仲正昌樹:現代ドイツ思想入門1@ブックファースト新宿

minor-pop2010-05-08

以下は、標記のセミナーの聴講メモ。太字部分は主な板書概略。
ドイツ語は全くできないので、標記に誤りが多々あると思われる。その他の誤りに関しても、もしお気づきの点があれば、twitterからお知らせいただけるとありがたい。

教育学をやっている自分にとって最も興味深かったのは、やはりアドルノの物象化論としての「同一化の論理」。
ついで、ハイデガー哲学(『存在と無』)のスタイル(文体)論。そこでのハイデガーの叙述のスタイルが、いわゆる厳密な哲学と異なる点、及びその意味に関する解説が非常にわかりやすかった。つまり、「本来性のJargon」という視点。

もう一つだけ加えると、ハイデガーヘルダーリン解釈の解説が興味深かった。しかし、以前、福田和也氏は、ハイデガーではヘルダーリン論が一番、と話されていた記憶があるけどなあ。

おそらく、よく分かっている人には、以下のメモだけでだいたい全て見通せるのだろうが、詳細コメントは、後日(するかも)。

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フランクフルト学派の思想的な位置づけ
・ 一般的なイメージ 新たな西欧マルクス主義の一派
・ 狭い意味のフランクフルト学派と一般的なそれとの区別

ユーロ・マルクス主義
ユーロ・コミュニズム

オルグルカーチ 歴史と階級意識(1923)疎外 物象化 イデオロギー(虚偽意識)

アントニオ・グラムシ 
ヘゲモニー論 言説的な構造の変革によって革命
サバルタン subaltern(被従属民)=「自分を語る言葉のない人」スピヴァク

この二人がユーロコミュニズムの代表。
二人はマルクス主義からはなれようとしたことはないが、戦後の文脈で伝統マルクス主義とは異なる視点を提起した人物として捉えられた。

ルカーチの方がフランクフルト学派とは縁が深い
ルカーチの場合:階級「意識」を強調
彼自身は、マルクス主義に則っていると思っていた。
最初はふつうの文芸評論家だった。むしろ、ドイツ観念論ロマン主義から出発して、マルクス主義に傾く。
意識の強調は、ソ連の幹部からすると観念論的に見えた。
労働者は、本来の状態を、つまり働きたいという意欲で働き自分のために働いているという状態を、資本家という他者のために働くようになり、生産物と労働の間に乖離。そのズレから、自分の状態に関するイデオロギー(虚偽意識)が出てくる。
ルカーチにおいては、疎外=物象化 本来の生き生きした労働ができなくなって、主体性を失ったもののようになっている状態。
疎外されて、虚偽意識から逃れるために、生産関係の変革ではく、自己認識、その状態の意識化から始める。

これは
マルクス → ヘーゲル
マルクスからヘーゲルに逆戻りしているように見えた。

ドイツの歴史的背景
共産党の革命を阻止したのは、社会民主党系。ワイマール政権での多数派。
共産党社会民主党は、ある時期までは共通する労働運動だが、第一次大戦下で決定的に分かれて、
ワイマール政権で、社民党共産党を武力鎮圧し、決定的に分裂。ハンガリーもそういうこと。
ソ連に逃げて、活動。共産党の批判を受け入れざるを得ない。
ルカーチフランクフルト学派ではない。交流はあったが。
若いときにドイツに留学。オーストリアハンガリー帝国時代。インテリはこの時代は、ドイツに留学。知識としてはドイツと通じている。アドルノやホルクハイマーとも交流があった。

グラムシ イタリア共産党(西欧最大の共産党

レーニン研究の白井:グラムシ自身は、議会制民主主義はと言っていない。本人の意図とは別に議会制民主主義のための理論と思われた。

1950-50年代 東独マルクス主義者 ソ連に対抗し、一次ルカーチを参照。

エルンスト・ブロッホ
マルクス主義
シェリング
無意識
ブロッホは1885年生まれでルカーチと同年生まれ。完全なマルクス主義者。東独の大学で教鞭。東独の改革運動に入って、西欧に逃げてくる。アドルノやホルクハイマーと交遊。
ドイツロマン主義シェリングの無意識に関する理論と神話的無意識に着眼。
マルクス主義的な芸術論:無意識なもの、芸術作品に革命のポテンシャルを見いだす。というふうに、マルクス主義と無意識の問題を結びつけた。

