マイケル・W・アップルへのインタビュー(1999年)

 以下は、もう15年以上も前になるが、アメリカ合衆国の教育学者マイケル・W・アップルがカリキュラム学会の招待で来日した折に、彼に対して行われたインタビューの記事だ。雑誌『解放教育』に掲載された。
 情報としてはかなり古いけれども、web上では読めないし、他方で「多様な教育機会確保法」の制定が目指されている今の日本では、まだ参照されてよい視点が示されていると思うので、アップすることにした。ただし、アップに際して、一部訳語を変えたところもある。

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マイケル・W. アップル;長尾彰夫、澤田稔訳
「緊急インタビュー マイケル・W・アップルに聞く―チャーター・スクール、ホーム・スクールをどうとらえるか」
『解放教育』29(10) p.118-131 1999
http://ci.nii.ac.jp/naid/40000385502

マイケル・アップル氏へのインタビュー 
聞き手:長尾彰夫(通訳・訳 澤田稔)

長尾:(旧知の間柄のアップル氏に)はじめまして.(笑)

アップル:お会いできて光栄です.(笑)

長尾:アップルさん,今回で日本は何度目になりますか?

アップル:3回目になります.

長尾:さて,日本の教育状況に関してアップルさんはどのような情報をお持ちでしょうか?また,その情報源はどのようなものなのでしょうか?

アップル:ご存じのように,幸運にも私には,博士課程の学生として私の指導のもとで学んだ,あるいは学んでいる日本人の教育研究者を数名知っています.というわけで,常日頃から日本の教育状況に関していろいろと教えてくれるように頼んでいます.これが情報源の一つでしょう.また,同時に,私自身,教育における国家の役割やそこにおける文化的闘争に関心を持ってきたわけで,その点を共に議論する上で,日本の様々な教育学者の方々と交流する機会が途絶えたことはありません.これも一つの情報源だと言えるでしょう.その中で,規制緩和の問題について,あるいは規制緩和とは現実にどのような事態を指しているのかといった問題について話し合ってきました.
 私の博士課程の学生には,家永教科書問題に関する論文まとめている女性がいます.彼女から得られる情報は私が,日本において公式的知識をめぐる歴史的闘争がどのようなものであったかを理解する上で,また文部省行政の非常に保守的な方向性を知る上で,大きな助けとなっています.私は,これまでずっとカリキュラム改革の政治性=政治学という点に関心を持ってきましたので,総合学習やカリキュラム統合の問題も私には非常に重要です.実際,長尾さんやその他の日本の教育学者の方たちとの対話を通して,総合学習やカリキュラム統合について,あるいは,学校改革の可能性やそれに対する批判的視点を明確化する作業を続けてきました.このように,様々な文献を読んだり,日本人の教育学者との交流や,私の教えている大学院の日本人留学生らから,日本の教育状況に関して様々な情報を得てきました.

長尾:なるほど.さて,今日は,日本の教育状況に関しても明るいアップルさんに,現在日本で進められている教育改革上の諸問題と密接なつながりを持っていて,かつ合衆国でも教育改革上の焦点となっている問題についてお尋ねしたいと考えています.
 まず,規制緩和あるいは学校教育の私事化という論点が日本でも話題になっていますが,こうした公共性よりも,私事的な領域を重視する方向性は,しかし,日本に限ったことではなく,アメリカやイギリス等他の先進諸国でも広く見られる事態であるように思われます.多くの国で講演されているアップルさんからご覧になって,こうした認識についてどう思われるでしょうか.

