マイケル・アップル ジェームズ・ビーン編著 澤田稔訳『デモクラティック・スクール』第2版

第3章 「子どもが感じていることを中心に:カブリニ・グリーンにおける民主主義とカリキュラム」
ブライアン・シュルツ

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[編者序文]  民主主義が教室という場に現れるのは、子ども及び教師にとって注意を払わざるを得ない不正な状況に直面するときであることが多い。本章で、著者ブライアン・シュルツは、イリノイ州シカゴ市で彼が担当した小学校5年生の子どもたちが、当時通わざるを得なかった、荒廃し危険な状態にあった学校に代えて、新たな学校の設立に向けた運動を展開したありさまを描いている。子どもたちがそこで示した粘り強さと創意工夫の才は、うら若き人々が真に民主的な取組に熱心に関わり、そこに多様な知識内容と技能を統合するときに何が生じるのかということを端的に表す模範例となっている。その点で、本章は、しばしば見られる次のような考え方、すなわち、この種の進歩主義的で民主的なカリキュラムが、都市部の貧しい子どもたちには困難すぎるものであり、そのようなカリキュラムの中で重要な技能を身につけることはないという考え方に挑戦するものともなっている。

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405教室
バード・コミュニティ・アカデミー校
シカゴ公立学校群
60610 イリノイ州シカゴ市
エスト・ヒル通363番地

2004年2月20日

イリノイ州立議員 様
このようにお手紙を差し上げましたのは、私たち小学校5年生のクラスで取り組んでいる「プロジェクト・シチズン」と呼ばれるわくわくするような取組について是非お知らせしたかったからです。この計画は「憲法上の権利シカゴ財団(the Constitutional Rights Foundation of Chicago)」に支援を受けています。この取組から、政府がどのような働きをしているのか、また、たとえ小学校5年生であっても、自分たちが公共政策の変化に影響を及ぼすことができるか、といったことに関して私たちは学んでいます。私たちのクラスでは、地域社会に影響を及ぼす全ての問題に目を向けた上で、シカゴ市に新たな学校を建築するという政策に、私たちの関心を集中させようと全員一致で決めたのです。私たちは、情報収集、請願署名運動、実地調査、文書作成、写真撮影や、私たちが方針を決定するのを助けていただけると考えられる人々とのインタビュー、そうした人々への書面による連絡などを含む実行計画を作り上げました。カブリニ・グリーンにある私たちの学校が毎日直面している全ての問題について、先生にも関心を持っていただけるものと思いますし、そう願っています。
 私たちリチャード・E・バード・コミュニティ・アカデミー校(Richard E. Byrd Community Academy)の学校建築には、大きな問題がいくつもあります。あまりにも問題が多くて、このお手紙では書ききれないほどですが、最も重要な問題のいくつかに関してお伝えしたいと思います。私たちが重要だと考えている主要な問題には、トイレ、建物内の温度、〔割れた〕窓、ランチルームや体育館や舞台がないことがあります。こういう問題があるからこそ、私たちには新しい学校が必要なのです。それは私たちが大人になって偉くなれるよう勉強する上で本当に大切なものなのです。
  トイレは、たいへん不潔です。いたるところに紙くずが落ちていて、ちゃんと掃除されないのです。それに、本当に嫌な匂いがします。また、石けんも紙タオルも、ゴミ箱もありません。仕切りのドアもないため、丸見えです。手洗い場には虫がいて、そこらじゅうに水がこぼれています。どれほどこのトイレがひどいものかは、手洗いのシンクがぐらぐらで、水が床に漏れているということからもおわかりいただけるでしょう。お湯の蛇口からも水しか出ません。トイレは、気持ち悪く、ぼろぼろなので、子どもたちは使いたがらないのです。

 さらに、バード校では、教室の温度がおかしいのです。暖房は入りません。教室は本当に寒くなります。あまりにも寒いので、授業中コートを着なければならないと言えばわかっていただけるでしょう。パイプが破損しているので、修理できないのです。勉強に集中するどころではありません。手が冷たくて、字さえ書けないくらいです。こんな状態は変える必要があります。
 他の例をあげると、窓もひび割れているのです。教室が寒いのは、窓が割れているからです。窓は十分な効き目がありません。窓にはいくつも弾痕があり、そこにテープが貼ってあります。窓を見通すことができず、教室は暗いままです。暗いので、自分たちのしていることも見えにくいくらいです。これは、学習する場としてはよくありません。
 私たちが新しい校舎を必要とするもう一つの理由は、食堂がないということです。私たちは廊下で食事しているのです!そのそばにあるクラスは、廊下の食堂のためにいつも気が散りかけているのです。ですから、そのクラスの気が散らないように、新しい食堂が必要なのです。食堂に関してもう一つ悪いことは、昼食に自分たちが欲しいものを決められるようになっていないことです。また、もっとよく学習できるようにエネルギーを補給するためのスナックを少し食べられるように、自動販売機が欲しいです。私たちの学校には、本当に新しい食堂が必要なのは、給食のおばさんが私たちに静かにしなさいという必要がなくなるからです。昼食をとる場所のそばのクラスの先生たちが、授業をするのにドアを閉める必要がなくなるからです。

 もう一つの問題は、体育館が学校とつながっていないことです。外の天気が悪いときにはいつでも、雪の上を歩いていかないといけません。それどころか、そこは私たちの体育館でさえありません。私たちは、通りを隔てたセワード・パークの体育館を借りているのです。通りを渡るのは危ないですし、授業時間内に通りを渡る必要があるということはないほうがいいのです。体育館を使う時間も減ります。バスケットボールの練習がある時には、セワード・パークが開いていないので閉め出されることになります。もし自分たちの学校の中に体育館があれば、閉め出されることにないですし、そんな天気にさらされることもありません。体育館まで歩くときに地面には氷。ある日、小さい子どもが氷の上で転んで怪我をしました。
 最後に、バード校には講堂や舞台もありません。これは問題です。というのも、私たちが集会を持つ時に、廊下で集会をしなければならないので、人の頭が邪魔になるからです。座らせることもできず、見えないからです。全員がすわれるだけの椅子もなく、立っていなければならないからです。たとえば、私たちの学校にハーレム・グローブトゥロッター がやってましたが、全く何も見れませんでした。もし学校に舞台があれば、そのショーを見るチャンスがもっとあるので私たちもうれしく思います。
 私たちは、先生に私たちの学校をご自分の眼で確かめていただくようにお招きしたいです。皆さんも自分の子どもをぼろぼろの学校に通わせたくはないと思います。窓も体育館も、室温も、食堂も、舞台もトイレもまともなものではないので、学校全体を新築していただくほうがいいでしょう。私たちは、こうしたプロジェクトのために学校の先生や管理職の方の支援を得ています。私たちは、先生からご連絡いただけることを楽しみにしています。お時間をいただき、興味を持っていただければ幸いです。


