セントラル・パーク・イースト中等学校:困難なのは、やって見せることだ

デボラ・マイヤー
ポール・シュワルツ
(訳 澤田稔) 


編者序文
 中等教育の多くの教員は、官僚による過剰規制がもたらした萎縮効果に直面しながら、より進歩主義的・民主主義的で、学習者中心の学校をつくる可能性を探ろうとしてきた。いまでも、こうした試みとして、公立学校体制の内部に含まれているものとして、独立した代替学校(オルターナティブ・スクール)と、一つの比較的大きな総合制中高校の内部で様々な資源を共有する学校内学校(スクールズ・ウィズイン・スクール)との両方がある。いずれの場合にも、ほとんど常に、これらは、従来型の学校よりも小規模で、したがって、大規模校にありがちな非人称的匿名性を克服し、より民主主義的な学びのコミュニティを生み出している。この章では、デボラ・マイヤー氏とポール・シュワルツ氏が、おそらく、合衆国で最もよく知られたオルターナティブ・スクールである、ニューヨーク市のセントラル・パーク・イースト中等学校のことを描いている。本章を読む上で注目すべき重要な点は、そこで概要が示される「精神の習慣(ハビッツ オヴ マインド)・作業(ワーク)・心(ハート)」にくわえて、同時に、このセントラル・パーク・イーストは、いろいろな教科の厳格な州規模テストが実施される体制に、生徒たちを備えさせていたという点である。
※訳注:この編者序文は、Democratic Schoolsの編著者M. W. AppleとJ. A. Beaneによるものである。




 オルターナティブ・ハイスクールの一つである本校、セントラル・パーク・イースト中等学校(Central Park East Secondary School: CPESS)は、この20年にわたってセントラル・パーク東地区の小学校群でつくり出され、好結果を生んでいる学習環境を発展させたものである。この中等学校は、地域学校委員会第4部会、ニューヨーク市教育委員会オルターナティブ・ハイスクール局、および、ハイスクールの全国的な組織網であるエッセンシャル・スクール連合(the Coalition of Essential Schools)の共同プロジェクトによる。
 本校は、1985年秋に、第7学年の生徒80名とともにスタートした。この学校には、通常、第7学年から第12学年までの450名の生徒が在籍している。本校が、これ以上大きくなることはないだろうが、ニューヨーク市には、新たな連合加盟ハイスクール11校が創設されることになった。本校に通う生徒たちは、大半が近隣地区(イースト・ハーレム)の住民である。生徒の85%は、アフリカ系アメリカ人、あるいはラテン系アメリカ人で、まだ20%強の生徒が、特別な教育のサービスを受ける要件を満たしている。本校の生徒を、転校した生徒も含めて注意深く追跡調査した結果、在学していた生徒の97.3%がハイスクールを卒業し、そのうち90%の生徒が大学・短大(カレッジ)に進学したことがわかった。
本校の基本的な目標は、自分の精神(マインド)をうまく働かせる方法を生徒に教えることであり、生産的で社会的に有用な、また個人的にも満足のいく充実した人生を送れるようにすることである。この学校の学業面でのプログラムでは知的到達度が重視されており、特に重要な一定数の教科を習得することに力点がおかれている。このようなプログラムには、それと一体となっているある注目すべきアプローチがある。そこでは、協働と個人的責任との両方が求められるような複雑な問題点について、いかに学習し、いかに推論し、いかに調査するかに力点がおかれている。
 ハイスクール修了時の卒業証書は、授業に出席した時間数やカーネギー単位によってではなく、各生徒が〔後に述べるような〕14のポートフォリオを卒業認定委員会に提出して一定の成果を収めたことが証明されることによって授与される。本校が価値をおくものには、高い期待、信頼、ある種の人格的品位、また、多様性の尊重というものが含まれている。本校は、あらゆる生徒に開かれており、各生徒には多くを期待する。
 本校は、テッド・サイザー(Ted Sizer)が会長を務める全米的なハイスクールの組織、エッセンシャル・スクール連合の方針によって導かれている。当連合の方針には、次のような項目が含まれている。 