アップル:たしかに,そうした状況は世界の多くの国で見られます.公のレベルに対して攻撃を加え,「公」のものは何であれ悪であり,「私」のものは何であれ善であるという議論が,経済・政治体制その他に関して,多くの国々に共通してわき起こっています.もっとも,それと同時に,こうした議論が現れてきている背景は,国によって異なっているという点も考慮しておくべきでしょう.事態は単純ではありません.もう少し具体的にお話しましょう.
 合衆国においては,中央政府の力が相対的に弱く,他の国に比べてより古くから地方分権的な体制が確立され,それが重んじられてきたという背景があります.ですから,日本と違って,いわば正式なナショナル・カリキュラム〔全米規模のカリキュラム規準〕は存在しません.したがって,教育の私事化=市場化という事態も,日本とは部分的に異なる理由から行われることになります.日本では,中央政府の力が伝統的に強く,教育に関しても(たとえば,カリキュラムの決定や教科書作成について)文部省を中心とする強力な中央主権的体制が続けられてきました.
 もちろん,私事化=市場化の進展から生じる帰結には類似点があります.つまり,それを促進しようとする理由や動機は国により多少の違いがあるにしても,背景にはやはりグローバルに見られる経済危機あるいはそういう危機感とそれに伴うイデオロギー的変化いう状況があります.そこには特定の社会集団が及ぼしている影響力の大きさを見逃すことはできません.この社会集団は,様々な国に共通に現れてきているもので,多くの国でますます多くの支持を勝ち取りつつあります.しかしながら,同時に先に述べたような合衆国と日本との間で政治的文脈の違いも存在するわけで,全てを経済的要因に還元して理解することはできません.私事化=市場化のグローバルなレベルでの進展という現状の認識には,こうした複雑な諸関係に関する理解が必要です.
 最後に,次の点を指摘しておきましょう.こうした教育の私事化=市場化政策が,すでに存在する持てるものと持たざるものの格差を是正するどころか,拡大しているということを示す実証的研究が現れてきており,そのような方向の教育改革が望ましいものであるとはとても言い切れないのが実状なのです.

長尾:さて,そうした教育の私事化=市場化政策の一つとしてチャーター・スクールに対する関心が,日本でも高まって来つつあります.そこで,この学校制度に関する合衆国での現状と,それに対するアップルさんの評価をお聞きしたいのですが.

アップル:合衆国におけるチャーター・スクールを理解するには,これ以外の学校改革に関して知っておく必要があります.チャーター・スクールは,より徹底した私事化政策であるヴァウチャー・プランと,メインストリーム式の公立学校制度ととの間に現れた妥協案なのです.
 実は最近,私が編集した著作に収めた実証的研究によって,チャーター・スクールに関する全く由々しき事態が明らかになりました.チャーター・スクールは,理屈の点では,経済的・文化的に被抑圧的な立場に置かれている人々に----たとえばアフリカ系アメリカ人のような人々に----より大きな選択の自由を与えることに寄与すると考えられます.実際,いくつかの都市で,アフリカ系アメリカ人のための学校が設立されたりもしています.その点で,一部の地域では,チャーター・スクール制度により,学校文化を変革する上で一般の教員やコミュニティーの人々がより大きな力を手にすることができるようになっています.しかし,それは非常に限られた範囲の人々にしか当てはまりません.チャーター・スクールをめぐる状況として,より頻繁に私たちが眼にするのは,次のような現実なのです.
 それは,一つには,俗に「白人の逃避(White Flight)」と呼ばれる事態を指します.つまり,裕福な白人が,アフリカ系アメリカ人やラテン系アメリカ人が一緒に学んでいる公立学校から,自分たちの子どもを連れ出して,その利益を守ろうとしているわけです.つまり,チャーター・スクールは裕福な人々が公立学校に自分の子どもを通わせないですむようにするための手段として利用されているわけです.このことがもたらしている結果は,憂慮に耐えないものです.
 また,チャーター・スクールはある点で法に反して利用されています.つまり,特定の宗教を中心とする,しかも保守主義的な学校を設立する予算を取り付けるために,この制度が利用されています.アメリカ合衆国では,公的資金を特定の宗教のために獲得することは法的に認められてはいません.ところが,特定の宗教的原理主義者(キリスト教原理主義者)たちは,自らの宗教的信仰に基づくカリキュラムの宗教的偏向性を隠しながら,自らのチャーター・スクールの認可の申請を行い,いわば違法に公的資金を獲得しているのです.
 したがって,私自身は,チャーター・スクール制度の導入にはきわめて慎重でなければならないという立場を取ります.今述べたように,この制度は,ほとんどの場合,裕福な人々や宗教的保守主義者がメインストリーム式の公立学校から逃れるために利用されているというのが現状である以上,チャーター・スクール制の是非をどちらかと問われるなら,あえて否と答えてもいいくらいです.もっとも,事態はより複雑ですが.

長尾:では,ホームスクールに関してはどうでしょう.