敬 具

リチャード・E・バード・コミュニティ校
5年生405教室一同



はじめに
 子ども主導のアクションプランから生まれたこの挑発的な書簡に先立って、405教室の子どもたちには、自分たちにとって有意義で重要なカリキュラムを協働で創造する場と機会が与えられた。教え学ぶことに対するこのアプローチは、一つの創発的カリキュラムに、すなわち、真正の問題を協力して解決する際に、私たちの全ての予想を遥かに超えるカリキュラムに結実したのである。
 私は、一介の教員として、自分の眼から見たカリキュラムの在り方や、社会階級によって子どもの教えられ方が決定されるその在り方に、苛立ちを募らせていた。私は、次の学年やそれ以上の水準に進級するのに必要な技能を教えつつも、教師が子どもたちを、その社会経済的地位に応じて教えるべきだろうかと疑問に思い、子どもたちを学習へと動機付け、参加させるような場を教室の中に探し求めた。私は、ますます一般的になりつつあると考えていた視点、すなわち、規定されたカリキュラムを、あるいは、本質的に教師が独自に手を加える余地のない教室を、たえまなく強いるような見方に挑戦しようとしていたので、子どもや自分自身に、価値ある永遠の問いを投げかけ始めたのである。つまり、どんな知識が最も重要で価値あるものなのか。その知識はどのように獲得され、創造されるのか。何が学ばれるのかを決定するのは誰なのか、そして、それはなぜなのかと(Schubert 1986)。
 子どもたちと私は、こうした問いについて振り返るようになると、次のようなことも問うことになった。私たちは、合衆国において比較的評判の悪い公営団地の一つに住んでいるわけだが、もし、その自分たちが、勉強する上で最も重要なのはどういうことなのかを、自分たち自身の優先事項に関する関心に基づいて、自分で決めることが許されるようなプロジェクトを始めるとすれば、どういうことになるのだろう。もしこの教室の子どもたちが、期待される行動規範の通りに正解を示し、ルールに従うことを期待されるのではなく、もっと裕福な学校の子どもたちと同様に、自ら問題を設定し、困難なことに挑戦し、熟考する機会を与えられたら、どうなるだろうか。そういう実験は、どのような結果をもたらすのだろうか。現体制は、子どもたちの問いかけを受け止めて、平等を要求することになるのか、それとも、子どもたちを押しつぶすとか、無視するとか、引き続き子どもたちに沈黙を強いるとかいったことになるのだろうか。この種のカリキュラムは成功を収めることができるものなのだろうか。それはどうやって測れるのだろうか。私たち、子どもと教員は、カリキュラムに関わる本物の諸問題を解決するために、権威を分かち合うことができるのだろうか。学習者の状況ごとのニーズに忠実であれば、カリキュラムは、子どもたちの興味関心によって導くことができるのだろうか。私たちは、自分たちの、自分たちによる、自分たちのためのカリキュラムを作り出すために、広く受け入れられている規範に挑戦することはできるのだろうか。あるいは、ダイニーシャという児童が、当てつけがましく尋ねたように、「カブリニ・グリーンの黒人の子どもたちの言うことなんて、誰が聞いてくれるっていうの。」私たちは、確かめることにしたのである。


カブリニの背景
 アメリカ第三の都市シカゴを流れるシカゴ川のすぐ北側に、最も評判の悪い公共団地の一つがある。カブリニ・グリーンは、低所得市民の支援を目指した社会事業の失敗の象徴となった。この密集した安普請の共同住宅は、もともと1940年代初頭に、多種多様な人のための、とりわけ、第二次大戦からの帰還兵のための仮設住宅として建設されたものだったが、ひどく老朽化していた。この仮設住宅という扱いは時とともに消え去り、その建物は永住用となってしまったのである。この不動産は、シカゴ住宅局による維持の仕方があまりにお粗末だったので、当局自身、最終的に居住不可と告知したほどである。この共同住宅は、その多くに板で塞がれた窓があって、火事で出来た焼け跡がやたらと目立ち、醜い姿をさらすようになり、この不始末は全米中でニュースとして取り上げられた。この住宅のほぼ全ての部屋は、いまやアフリカ系アメリカ人の家族に締められており、最大時約15000人の住民を収容していた。
 カブリニ・グリーンは、シカゴ高級住宅地であるゴールド・コースト地区に隣接していたので、土地の価値が跳ね上がり、シカゴ住宅局は「再開発計画」の真最中である。この高級化の取組は、伝えられているところによると、その地域を混合所得世帯が利用できるようにするものだとのことだが、都市部にあるその他の諸地域が見習うべき模範例として、市によって大々的に売り込まれていた。多くの当地住民を含むこれに批判的な人々は、家族がバラバラになり離散してしまうことになるとして、この再開発は論争の的になると見なしている。建物が倒壊しつつあるのは明らかだとしても、その一方で、この復興という大見出しの背後にもう一つ見出されるのは、カブリニに済む低所得黒人世帯向けの隠れた(さほど隠れてもいないが)メッセージである。すなわち、おまえたちが占有している土地は、おまえたちなんかより価値があるものなのだから、結局、百万ドル長者世帯の一戸建てや贅沢なマンションに道を譲るべく、おまえたちは立ち退くことになるのだよ、と。
 シカゴの貧困地区カブリニ・グリーンは、荒れた地域だと説明されることがほとんどである。ギャング騒動や闇経済から殺人や薬物にいたるまで、この地域は、全米で最も危険な公共集合住宅の一つと喧伝されている。この地域に関して記述された説明の多くと同様に正確で、かつ気を滅入らせることなのだが、カブリニの子どもたちについて滅多に語られないひとつの話がある。
 カブリニ・グリーンの中には、非常に困窮している子どもたちがいる。この地域の子どもたちは、より豊かな地域の子どもたちが得ているのと少なくとも同程度の援護や教育や扶養を必要としているにもかかわらず、混乱の中で道に迷い、結果的に窮地に陥ることが多い。〔しかし〕私は、その子どもたちが有能な若き市民であり、優れた思考の持ち主だと気づいたのである。子どもたちは信じられない発想の持ち主であり、とてつもない創造力を備えている。多くの子どもたちは、自分たちが持っている多くの知恵を働かせる機会を求めている。子どもたちは、環境が自らの学びにいかに影響を及ぼすかということについて、直接的に理解しており、よりよい環境を求めている。タヴォーンという児童は、ある日誌の一節で、こうしたメッセージを私にはとうていできないほど明確に、次のように伝えた。曰く、「たとえ、ぼくたちの地域の人々が問題を抱えていようと、その地域の人々を誇りに思っています。だからこそ、ぼくたちはよりよい学校のために闘っています。誰もがよい住処とよい学校を持つべきだと僕たちは考えています。賛成していただけますよね。」
 子どもたちは、このプロジェクトを進める上で生活や学習にハンディを負いながらも、どのような知識が最も価値があるかという問いを掲げ続けている。子どもたちが教室外の功績のことで認められるということは、現在の学校の仕組においてはめったにない。ストリートの知恵とか校外カリキュラムといったものは、ハイ・ステイクス・テストと異なり、また、説明責任の評価と無関係だということで、価値が切り下げられている。クラウンという児童が、長く続くゲットーでの生活について尋ねられた後に発言したことだが、「街で利口にやってくとか、生き残る方法を知ってるとかさ……人を試そうとする奴なんていっぱいいるし、俺たちはうまくやる方法を知ってなくちゃならねんだ。」こうした子どもたちの知性を認めることができないという状況があるからこそ、私は次のように問うのだ。つまり、教育は、この学校の近隣社会で、私の教え子たちが自らの生きられた経験を通してうまくできるようになったことに基づいて、きちんと評価されているのか、この子どもたちは、教師は言うに及ばず、より裕福な他の子どもたちよりも明らかに優れているのではなかろうかと。この状況についてよくよく考えると、私は、そうした子どもたちの適応能力やプラグマティックなストリートの才知を、教室で最大限に活用する方法を確かめてみたくなったのである。こうした様々な思いは、カリキュラム研究の文献にどっぷり浸かって得たことと相まって、子どもたちがとくに関心を持っている事項に照準する真正の創発的カリキュラムこそが、カリキュラム全体を統合し、「伝統的」な意味でも上手くいく可能性があるのではないかと私が考える上で導きの糸となった。


