教育の政治学(1):コスモポリタニズム論と包摂・排除のメカニズム

minor-pop2008-03-28

 もう2週間以上も更新が途絶えてしまいました。ヒット数が増えているということは、わずかながらも読んでいただいている方がおられるようなので、最初に一言お詫び申し上げますm(_ _)m。

 で、ここからは、またいつもように軽めの常体文で失礼。まず、今後の予定を少しばかり。
 いくつかシリーズ化して行きたいのだが、その一つが「個性化個別化教育」。で、もう一つ「教育の政治学」という少しいかめしいシリーズを設けようと思う。この2つを軸として、それ以外は、視聴・鑑賞した番組やパフォーマンス、読んだ本に関して、その時々で残しておきたいと思った覚書や、大学・大学院の教育学関連の授業で扱った内容の補足説明となるような注釈を載せて行こうと思う。
 二つの中心軸のうち、「個別化・個性化教育」は、最近少し観させてもらっている現場における実践や「全国個性化教育連盟」の研究会に関する自分なりの見解をまとめて、その方面の先生方の反応から学ぶために設けたもの。他方、「教育の政治学(politics)」は、自分の研究者としての専門領域を雑駁に言うとしたら、そんなところなので設けることにした。これを、どの程度まで、専門家向けでなく、現場の先生方や教員養成系の学生向けに噛み砕いて書けるかどうかはわからないが、可能な限りで意識して行きたい。
 この「教育の政治学」に関しては、「いったい教育の政治学って、どういう意味で使ってるの?」ということから始めるべきなのかもしれないし、少しばかりリクエストを頂いている「再生産論」も、このテーマで括ることができる重要なトピックだから、この話題から始めるべきなのかもしれないが、これはもう数日先送りにさせていただいて、ほぼ2週間前に出席したある講演会のことを先に紹介しておきたい。これが今日のトピックだ。
 なぜ?って、先に書いておかないと、その講演会で自分が何を考えたか忘れてしまうから(^^;;)。
 ただ、今日はまた文が長いし、最後まで読んでいただける方がおられるかどうかが疑問(^^;;)。

