仕事で書いた小文⑤:批判的教育学から見た認知的個性


 何とも久々のブログ更新f^^;;
 ツイッターを始めるようになって、ブログを書くモチベーションが下がったこともあるが、それだけでなく、これまで知らなかった他の人のいろいろなブログを読む機会も増え、正直、自分のブログを続けるのが恥ずかしくなったということも、更新が滞った理由だ。が、こういうことを考えているときりがないので、開き直ってまたアホを曝すことにした。
 以下の小文は、松村暢隆・石川裕之・佐野亮子・小倉正義 編『ワードマップ 認知的個性─違いが活きる学びと支援』(新曜社)に所収。この「認知的個性」という概念は、執筆担当者として所与のものだったわけでが、その有効性に関しては再検討の余地があるのかもしれない。(直接関係ないが、少なくとも、表紙の写真はミスリーディングじゃなかろうか。)

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批判的教育学から見た認知的個性 個性のポリティクスへ

■平等主義的理念に基づく個性概念
 認知的個性とは、様々な認知的能力や学習スタイルの個人差を包括する概念として、同時に、教育現場で多様な認知発達のあり方を尊重し、活かしていくための子ども理解を支える認識枠組として本書で提起されている新たな用語である。そこには、子どもの認知的発達を、一般化・標準化された物差しで一元的にのみ評価するのではなく、より多元的・複合的に、いろいろな物差しを用いて理解し、その理解に基づいて、多様な個に応じた学習支援を推進しようする平等主義的理念が宿っている。
 しかし、多様な能力や発達のあり方を等しく尊重するということは、さほど容易いことではない。それどころか、私たちは、諸個人が持ついろいろな資質を、知らず知らずのうちに評価し、序列化している。要するに、私たちは普段、様々な個性を平等に扱っているわけではない。とすれば、この理念と現実の矛盾をどう解決すべきか、ということが私たちの課題になる。ここでは、それを探究する上で重要な参照項の一つとして、批判的教育学と呼ばれる、主に米国で展開されてきた研究を取り上げよう。

■批判的教育学と文化政治学(cultural politics)
 批判的教育学は、一般に「多様な形態・組み合せ・複雑さを持つ(社会的・文化的・経済的な)権力や不平等の諸関係が、教育の場でどのように顕在化し、それに対してどのような異議申し立てがなされるのかを明らかにしようとする試みである」と定義される*1。端的に言えば、それは、学校教育に関わる不平等問題の内実を批判的に分析し、その状況の打破を図るための理論構築や実践的指針の提言を目指す立場を指す。
 こうした視点からすれば、認知的個性とは、必ずしも単に心理学的概念にのみ留まるべきものではなく、社会学的・政治学的に捉え直されるべき概念となる。批判的教育学において、ある子どもが、物事をどう認識し、どのようなスタイルで学習に取り組む傾向を持つかは、その子が抱える文化的背景と密接に結びついており、階級・人種・ジェンダーその他の社会的力関係から切り離せないという意味で、文化政治学の問題なのである。批判的教育学でしばしば参照されるブルデュー*2ならば、認知的個性をハビトゥス*3(の一部)として捉え直すかもしれない。
  
■再生産論から見た認知的個性
 批判的教育学でかつて重要な位置を占めた議論として、再生産論*4がある。この再生産論においては、経済的のみならず文化的不平等の構造的再生産を通じて、社会的不平等が存続する機制が示される。私たちの社会には、より支配的ないし被支配的な文化が存在する。文化は序列化・階層化されているのだ。つまり、社会的に、より高く評価される文化的要素(たとえば、ある種の言葉使い、知識、芸術的素養など)とそうでない要素が存在し、その背景には、前者を所有する人々を相対的に多く含む階層が社会的力関係における支配階層だという文脈がある。したがって、文化的諸要素(ある種の知識・技能・趣味・態度を含む思考・行動様式、蔵書等の所有物、学歴・資格など)とその所有にも社会的格差があり、この不平等が世代間で継承されることを通して社会的不平等が存続する。要するに、学校での競争は公正・平等に繰り広げられるのではなく、どのような階層・下位集団に生まれ、属するかによって、学校での成績や学歴、将来の職業がおよそ決定してしまう蓋然性が高いということである。
 ここから見ると、各人が持つ認知的個性に階層的要因が刻印されることも、また、どの階層のどのような文化的環境の家庭に産まれるかにより、学校での学習活動に有利・不利の格差が生じることも、ともに不可避になる。が、ここで注意したいのは、次の点だ。すなわち、学校文化を背負った教員は、あるいは、階層的に有利な環境で育ってきた可能性が高い教員は、その立場にとって親和的でない認知的個性を否定的に捉え、もともと学校文化に適応しにくい認知的個性を持つ子どもに、学校での生き残りを阻むさらに大きな障害をもたらす危険性が十分にあるということである。これは意図的・意識的な所作によってではない。それは、たとえば、一定の認知的個性に、いわく言いがたい違和感を持つ、ついイライラしてしまう、といった反応を示すことによってなのである。あるいは、階層間格差に無反省な教員のある種の善意が、子どもを、そして自分自身をも追い込んでしまうということが考えられよう。