修復が必要なコミュニティに見られた諸問題
 私のクラスの5年生たちは、ありとあらゆる問題を声高に指摘していった。黒板にその問題を素早く列挙していた私は、そのリストの拡大に付いて行くのに難儀していた。自分たちの世界に関わりのある諸問題に名前をつけたいという子どもたちの熱意は明白だった。自分たちに影響を及ぼしている諸問題を指摘すると、子どもたちの熱心さはさらに増した。「ホームレスの人たちを援助すること」、「公園をきれいにすること」、果ては「ギャングにストップをかけること」まで。こうした大きな問題を掲げることができた一方で、子どもたちが列挙した問題の多くは、校舎の問題に関連していた、つまり、「体育館も、食堂も、講堂もない」、「弾痕の残った割れ窓」、「ヒーターのない教室」、「水漏れのするシンク、壊れたトイレ、石けんも紙タオルもない洗面所」などである。1時間も経たないうち、405教室の5年生の子どもたちは、私が投げかけた難題に熱心に答えて、自分たちや自分たちのコミュニティに影響を及ぼしている89の異なる問題を明示したのである。
 私が教室前方の黒板に、子どもたちのアイデアを次から次へ素早く記して行くと、子どもの中には、いま出た問題はもう黒板のリストに入っていると言って、互いに口論するものもいたが、ダイニーシヤという児童は、的確にも次の議論に移って、大きな声で発言した。「そのリストにあるほとんどの問題は、この学校の校舎がめちゃくちゃだってこととつながってるよね。この学校はゴミ捨て場みたい。それが問題なのよ。」彼女の率直な見立ては、クラスに合意をもたらした。子どもたちは、一様に彼女の考え方に賛成した。子どもたちが直面していた最大の問題は、荒廃した校舎のひどさだったのである。ダイニーシヤも他の子どもたちも正しかった。彼女たちは、その12月の凍るような寒い朝に、教室で帽子をかぶり、手袋をはめ、コートを着て机につきながら、その現状を体現していたのである。ヒーターの熱は、もうバード校の4階まで到達しなくなっていた。以前から自分たちが大変よく知っていた現実的な問題があるということに気づいて、子どもたちは結集し、学校で日々直面している不正義を解決すると誓ったのである。
 ほんの一時間足らずで、この5年生たちは、正す必要があると感じていた主要な問題の一覧を作り上げた。私が最初に子どもたちに問題提起したときには、子どもたちは、「ランチにフルーツポンチを出してもらう」とか「毎日休憩」のための指定時間を手に入れるなどという、もっと安易な課題に流れるのではないかと勘ぐっていたのだが、ところが実際には、もっと困難な道徳的問題を取り上げたのである。この問題は何年もコミュニティに存在していたもので、新しい学校が建てられることが約束されていながら、全く履行されていなかったのだ。子どもたちは、本当に正面からこの問題に取り組むつもりがあるのだろうか、より安易で、もっと自分たちの得になるような課題に焦点を合わせようとはしないのだろうかと、私は自問した。私は、子どもたちのモチベーションに疑念を差し挟んだことすら誤りだとすぐに気づいたのだが、子どもたちは、学校の構造に関する問題のいくつかを修復するための方法をすでに見いだしつつあり、新しい学校を立ててもらうための諸計画を立てつつあったのである。自分たちのコミュニティの諸問題を優先的に解決する機会と難題を与えられ、子どもたちは、たんに諸問題を列挙しようとしていたのみならず、行動にうつし、変化を生み出す方法をすでに練り上げつつあったのである。そして、子どもたちのほとばしる熱き思いとともに、この創発的カリキュラムの火ぶたが切られた。


