教育の政治学(2):「公式知」の権力

minor-pop2008-06-29

 学会発表の準備でマイケル・アップルの著作を読んでいたところ、ふと以前書いた書評をアップしておいてもいいなと思いついた次第。
 以下は、ある学会誌に載った書評のドラフトで、掲載されたものよりもやや長い、元の原稿だ。米国の批判的教育研究という領域における第一人者のアップル(Michael W. Apple)による著作の翻訳書に関して、そこそこ丁寧に書いたつもり。
 おそらく一部の研究者以外には、全く興味をひかないものだろう(^^;;)。が、今の日本の教育にも影響している政治学的要因を理解するには重要だと思う。その意味では、屋上屋を重ねることになっても、この書評が日本の文脈でどういう意味を持つのかということに関する補足解説が必要になるのだろう。いずれ、このブログで扱いたい。
 原題のOfficial Knowledgeとは「公定知」あるいは「公式知」とでも訳せようか。要するに、教育の分野で、これが正式かつ正統な知識として一般に認知されている知識のこと。
 再近著Educating the 'Right' Wayの翻訳も出版されたようなので、近いうちにこの翻訳の書評も試みたいと考えている。

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マイケル W. アップル著 野崎与志子・井口博充・小暮修三・池田寛訳『オフィシャル・ノレッジ批判:保守復権の時代における民主主義教育』(東信堂、2007年4月発行、A5版、319頁、本体3800円)

 小泉政権は「20年遅れのネオリベ」と言われた。米英ではネオリベラリズムの諸政策―これはネオコンサーヴァティズムと表裏一体の関係にある―が、1980年代に展開されていたからである。日本でこうした政策から帰結する諸状況の意味について自覚的に語られだしたのは最近のことだ。本書の原著初版は1993年に上梓されたが、主たる諸章が80年代終盤に執筆されたものであることに鑑みれば、分析の背景・対象になっている時代状況も、今からほぼ20年前に遡ると言えるだけに、その翻訳出版は、ある意味で時宜を得たものと考えられる。
 同時に、アップルの業績や、米国の「批判的教育研究」に通じておられる読者は、すでに邦訳がある彼の初期著作と比べて、彼の理論的営為にある種の興味深い「転調」を本書の中に聞き取られるかもしれない。
 以下、このレヴューでは、現在までのアップルの研究履歴における本書の位置づけを示し、その上で、本書の中で最も重要だと評者が考える論点について整理する。そして、最後に、翻訳に関して一言したい。
 現在までにアップルがものした主要単著には、次の6冊がある。
Ideology and Curriculum=『イデオロギーとカリキュラム(邦訳名:学校幻想とカリキュラム)』(原著初版1979年、第二版1990年、第三版2004年、邦訳1986年)
Education and Power=『教育と権力』(原著初版1982年、第二版1995年、邦訳1992年)
Teachers and the Text: A Political Economy of Class & Gender Relations in Education=『教師と教科書:教育における階級・ジェンダー関係の政治経済学』(1988年、未邦訳)
Official Knowledge: Democratic Education in a Conservative Age=本書(原著1993年)
Cultural Politics and Education『文化のポリティクスと教育』(原著1996年、未邦訳)
Educating the “Right” Way: Markets, Standards, God and Inequality『教育の「適正」化/右傾化:市場、規格標準、神、そして不平等(邦訳名:右派の/正しい教育)』(原著2001年、邦訳=2008年6月)
 ここでは、これら主要業績群に関して、1970年代後半〜80年代前半の業績①②を第1期=「リベラルな教育論への批判と批判理論の精緻化」として、また80年代後半〜90年代前半の業績③④を第2期「カリキュラムの批判的実証研究と保守化批判」、90年代後半以降の業績⑤⑥を第3期「新右派に関する批判的分析の精緻化」として3つの時期に区分することで本書④の位置づけを明確化したい。各時期の業績は各々、米国のおよそ70年代、80年代、90年代という社会・歴史状況を対象・背景として著わされたものと見なすことが可能であり、その意味でこの区分にある程度の妥当性を認められよう。
 第1期のアップルによる考察の力点を約言するなら、それはリベラリズム批判とそのための理論彫琢にあったと言える。教育の機会均等が進み、「民衆を解放する学校」というイデオロギーが浸透する中で、価値中立的に見えるカリキュラム・教育方法にも、文化的ヘゲモニーの支配構造が厳然たる事実(階級・人種・ジェンダー間格差)として存在し、産業主義の論理が潜在しているという点を、彼は先鋭的な政治・社会理論に基づいて批判的に指摘し、独自の理論構築を図った。
 これに対し、第2期の研究の方向性には、少なくとも二つの変化が現れる。第1に、アップルの軸足は、理論分析・理論構築よりもエンピリカルな分析に置かれるようになる。ポストモダニズムの言説を縦横無尽に駆使して、高度に抽象的な理論を華麗に展開するという風潮とは一線を画し、上記③においては、より具体的な問題に焦点化し、どうして教師という仕事が女性の仕事になったのか、あるいは、学年別の標準化された教科書のイデオロギー的・経済的背景はどこにあるのか、といった点に関する史的・経験的研究を発表するのである。第2に、アップルの研究における批判の矛先は、もはやリベラルな教育観ではなく、「保守復古」と自身が呼ぶ右派の動向に対して向けられるようになる。そこでは、リベラルな福祉国家による平等主義的成果を掘り崩して進行する右派勢力に対し、リベラリズムを擁護する姿勢も見られるようになる。
 第3期では、この保守化動向の分析が、さらに緻密に展開されるようになるが、本書は、上に見た第2期の方向性を共有するとともに、第3期における議論への架け橋的位置にもある。次に、以上を踏まえ、より具体的な内容に立ち入って、本書の意義を確認しよう。
 本書の章立ては以下のようになっている。