■ 批判的教育学における再生産論批判
 民衆を開放し、社会の平等化に資するものとされていた学校教育が、実際には不平等の構造的再生産に寄与している点を明らかにした再生産論は、批判的教育学において高く評価された。が、同時に、学校教育から可能性や希望という要因を奪いかねない、その閉塞的で決定論的な図式を批判的に超克する試みも現れる。
 その典型が、支配構造への「抵抗」という図式の提示である。そこでは、社会的不平等の構造に対する批判的意識を持ち、そうした権力関係の変革に与する参加的市民の育成が目指される。支配文化が社会的に力を持つのは、本質的にその文化の価値が高いからというよりも、その所有者の階層的地位と相関するものだからにすぎないと、支配文化の恣意性が宣告され、翻って、民衆文化・大衆文化の復権が図られる*5
 しかしながら、こうした支配構造の変革という戦略は、諸刃の剣になる可能性が高い。この点は、批判的教育学内部でも指摘されてきた。たしかに、その視点は、被支配的な社会的位置にいる人々にとって、社会における自らの安定したアイデンティティの確保に繋がる点で歓迎されるべき側面を備えてはいるが、社会や学校で高く評価される文化的要素とそうでない要素の関係が容易に変革されることはないので、自らの被支配的文化を肯定し、支配的文化を否定するという姿勢は、社会や学校で生き残っていく上で必要な文化へのアクセスを自ら断念することになるからである*6
 再生産論批判をめぐって批判的教育学が抱えたこうしたジレンマから導かれる問題解決の方向性は、したがって、両義的である。被支配的文化に対する支配的文化の支配効果を極力抑える努力をしながらも、どちらかといえば被支配的文化を多く身につけた子どもが、支配的文化の諸要素を効果的に吸収できるような方策を探るしかない。

■ 再生産論批判から得られる示唆
 最後に一つ重要なキーワードを軸に全体を整理しておこう。それは自尊感情(self-respect/self-esteem)という言葉である。
 再生産論批判から得られた両義的結論を参照する限り、学校で成功するために必要とされる認知的スタイルや学習スタイル、理解能力や学習技能を身につけるのが困難な子どもに対して、その子が備えている認知的個性を極力肯定的に受容することで、その子の可能性を伸ばしていこうという素朴な姿勢には懐疑的にならざるを得ない。しかし、学校文化において肯定的に評価されていた認知・学習スタイルの正当性を批判的に再考し、反対に、否定的に評価される傾向があった認知的個性に肯定面を見出し、それを擁護するカリキュラムや教育方法開発の試みは推進されてよい。学校で肯定的に評価されないある種の認知的個性を、いったん学校文化という枠組を外して見直し、肯定的に価値付けし直すことは、その子どもが奪われていたかもしれない自尊感情を再構築し、それを基盤に、その子どもが自分にとって親和性の低い文化的諸要素にアクセスしようとする可能性が拡大するという点で重要な意味を持つからである。
 自由と平等という理念を適正に実現するフェア(公正)な社会の理論構築を企図したロールズ が、雇用・教育機会や富などとともに、自尊感情を、全ての人々に適正に配分されるべき社会的基本財の一つに揚げていたことは再度想起されてよかろう*7

 

*1:これは米国批判的教育研究の第一人者アップル(M. Apple)が編んだ批判的教育研究に関する浩瀚なハンドブックによる定義である。Michael W. Apple, Wayne Au, and Luis Armando Gandin (Eds). 2009 The Routledge International Handbook of Critical Education. New York, NY: Routledge.

*2:Pierre Bourdieu (1930-2002)。フランスの社会学者。主著に『構造と実践』、『再生産』『ディスタンクシオン』など。

*3:ハビトゥス(habitus):客観的社会構造(階層や地位など)とそれに伴う社会的諸条件が身体化・内面化することによって形成され、私たちの活動や思考を生成する原理として機能する諸性向の体系。身体化された文化資本とも定義できる。

*4:批判的教育研究で参照された再生産論には、経済学者ボールズとギンタス(S. Bowles and H. Gintis)によるもの、社会学者のバーンスタイン(B. Bernstein)、ブルデュー(P. Bourdieu)、ウィリス(P. Willis)らの議論があるが、ここでは、主にブルデューの理論を下敷きにして解説する。ブルデューの著作の邦訳は藤原書店から多く出版されているが、ブルデューの再生産論のエッセンスをごく簡潔に参照したい読者には、上野千鶴子『サヨナラ学校化社会』太郎次郎社を上げておく。なお、階層再生産の具体的な姿を克明に描いたウィリスの次の著書(名邦訳)は必読。Willis, P. 1977 Learning to labor. New York: Columbia University Press.(ポール・ウィリス著 熊沢誠山田潤訳『ハマータウンの野郎ども』ちくま学芸文庫

*5:こうした議論は、批判的教育学における代表的論客の一人ジルー(H. Giroux)によって展開された。また、次を参照。Giroux, H. 1983 Theory and Resistance in Education, Bergin and Garvey Publishers. Giroux H. 1992. Border Crossing, Routledge. さらに詳しい検討は、次を参照。澤田稔「アメリカ合衆国における批判的教育研究の諸相(1):ヘンリー・ジルーの教育論に関する批判的再検討(上)(下)」『名古屋女子大学紀要(人文・社会編)』第54号、2008年、57-80頁。

*6:この点こそ、ウィリスが前掲書で明らかにした再生産論の要諦である。

*7:John Rawls(1921-2002):米国の政治哲学者。主著『正義論』は、現代リベラリズム思想の正典とも称される。Rawls, J. 1971 A Theory of Justice, MA: Harvard University Press川本隆史・福間聡・神島裕子訳『正義論』紀伊國屋書店:改訂版2010年)