カリキュラムを協働で創造すること
 「この新しい学校を建ててもらうために、どんな姿勢をとってきたんだろう。」子どもたちは、私に対して当てつけがましく尋ねてきた。私は、それに答えることなく、同じ質問を子どもたちに返した。しかし、私が同じ質問を返したのは、たんに教師としての良識によるものだったのか。子どもたちに、このプロジェクトの主導権を握ってほしいと思っていたのか。それとも、私は、その場しのぎにはぐらかそうとしただけなのか。正直、子どもたちと全く同様に、私も、その仕事をどうやって成し遂げるものか思案していたのであり、子どもたちの洞察力から学びたかったのだ。
 私は、教員として、子どもたちの目に究極的な権威を担う人物に映るようになりたいと思うことが多かった。教員になりたてのころ、間違いなくそんなふうになりたかったのだと思う。自分がコントロールしている必要があると感じていたし、もし自分の権威が傷つけられるとすれば、職務を怠ることになると信じていた。クラス経営という点での権威にくわえて、私は、自分が提示した問いに対する答を全て、自ら分かっていてしかるべきだと考えていた。クラスにおける意見の不一致から、数式に至るまで、全て解決することが自分の役割ではないか。こうした若い頃の認識では、自分は全ての答を知る人物であったし、「何事も首尾よくこなす」ことができる人物でなければならなかったのである。
 しかしながら、上に述べたようなことは、今回のプロジェクトに関わる真の問いであり、私はこれまでよりもずっと複雑で困難な状況にあることに気づいたのである。私は、自分が答えられない問いを受け入れつつあったので、一人の教育者として、ある意味で、子どもたちの期待を裏切りたいと感じていた。私にとって、それは危険な領域であった。私は、教師として初めて、子どもと対等の水準に身を置こうとしていたのである。子どもにも私にも、学校のポリティクスに自分たちが立ち入るということがどんな結果をもたらすことになるのかということは分からなかった。私たちは、こうした状況にそれまで一度も直面したことはなく、したがって、そのような道に自ら歩みを進めた経験もなかった。私も子どもたちと同様に新築の学校を欲していたが、彼らとちょうど同じく、この目標を現実化する方法は分かっていなかったのである。
 子どもたちは、もはや、教科書にあるような人為的な問題を解こうとしていたのではない。むしろ、それは、現実的な構成要因・試練・障害を伴う本物の追究であった。勝利も悲劇も、私たちが共に取り組む探究活動の一部に含まれることになろう。新たな学校を手に入れるということに関しては、私の専門的知識などたかが知れている。その仕事をどう進めて行けばいいのか私にも分からなかったが、私たちは、一緒に、一つのグループとして、自分たちの進むべき方向を決定するために最善を尽くそうと考えたのである。まず、私たちは、出発点を設定する必要に迫られることになった。私は、子どもたちに、これまでこのようなことを経験したことは一度もないが、共に全力を尽くして行くつもりだと、先を案じつつ、また、恥を忍びつつ伝えた。「とにかくやってみて、どうなるか確かめる、それだけだ。」と、その5年生の子どもたちに話して、「自分たちがしていることを信じ、正しいことのために闘っているとすれば、自分たちにできるのは、ただ最善を尽くして歩みを前に進めることだけだ」ということを強調した。このように自分の経験不足を子どもたちに受け入れてもらって、自分がもともとどんな教員だったかということについて子どもたちの理解を得た上で、私は、きわめて大きな私たちの課題を成功裡に達成するために、作戦計画を立ててはどうかと提案した。
 私たちはともに、このシカゴ市で新設の学校を手に入れるという問題を解決するために実行計画を練ることに決めた。「けど、どこから始めればいいんだろ?」と、数名の子どもがつぶやいた。この日の前半に私がその教室で目撃した興奮状態は、この仕事をどうやって成し遂げればいいのか分からないという、つまり、大願を成就することはできそうにないという心配や不安に取って代わられていたのである。私には、いくつかアイデアがあったのだが、私が思案していたことは、子どもと同様にまだ漠然としたものだった。私は、子どもたちに明確な指示を与えることよりもむしろ、子どもたちの考えに興味があった。子どもたちは、行動を起こすことに向けた議題やアイデアを、もし自分たちで考案できれば、その自分たちの提案に対してより熱心に関わり、それを自分のものとすることになりやすいという点に、私はすぐに気づいていた。こうした考え方は、教員準備研修プログラムではごくありふれたものであるが、それは次のような想定に基づいていることが一般的であった。つまり、子どもたちがまるで自分たちが主導権を握っていると感じていながら、実際には、その過程を教師が予め計画し、ある意味で、その結果もコントロールしてしまっているということになるように、教師が子どもを操っていくことになるものなのだという考え方である。概して、教室の民主的な原則を作り出しているのは自分自身であるかのように感じている教師を私も見てきた。しかし、一般に、こうした感覚は、教師自身や子どもに対する幻想にすぎない。今回のケースにおいて、私は、自分たちが持っていたアイデアのどれであれ、それが今後どうなっていくのか見当もつかなかったが、子どもたちにとっての経験が--よいものであれ悪いものであれ--本物の結果をもたらし、その闘いが真正のものとなるように、リスクを冒しても、今後起こりうるどんな結果であれ、たとえ失敗でさえ、引き受けようとしていた。
 私たちのクラスは、最初の一手をどう打つかを考えなければならなかった。つまり、子どもたちにとって個人的に関心が持てると同時に、クラスがまとまるような方向性を定める必要があったのである。私は考えをめぐらせた。クラス全員に同じことを教えるということは避けた方がいいのだろうか。それとも、クラスの全員が、同様の経験を共有できるよう系統的にこの仕事を進めて行く方がいいのだろうか。私は答えが出せないでいた。私個人が受けてきた教育からすれば、クラス全員に同じカリキュラムを一斉に与えるのが通例だった。「難しすぎても、簡単すぎてもいけない。クラスの真ん中ぐらいの子どもに合わせて教えること」というのが、私が教員準備研修で繰り返し耳にした言葉だった。が、私は、この通常の教育の仕方を嫌悪し、全く不適切なものだと思っていた。上の問いについて考えをめぐらし始めたのだが、結局、私は、子ども自身に自ら興味関心を持つ方向を選ばせ、その上で、作業を進めながら、自分たちの発見したことをクラス全体で共有させることにした。私が個人的に助言を求めるために模範にできるような特定の教育者がいたわけではないが、過去に、この種のアプローチを探究し、一人一人の子どものニーズに応じたカリキュラムを開発してきた何人もの教師やカリキュラム理論の専門家については、様々な書物を読んでいたのである。