1. より少なく学ぶことはより多く学ぶこと(Less is more)。多くのことについて表面的に知ることよりも、〔数は少なくとも〕いくつかのことについてよく知っていることのほうが重要である。
 2.個別化(Personalization)。教育課程(コース・オブ・スタディ)が統一化・普遍化されていても、授業や学習は個別化されている。〔一度の授業で〕80人以上の生徒を教えたり、15人以上の個別指導生を担当したりする責任を負わされる教員がいてはならない。
 3.目標設定(Goal setting)。すべての生徒に高い要求水準が設定される。生徒は、学校における作業で学んだことが完全に習得されていることをはっきりと示さなければならない。
 4.作業主体(worker)としての生徒。本校の教員は生徒の「コーチ」役を務めて、生徒が自ら答えを見出すのを促し、実質的に、生徒自らが自分の教師となるよう奨励する。こうして生徒は、回答や解決法を発見し、単に教科書(あるいは教員)の言うことを反復するのではなく、むしろ、実際にすることにより学ぶ(ラーン・バイ・ドゥーイング)。


精神の習慣(ハビッツ オヴ マインド)、作業(ワーク)、心(ハート)
 1992年5月2日、金曜日のことだった。セントラル・パーク・イースト校の生徒たちは、その週はずっと、ロドニー・キング事件の評決やロスアンゼルス暴動の余波が消えない中で、自分が強く感じたことついて話し合ったり、それを筋道立ててまとめたりして考え続けていた。折しもその日、ミシガンのある小さな街から、メンバー全員が白人のコーラス隊がやって来て、私たちのために歌を披露してくれることになっていた。ロスアンゼルスの街に火の手が上がり、おそらくは街の人々に死の恐怖が迫っていたときに、このコーラス隊は、大半がアフリカ系アメリカ人、またはラテン系アメリカ人の子どもたちからなる聴衆、しかも、その多くが抗議に立ち上がりたいという溢れんばかりの気持ちを、なお抑えきれずにいる聴衆と向かい合っていたのだった。そこにはピンと張りつめた空気が流れていた。と、そのとき、最高学年の生徒の一人が壇上に歩み出て、少し話をさせてもらえないか、そうすれば、場の雰囲気もよくなるように思う、と言い出したのである。
 「僕は、ここに上がって、このところ僕らが経験してきたことを、ここにいるみんなに話すことにしました。上の学年の生徒から聞いて知ったんですが、たくさんの生徒が、最近ロスアンゼルスで起こっていることについて話をしていて、この事件に心を痛めているらしいんです。」
 「僕はただ、ぼくらの敵なんて、ここには一人もいやしないって、言いたかっただけなんです。……それに、僕らは、まとまらなきゃならないんだって。」
 「……それと、たくさんの人たちが来てくれているって……。ミシガンから、でしたよね?」これを聞いた生徒たちが笑う。「ミシガンからで、カリフォルニアからじゃなかったですよね?」生徒たちから、さらに大きな笑いが起こる。
 「この人たちが、ここで今しようとしていること、ここに来てくれた人たちが、ぼくらのためにしようとしてくれているのは、それだけなんです。ここにこの人たちがいるのは、僕らの気分をよくするためじゃない。ここに、この人たちがいるのは、歌を歌いたいからなんです。自分たちが積み上げてきたものを、僕らに見せたいからなんです。」
 「この人たちは、敵なんじゃない。この場所には、僕らの敵なんて、一人もいない。もし、僕らが手を結んで、まとまることができれば、僕らが他の人たちのようにバラバラになったりしないということを、この人たちに見せることができるんです。」喝采と歓声が、その場を埋める。
 「やらなきゃならないことは、やらなきゃならない。けど、ここに来てくれている人たちに怒りをぶつけても、僕たちには何にもならないじゃないですか。」

 税金で賄われている学校の主要な公的責任と正当性が、同胞としての市民を育成することにあるとすれば、学校は−その必然として−ここで言う民主主義の核となるような、精神の習慣、作業、心を生徒が学ぶ場所でなければならない。
 人は、これまでに一度も−感情移入的にでさえ−経験したことのないことを、うまくできるようになることなどない以上、当然、学校は、そのような民主主義的な習慣となりうるものを経験できるにふさわしい場所となるべきなのである。この点は、次のことと同様に単純なことであるが、同時に同じくらい複雑なことでもある。ゲームが行なわれているところを見たことがなければ、そのゲームができるようにはならない。また、誰かを音楽家にしようとすれば、必ずその人を音楽家の仲間に、しかも、特に秀でた音楽家の仲間に入れようとするのである。