 出席したのは、ウィスコンシン大学教育学大学院教授トーマス・ポプケヴィッツ(Thomas Popkewitz)氏の講演会(アメリカ教育学会主催3月15日[土]@名古屋大学教育学部)。翌日、主催したアメリカ教育学会会長の先生と私で、名古屋市内の徳川園と徳川美術館を案内した。
 この講演はもちろん英語で行われ、適宜、要約的通訳が施されるかたちで進められた。タイトルを和訳すると「コスモポリタニズム、そして教科の諸科学:子どもの育成により社会を形成する際の文化的命題」くらいになろうか*1
 ポプケヴィッツ氏(以下、頭の中でも舌がもつれそうだから^^;;>、トムと表記)は、フランスの思想史家ミシェル・フーコー(1926-1884)の理論を、教育の分析に積極的に応用してきたことで知られるアメリカの教育学者の一人だ。フーコーの理論は、現場の先生方にとっても十分おもしろいと思ってもらえる内容を含んでいるので、今後このブログでも紹介することになるが、今回は話題が拡散するのを避けるために触れないでおく。今回紹介する彼の議論も、詳しく見れば、いかにもフーコーディアンとしての面目躍如といった印象が強い。
 さて、今回の講演は、トムの近著『コスモポリタニズムと、学校改革の時代:子どもの育成により社会を形成する際の文化的命題』に基づく議論だった*2。キーワードは、もちろん、この「コスモポリタニズム」。
 コスモポリタンって言葉は、時々耳にする。簡単に訳せば「世界市民」。国境や民族の枠にとらわれず、世界を股にかけて生きるような、あるいは、そういう思想を持つ人*3。「地球人、国際人」とも訳される。
 だから、コスモポリタニズムは「世界市民主義」と訳せる。が、このような訳語にとらわれず、その意味内容を要するに、国家や共同体の狭い枠にとらわれない、一種の普遍主義=ユニヴァーサリズムを標榜する立場のことだ。言うまでもなく、普遍性とは、どこにも存在する、どこでも成り立つという性質のことを意味する。だから、コスモポリタニズムは、世界中どこでも通用するような行動様式や思考様式の存在を前提とし、それを中心に世界を形成しようとする構えのことだと言えよう。
 トムは、教育学者なので、子どもを、コスモポリタニズムに基づいて育て、コスモポリタン的な存在に仕立て上げることで、コスモポリタニズム的文化=世界文化が形成されるということ、そして、それが学校教育や日常生活において具体的に何を意味し、どのような作用を生み出すのかという諸点を検討している。
 では、このコスモポリタニズムは、教育現場とどう結びついているのだろうか。ここでは簡略化のために、次の2点に注目しておきたい。
 ひとつは、コスモポリタニズムという普遍主義に根ざして、全ての子どもにある種の教育を施そう、また全ての子どもを救おうとする「包摂」が同時に「排除」を生み出す、あるいは、全ての子どもを理想的存在に近づけるために、そのための目標として示される理想像は「希望」を人々に与えるものであると同時に「恐怖・不安」を与えるものでもあるという逆説的現象が描き出されているという点である。
 もう一つは、この第1の点と別のことではないが、学校教育に浸透しているコスモポリタニズム的な構え、それを子どもが身につけてコスモポリタンになっていくという現状分析に関してである。
 どういうことか。さらに、具体的に説明しよう。まず、第1の点、包摂=排除、希望=恐怖・不安という点について。
 アメリカでは、現ブッシュ政権のもとで「落ちこぼれ防止法」(No Child Left Behind Act、略してNCLB法と呼ばれる)が成立し、施行されてきた。この法律は「落ちこぼれがなくなるように、説明責任・柔軟性・選択制をもって、学力到達度格差を埋めるための法律」という正式名称を持つ。要するに、全ての子どもに一定の学力を身につけさせるように努力し、また、その結果をテスト結果で示すように学校に求める法律である。この法律は、全ての子どもに必ず身につけさせなければならない知識があるということを前提にしているという点で、コスモポリタニズム的志向性に合致するものと言える。
 さて、落ちこぼれをなくすという目標を聞くと、私たちは条件反射的にOK!と頷きたくなる。少なくとも反論する気には、なかなかなれない。が、現場にいればわかることだが(いなくても十分想像できるけど^_~)「全て」というのは所詮不可能である。というよりも、「全ての子ども」と誰かが言ったとたん、そこには何らかの範囲が密かに(いわば、常に既に)設定されてしまっている。たとえば、なんらかの種類の何らかの程度の障がいを持つ子どもが、そこではカウントされていないかもしれない。いずれにせよ、「全て」と言ったとたん、その「全て」に入らない子どもを生み出すことになる。
 これが「包摂」=「排除」という逆説である。全ての子どもを包摂しようとしても、その「全て」が原理的に一定の線引きを前提にせざるを得ない以上、その「全て」から排除される存在は必ず生じることになるのだ。
 このことが「希望=不安・恐怖」という逆説的図式とつながる。つまり、落ちこぼれがゼロになるという見通しは、ひとつの希望ではあるが、同時に、もし自分の子どもが落ちこぼれになったら、という不安は、希望と同様に増幅されることになる。「みんな、いいよね?」と言われて、自分だけ「よくない」時の居心地の悪さ。
 これは学力の問題だけではない。一定の規律や行動様式を善きものとして全ての子どもに身につけさせようとするときにも同様のことが生じる。安心で安全(あるいは清潔、健全)な人的環境を創出しようとすれば、その一方で、その安心・安全(清潔・健全)とは見なされない存在に対する恐怖は増し、全ての人々にとって安心・安全(清潔・健全)な社会を目指すことが、その規準に合致しない存在を排除することにつながって行くのだ。