 クラスの子どもたちは、まず最初のステップとして、バード・コミュニティ・アカデミーに関する歴史と、新設の学校を手に入れられる可能性について調べるということで合意した。子どもたちはみな、学校の新設が6年前に約束されていたことに気づいた。曇りガラスの防弾窓から外を見ることはかなり難しかったが、一枚だけ弾痕でくぼみやひび割れがある窓から覗くと、そこから「バード・コミュニティ建設予定地」と記された看板が、柵で囲われた更地に立っているのが子どもたちにも見えた。それがさほど当惑させるようなものではないとしても、私たちの現在の荒廃した校舎の玄関には、新しい学校の設計図を描いた建築計画書が掲示されていたのである。さらに、学校評議会(the Local School Council)が、学校の教職員とともに、壁面塗料の選択や、床に貼るタイル、さらにトイレに設置する液体石鹸のディスペンサーの種類まで含む、新しい学校に必要な全てのものをすでに選び終えていたことを、子どもたちは、篤と知ることとなった。が、私たちのクラスだけでなく、誰もが知っていたように、シカゴ市教育委員会の確約にも関わらず、具体的な動きは何一つ見られなかったのである。クラスの子どもたちは、明らかに苛立ち、どこから始めてよいものか分からず途方にくれながらも、この学校の不備や欠陥を改善するために自分たちに何ができるかを話し合った。
 子どもたちは、ブレーンストーミング・セッションを通じて、進むべき方向性に関して大まかないくつかのアイデアを出し始めた。私は日誌にこう書いた。「子どもたちはこういうことをするときにはいつも、本当に熱に浮かされたようになり、ほとんどコントロールがきかなくなるが、本当にいろいろなアイデアをうまく出していたので、私は、子どもたちが望むだけ、また子どもたちに可能な限り、熱中し創造力を発揮してほしいと、どこかで思っているようだ。」子どもたちは、激論のまっただ中で、自分たちが行動を起こし、仕事を果たすいくつかの方法を提案した。子どもたちは互いの対話の中から、次のような主たる結論を導いた。「自分たちが話をしにいくことができる人々」、「新聞や雑誌に自分たちのことを載せてもらうこと」、「一般の人々にプレッシャーをかけること」、これらである。
 問題を解決する上で、自分たちが取りうるいくつか違った方向があるという点を子どもたちが理解できていたことが、私には大変興味深かった。クラス討論や問題解決一般において、問題解決には複数の方法があるということを、この子どもたちが考えることは滅多になかった。しかしながら、このプロジェクトは、子どもたちに、本物の何かを与え、それによって、子どもたちの能力が開花したように思われた。子どもたちは、いろいろな角度からこのプロジェクトに迫る必要があることを理解していた。私の経験によると、このクラスの子どもたちは、最初に浮かんだ一つのアイデアで進もうとしたがったり、問題の解法について、一つずつ段階ごとにどうすればいいかという手順を尋ねたがったりすることが多かったのだが、今や、子どもたちが一つの方法だけで満足しないことは、私にも見て取れたのである。「これはすごく大きい問題なんだから、丸ごと新しい学校を手に入れようとするなら、そのためにいっぱいいろんなやり方が必要になるよね」と、カマラという児童が認めていた通りだった。
 子どもたちが「話をしにいくことができる人々」を列挙するために作ったリストは、長く、網羅的なものだった。子どもたちは、私ならおそらく一覧から漏れ落としていたであろう「意思決定者」となり得る人々の名前を挙げた。このリストは、その中に、この学校に協力する諸団体のほか、学校の職員や管理職、その地区の政策に関わる指導者や教育委員会が含まれるまでに伸びていた。私たちを困難な仕事が待ち構えていることは確実だったので、自分たちの頼みの綱となる存在に接触するための効果的な方法を見出す必要性が生じつつあったのである。
 子どもたちはインタヴューしたい相手を決定した上で、新設の学校を手に入れようとする自分たちの取組について「触れ込む」上で一助となると考えた新聞や雑誌にも注目した。子どもたちは『シカゴ・トリビューン』や『シカゴ・サンタイムズ』がこの街の大手新聞で、タイロンという児童が声高に言ったように、「自分たちの顔写真と記事が本物の新聞に載るなんてイケテる!」ということに惹かれていたのである。また、カマラの話では、彼女のお祖母さんが、シカゴのアフリカ系アメリカ人コミュニティに配付されていた新聞、『シカゴ・ディフェンダー』をいつも講読しており、「そういう読者が自分たちに興味を持ってくれるいい機会」になると感じていた。自分たちの記事を携えて、様々なテレビ局に乗り込むことも話し合われた。その時点で、テレビに出るということについて具体的な行動を起こすことは全くなかったが、その提案は、運動がもっと盛り上がってくると再び前景化することになったのである。
 子どもたちが、自らの目標に到達するための一つの手段として「プレッシャーをかける方法」を踏まえるという先見の明を有していたことが、私には大変印象深かった。子どもたちは、わが民主主義社会に積極的に参加し、行動を起こすための様々な手段を進んで取り入れていた。子どもたちは、自分たちに関係する「隠語」や行動の仕方などに詳しくなり、このプロジェクトに熱心に関わりながらも、これ以前にこうした文脈で積極的な活動をしたことは一度もなかった。デメトゥリウスという児童の言葉は、クラスのほとんどの子どもが感じていたことをよく映し出していた。曰く、「これは俺にはどっか目新しいことだけど、どんなことだって、やり遂げたいんならやらなくちゃいけないってことは俺にもわかるよ。」行動を起こすために提案されたアイデアは、大半の子どもにとって新奇なものではあったが、子どもたちには、うまく行く可能性がある選択肢と、それがどんな結果を引き起こすかということが分かっていたのである。
 「プレッシャーをかける方法」について子どもたちが作ったリストは、具体的で、明確に狙いを定め、かつ、包括的なものだった。そこには、次のようなアイデアが含まれていた。たとえば、子どもや教職員にアンケート調査をすること、請願署名運動を起こすこと、議会に書簡を送り、議員を学校に招くこと、記者会見を開くこと、ドキュメンタリービデオを制作すること、などであった。もし私たちに、これら全てのことができるならば、このクラスのカリキュラムが子どもたちの興味・関心によって駆動されることになるだけでなく、私たち全員にとって、魅力いっぱいのわくわくしたものになる。彼らのアイデアの全てが、たった1回の授業やたった一つの単元の中で実現することはあり得ず、それらは、研究や調査を必要とし、その達成のために周到な計画づくりやや献身を必要とするアイデアであった。私は、子どもたちのこうした取組を支援することにやぶさかではなかったが、それでもなお、子どもたちがそのアイデアの実現に向けて最後までやり遂げるということに関心があるかどうかという点に関しては、少々懐疑的であった。私の疑念は早計ではあったが、私は、私たちが暗闇を手探りで進んでいるわけではないということ確かめたかった。私はわくわくしてはいたが、神経がまいりそうでもあった。私は、自分の経験が役立たない未知の状況の中にいた。そんな大掛かりなプロジェクトに取り組んだことは、子どもたちにも私にもなかったからである。