 本校での私たちの課題は、こうした理念をもう一度真剣にとらえ直し、子どもを育てるという仕事を、このような基本的方針に引き戻すことだった。子どもたちを、同程度に無知な成員からなる集団におくのではなく、また初心者の前で自分の技法(クラフト)をみせることができる特に優れた者(エキスパート)が一人もおらず、子どもたちはそれについておしゃべりをするだけで終わるというような集団に子どもをおくのではなく、むしろ、私たちは、それと正反対の状況をつくり出そうとしたのである。
 私たち筆者が初めて仕事に就いたのは幼稚園だったのだが、その幼稚園の理念を、ハイスクールの教員になっても−そして、その後もずっと−持ち続けることができればと私たちは考えていた。私たちが望んでいたのは、ちょうど優れた幼稚園の教室がそうであるように、ごく自然な設計がなされていながら、それでいて興味をかき立てられるような校舎だった。あるいは、子どもも教員も、ともに思わず扱いたくなるような話題や題材を中心にして、最初からあまりガミガミ言われることなく、長期にわたってそれぞれのやり方で仕事(ワーク)ができる場所だった。また、私たちは、何かあることについて最も不得手な者が、それを最も得意とする者をじっと観察して、自分のペースで試みることができるような機会があればよいと考えていた。互いの作業を通して、また−教員仲間(カリーグ)や生徒仲間により−実際に行なわれていることを詳しく観察することを通して、互いに知り合えるような環境を設定したかったのである。真に同等な仲間同士の場を。
 だからこそ、私たちは、自分たちの学校が、小規模集団で、いろいろな年齢の者がいる、親密で、興味深い集団でなければならないことを心得ていた。家庭と学校は、子どもを育てるという、それぞれに割り当てられた務めに責任を負うべき2つの制度として、手を組む必要があった。家庭と学校との間で協力して、成長という理念が、すばらしく魅力的なものと見えるようにするための、また、どんな子どものことをも含み込むほどに、特に多様な意味を持つようにするための方法を見つけ出されなければならなかったのである。さらに、絶えず拡大している議論の場(プラットフォーム)において、公私両面で効果的な役割を果たす器を持った力強い市民(パワフル シチズン)になるという理念が、実現や創造が不可能なものではなく、魅力あふれたものとして受け取られるようにする必要があった。
 こうしたことこそ、優れた学校教育が成しうることなのである。とはいえ、それには、このような大げさで冗漫なレトリックの虚飾を排して、こまごまとしたことであっても重視すべきことをつぶさに見出していくことが必要だった。筆者たち二人は、それとちょうど同じようなことを、幼稚園の教室づくりに取りかかったときに行なっていた。つまり、私たちは、常に特定の子どものことを思い浮かべ、また、特定の目的を念頭に置きながら、教室の隅に置く積み木から、砂遊び用のテーブルにいたるまで配置を工夫し、さらに特定の本を選定し、鉛筆や絵の具をそろえ、美術作品を置くという仕事に日々勤しんだのである。
 だから、私たちが、セントラル・パーク・イーストで学校づくりを進めるにあたっては、時間をかけ、一つひとつ積み上げていくようにした。そして、その過程で、私たち自身も変化していった。さらに、その際、共通の目的をもつとともに、あふれるほど多くの物語に彩られてもいる〔学校という〕場所のこまごましたことすべてに注意を払った。私たちは、人々が−つまり、生徒同士が、あるいは生徒と教員が、また教員同士や教員と保護者が−自分の考えていることを、ともに声高に唱え、協力して意思決定が行なえるような仕組みをつくり出したのである。私たちは、「精神をうまく活用すること」−それは、エッセンシャル・スクール連合全体として掲げている課題でもあった−とは、何を意味するのかを明確に定義する必要があった。ある人物をまさに民主主義的な市民にする精神の習慣とは何なのか、ということも明確化する必要があった。私たちは「善き市民」である友人たちを思い浮かべ、その友人たちが、いったいどんな特性を共通にもっているのかを考えてみた。それが一定量の事実や知識を記憶のなかから呼びおこす能力を指しているのではないことは確かだった。もっとも、それは、その友人たちが、日常生活上のこまごまとした事実や知識に興味がなかったということではない。私たちにとって、理想的な市民というものを明確に定義づける特性には、二つあるように思われた。それは共感(エンパシー)と懐疑的態度(スケプチシズム)であった。すなわち、一つの状況を他者の視点から見ることができる能力のことであり、また、私たちが出くわすさまざまな事例について、本当にそれでいいのだろうかと考えようとする態度のことである。