改訂版への前書き(Preface)
第1章  序
第2章 常識(Common-Sense)をめぐるポリティックス―なぜ右派は勝利しつつあるのか
第3章 文化のポリティクスと教科書
第4章 オフィシャル・ノレッジを規定する
第5章 虜になった視聴者の創造―学校向け放送番組「チャンネルワン(Channel One)」とテクストの政治経済学
第6章 とどのつまり誰のためのカリキュラムなのか?
第7章 「よう、元気だぜ」
第8章 教育方法のポリティクスとコミュニティの形成
付論―教育、権力、そして個人史(インタビュー)
脚注
訳者解説
索引

 まず、叙述上の特徴として、「個人的/物語的叙述」という批評スタイルが導入されている点があげられる。これが見られるのが第1、7、8章である。第1章は、アップルが養子に迎えた黒人の息子が、学校で白人の子どもに人種差別的な扱いを受けて喧嘩に及び、それにより受けた停学処分に関するエピソードから、教育における不平等な権力作用という問題について説き起こし、本書全体の理論的立場と各章の要約を示している。第7章は、大学とある更生施設におけるアップル自身の教育実践に関する個人史から、民主的・創造的実践の持つ現実的意義と課題、諸矛盾が論じられている。第8章では、アップルが毎週金曜に大学院生とともに開いているフライデー・セミナーに関するストーリーがこれも個人史的に提示され、このグループの政治的背景、及び連帯性=コミュニティ感覚の意義が語られる。
 こうした表現手法は、ポストコロニアル研究、アイデンティティ・ポリティクス研究の文脈で用いられるようになった口述史やライフヒストリーの方法論を援用したものと思われるが、アップルがとりあげる批判的視点や、そこから分析される教育・政治社会状況が、具体的で身近な出来事に基づいて語られることで、現実世界に対する一人一人の政治的実践・介入という、ともすれば研究者の意識から遠ざかってしまいがちな課題の重要性を読者に再認識させるという効果を持つ可能性はあろう。
 しかし、本書の核をなす論文としてより注目すべきは、第2〜6章である。
 まず注目したいのが、そこで一貫して適用される分析視角である。つまり、「オフィシャル・ノレッジ=公式知」は、たんなる押しつけでなく、「合意・協定」ないしは「妥協・交渉」のポリティクスの所産だという考え方である。むろん、この観点は新しいものではなく、ウェーバー以来の正統派社会学における権力分析の系譜に連なる枠組である。が、支配構造の様々な水準で抵抗・妥協・調整というプロセスを具体的に描出し、教育指針や教科書等の教材に一定の「公式知」がどう定着して行くのかを明らかにするという作業には、初期著作に見られる支配/抵抗という二項対立図式よりもさらに複雑で微妙な分析が要求される。アップルは、③の著作に引き続き、本書でもそうした過程を手際よく描いている。
 そこで分析対象の基軸に据えられるのが、教育における保守化動向である。第2章では、教育における「常識感覚」がネオリベネオコン勢力によって巧妙に変化させられてしまったプロセスが分析されており、著作⑥に現れるより洗練された考察を準備するものとなっている。
 ここで重要なのは、「常識感覚」の書き換えというグラムシ的観点である。たとえば、ネオリベ的な市場主義的教育観、つまり、自由競争・選択こそが、商品としての教育の質を高め、消費者としての親子のニーズに応えることが学校の果たすべき役割=「説明責任」であるという見方は、いまや私たちの中に「常識感覚」として宿っている。これは何も米国のことだけではない。税金や授業料を払っているのだから当然だと、学校や園に対し無理難題を突きつける親が日本で増加していることを思い起こせば、ここでの考察の意義が理解されやすくなろう。アップルは、こうした市場主義的志向性が、伝統、家族、愛国といったネオコン的観点を伴って現れることも指摘している。
 第3〜6章では、保守化時代において、教科書・教材で示される公式知に関する「妥協・合意」が成立する過程とともに、その公式知の教育現場における複雑な現象形態が分析されている。とりわけ興味深いのは、第5章で扱われる学校放送番組「チャンネル・ワン」に関する議論である。アップルは、教科書に関する政治経済学的分析を③でまとめたが、ここでは、教科書以外の教材テクストに考察対象を拡げ、しかもネオリベ的動向を踏まえようとした論及となっている。