アップル:「改革」と呼ばれる事態が急速に進む中で,合衆国ではホームスクール型の教育を受けている子どもの数は少なくともすでに100万人以上,おそらく300万人程度にのぼると思われます.統計的数字を見る限り,相当の速さでホームスクールは拡大しています.
 しかし,そのほとんど,つまり80〜90%は宗教的原理主義者の家庭であるというのが現状なのです.彼らによれば,学校とは「悪魔の道具」なのです.彼らは,公立学校に異を唱えます.なぜなら「神がいない」からだというわけです.教師たちは,危険な文化の方へ子どもたちを導いていると言うのです.この種の人々は,いわゆるキリスト教根本主義者たちです.
 ホーム・スクールは非常に複雑な問題です.まず何よりも,自分の子どもの教育に真剣に取り組んでいる保護者は賞賛されこそすれ,非難されるべきではないでしょう.私自身はホーム・スクールに非常に批判的ですが,子供の世話や教育に懸命に取り組んでいるお父さんお母さん方のことは賞賛したいと思います.しかし,やはり他方で,私の目から見れば,ホーム・スクールは,私たちが俗に「繭ごもり」と呼ぶようなものになってしまっています.つまり,自分自身を防護幕の中に包み込んでしまって,現実の世界との関わりを遮断することになるからです.同時に,ホーム・スクール制度は,チャーター・スクールと同じように利用されてもいます.つまり,「他者」の文化から,黒人の文化から,多様性の文化から逃れるために利用されているのであり,全面的にではないにしても,少なくとも部分的には人種隔離的な動きとして,あるいは宗教的隔離を目指す動きとして見なさざるを得ないものなのです.その点で,非常に危険な動向だと私は思います.この動向は,また,居住地区の分離という事態とも類似しています.つまり,コミュニティーを閉鎖的な地域社会として組織し,そこに属さないあらゆる人々を排斥するという,たいへん差別主義的な方向性です.
 したがって,チャーター・スクールに関して私が述べたことと同様のことを,ホーム・スクールに関しても指摘しなければなりません.それは非常に興味深い試みではありますが,同時に,宗教的保守主義者たちの画策が見られる危険な動向でもあるのです.

長尾:チャーター・スクールやホーム・スクールの危険性に関しては理解できました.ただ,一方で,クリントン大統領もチャーター・スクール制を政府としても支持する旨を説いているようですし,実際政府としては,21世紀の教育制度としては,そのような方向で行くのだろうと思いますが,その点に関してはいかがでしょう.

アップル:そうですね,何よりもまず,クリントンは選挙のためには何でもするでしょうし,何でも言うでしょう.何をするも言うもまず選挙のためです.理解しておいていただきたいのは,合衆国が「弱い国家」であるために,ナショナルなレベルにおける政治の多くは,レトリカルな〔言葉のうえでのことにすぎない〕ものだということです.したがって連邦政府,あるいはクリントンは,私事化一般ではなく,チャーター・スクールのような学校選択制度の一部に対して支持を表明しもするでしょう.しかし,クリントンにはそれを現実に押し進める権力は全く備わっていません.だから,たいていは言葉の上でのことにすぎないのです.

長尾:とすると,クリントンは実際にはチャーター・スクールなどを支持していないのですか?

アップル:というよりも,レトリックのレベルでは支持しているわけです.クリントン自身は,ホームスクールに関して支持表明は行っていません.従来の公立学校制度の範囲内における学校選択制度を,つまり,マグネット・スクールやチャーター・スクールなどを支持しているわけです.しかし,ホーム・スクールやチャーター・スクールといった制度を実地に施行するのは,ウィスコンシンイリノイ,カリフォルニアやニューヨークといった州レベルの法律によるのです.大半の州で,チャーター・スクールの制度が大きな支持を獲得しています.そして,全米レベルの教員組合や教員組織が,チャーター・スクールを支持するようになってきました.

長尾:しかし,それは一部の組合や組織ですね.

