質・能力を生徒たちが獲得できる可能性につなげることによって、よりゆたかな学びの実現につなげるチャンスにもなりえよう。目標準拠評価の限界を十分に踏まえた上、という条件付きではあるが、従来の狭い評価観から脱却する学習評価のあり方を検討していくことも考えられてよいだろう。
(2) インクルーシブ教育に関して
 障がい者権利条約の批准を受けて、中教審答申で明確に項目立てされていたインクルーシブ教育に関する記述が、学習指導要領では全く削除されてしまった点に関しては、学習指導要領にも明記されることを求めて行く必要があるだろう。
 また、インクルーシブ教育の実現に不可欠な「合理的配慮」の概念も、現在の学習指導要領における「特別な配慮」という曖昧な概念とは別に明示されるように求めていくと同時に、文科省がこの観点を導入しなくても、学校現場における合理的配慮の重要性を訴えていくべきであろう。
(3) 道徳教育に関して
 今回の特別の教科化に際して強調されている「考える道徳」、その際に「多角的・多面的に考え、判断する力」、「道徳科の授業では,特定の価値観を生徒に押し付けたり,主体性をもたずに言われるままに行動するよう指導したりすることは,道徳教育の目指す方向の対極にある」という、総則で明記されてはいない諸点こそ重視されるべきであり、総則にこれらのポイントが明記されていないことに関しては、道徳教育重視のもう一つの方向性である同化主義・国家主義権威主義というベクトルの表れとして警戒していくべきであろう。
 さらに、改訂学習指導要領における道徳教育の全面主義・徳目主義・網羅主義という特徴に対して批判的な認識を各学校現場で共有するとともに、こうした特徴を反映して、各教科各単元と道徳の内容項目とをリンクさせて一覧にする「別葉」の作成は義務では全くないこと、及び、このような「別葉」の実際的有効性が極めて疑わしいということの認識も広めていくべきであろう。

教育という社会的領域の自律性は?

 もし政府が望ましい内容の答弁を出したのなら、こういう閣議決定で教育課程行政の一部が決まっていくということに問題はないのだろうか。そうなると、少なくとも、教育という社会的領域の自律性が少なくとも部分的には損なわれることになるように思う。

 自分が十分理解できていない研究に触れるべきではないかもしれないが、N.ルーマンという社会学者は、近代社会に特徴的なあり方を機能分化として捉えて、これが私たちの個人としての人権が尊重される社会の基底的条件になっているみたいなことを言っている(『制度としての基本権』)

制度としての基本権

制度としての基本権

と思っているのだが、だとすれば、この機能分化も、ちゃんと守らないとまずいんじゃないか。そして、これも「諦めたら、そこで終わる」のかもしれない。つまり、あって当然と自明視せず、反省的・意識的に守ろうとしないと、介入的アクションがなければ、終わってしまう可能性だってあるのではないかという。

 ただ、社会学で「相対的自律性」という表現も用いられるように、自律性を守るべきだとしても、絶対でない以上、程度問題として捉えるべきなのかもしれないし、だからこそ、どの程度の自律性かということが問題になるのかもしれない。

 こういうことを書いている時に念頭にあるのは、最近のヘイト・スピーチ問題とこれに対する規制法のこと。私は、この規制法を評価しているので、国家によるすべての規制は危険という考え方には与しない。

 なので、教育の自律性を取り戻せだけではあまりにナイーブになるのではないかとも思う。

 けれども、教育再生実行会議という政府与党内の機関が、学習指導要領の改訂という教育課程行政の本丸に対する介入の度合いを確実に強め、その上、今回の閣議決定という介入。

 くわえて、重田園江氏が、最近指摘されていたように、「経済のボキャブラリーがあらゆるところに浸透している」*1ということは、教育にも言えて、その点でも自律性は危うくなっている。

 さて、ここから先、教育という領域のどういう自律性をどのように再構築していくべきなのか、これも公教育の再編問題の一部なのかもしれない。

 しかし、Does this make sense? と自分の問いに問わざるをえないほど自信はない。けど、どうも気になって書き留めた。

 きっかけは、冒頭に書いたように、最近の教育勅語関連問題だったので、以下に、資料集代わりに、その経緯を加担に記載しておく。
[付記:そういえば、小山裕氏の本が、積読のままでちゃんと読んでないのがバレバレだ(なのに、本に自分の書き込みがあるというのも困りものだが)。もしかしてドンピシャかもしれないこれ読んで勉強すべし。*2 ]

・2月9日 森友学園への国有地払い下げ問題に関する報道開始
・2月17日 衆院予算委員会 森友学園への国有地払い下げ問題に関する安倍首相発言「私や妻は一切関わっていない。もし関わっていたら間違いなく、首相も国会議員も辞任するということを、はっきり申し上げる」。以降、各紙報道過熱。塚本幼稚園での指導の様子を映した動画も拡散流布。
・2月27日 逢坂誠二民進党質問主意書提出 質問番号93:教育基本法の理念と教育勅語の整合性に関する質問主意書[→3月7日 答弁受理]*3
・2月28日 大阪府森友学園の調査開始の報道(→3月31日立ち入り調査、書類確認できず調査継続の報道→4月13日調査続行の報道)
・3月7日 質問番号93(2月27日)の答弁受理
・3月9日 逢坂誠二議員(民進党質問主意書提出 質問番号118:稲田大臣の「教育勅語の精神は取り戻すべき」発言に関する質問主意書[→3月17日 答弁受理]*4
・3月14日 松野博一文部科学大臣記者会見*5
・3月17日 質問番号118の答弁受理
・3月21日 初鹿明博議員(民進党質問主意書提出 質問番号144:教育勅語の根本理念に関する質問主意書[3月31日 答弁受理]*6
・3月31日 質問番号144の答弁受理
・4月3日 公教育計画学会理事声明文発表:「教育勅語」の容認と銃剣道の学校教育への導入に強く反対する*7
・4月4日 松野博一文部科学大臣記者会見で教育勅語関連問題に言及*8
・4月6日 宮崎岳志議員(民進党質問主意書提出 質問番号206:「教育ニ関スル勅語」の教育現場における使用に関する質問主意書[4月14日 答弁受理]*9
・4月6日 宮崎岳志議員(民進党質問主意書提出 質問番号207:アドルフ・ヒトラーの著作「我が闘争」の一部を、学校教育における教材として用いることが否定されるかどうかに関する質問主意書[4月14日 答弁受理]*10
・4月7日 衆議院第5回内閣委員会 泉健太民進党)質疑と義家文科副大臣答弁:朝礼における教育勅語の唱和も、憲法教育基本法に反しなければ問題ないという趣旨の答弁*11 参考:第98国会参議院決算委員会第11号議事録*12
・4月8日 朝日新聞が義家文科副大臣答弁について報道*13
・4月10日 長妻昭議員(民進党質問主意書提出 質問番号219:教育勅語を道徳科の授業で扱うことに関する質問主意書[4月18日 答弁受理]*14
・4月14日 質問番号206及び207の答弁受理
・4月18日 質問番号219の答弁受理
・4月24日 長妻昭議員(民進党質問主意書提出 質問番号259:幼稚園児や小学生等に教育勅語を朗読させる教育に関する質問主意書[5月8日現在、答弁に関しては未完了または未公表]*15
・4月27日 教育研究者有志「教育現場における教育勅語の使用に関する声明」発表*16本田由紀氏らによる記者会見。同日、各紙報道。
・5月8日 教育史学会声明文発表:「教育二関スル勅語」(教育勅語)の教材使用に関する表明について*17
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市民的自由主義の復権: シュミットからルーマンへ

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