 最近、ジョック・ヤングという社会学者が『排除型社会』(洛北出版、2007年)で、前期近代から後期近代への移行を「包摂型社会から排除型社会へ」という図式で描き、これも現代社会を理解する上で非常に参考になる力作であったが、トムの場合は、包摂と排除を一つのフィルムのポジとネガのように描いているところが興味深い。
 って、研究者として一人でおもしろがっているだけではない。これは現場でも活用可能な視点ではないかと思って紹介している。では、どういう活用の仕方のことか。少々ややこしいというより、たぶん息苦しいと感じられる話になるが、そして、こういう話はトムの講演で扱われていたわけではないが、ざっと触れておきたい。
 おそらく、包摂は排除と一体であると言われても、「ほな、どうせい言うねん!」という怒声が返ってくるだけなのかもしれない(^^;;)。たしかに、私たちは教員として、どうしても「全て」の子どもに一定の知識や技能を身につけてほしいと願うし、願うだけでなく一生懸命に努力して、そういう教員をこそ尊敬しもするものではないか。そう、その通り。だから、この願望から逃れることはできない。コスモポリタニズムというのも、たぶんそういうものなのだろう。すなわち、「全ての子どもに学力を!」という理念も、それを含むコスモポリタニズムも<不可避>なのだ。しかし、同時に、上に見たように、それは<不可能>でもある。要するに、やらざるをえないけど、できない。
 「そやから、どうせい言うねん!って言うとるやないかぁっ!!」ってなるかな?(^^;;)?。でも、そう怒らないでいただきたい。この不可避であるが、不可能であるという点を認めることで、教える側は自分の頭を冷やしたり、自分を責めすぎたりすることから部分的に解放される可能性があるからだ。
 少し考えてみると、われわれは子どもを教えているときに、自分の教えていることや教え方を、「これは、どこにいっても、誰にとっても大事/必要なことだ」という考えを(意識しているかどうかはともかくとして)抱いていることが多い。国語はたしかに国により異なるし、社会科の内容も住む地域によって学ぶ内容が異なるところはある。が、基礎学力とか基礎基本などというときには、私たちは(少なくとも先進諸国においては)どこでも、どの子どもも身につけるべきものと考えて、教えているのではないだろうか。
 だからこそ、それが身につけられない子どもがいると、その子どもに対してか、その子どもを教えている自分に対してか、あるいは、その両方に対してかはともかくも、イライラ感が募ったり、怒りがこみ上げてきたりするのであろう。不可能なことを可能にしようという不可能のために。
 しかも、変化の激しい現代社会においては、基礎学力と呼ばれるものにとどまらず、文脈に即し臨機応変にコミュニケーションを図る能力や、柔軟性・創造性に富む問題解決能力といったものも、ますますその重要さを増していると言われる。一定の規範を踏まえながら、多様な背景・資質を持つ人々に対して自己を表現し、そうした人々と協力しながら自己を実現し、新たな状況に応じてさらに新たな自己を発見・形成していく能力。流行語を使って、これら全てコミで「人間力」と呼んでいいだろうか。本田由紀(前回日記参照)の言う「ハイパー・メリトクラシー」。現場の教員は、それを「全ての子ども」が身につけられるように工夫せよと言われ、それを目指しているのだ。
 が、当然、うまく行かなくてイライラする(^^;;)。という書き方をすると、不可能なことは不可能と諦めよう、進むべき道がその方向しかないのであれば、進むのはやめよう、と言いたいのではない。<進むべき道はない、だが進まねねばならない>。できないけれども、やらざるを得ない。不可能だが、不可避。この流れを止めることは、おそらくできない。だいたい、「うちの子は、その全ての子どもに入らないと思うので、無理してもらわなくていいです。」という親はたぶんいないだろう。
 なら、トムの分析から得た示唆としてここで書いていることが何の役に立つのだろう?「なんだ、その程度のこと?」っていう反応が返ってきそうだが、言いたいのは、次のようなこと。まず、結局、自分の受け持つ子どもたちに対して、できるだけ「全て」を目指して努力する以外にないが、それがうまく行かなかったときに、頭にきて我を忘れるとか、イライラして自分が抑えられないとか、どっと落ち込んで過度の自己嫌悪とか、そういう状態を少しは軽減できるんじゃないだろうか。「それって<認識>の問題ではなくて、人間がデキテルかどうかってことじゃないの?」って言われそうだけれども、認知は感情に少なからず影響を与えるもの。
 実際、子どもに対して明らかに「キレている」先生って、時々見かける。その時、上のような逆説を理解することで、ブチギレを防げるのではないだろうか。「全て」を目指すことが不可避である以上、その全てに包摂できない存在や事態が生じたときに、叱ったり、あるいは、イライラしたりということはこれも不可避であるにしても、少々落ち着きを取り戻せないだろうか。
 要するに、努力しながら諦める、諦めているけど努力する、という矛盾した態度の勧め。元気だけれども冷めている、冷めているけれど元気にやる、でもいいかもしれない。こうかくと、美しい中庸、ちょうどいいまんなか、絶妙のバランス感覚を標榜するように聞こえるかもしれないが、そうでもない。つまり、熱が入ったり、自暴自棄になるのも不可避だから、そうなったときに踏みとどまれるようになるための認識を持てればということ。
 それは、自らが教えているときに一番扱いにくい子どもが目の前に現れたときに、そういう機会を、自分にとって扱いにくいという感覚を引き起こす基盤になっているスタイルや構え、あるいは、現状認識を振り返って、別の可能性を探るためのきっかけにできる余裕が産まれるということにもつながるように思う。たとえば、理屈や言葉が苦手でも、あるいは、表現力豊かでなくても、直観や嗅覚でよりよい・正しいものを嗅ぎ分けちゃう子どもっていないだろうか。そういう子どもって、結構教師の奥深くに感づいている場合はないだろうか。そういう子どもは、いつのまにか学校文化の中ではじかれて=排除されていることもママあるかもしれない。