表現主義論争

1930年代の論争。
階級的な意識に目覚めさせるような芸術は、自然主義以外にない。しかし、ブロッホは、非合理の世界こそ革命のポテンシャルがある。それが表現主義だという考え方。

ベンヤミン
アウラ
複製芸術
ファンタスマゴリー(幻影的) 資本論の最初に少し書いてある。

ルカーチ
ブロッホ
共産党員でマルクス主義

ベンヤミンマルクス主義者ではない。

狭義のフランクフルト学派

1924 フランクフルト大学に社会研究所 1933ナチス  1950に戻る。

マルクス主義精神分析を核として、学際的研究。
が、全部がマルクス主義者ではなかった。マルクスを研究しているがマルクス主義者ではない人。
ほとんどユダヤ系で、ナチス以後、亡命(とくにアメリカで)。
戦後50年代に、1950年にフランクフルトに戻って再建。
その時の中心は、ホルクハイマーとアドルノ。だが、マルクス主義者ではない。物象化や疎外という概念を使うが、マルクス主義者ではない。ルカーチブロッホとは異なる。
共産主義を志向していないし、社会民主主義というわけでもない。批判はやるが、オルタナティブ共産主義とは社会民主主義とか言っていない。どちらかというと市民社会擁護派。

ルカーチ アドルノ

ルカーチと違って、アドルノは「意識の物象化」とはとらない。主体も客体も全て物象化していると考える。
資本主義によって物象化されているのではなく、ものをとらえるメカニズムそのものが物象化されていると捉える。
それが同一化の論理。
みかんという概念を言葉で捉えると、みかん個々それぞれの違いが見えなくなる。
カテゴリーによる認識。これとこれは同一化できるという見方は、社会の中で身につける。
これは貨幣との交換ということとつながっている。
交換価値が成立するのは、認識のレベルでの同一化が起こっているからだと捉える。資本主義の前からこういう同一化の論理は人間としている限りはあったしあり続ける。こうなると認識の革命ということにはならない。
ルカーチ:意識を変えて主体性に立ちかえるという方向にいきがち。
だが、アドルノは、人間の根本的な認識の問題と捉える。

アドルノは13歳違い。
ベンヤミンは…

教授資格と正教授とは異なる。
アドルノは、50年代にフランクフルト大学の正教授?
ホルクハイマーは戻って来てフランクフルト大学の学長になっている。
30年代は、アドルノはまだ若かった。ナチスのことなどの対応でたいへんで、左翼内部論争が深まる余地はなかったが、戦後この違いが重要になる。

アドルノとホルクハイマーは西独に戻る。共産党政権じゃない西独を選んだ。
ブロッホは東独を選んだ。
戻っていくときに西独に行くのか、東独に行くのか。選択を迫られた。
東独に行かず、西独に戻るものは、アメリカ、イギリス、フランス占領下の西独を認めることになってしまう。そちらでドイツを民主化する方向を選んだことになり、すぐに革命ということにはならない。
物象化に関する捉え方の差異が、ここで大きな違いとして現れる。

ベンヤミン
アドルノ
否定の弁証法
資本主義 消費 商品
 
ベンヤミンは、ルカーチとだいぶ違う。
資本主義における消費の問題をどう考えるか、という点をベンヤミンから
生産物とみなすのか、商品と見なすのか、
生産物:さらなる生産のために活かすもの。
商品:売れるためには、商品欲望を魅了させるもの。
後期資本主義社会 消費を中心にするモード 生産のための生産ではなく欲望を刺激するための生産にシフト。
「文化産業」という言葉は、違和感があった。文化とはベートーベンみたいなもの。精神的なもの。値段はつくとしても副次的というイメージがあった。今なら当たり前に見えることも、文化とは資本主義的なものとは異なるというイメージが一般的だった。
文化産業
映画産業 映画が文化として認められるようになる。
マルクス主義者が現実から遊離している(現実とは無関係)といっている当のものが、それこそ資本主義を支えている本質だということになる。