 思慮に富む人物、つまり、私たちが誇りをもって本校の卒業生だと言いたくなる人物の操作的定義を示すならば、それは、以下にあげるような5つの問いに取り組む習慣が身についていることをはっきりと示すことのできる人物であり、しかも、そのことを、多彩な方法で、きわめて多くの学問的分野(ディシプリン)にまたがって示すことができる人物である。

 ・自分が知っていることは、どうすればわかるのか。(証拠・証明(エビデンス))
 ・これは、誰の視点からの提示されているものなのか。(観点(パースペクティブ))
 ・この出来事や作業(ワーク)は、他の活動とどんなつながりをもっているのか(連関)
・もし事情が違っていればどうなるか。(仮定)
 ・このことが重要なのはなぜか。(妥当性)

 まったく新しい状況に直面した際、こうした五つの問いに対する答えを探し出そうとする習慣をもつ者こそが、自己の精神をうまく活用している人物なのだと私たちは考えている。そして、この考え方を中心にして、本校のカリキュラムや評価方法をまとめた。むろん、そのニュアンスや語彙や道具立ては、物理学と文学や幾何学などとの間で異なってはくる。しかしながら、もしこうした問いが適切な問いであるなら、それらは、遊び場でも、作業〔=勉強〕の場でも適合するはずである。そして当然、真空状態のなかでは、そのような習慣を身につけることも、活用することも決してできない。そうした習慣は、適切な教科学習の中に深く埋め込まれているのである。つまり、この習慣が身につけられるかどうかは、読むことや書くこと、論理的思考、コンピューターの操作、調査研究、また、これらに質的内容を与える科学的探究といった技能を、学習者が活用できるどうかにかかっている。しかし、私たちは、上に述べたような習慣には、教科や年齢を超えた普遍性が備わっていると常に考えている。上にあげた五つの問いを自分に対して投げかける人物こそが、考える力を持つ人物なのである。
 実際、私たちがとった最大の措置は、次のような決定であった。すなわち、生徒は、自分がそのように考える力をもっていることを、指定された14の作業領域で繰り返し証明することによって、そして、ほぼそれだけに基づいて、セントラル・パーク・イースト校の卒業が認められるという決定である。私たちはこれを「ポートフォリオ卒業」と呼んだ。 もっとも、本校のポートフォリオは、単に何か書かれたものを寄せ集めたものではなく、それによって、私たちが詳細に示した卒業基準を、その生徒が満たしていることが十分明らかになっていると生徒自身が考えるものであれば、どのようなものをまとめてもよいというものなのである(次頁参照)。
 私たちは、博士論文の審査委員会に少し似た卒業審査会を発案した。卒業審査会は〔各生徒につき一つずつ構成され〕、少なくとも二人の教員、卒業生徒が選んだ大人一人が含まれる。委員たちの仕事は、生徒が自分の能力を示す証拠として提出するものを読み、吟味し、観察し、その話に耳を傾け、さらに、改訂や認定のために適切な勧告を行なうことである。当初は、このような過程を想像することさえ難しかった。しかし、今日では、この後の 頁に記したような物語に刺激されて、私たちは、時間を要するこの過程に力を注ごうという決意を新たにしている。

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14のポートフォリオの領域:生徒と保護者のための概説
 上級学年部(第11及び12学年)の生徒の主要な責務は、後に示すような14のポートフォリオ要件を満たすことである。