行動の前に計画すること
 政治・社会参加を目指す子どもたちのアイデアを視野に収めながら、同時に、私たちは、校舎の欠陥に関する解説文を書き、その写真を撮ることから、学校が抱える諸問題の記録を開始した。子どもたちは、驚くべき文章を紡ぎ上げた。子どもたちの文章作成で見せた熱心さと巧みさのレベルは、私がそれまで目にしてきた全てを凌駕していた。そんな驚異的な仕事をどうやってすることができるのかという問いに対する、ジャリスという児童の応答を聞いたとき、この仕事が子どもたちにとってどれほど高い優先順位にあるのかということがすぐに理解できた。「こういうことは本当に重要だよ。何かやり遂げたいことがあれば、言葉で表さないとダメだからね。」と彼は説明したのである。この記録文の下書きが、その言葉をより広範な読者に広めるための出発点になった。子どもたちは、その文章を、説得力のある手紙として書き換えると大きな力を持つことになると悟って、各自の取組を結集して、市当局やシカゴ教育委員会、新聞記者や関係する市民に送る効果的な手紙を書き上げた。この手紙(本章冒頭)で、子どもたちは、学校が抱える「修復不可能」な「大きな問題」について述べ、早速、「自分の眼で学校を確かめに」来てもらうよう招待し、「皆さんも自分の子どもをぼろぼろの学校に通わせたくはないと思います。」としたためていた。そして、子どもたちのこの挑発とともに、私たちの誰もが簡単に忘れることなどできない冒険に向けたお膳立てが整ったのである。
 子どもたちが最初に200通に及ぶメールや手紙を相次いで送付した後、その説得力ある書面がもたらした結果として、ただちに様々な反応が返ってきた。電話による問い合わせ、手紙やメール、議員や新聞・ラジオ・テレビ記者の訪問、そのどれであれ、子どもたちのプロジェクトは、様々な質問・提案や励ましに突き動かされ、さらに豊かな着想を獲得していったのである。子どもたちが学校の壁を越えて外に出て行くと、外部からの視点によって、子どもたちがリアルライフ・カリキュラムに取り組むための道筋がつけられることになった。子どもたちが、自分たちの関心事や要望を広く知らせると、こうした外部の人々が、とくに必要とされていた支援や寄付を差し伸べ、そして、とりわけ注目すべきは、広報・宣伝に寄与してくれたのである。子どもたちは、外部からの助言を受け入れ、「自分たちが、完璧な解決...新設の学校を手に入れるのに役立つ」であろうと、チェスターという児童が信じていたとおりの行動計画を開発・発展させていった。
 その年度の残りの期間、子どもたちによるこの計画づくりが、カリキュラム全体の焦点となった。その結果、知識を学問分野ごとの教科別に区分することはなくなった。子どもたちの計画がカリキュラムを方向付け、それにより、自分たち自身とそのコミュニティのために新たなバード校を手に入れるという問題を解決する上でカリキュラムを統合し、一体化したものにすることができた。規定のカリキュラムにおける教科領域の全てが、流動的な様式で、自然に融合していた。子どもたちは、授業用の基礎的な教科書に頼らずに、目前の問題解決に関連する情報を調べた。この調査のために、子どもたちは、その(想定される)読書能力や適性を優に越える書籍や雑誌、インターネット上の資料に向かうことになった。ヘネシーという児童が言ったように、「このプロジェクトが始まる前だったら、こんなものを読めるとは思いもしなかっただろう。」子どもたちは、圧倒されるとか、やる気を削がれるとかいうことはなく、むしろ、こうした資料を理解する努力をさらに進めようと意気込んでいた。それが子どもたちのその時の状況に価値をもたらすものだったからだ、というのがその理由であった。あるいは、ダレルという児童の次の言葉に、その理由が表現されていた。すなわち、「この資料に、自分たちが新しい学校を手に入れるやり方がある。自分たちは、その全てを読んで全てを知るんだ。それが問題を解決するのに役立つことになるんだから。」
 この子ども主導カリキュラムは、私のどれほどたくましい想像力をもってしても考えられないところへ私たちを連れて行った。たとえば、私たちはジョナサン・コゾル(Jonathan Kozol)が描いた『過酷な不平等』(1992年)を改編したようなものだったが、他方で、アーテルという児童がこう言った。「これって、俺たちのことを書いた本て感じだよね。これ書いた人、バード校にいっぱい来なきゃ。」この彼の言葉は、真実からさほど離れてはいなかった。実際、ダレルは、地方テレビ局から、校舎の状態でどんな気持ちになっているかと尋ねられて、「学校がガタガタだって、他の子どもたちが俺たちのことをからかうんです。…それで別の新しい学校が必要だなって思うんです。」とはっきり答えた。子どもたちは、自分たちの取組や懸命の努力について書かれた数多の新聞記事を読み、それらについて考えていたので、このクラスで読むものは必然的に時事に関わるものになっていった。それにくわえて、子どもたちは、アンケート調査のやり方や請願署名運動のしかたなど、政治・社会参加のための技術に関して書かれたものを読んだ。それは、このような作業が、押し付けられたカリキュラムの必修の一部だからではなく、子どもたちが、自分たちの主義主張に関連が深いと自ら気づいたからこそできたことであった。
 このプロジェクトの勢いを維持するために、子どもたちは、調査結果、写真、評価報告を含む書類の揃え方を学んだ。その際、子どもたちは、自らが求める支援を手に入れられるよう、子ども主導カリキュラムの中にデータ分析を組み込んでいたのである。この書類を公開して、レジーという児童がこう言い張った。「俺たちが作ったこの書類を見て、この学校の問題について俺たちが言っていることに同意しない人なんていないよね。」マリックという児童の言葉を借りれば、このクラスの子どもたちは、「世界中の人々が、自分たちのしていることに関心を寄せてくれる」と認識していたので、「もっと多くの人に関わってもらい、気づいてもらう」ようにし続けなければならないと決意し、その結果、「全ての資料をまとめて、ガタガタで不法とも言える学校を、他の人々に見てもらえるようにするため」に、ウェブサイト(www.projectcitizen405.com)を立ち上げることになった。このウェブサイトの立ち上げは、カリキュラムを総合的に包括する役割を果たすことになった。子どもたちは、デザイン・レイアウトの仕方を工夫し、そのサイト上に、政治家や研究者の訪問から得た画像や文章を全て含め、自分たちを代表して書かれたメールや手紙にリンクを貼り、自分たちが書いた日誌や請願書、図表や、調査・分析結果を公開することで――ディミノールという児童がいみじくも述べたように――他の人たちが、「この学校の子どもたちのことを助けたくなり、自分たちが新しく、よりよい安全な学習の場を本当に必要としていることが理解できる」ようにしたのである。
 教室は、5年生の取組の本部となり、「この仕事をやり遂げるために支援を受けるべく誰を招くべきなのかという問題に関する重要な意思決定を行う」ための場所となった。子どもたちは、このプロジェクトの日々の仕事に大変熱心に取り組んでいたので、しばしば朝早くから学校に来て、遅くまで居残り、休日に姿を見せることさえ多かった。レジーは、クラスメートの献身的な仕事ぶりに関して、次のように述べた。「自分たちは、この仕事をやり遂げないわけにはいかないんです。これは本当にやるべき仕事で、手を抜いたりしたら、ゴールに到達できません。みんな、この仕事が大事だって分かってるんです。だから、くじけたくないんです。」405教室は、選挙運動事務所のごとき様相を帯びていた。この教室の子どもたちは、リーダーシップの役割を引き受けて、このミッション遂行の円滑化を図っていた。子どもたちは、自分たちの目標を成し遂げるこの機会を喜んで受け入れ、様々な方法でこの難局を乗り越えようとしていた。同様に、ジャリスという児童は、地方政治家にインタビューを行う機会を探り当てた後、日誌に次のように記した。「政治家にインタビューするなんて…会社の経営者になったような気分…自分は本当に重要な人間なんだと感じるし、他のみんなも、自分のことをスゴいって目で見てる。こんなこと、これまでの学校生活で、自分には一度もなかった。」