アップル:そうです.全てではありません.しかし,平等,人種差別に反対する正義,あるいは学校を特定の宗教的目的のために利用しないという規制を必要と認める限りで,そうした教員組織の支持表明は納得のいくものです.つまり,現在の教育制度には官僚主義的な側面があまりにも強く含まれている,と彼らは言うわけです.もっと民主的な学校を作りたいと言うのです.もっと,学校・コミュニティーレベルの運営を,自らの予算配分で行いたいと.だからこそ,チャーター・スクールを設立したというわけです.しかし,同時に彼らは,法律によって学校を宗教目的に用いるべきではないと言う規制が敷かれる場合にのみ,また教員の年功権や給与に影響を与えない限りで,チャーター・スクールを支持すると表明しているのです.
 しかし,一部の州では,現在さらに,チャーター・スクールだけでなく,ヴァウチャー制へと移行しています.実際,つい先週のことですが,フロリダ州では,州全土で,親が州から教育ヴァウチャー〔義務教育費用のための金券〕を受け取り,それを〔私立学校を含む〕どの学校に行くのにも用いてよいと定められました.

長尾:そうした動向や,チャーター・スクールあるいはホーム・スクールというのは,教育の私事化が進む中で当然出てくる自然な流れだとお考えですか? 日本では,そのような動向は多少の驚きをもって受けとめられるでしょうが.アップルさんは驚くに値しないと思われているのですか?

アップル:というよりも,私はチャーター・スクールの危険性を指摘したいと思います.チャーター・スクールは,先ほどある種の「妥協案」と述べましたように,その他の提案の間の中間的な位置にあるわけです.合衆国において最も大きな圧力や問題を伴って迫ってきているのは,チャーター・スクールよりもむしろヴァウチャー制度の方だと言えるでしょう.この制度においては,義務教育段階の子供を持つ全ての親が州からヴァウチャーを受け取り,それを特定の宗教に関わる学校に行くのにも,あるいは民間企業が経営する学校や,非常に人種差別的な思想を持つ白人専用学校へ行くのにも,どこに行くのにも等しく使えることになります.ですから,チャーター・スクールは,こうした方向性と,メインストリーム式の公立学校とのちょうどいわば中間に位置するものなのです.
 しかし,チャーター・スクールが危険だというのは,それが単にこのような中間的位置にとどまるものではなく,ヴァウチャー制など,教育の私事化におけるさらに次の段階へ進むための最初の一歩になっているという点です.つまり,チャーター・スクールの支持者の多くが,覆面をしたヴァウチャー制支持者である可能性が高いわけです.つまり,彼らはチャーター・スクールに対する支持を表明しながら,実は本当に望んでいるのは,より徹底した教育の私事化であり,いったんチャーター・スクールが実現すると,さらに次の段階へ進もうとするのです.したがって,チャーター・スクールを推進しようとする動向の背後には,それとは別の非常に保守主義的で同時に強力な市場化への圧力が隠れているわけです.私がチャーター・スクールに大きな懸念を抱いているのはそのためです.

長尾:ミネソタ州では,たしか,マイノリティを何パーセントか含むようにしない限りチャーター・スクールの認可が下りないように定められているというような話を聞いたことがあるのですが,これもやはりまやかしにすぎないのでしょうか.より拡大した市場化へのワンステップにすぎないとお考えですか?

アップル:ミネソタに限らず,ほとんどの州で,チャーター・スクールの認可には,生徒数の人種的バランスに関して何らかの規定が設けられています.しかし,それは必ずしも強制力のあるものではありません.たしかに,ミネアポリスやその他の都市には,アメリカ原住民(インディアン)のためのチャーター・スクールが設立されたりしています.ここは非常に興味深い学校です.ところが,こうした学校はチャーター・スクールの中でごく少数にすぎません.そういう学校が一つあるとすると,残りの百は,生徒全てが白人で,非常に保守主義的な伝統的カリキュラムに回帰し,文化的にも一元的で,その他の多様な文化については教えない,教育の質の堕落が生じているような学校なのです.ですから,次のように言えるでしょう.チャーター・スクール制度は,非常に少数の興味深い,進歩主義的で,批判的社会意識に根ざした学校の設立につながると同時に,他方では,それとは全く逆の学校が数多く出現することになるわけです.

長尾:チャーター・スクール制度などに対する教員組合の動向に関してもう少し伺いたいと思います.教員組合は一般的にチャーター・スクールに反対していると聞いたのですが.たとえば,教師の専門職制が失われる等の理由で.