 これらのポートフォリオは、セントラル・パーク・イースト校における一定の精神の習慣や作業だけでなく、個々の領域において積み重ねてきた知識や技能をも反映するものとする。生徒は、ポートフォリオ14領域すべてについて、その作品を自分の卒業審査会に提出し、検討および認定を求める。生徒は、自らの作品(ワーク)を提出し、それについて論じ、それを擁護するために、自分で選んだ7つの「専攻」に十分な検討を加えるための審査会に出席することになっている。したがって、生徒は、次の二つの段階を心に留めておかなければならない。すなわち、(1)指導教員(アドバイザー)やその他の人の協力を得て、提出するポートフォリオの内容を準備すること、(2)そのポートフォリオの内容について発表を行い、口頭試問を受けること。場合によっては、ポートフォリオが、最終的に認定されるように、それをさらに発展、修正、再提出する必要が生じることもあろう。また、生徒は、より高い評価を得るために、再度、作品の提出・発表をすることを選んでもよい。
 次のことを留意しておくことが重要である。つまり、ポートフォリオとの関連で行われる作業の大半は、生徒が、上級学年部の通常課程の間に受けた授業、セミナー、校外研修(インターンシップ)、自主研究(インデペンダント・スタディ)の成果であってよく、また、そうであるべきだということである。くわえて、提出するポートフォリオの一部分は、第一学年区分(第7及び8学年)及び第二学年区分(第9及び10学年)に始められた学習を発展させたものであってもよい。あるいは、特殊なものの場合(たとえば、英語以外の言語によるポートフォリオ等)は、上級学年部に進学する前に完成した作業・作品でもよい。
 ポートフォリオは、14領域の作品を含み、それが七つの「専攻(メジャー)」と七つの「副専攻(マイナー)」に分かれる。これらの要件を満たす何か一つの方法というものはなく、また、ただ一つの発表の仕方というものもない。人間はみな異なるのだから、個々のポートフォリオは、そうした違いを反映することになる。ポートフォリオ(・・・・・・・)という用語は、生徒が、自分の知識、理解力、技能を示す際のあらゆる方法を包含するものである。本校は、その生徒にとって可能ならばいつでも、〔複数の教科にまたがる〕学際的研究を行うことを奨励する。よって、ある領域の要件を満たすために完成した作品を、同時に、別の領域の要件を満たすものとすることもできる。
 ポートフォリオの最終的な検討は、個々人の業績に基づくものではあるが、一方で、ほぼ全ての領域におけるポートフォリオの要件は、グループ発表等、他の生徒との協働によってなされた作業に基づくものであってもよい。そのような協働作業・作品はとくに奨励される。というのも、それによって、生徒が、より一層複雑で興味深い企画に携わることができるからである。
 理解が深くその質が高いこと、本校の五つの精神の習慣をうまく活用していること、それぞれ特定の領域に関して妥当と見なしうる熟達度(マスタリー)を的確に、説得力をもって発表する能力があること、これらが卒業審査会によって用いられる主な規準(クライテリア)である。しかしながら、ポートフォリオ作業・作品は、実質的内容と表現形態の双方に対する関心を反映するものでなければならない。たとえば、文書による作品は、明確で、文法的に正しい英語で提出されなければならず、当然、その英語は、綴り、文法、読みやすさの点で、高校卒業段階で期待される習熟度(プロフィシャンシー)を反映するものでなければならない。誤字脱字等は、ポートフォリオを委員会に提出する前に修正しておくべきである。文書による作品は、原則的に、タイプ原稿のかたちで提出しなければならない。ポートフォリオの準備や発表における場合と同様の配慮が、他のあらゆる作業・作品にも適用されるべきである。ポートフォリオ作業・作品は、その生徒の最大限の努力を反映するものとなるべきである。同様のことが、発表の仕方にも当てはまる。
 ポートフォリオの各領域には、多かれ少なかれ、それに関連する様々な特徴がある。たとえば、学問教科領域には、各科目ごとに独自の「採点表」が開発され、それによって生徒や卒業審査会のメンバーが、適切な基準に客観的に焦点を合わせるのに役立つからである。時の経過とともに、新たな採点表が作成されることによって、また、認定された技能のレベルを示す生徒による過去の作業・作品がポートフォリオに入れられることによって、認定可能な実績(パフォーマンス)を決めるための諸規準が、さらにいっそう十分なかたちで設定されていくことになろう。生徒には、自分が評価される際の諸規準を(採点表についても、過去の卒業生の作業・作品についても)熟知しておくことが期待される。