 さしあたりの結論。包摂(全ての子どもの資質・能力向上を目指す教育=「みんな...しよう!」)が、排除(その「全て(みんな)」に入らない子どもを生み出すこと)に必然的につながることを知っておくこと。しかし、「包摂」以外に道はない以上、そこで必然的に生じる「排除」を抑圧せずに、その排除対象になる存在と対話すること。そして、それもまた「包摂」などだから、不可能なものとして不成功に終わることを知っておくこと。しかし、それ以外に道はないのだから…。あとは、無限に続く(^^;;)。こう書くと、おそらく閉塞感が生じよう。が、壁にぶち当たるたびに、新しいものが見えてくる楽しさはある。
 あ〜、やっぱりうまく伝わらなかったかも。ひとことで言えば「逆説」の重要性が言いたかったのだが。なんとも息苦しいと感じられた読み手の方々には、苦しいは楽しい、楽しいは苦しい、ってこともある、って、いささか苦しい説明(^^;;)。が、後で、もう少し別の言い方で示そうと思う。
 次に、上に予告した第2の点(学校教育に浸透しているコスモポリタニズム的な構え、それを子どもが身につけてコスモポリタンになっていくということ)に関して。第1の点は、包摂=排除という形式的側面だけが話題にされていて、コスモポリタニズムの具体的な内容、つまり、コスモポリタニズム的思考様式・行動様式としてどのようなことがあるのか、という点に関しては議論していないので、不十分でも簡単に触れておく必要があろう。トム自身は、上に掲げた彼の最近著の中で、いろいろな側面から検討しているが、まだ熟読できていないので、以下に例示しながら紹介する内容も、彼の講演会を聞き、著作を少し読みかじった限りで、自分なりに咀嚼したものであることをお断りしておきたい。
 たとえば、健康な食生活について、いわゆる食育が行われるときに、私たちが理想像として、また目標として一般的に抱くイメージは、トムの言うコスモポリタニズムの一例であろう。市販のポテチなど脂肪分や添加物の多いジャンクフードをできるだけ避け、栄養バランスのとれた食品を適度に摂取し、適度な運動を心がけている人々。こういうことを全ての子どもに、という「包摂」が目指されれば、当然、その反対に「排除」が生じるのは上に見たのと同じメカニズムだ。たとえば、その過程で肥満が話題になれば、肥満気味に見える者は居心地が悪い。
 と書くと、「いや、肥満のままで居心地がよくては本人のためにならない。居心地が悪いところから、自分の生活を反省・改善して、少しでも健康になってもらわないと。肥満は成人病のもとだから。」という反論が生じるだろうか。しかし、肥満は社会階層と密接に結びついているという問題もあり、あるいは、このことを含んで、その人が社会生活で蓄積するストレスと関係があるという指摘が事実であれば、個人の意識改革で済まされる問題ではない。一般に、そういう社会的文脈をほとんど真剣に検討する意志がないように見えるから、私は食育には批判的だ。
 とはいえ、ここで注意したいのは、スリムな体型と健康的な食生活のイメージを、子どもたち自身が内面化し、そのイメージとどの程度自分が合致するのか、そのイメージからどの程度自分が離れているのかという、内なる物差しによって自分を測ることになるということだ。一般に、その物差しそのものの正当性や、その物差しの背景にある社会的諸条件が批判的に捉えられることはない。つまり、「排除」される側も、コスモポリタニズム的な指標を、自らの視角に取り込んで、自らに対して(すすんでか、しぶしぶかはともかくも)否定的な評価を下すことになる。その意味では、その物差しに合う者も合わない者もすべからくコスモポリタンになって行く。「かっこいい/イケてる」イメージに大きな差はない*4。その意味で包摂は進み、同時に排除も進む。
 こうしたコスモポリタニズム的思考様式・行動様式は、むろん、健康な食生活以外にも、多く考えられる。ある種の言葉遣い、科学的思考、堂々とした発表態度、新しいものへの関心や意欲、などなど。
 「それって全部いいことじゃん。そんな否定的なニュアンスで書いて、そういうことを子どもに身につけさせてやらないでいいって言うのか?」という声が聞こえてくる(^^;;)。次の言葉を繰り返すと、またいやがられるかもしれないが、それは<不可避>。「でも、<不可能>なんでしょ?」って? はい(^^;;)、その通り。全ての子どもに、と言ったとたん、排除は始まるものだから(-_-×)。
 また、出口無しっぽい(^^;;)。が、そうでもないと言っておきたい。むろん、こうした逆説に対しては、その対応も逆説的にしか表現できないけれども。要するに、<不可能>であることを認めてしまうことこそが<可能性>を生むということだ。これをどう理論的に明快に説明することができるのかという点は今後の課題だが、具体的には次のようなことを意味する。
 まず、包摂が不可避かつ不可能であることを前提にすれば、光り輝く大いなる希望を持って教育に携わることはできないが、過度の熱意の代わりに、また、そうした希望の実現が挫かれることで生じる可能性が高い過度のイライラや怒りの代わりに、ある種の余裕が産まれる。排除される存在を見捨てるのでもなく、無理に寄り添うのでもない一定の距離感覚を作り出すことはできるように思う。次に、この余裕は、時間的見通しや教育方法に関して別の可能性を探り出す契機となる。その具体的な方法論は、個別化・個性化教育という名の下で積み重ねられてきた実践から導きだせる部分は多いにあるように思う。
 この先は、また宿題とさせていただきたい。トムの著作の内容も、興味深いと思ったところは、適宜また紹介して行きたい。次回は、おそらく「格差の再生産論入門」ということになる。