 それは、学校がテレビやビデオ機器を「ただで」貸借できる代わりに、2分のCMを伴う10分の子ども向けニュース番組(計12分)を子どもたちに必ず見せるという、ある企業との契約により、学校に「とらわれの視聴者」が現れるという議論である。ここでも、なぜ全米の多くの学校にこうした契約が普及することになったのかという点が、政治経済的・文化的背景の両面を視野に収めた上で、権力を持つ側と持たない側の間での「妥協」の帰結として分析される。しかも、とらわれの視聴者ではあれ、たんに受動的存在に終わるのではないという観点から、視聴者である子どもたちが、また、この視聴覚教材を利用する教師が示す姿勢によって、この教材で流される情報の意味に干渉作用が生じるという「再文脈化」の過程が描かれている。
 管見によれば、③で展開された考察に比べると分析の精緻さという点では、本書の方が若干見劣りするような印象は残るが、批判的教育研究において、ジルーのようにアクロバティックな理論的言説の展開に走る向きもある一方で、具体的な対象を経験的に分析するという方向性を明確に打ち出した本書は、米国におけるリアルな教育状況の転変を知る上でも、また、批判的教育研究における方法論を再考する上でも示唆に富む業績として、その独自性を高く評価されるべきであろう。さらに、付言すれば、本書を含めてこれ以降、アップルは批判的分析を提示するだけでなく、民主的教育の取組として瞠目に値する具体的な実践事例を紹介するようになる。アップルは、その意味で「可能性の言語」(ジルー)よりもむしろ、「可能性ある実践」に力点を置くようになったと言えるかもしれない。
 このような地点に至ったアップルの個人史・研究史について、付論として彼へのインタビューが掲載されているので参考になる。ジルーとの距離感に関しても、ここで簡略に語られている。
 最後に翻訳について若干触れておきたい。まず、文法的な読み違えを含む誤訳が散見されるが、とりわけ最も議論が複雑な第2章、及び3章後半には、論旨を追う上で障害となる訳文が少なくないと感じた。次に、訳語に関して最も目立つ疑問点を指摘しておこう。本書では、property rights(財産権)に対する person rightsに「人権」という訳語があてられているが、人権はhuman rightsの定訳であるだけに、ここは別の訳語を考案すべきではないか。これは、著作・肖像権の文脈で使われるpersonal rights(人格権)とも異なる。アップルに確認したところでは、「人民権」という訳語が可能だと評者は考える。
 また、common goodに対する「共有財産」という訳語もミスリーディングではなかろうか。この英語が経済学的文脈で「公共財産(public goods)」を意味することがあるにしても、アップルはラスキンから引用している以上、それは政治学倫理学的文脈を背景とするものと考えざるを得ない。その意味で、「共通善」という訳語を避けるなら、「公益」と訳した方が論旨に近くなろう。
 さらに、textsの訳語は、本書ではもっと多くの場所で「教科書」「教材」として差し支えない。「テクスト」というポストモダニズム的文脈で用いられる訳語は、本書では一部の箇所を除き混乱を生じさせる原因になる。このtextsという用語に対しては、上記③のまえがきでアップルが与えている定義にしたがって訳語を選定すべきだったのではないか。
 が、このように様々な疑問が残るにせよ、90年代以降のアップルの著作が日本語で読めるようになったことの意義は大きい。巻末「訳者解説」も学ぶところの多い労作である。これを含めて本書が、日本における今後のアメリカ教育研究に多いに活用されることを望むばかりである。

学校幻想とカリキュラム (アクト叢書)

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カリキュラム・ポリティックス―現代の教育改革とナショナル・カリキュラム

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批判的教育学と公教育の再生

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オフィシャル・ノレッジ批判―保守復権の時代における民主主義教育

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右派の/正しい教育―市場、水準、神、そして不平等

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