実を結んだ粘り強さ
 子どもたちが示す不屈の精神、リーダーシップ、粘り強さが実を結んだ。当初は、「教育委員会や市の意思決定者」からすぐには直接的な反応が得られなかったことにいくぶん失望感が広がっていたのだが、学校教育の公平さを求めたこの5年生の請願を知り、返事をくれた人々も確かにあった。地方議会の議員が学校を訪問し、子どもたちに代わってロビー活動を展開したり、大学教授から、このクラスについて研究できないか問い合わせがあったり、ラルフ・ネーダーのような関心を寄せる市民も学校訪問に来たりしたのである。子どもたちは広く認知されるようになり、子どもたちが積んできた途方もない努力が報われることになった。シカゴ公立学校教育局の役人が何も知らないで述べたように、「これまでに子ども主導のカリキュラムなんて見たこともないし、これはそんなもんじゃない。だいたい、バード校の子に、こんな仕事ができる能力があるわけがない」のだから、筆者こそ「この背後にいる黒幕だ」と非難されることもあったが、子どもたちの仕事が注目されていたその原因が、ひとえに子どもたち自身にあったことを、私たちは、クラス全体として知っていた。
 このプロジェクトは、このうら若き活動家たちと接した全ての人に感銘を与えるものとなった。私にとって何よりも感慨深かったのは、バード校の子どもたちが、これほど有意義な仕事に取り組み、対抗物語を紡ぎ出せたことだった。というのも、多くの応援メールに書かれていたように、多くの人々には、その子どもたちが「そのような驚くべき仕事」をしている「インナーシティの子どもたち」だとは全く信じることはできなかったほどだったからである。この子どもたちは、自らの取り組みによって成し遂げたことや、それが伝えるメッセージの意味を理解していた。それは、カマラの「私たちは、やっと、いいことのニュースに出ることになりました。」という言葉に表されていた。この重要な認識は、子どもたちが、自らの資質や能力をよりよく理解し始めていただけに、自分たちのことを信じ続ける上で一つの支えになった。子どもたちは、このプロジェクトの諸問題と取り組む中で、自分たちが求めているものを手にすることはできないかもしれないということは分かっていたのだが、シャニクアという児童が述べていたように、「他の人たちが自分たちの話を聴いてくれて、賛成してくれていたので、作業をしている途中は最高だった」のである。
 その結果、評判になったり、広く知られるようになったりしただけではない。非常に多様な能力や適性を持つ子どもからなるクラスの中で、子どもたちは、自分たちなりのペースで取り組み、計画していた最終結果に最大限影響を及ぼすことができるように様々な役割を引き受けた。子どもたちは、仲間の進展や限界に惑わされることなく、むしろ、一緒に仕事を進めることが快適に感じられるような機会や、いざというときには、自分が個人的に快適でいられる領域から一歩外へ踏み出すための場を提供してくれるような機会を追い求めたのである。このプロジェクトに携わる前には、このクラスで、自分の学習を価値あるものと考える子どもはほとんどいなかった。たとえば、多くの子どもたちは、クラスでの活動に参加できず、宿題を終えられず、しばしば学校を休むような子どもだったのである。
 この年度における統合的なカリキュラムを実施するなかで、他の多くの学校できわめて一般的によく行われるドリル型の試験準備に直接時間を費やすことはなかったにもかかわらず、大半の子どもの、標準化されたテストの点数が前年度よりも伸びたのである。出席率は、前例のない98%に達し、生活指導上の問題も稀にしか生じなかった。子どもたちが高い成績をとったというだけでなく、子どもたちが掲げた学校内の諸問題のいくつかに対する取り組みが進展した。学校の技術職員が何年にもわたり修復を要望していた問題が、ようやくそれに値する注目を浴びることになった。照明や歩道、水飲み器が取り替えられ、ドアが修理され、窓が発注され、液体石鹸のディスペンサーがトイレに取り付けられたのである。
 しかし、チェスターが言ったように、子どもたちは「さえないバンドエイドみたいな応急処置で満足せず」闘いを継続し、承認を得続けた。支援のメールや手紙がひっきりなしに来て、連邦教育省がこの件を調査する公式の「審理」を開始し、クラスの子どもたちはスプリングフィールドまで行ってイリノイ州教育委員会で証言を行い、さらに、「市民教育センター(the Center for Civic Education)」のプロジェクト・シチズン全米大会に、正式な演説をするために参加したのである。子どもたちは、他の多くの栄誉に加えて、ノースウエスタン大学と「憲法上の権利シカゴ財団」から年間優秀プロジェクト及び年間優秀クラスの表彰を受けた。「うら若き戦士たち」ともてはやされ、「1960年代の公民権運動活動家」にも喩えられ、子どもたちは力を与えられた。子どもたちが作ったウェブサイトによると、子どもたちは「自分たちのことを全く知らないのに、自分たちを支援しようとする人たち」からの反応に、いたく勇気づけられたそうである。
 いまや、このうら若き人々の知性やひらめき、興味関心や想像力が目覚めて、その学びを確実に駆動していたのである。わざとらしい活動を中心とする授業のために、私に頼るのではなく、子どもたちは、この問題解決において何が最も重要で、何が最も役立つかという点について、自分たちで責任を持って明らかにしようとするようになった。子どもたちには、本物の問題を解決する必要があったので、丸暗記的な学習に陥ることなく、当然のように、卓越した水準を満たすことができたのである。
 自らの行動計画のおかげで、子どもたちは、お互いに交流し、また自分たちが照準を合わせた問題の解決を助けてくれる可能性がある学外の人々や専門家と接しようという気持ちを持つようになった。各児童が、計画の一部を遂行するために、いくつかの役割を自ら選んで引き受けたので、その取り組みは活性化し、一般の人々からの反応も大きくなっていった。進歩を遂げて、必要な注目を惹くために、子どもたちの示した周到緻密さは、当然ながら、市や州が期待していた水準や目標を充たしていた。実際、子どもたちは、このプロジェクトに積極的に参加するために必要とされる様々な技能を学びたい、また、学ばなければならないと考えていたので、その取組はどんな基準や規程をも優に越えるレベルに達していた。