アップル:合衆国では,先ほども申し上げたように,教員組合の動向を全米レベルで一括して述べることはできません.場所によって,組織によって大きな違いがあるからです.非常に進歩的な教員組合や組織があるかと思えば,その反対に相当保守的な団体もありますので.
 しかし,たしかに多くの地域で,教員組合はチャーター・スクールに反対しています.それはそうした教員が,チャーター・スクールをヴァウチャー制への一歩と見なしているからです.そして教員たちは,多くの私立学校が組合員の教師をくびにしたり,組合員の教師の給与をカットしたりしてきた歴史的経緯があることを知っているからです.あるいは,エジソン・プロジェクトを導入してきたことなどを知っているからです.これは,ある教育関連企業にカリキュラム作成を依頼したりするもので,いわばマクドナルド的に学校をチェーン化するようなものです.また,そうした私立学校は,少数の教員に高収入を払い,大半の教員は安い給料で雇うという方式を採っていることが多いことを,組合員の多くの教員たちが知っているからです.
 他方で,チャーター・スクールを支持している教員組合も存在します.それは一つには,日本でもそうだと思いますが,官僚制の縛りが非常に強いために,教員が創意工夫をこらした教育を行うことが困難な状況が見られるからです.つまり,一部の教員たちは,官僚主義的統制が弱まる限りで,チャーター・スクールを支持するわけです.
 ですから,チャーター・スクールを是か非か決めつけることは,実はかなり難しいのです.ただ,おそらく大半の教員は,チャーター・スクールに対して少々疑念を抱いていると考えられます.それは危険性を認知しているということであり,理解できることです.

長尾:ホームスクールの数はこれからまだまだ増えると言われていますが,それにかんしてはどうでしょうか?

アップル:先ほども申し上げたように,数の上では大変な勢いで増えています.ただ,ホームスクールを一枚岩的に論じることはできませんが.たとえば,ラディカルな社会思想の持ち主は,学校があまりにも保守的であるからという理由で,学校から子どもを引き上げ家で教育を施そうとするわけです.ただし,これはきわめて少数派です.他方,8割から9割のホーム・スクーリングは,キリスト教根本主義者たちによるものです.彼らはホーム・スクール制度を推進しようと躍起です.教材やコンピューターを揃えるための公的資金をさらに手に入れようとしています.
 繰り返しますが,この種の動きは非常に危険なものです.一つにはそれが,「白人の逃避」という人種統合に反する差別的な傾向を強く帯びているからです.しかし,もう一つより大きな問題があります.
 現在合衆国では,人種的な棲み分けがますます悪化する傾向にあります.統計予測によれば,西暦二千年には,就学人口の半数以上が,アフリカ系・ラテン系・アジア系などの有色人種になります.ところが,このように人種的多様性が増していく中で,ホーム・スクールで教育を受ける子どもたちは,こうした「他者」の文化から逃避し,狭い一つの文化状況に閉じこもることになります.反対にそうした文化的多様性の度合いが高まれば,私たちはさらに相互交流しなければいけません.しかし,ホーム・スクールやチャーター・スクールの一部を含む特定の学校の人々は,こうした交流の機会がほとんど無くなるわけですが,そのとき民主主義とはどんなものになるでしょう.学校は,公共的領域が現実に構築される最後の民主主義的制度機関の一つなのです.にもかかわらず,一部の人々は「繭ごもり」することで,私的な領域に閉じこもり,きわめて利己的な状況を作り上げるのです.

長尾:教育の私事化=市場化がもたらすそうした危険性について,合衆国の一般の人々はどの程度認識しているのでしょうか?

アップル:そこには興味深い点があります.合衆国の主な右派勢力,すなわち新自由主義者新保守主義者,権威主義的ポピュリスト(宗教的原理主義)らは次のように言うわけです.つまり,学校は全く失敗である,と.そして,世論調査などを見ると,一般の人々の多くが,学校は一般的にその役割を十分に果たしておらず,チャーター・スクールやヴァウチャー制を導入すべきだと答えています.ところが,その次に,あなたの子どもが通っている現在の学校についてはどうですか,と尋ねると,多くの親がかなり高い評価を下すものなのです.よって,右派勢力は世論をうまく操作してきたわけです.
 右派はこう言います.あなたのコミュニティーを見てみなさい.仕事はなく,またあっても家族を養うには低すぎる賃金の職でしかありません.こうした状況で公立の学校は何の役にも立っていません,と.そして,そういう困難な状況ではこれがある程度説得力を持つのです.資本でも,人種差別主義でもなく,学校の失敗と見なされるのです.
 たしかに,学校一般に関して問われると,多くの人々が,官僚的にすぎるとか,教員が十分コミュニティーに耳を傾けないなどの問題があると指摘しますが,これはあまりに漠然としています.もっと具体的に自分の子どもの学校について尋ねられると,概ね肯定的な評価を与えており,その学校を変わりたがってはいないものなのです.
 したがって,大半の人々がチャーター・スクールやホーム・スクールを支持しているというのは難しいと思います.人々は抽象的に学校にはどこか問題があると言っているように思います.大半の人々は自分の子どもが通っている学校に満足しており,チャーター・スクールやホーム・スクールの問題をそれほど気にかけていないと考えています.