 何度か開かれる卒業審査会にあたって、生徒は、ポートフォリオの内容だけでなく、コンピューターに関する知識や、特定の分野における自分の成長に関して議論するための準備をしておくべきである。
 以下に、ポートフォリオの14の領域を揚げておく。
1. 卒業後の計画
2. 科学/技術
3. 数学
4. 歴史および社会科
5. 文学
6. 自伝
7. 学校・コミュニティでの奉仕活動、及びインターンシップ
8. 倫理および社会問題
9. 美術/美学
10. 実践的技能
11. メディア
12. 地理
13. 英語以外の言語/二重言語習得
14. 体育(Physical Challenge)
上級学年(シニア)プロジェクト
 上にあげたポートフォリオの題目・項目のうちの一つが最終的な卒業プロジェクトとして、それ以外のものと分けて評価される。各生徒は、上の14の領域のうち七つを専攻として発表することが求められる。この専攻の中には、上にあげたもののうち星印のついた4つの領域のポートフォリオを含み、それ以外に、少なくと三つの専攻を指導教員と相談して決めなければならない。全体としての成績をつけるにあたっては、特優、優、良、可の四段階評定が用いられる。七つの「副専攻」のポートフォリオに関しては、合格・不合格という評定だけが行われる。合格判定は、指導教員の推薦と、卒業審査会の承認に基づく。
 しかしながら、生徒は、指導教員に何らかの成績(特優や優など)を要求することができる。この場合に、生徒は、審査会がその評定に関連するすべての提出物を再検討し、求められた成績に関して議論するだけの十分な時間を審査会に対して与えなければならない。そうした成績が認められるかどうかは、審査会全体の承認次第である。

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卒業審査会の一場面
 とある9月の金曜日、午後のこと。モニークという生徒の卒業審査会が、初めて開かれることになっている。私たちがモニークの母親の到着を待っていると(各生徒は、卒業審査会の審査委員に学校の教員以外の大人を一人選んでよいことになっており、モニークは、自分の母親を選んだのである。ある種の常識に従うなら、それは常に危険な選択ではあったのだが)、モニークは、緊張のあまりじっとしていられない。「トイレに行っとかないと。」と彼女は言って、この15分ほどの間に3回もトイレに立っている。
 ついに、私たち審査員全員が、校長室のテーブルを囲んでそろって席につき、モニークが発表を始める。彼女は、保健医療サービスにおけるエイズ差別を扱ったレポートを発表することにしていた。彼女は、自分のレポートのことに触れるのだが、それは時折そうするという程度でしかない。発表し始めるときの彼女の顔色がよくない。彼女は、ガチガチに緊張して座っている。それは、ふだん彼女が、この年代の子どもがよくやるダラッと前屈みになって座っている姿とは対照的だ。そして、ほとんど全ての文を「私が出すのは……」という言葉で始める。たとえば、「私が出すのは、救急治療室で働く看護婦さんとのインタビュー記録で、その中で私は、直接エイズと関わらない仕事が主要な任務である医療の専門家の感じていることを話そうと思います。」というふうに。
 モニークは、自分の発表を終えて、「何か質問はありませんか」と尋ねる。彼女には、質問が出ることがわかっているのだ。ここは、彼女が、本校の卒業の証であるあの五つの精神の習慣を身につけたかどうかを、審査会のメンバーが見極めようとする会議の一部である。私たちは、彼女がもっている情報の出所を示してくれるよう、穏やかに質問を始める。彼女は、簡単にこの質問に対処する。生徒たちは、審査会でどんなことがあったかということについて、いつも友達同士で話し合っているので、モニークは、情報の出所について質問されることを予測できたのである。