<休憩>
今日の前半は、通常のマルクス主義との相違を強調。
後半は、哲学史的文脈。

第一次大戦
ドイツ敗戦
実存主義(的)哲学 個人―世界
  ヤスパース
  ハイデガー
ドイツでの哲学のトレンドが大きく変化。
ドイツが敗戦。先の展望が見えない。閉塞感(こういう言葉は使いたくないが)。
それで、実存主義(こういうカテゴリーが可能かどうか不明だが)的な傾向が強まる。
ヤスパースハイデガーキルケゴールサルトルとか倫理の教科書に書いてあるのは。サルトルの分類。
実存主義の共通項:個人と世界の関わりを問いつめていく 自分が存在している意味。人間なるものの存在の意味ではなく、自分が存在する意味をダイレクトに考えること。
実は、哲学がもともとそういうものではない。認識論みたいなもの。カントの純粋理性批判。これは客観的なものに関する記述で終わる。デカルト的方法懐疑でも実存主義とは異なる。
第一次大戦前までにドイツではやっていたのは新カント学派。

新カント学派
価値の哲学

自然科学の基礎論や倫理学に応用しようとした。
マールブクル学派(自然科学)とフライブルク・西南学派(価値の哲学)というのが教科書的説明。
年頃からカントの復活
価値とは何かを客観的にカントに基づいて議論したのが、価値の哲学。

このあとヤスパースハイデガーが実存的な…
ヤスパース キリスト教神学から しかし、ハイデガーはそっちの方向へは行かず

ハイデガー 『存在と時間
現存在―存在
DaSeiin
世界内存在
In-der-Weld-Sein

現存在 Dasein(そこにあること)
ふだんは、seinとあまり区別されていない。あること、って感じ。
Daというのはいまここ。ふつうに言うと私。ここで自我という言葉を使わないのがみそ。いまここにあるという意識を持っているというところから始まる。いまここにあるというのはどういうことだろう?という。日常語を概念化しないで、日常的なことを問いつめていく。
世界の認識というと世界の外にいるように見えるが、それは無理。その世界の中にいるということを意識する。これが世界内存在。世界の中に投げ込まれている。
被投存在。
気がついたらこの世界にいる。では、何が投げ込んだのか。ここに投げ込まれたかのようにあるが、しかし、ここにいるとしか言えないしかたである。
ヘーゲルや新カント学派のような概念規定や公理から入るのとはだいぶ違う。いまここにいるだろう、そこにいるだろう、投げ込まれているようにあるだろう、とそこを考えようというような始まり方。
概念規定を厳密に定義しないで持ち込んでくる。日常用語を哲学の中に持ち込んでくる。九鬼周造 いきの構造 のい企投か。
ハイデガーの叙述の仕方は、ふつうのドイツ人で言葉のひねりが分かる人ならわかるようになっているとも言える。

das Gevorfen Sein
werfenの過去分詞geworfen
entoworfen
Entworf 企投(ふつう設計図とか構想という意味=アイデアを投げるようなイメージ?)投げて引き離す、と設計になる。
遠くに投げ込まれている。現存在として投げ込まれている。それが現存在。
自分には何か使命があるということになる。
自分の存在の意味が、使命として思いたい傾向がある。
そのもとのentworf、どういうふうに企投されているかを考える。

Sich-entschlieBen determine oneself
Entschlossen
過去分詞 完了と受動
決意=何かに向かわされている。決意へ向かわされていると過去分詞では解釈できることはドイツ語では可能。閉じているのが開かれて、何かに向けられているというように。
決意とは自分が決意するようにおかれている。すでに決意させられているのだ。Entoworfさせられているから。自分がentschlossenされていることが、自分を突き詰めていくと分かるはずだという論旨。
ドイツ語の言葉遊びなのだが、決意するようにすでに企投させられている。何かに向かって企投させられていることをつきつめていくこと、わざわざ決意するのではなく、決意の方向にすでに投げ込まれているるのですよ、それを存在との関係で考えていくことが現存在分析。
これは過去分詞を使った言葉遊び的な議論。

1934年 ヘルダーリン講義
祖国―存在

企投というだけだったのが、
ヘルダーリンが祖国的展開。詩の中に祖国がいっぱい出てくる。祖国を賛美しているかどうかわからないが。言語=ドイツ語 ドイツ語で問いを発していることが、自分の使命を探究していること。祖国との関わりぬきに語れないという方向。
ナチス党員。
フライブルク大学「自己主張」講演
戦後公職追放されたが、その後復活してくる。
その契機がヒューマニズム書簡。

戦後 ハイデガー復活
ヒューマニズム書簡
サルトル 実存主義ヒューマニズムか?