<付記>
・ トムの議論は、モダンとポストモダンの区別を取り払って、モダンの論理でポストモダンを分析しているとように思われる。ポストモダンは、モダンの徹底化と捉えれば、この分析の方向性に一定の妥当性はあるが、徹底化が生じさせる諸問題を分析できないということになりかねないのではないか。講演会でも質問したことと関係するが、フーコーの規律社会からドゥルーズの言う管理社会への変化という視点から見れば、トムの議論はフーコー的視角でのみ分析が進むので、たとえば、東浩紀(『動物化するポストモダン講談社現代新書)が指摘したような「動物化」という局面は視野に入っていないように思われる。トムが言うように、教育学を下支えするための理論的道具として長らく心理学(発達心理学など)が援用されては来たが、最近の脳科学ブームは、教育が科学的意匠を必要とするという点は両者に共通するとしても、ドゥルーズの言う管理社会的要因、東の言う動物化的要因と結びついているような気がしてならない。
・ これも、トムに質問したことだが、コスモポリタニズムが世界を覆い尽くしつつあるという分析は、グローバリズムが言われる今日、やはり一定の妥当性を持つものと言えるが、最近の政治学理論ではコミュニタリアニズム共同体主義)の隆盛が見られることを考えると、そうした普遍主義に対する対抗軸が積極的に打ち出されているという側面を否定することは難しいように思うが、トムの分析ではその点に関しては全く扱われていないように思われる。ネオリベラリズム新自由主義)への言及も著作には見られるが、ネオリベが、ナショナリズム民族主義を同時に引き起こしているという点を、包摂と排除というロジックで切れるのかは疑問だ。


*1:原題は、Cosmopolitanism and the Sciences of School Subjects: Cultural theses in the Making of Society by Making the Child

*2:原題は、Cosmopolitanism and the Age of School Reforms: Cultural theses in the Making of Society by Making the Child

*3:ちなみに、コスモスは、ギリシャ語で秩序の意。転じて、宇宙、世界の意となる

*4:むろん、一般に「かっこよくない/イケテない」路線をあえて選んで抵抗するという戦略はあり得る。