経験を振り返って
 自分が参加したプロジェクト・シチズンのワークショップ(「市民教育センター」及び「憲法上の権利シカゴ財団」主催)によって、クラスをどうまとめ、どう鼓舞していけるのかという問いについて考える中で、民主主義的なカリキュラムの枠組が405教室で進化していった。その結果、政府がどのように動くのか、また、どうしたら自分たちが、自分たち自身を助けるための変革主体となれるのかということについて学ぶ経験を積んでいくための場と、子どもたちのコミュニティが発展していったのである。振り返ると思い出されるのが、何人かの子どもとのある会話である。その中で、ダイニーシャが、このプロジェクトの仕事を「政府の動き方と動かし方を学ぶ一つの方法」だったと要約していた。この意義深い問題を取り入れることによって、そのカリキュラムは、本物の、かつ自然な総合学習が生じる触媒となった。
 子どもたちは、このプロジェクトを通して、自分たち自身の学びをデザインし、育み、実地に展開していくことに積極的に参加する機会・場・責任を与えられた。このクラスになる前は常習的に無断欠席していたクラウンという児童との会話を思い浮かべると、このカリキュラムがいかに強力なものだったかをまざまざと感じる。彼は次のように話した。「学校が自分のための場所だと感じたことなんてなかった。学校が自分の人生で助けになるなんて思わなかった。けど、このプロジェクトのおかげで学校に来るのが好きになったんだ…もう、前に慣れっこになってたみたいな退屈な学校って感じじゃなくなったんだ。」彼の変化、そして、勉強への取組は、その出席率の高さとともに、民主主義的なカリキュラムの力を如実に示すものである。全ての子どもたちが、このチームの批判的なメンバーとなることを認められ、する価値があるものは何かということについて自分なりの考えを持つことができたのである。
 私がこうした子どもたちの教師として学んだことだが、教育内容は、予め規定され、どの教師が担当しても代わり映えのしないカリキュラムから具体的目標を無理矢理準備することによって子どもたちに注入するものではなく、子ども自身から出て来るものなのである。洞察と創造を促し、それらを高く評価することで社会経済的地位の高い子どもたちに資するよう努める学校と同様に、アフリカ系アメリカ人の子どもたちは、目的的活動を通して自らの声を他の人々に届けたのだ。この5年生たちは、もはや沈黙させられてはおらず、その決断力と不屈の精神によって、カウンター・ナラティブ(対抗物語)をはっきりと声にするようになったのである。
 たしかに、カリキュラム上、本物の問題を扱い、教室に民主主義的な理念を作り出そうとすることに伴うリクスは存在する。子どもたちは、もはや、上手くあしらわれた指導案に守られることはなく、人々は、子どもたちが、とりわけ都市中心部のアフリカ系アメリカ人の子どもたちが、そんな重大な現実的問題を引き受けることができるのかと訝しむであろう。この学校の極めて協力的だった校長でさえ、このプロジェクトから子どもたちがどの程度のことを学べるのかということについては疑念を抱いていた。彼は、ナショナル・パブリック・ラジオのインタビューで、こう述べたのである。「もしこれといって何も起こらないとなれば、『欲しいものを全て声に出しても、君たちの声は小さすぎて問題になどされないよ。』と言われることになるでしょうね。」と。今や、校長を含め誰であれ、このプロジェクトから生まれ、なおも生まれ続けるレッスンや学びが、どの人の予想をも優に越えたものになっていると言い切るだろう。ルアランという児童が、ある日の日誌でこの考えを簡潔にまとめて、次のように述べた。「新しい学校を建ててもらうという完璧な解決になればいいですが、正しいことのために闘うとすごいことが起こるということはもう分かりました……たとえ新設の学校が立つことにならなくても、俺たちはすごいことをしたんです。自分たちを応援してくれる手紙の一つに『目覚ましいことは、途中で起こるものだ!』と書いてあったみたいに。」たしかに、カブリニ・グリーンにおいて協働で創造したカリキュラムの結果として、私たち全員の身に目覚ましいことが生じたのである。
 この経験について考えてみると、担任教師とそのクラスの子どもという公式上の関係が終わって1年経過した今でも、なおその教え子たちと交流があり、今なお、その子どもたちから学んでいることを、いつも実感している。私たちが一緒に開発したカリキュラムは、私たち全員に絶えず大きな影響を与えてきた。私たちの経験について語る機会が引き続き生じても、いつも子どもたちは上手く対応してくれる。この文章をまとめている時にも、説明をどう組み立てるかということについて子どもたちにも一緒に考えさせて、私が書いた文章を子どもにも読んでもらって感想を聞くことが、適切であるというのみならず必要不可欠だと私は考えた。
 このプロジェクトについてこのクラス子どもたちが用いる表現が、今なお「成果ではなくプロセスを」という信条に忠実であるかどうかに興味があって、私は、この教え子たちの言葉に熱心に耳を傾けた。私は数名の子どもと原稿を読みながら、以前私が書いたものを見せて、このプロジェクトについて今でも残っている想い出について尋ねた。1年経って子どもたちが何を考えているのか聴きたかったのだが、マリックという子どもの言葉は私の認識を裏付けてくれた。彼は言った。「去年は、今までの学校生活で最高の年だった。学校っていうより、家族みたいっていうか。それにいっぱい勉強した。文章の書き方、インタビューの仕方、いい質問の仕方とか。」このプロジェクトから私たちに降り掛かってきた冒険のいくつかについて想い出話にふけっていると、マリックが忘れずにしっかりとこう付け加えた。「僕は前には一度もしたことがないことをいくつもしたんだ。もしチャンスがあれば、もう一度全部やってみたいくらいだよ。」同じように、ディミトリウスもその年を「忘れられない年」だと思っており、「自分たちが欲しいものを手に入れようって必至に頑張って、それが手に入らなかったとしても、本当にいっぱいいろんなことをやり遂げたんだ。だるい学校のお勉強じゃなくて、イケテることをして、それに、自分たちがしてたことにはちゃんとした理由があった。本当にそうだった。」他の子どもたちも、そこでの取組や闘いが全く価値があるものだということに頷くことができた。それは、シャニクワの次の言葉の通りだった。「その1年、もう何をしても無駄なんじゃないかって、そんな感じになったときがあるのを覚えてるけど、どの子も自分の学校でこういうことをやったほうがいいって、今では思うの。それに、いっぱいやることがあったけど―あり過ぎだったけど―最高だったし、他の子たちができないようなことができてよかった。」
 私の書いた文章について話し合いながら、子どものうちの数名が、その視点や記憶に基づいて、原稿に加筆修正を加えてくれた。いくつかの変更を加えつつ、私は、クラウンという子どもと、このプロジェクトとの関連で、人種や階級、特権といった問題の議論に入っていった。私は彼に尋ねた。「白人で中産階級の教師としておまえたちのことを書く俺って、何なんだろう?」クラウンは真っすぐに私の方を見て、躊躇なく言った。「俺から見て、先生は、勘違いやろうみたいに話してるってことはないよ。だって、黒人のことを悪く言ったりしないっしょ。黒人の味方をしようとするし、黒人の考えてることをわかってくれるじゃん。」 


この文章に登場する子どもの名前は、プライヴァシー保護のため全て偽名である。


参考文献
Schubert, W. H. 1986 Curriculum: Perspective, Paradigm, and Possibility. Upper Saddle River, NJ: Prentice Hall.

本章原稿は、タイウォン・イースター、マニュエル・プラット、ダヴィエル・ボンズ、ラマリウス・ブリューワー、パリス・バンクス、カプリス・プリュイット、リッキー・ウォラスというバード・コミュニティ・アカデミー卒業生の協力を得て準備されたものである。


※この翻訳は、平成21〜23年度日本学術振興会・科学研究費補助金(基盤研究(C))「現代アメリカ合衆国における批判的ペダゴジーの最前線:ポストNCLBの理論と実践へ」(研究代表者・澤田稔,課題番号21530894)による研究成果の一部である。