長尾:さて,チャーター・スクールやホーム・スクールの危険性を克服していくときには,何が一番重要なキーになってくるでしょうか.それは,いわゆる学校の公共性を再び問い直すと言うことなのでしょうか.コミュニティーの再構築ということなのでしょうか.または,教師の専門職性を取り戻すといった問題にあるのでしょうか.

アップル:まず最初に,ご指摘の通り,公共性の問題は非常に重要だと思います.マス・メディアは,学校は失敗であるという言説で埋め尽くされています.大半の学校が相対的に成功しているということはほとんど聞かれません.しかし,一方で学校が成功を収めているのは一部の人々に対してであって,学校に対する批判が生じるのも十分肯けるところがあります.
 私は,アントニオ・グラムシに強い影響を受けていますが,同意していただけるかどうかともかくとして重要な指摘をしています.彼の思想を考慮に入れると,学校は自分たちの文化に,自分たちのコミュニティーに耳を傾けてはいないという批判を無視することはできません.実際,社会的に被抑圧的な立場に置かれている人々によるそのような批判は当を得たものです.その点で,そうした人々が設立するチャーター・スクールを私は積極的に支持します.
 さて,問題が単純に,教師の専門職性の復権にあるとは言いたくありません.教師の専門職性とは場合によっては非常にエリート主義的なところがありますね.「私はプロである.よって自律性を与えられ,尊重されるべきだ.私の決断は私が行う.だから端からとやかく言わないでもらいたい.私は専門家なのだから」というわけです.これは,コミュニティーに耳を傾ける必要はない,とか批判を考慮する必要はないという態度につながる危険性があります.
 ですから,専門職性といっても,教師間の共同作業やコミュニティーとの協力といった点を含んだ新たな専門職性の定義が必要になるでしょう.日本でも,総合学習やカリキュラム統合が話題になっていますが,カリキュラム作成における学校内に限った問題としてそれが議論されているのであれば危険です.それは,教員間や学校間,さらにコミュニティーとの関係において捉えられなければならない問題だと思います.
 その他にも必要な対策があるでしょう.一つは----これは公共性という点とも再び関係する問題ですが----教育政策に関する国際的な比較研究が必要になるでしょう.長尾さんもそれに参加されているように.つまり,「改革」というレトリックの奥底で,現実にはいったい何が起こっているのかを明らかにすることです.アメリカ合衆国で,非常に高い聴取率を誇り,約2000万人が聞いているラジオ・トークショー番組のホストは,公立学校は全てだめだと言い放っています.私たちには,批判的な教育政策研究によって,現実に何が起こっているのかを明確にし,それを公に知らせるための別のメディアが必要です.つまり,教育の私事化によって何が進行しているのかを広く認知せしめなければなりません.
 それとともに必要なのは,成功している公立学校を公の眼に見えるようにすることです.私たちは,そのような仕事を季刊新聞『学校再考』を通して行っています.それは,教員が,他の教員とあるいはコミュニティーとどのように協力して学校づくり,カリキュラムづくりを成功させたかを知らせ合い,議論し合うフォーラムとなっています.また,進歩的あるいは批判的教育家が関わってきた政治的・文化的闘争についても広く知らせることが必要です.こうした作業の成果であり,日本語にも訳された『デモクラティック・スクール』〔アドバンテージサーバー刊〕は全米で30万部が刷られました.ここで,私たちは,学校の改革に関して,右派勢力が言うような方向性に加担する必要はないということを,また,保守的な圧力が強まる困難な状況下でも,民主的・批判的・解放的な教育にめざましい成功を収めている公立学校が存在していることを明らかにすることができました.
 こうしたことを全体として行っていく必要があります.また,批判的教育家も孤高の位置にとどまることなく,確固とした協力関係を築いて作業を進めていかなければなりません.