使命 祖国 となるとドイツ民族復興のようになってしまう。
ハイデガーは、ふつうのヒューマニズムと異なって、祖国となると、ニヒリズムになる可能性があるのに、サルトルは、ハイデガーヒューマニズムに入ると論じた。
フランスの紹介者 ボッホレがそのサルトルの論をハイデガーに紹介した。それに対する回答がヒューマニズム書簡。人間が大事というのではなく、人間存在を問うというのが自分のスタンスだということを述べて、サルトルを婉曲的に批判。
しかし、このヒューマニズム書簡で言論活動復活。
若い哲学者は、ハイデガーを批判。ナチスに利用されやすい論であったのは間違いない。存在ということ自体が全体主義的。決意させられているというのもそういう方向に。
そのときにフランクフルト学派が中心になった。


アドルノ 1963 Parataxis=並列技法 
Syntax(統語) Syntheisi(統合)
(文学ノート みすず)

主文と複文の関係が不明で、ひとつの意味に総合化していかない構造を持っているのがヘルダーリン。意味が一つにまとまっていくようにならないようにしているのがヘルダーリン。そのヘルダーリンを、一つの意味に結晶化していくような読み方をしている。それも祖国に。

ヘルダーリンは詩集は生前に出していない。

アドルノによると、祖国とか存在という意味の統一がとれなくなっているのがヘルダーリン。狂気の淵に陥りそうな。
存在と自分の間に深淵を作っているのがヘルダーリン。それを一つの意味に収斂させているのがハイデガーと批判。

1964 本来性の隠語
Jargon
Jargon der Eigentlichkeit

本来性というと そもそもという意味。
ハイデガーは、そもそもという言葉を挿入して、本来性を示すが、それが本来と言えるのか。日常言葉に深い意味があると思わせる強引な読ませ方をするような書き方をしているだけ。それこそドイツのイデオロギーだ。とアドルノが批判。カント、ヘーゲル以来ドイツ哲学は全部そうだと批判。妙な深みを設定して、そこに人間を取り込んでしまう。それがナチスに持っていってしまう。言葉としてそうなっているだけで、そこに実は深い意味はない。ありがとうと言うときに、「ありがたい(有り難い)」を通して、超越的な意味に向き合っているとかむ無茶な言い方と変わらなくなる。

denken
danken
感謝

そういうふうに深みを示しているのは、言葉遊び。
蓮見の表層批評宣言も同じ。近代の文学哲学として、すぐに深い次元と言うのを設定してしまう、という批判。

シュタイナー(スイス)岩波現代文庫 ハイデガー
ハイデガーの「話」を聞くとわかった。方言で聞くと分かった気がした。ドイツ語として納得した。その意味では、ドイツ語としてはわかりやすい。がアドルノはわかりにくい。それは、言葉の魔術には引っかからないぞ、人もひっかけないぞというアドルノの態度表明でもある。

アメリカに残ったメンバーとして
フロム
マルクーゼ エロスと文明の関係について論じた

自由からの逃走は読みやすい。
精神分析を分かっている人からするとマルクーゼもわかりやすい。
こういうのはアメリカで影響力大。

ドイツに戻る人はドイツとの対決を選んだ。

Qなぜ開かれているということと結びつくのか?
いるというと自分だけというイメージがあるが、投げられたといった時点で、他の人がいる。どっかいくように結びつけられている。そのように決意しているように向かわさせられているという、点で、他に向かって開かれているという意味。

Q Daseinとseinの違い。
形而上学入門から、祖国的なdaseinと存在そのものを結びつけるような書き方に変わってきている。存在と時間の中では、区別されていたが。

現代ドイツ思想講義

現代ドイツ思想講義