長尾:ここで話題を日本の問題に向けたいと思います.ご存じのように,日本では現在総合学習に関する議論が盛んですが,これについてはどのような見解をお持ちでしょうか?

アップル:すでにご承知の通り,私は合衆国において統合カリキュラムに関する試みを積極的に支持してきました.しかし,私の立場は両義的です.そこには肯定的も,否定的も存在すると考えます.まず,第1に,この世界の問題の理解に不可欠なのは,総合的な理解です.たとえば,環境問題や差別問題をについて考えようとすれば,多元的な視点が必要となります.よって,非常に抽象的なレベルでは,統合カリキュラムあるいは総合学習の試みを支持したいと思います.しかしながら,他方で,ディシプリン〔各学問領域に基づく知識〕というものが持つ重要性も指摘しておかなければなりません.それは,労働者階級の人々や社会的に被抑圧的な立場に置かれている人々が,そうした学問的知識を理解し吸収する機会を奪うべきではありません.総合学習やカリキュラム統合を,そうした人々が教科のテストで満足な成功を収められないという事態の言い訳にしてはなりません.そうした人々は学校以外の場所で学問的知識に,つまり「高級な知識」に触れる機会をほとんど持っていません.合衆国では,統合カリキュラムの試みが主に都市部〔貧しい人々や有色人種の割合が郊外に比べて高い〕で進んでいるだけに,この点には特に慎重であるべきです.
 日本での試みについても支持を表明したいと考えると同時に,批判的に捉えてもいます.これは最近考えついたことなので,もっとよく考えなければならないことかもしれませんが,日本では統合とか総合という概念の定義にある種の限界があるように思います.つまり,それは知識領域間の統合を意味するにとどまっていることが多いように見えるのです.しかし,まず,これが,現実のコミュニティーおける政治的・文化的問題との間に密接な関連を持つものでなければ,また社会に対する批判的な視点との結びつきを持たないときに,果たしてどれほどの意味があるのか疑問です.さらに,これと関係することですが,統合とは,知識領域間のそればかりではなく,学校とコミュニティーとの統合をも意味するものであるべきでしょう.しかし,現時点で私の知る限り,そのような試みが十分広く行われているようには思われないのです.
 つまり,統合ということが単に教育方法上の技術論的な問題として語れれる節があります.これは統合とか総合という言葉に関する,非常に狭い考え方です.それはもう一つの教授法であるだけで,あるいはその動機となっているだけで,批判的政治的作業ではありません.という点で,私には日本の試みに懸念を持っています.しかし,またこうした現在の試みを,より根本的なカリキュラム改革へのステップとして期待してもいます.つまり,カリキュラム決定上の闘争にコミュニティーの人々が参加し,より批判的な社会的視点が反映された教育方法を伴うようなカリキュラムへの一歩であるとすれば,それは価値のある試みとして評価したいと思っています.

長尾:最後に,日本で教育の私事化=市場化や保守的動向に抗して闘っている批判的教育家に何かメッセージをいただけませんでしょうか.

アップル:わかりました.そうした動向は国際的なものであるだけに,それに抗する闘争もまた国際的なものであるべきだと考えています.したがって,合衆国の批判的教育家や,社会正義のために闘っている教育家たちは,日本の批判的教育家の人々による社会的闘争を応援して行くべきなのです.
 そこで私が送るメッセージは次のようなものです.私たち両国の批判的教育家にとって,つまり,みなさんにとっても私たちにとっても,闘いは続きます.よって,問題の解決は多くの点で国際的なものとなるはずです.それだけに,互いに互いの闘争を支持し合うことを,闘争の中心に常に位置づけてるようにしたいものです.そのために私にできることは何でもしていきたいと思います.ですから,日本の教員組合とも,またお隣の韓国で闘っている批判的な教育家とも団結していきたいと考えています.

長尾:非常に短く過密スケジュールの日本滞在の合間を縫って,長い時間にわたって,多くの質問に丁寧にお答えいただき,また心強いメッセージをどうもありがとうございました.また,お会いできるのを楽しみにしています.