 ところが、ここで質問は、にわかに予想を超えたものになる。「モニーク」と私は尋ねる。「あなたは、患者について十分知りもせず、その人たちの許可も得ないで、HIV検査を行った医師たちのことについて話してくれましたね。あなたは、それを悪い事だ、プライヴァシーの侵害だと考えている。ちょうど、このあいだの日曜日、キューバについてのテレビ番組を見てたんだけど、そこでエイズ感染に対するお医者さんたちの対応を見たの。キューバでは、誰でも検査されるの。お医者さんたちは、許可なんて得てないですよ。お医者さんは、HIV検査で陽性反応の人を見つけると、その人たちを隔離するの。その人たちは、十分な食べ物と、すばらしい医療保険サービスを受けられる快適な場所に移されるのね。けれど、その人たちは、そこから出られない。私が言いたいのはそれだけ。その一つの結果として、お医者さんたちは、その病気が広まるのを大幅に抑えてきたわけ。ここで、もしそういうことが行われたらどうしますか。」
 モニークは、ここでは自分の力だけでなんとかしなければならない。彼女が、このような質問が出ると予測していなかったことは確かだった。そして、彼女はもう「私が出すのは」という言葉で、自分の答を始めることはできない。しかし、その瞬間、何かが彼女の中で起こった。目に見える変化が生じたのだ。こうしたことを、私は卒業審査会の場でしばしば目にしてきた。モニークは、もう口ごもったりしない。背筋をピンと伸ばし、体を前に乗り出す。そして、私の目を真っすぐに見据えて言う。
 「私の父は、エイズで亡くなったんです。だから、私は、このポートフォリオについて最初に発表することに決めたんです。これは、私には、本当に大事なことなんです。」
 彼女は、続けて言う。
 「私は、エイズを防いだり、エイズの進行を少しでも遅らせることなら、どんなことにも賛成します。けれど、自分が検査されていることが、その人たちに知らされないということについてはどうかわかりません。私は、その問題のいい面についても、悪い面についても考えられますから、どちらかに決めつけたくないんです。投票して決めるべきだと思います。」
 「誰が投票すればいいんですか。」と、私が尋ねる。
 「全員です。」彼女が即答する。「ちっちゃな子どもでも。このことは、すごく重要なことだから、みんなが投票することができて当然です。」
 審査会による試問が、1時間にわたる発表と質疑応答ののちに終了する。審査会のメンバーは、本校で作成された採点表を埋める。そのうちの一つは、ポートフォリオのなかで最も中心的なプロジェクトを評価するためのものである(ポートフォリオは、一連の作業・作品をひとまとめにしたものである)。もう一つは、今回のポートフォリオ、つまり、彼女が最初に出す七つの専攻に関するポートフォリオに成績をつけるための、表形式の採点用紙である。
 私はモニークに、成績―優よりもさらにいい成績―を言い渡し、その上で、私たち審査委員が、彼女の作業についてとくにすばらしいと思った点や、こうすればもっとこのポートフォリオはよくなったかもしれないと考えられる点について総括的に伝えた。すると、彼女は、口を、その両端が両耳に届くほど大きく開いてニヤニヤ笑っている。彼女は、幼い頃の自分に返っている。ほとんど私たちが言うことも耳に入らず、そそくさと、「失礼します」と断って、ロビーで待っている親友のユイザやフランセスのもとに話しに出て行く。
 私は、レポートと採点用紙や採点表を脇において、次の卒業審査会の準備をする。カルロスが、文学に関するポートフォリオを発表しようとしている。いや、むしろ、彼は、自己の精神をうまく活用するという習慣が身に付いている人物として、自分自身のことを示そうとしているのであり、文学という領域における自分の作業・作品を通して、自分がそうした特質をもっているということを明らかにしようとしているのである。
 放課後、私が同僚教員に会うと、なぜそんなに興奮しているのか、と尋ねられた。それは、モニークの場合のように、審査会の審議中に、様々な人たちと一緒に、私たちの仕事の成果を、この目で確認できることがあるからだ。本当に多くの教師や保護者や生徒たちが、隠れたところで何時間も頑張って努力したことがわかるのである。何度か開かれる審査会は、最終的な評価の場ではなく、それは、むしろ「給料日」のようなものだ。つまり、生徒たちが、非常に長い間、本当に一生懸命、勉強し、読み、書き、議論し、考えてきたことに対して、具体的なかたちで報奨が与えられる時なのである。
 そして、時に、私は魔法を目にする。手品ではなく、子どもが初めて歩くとか、初めて言葉を話す時の魔法。その人が、自ら手に入れる魔法。生徒たちが、考える者として成長するという、また、自信を手にするという、あるいは、自己の知力(マインド)を誇示するという魔法―若い人が、自分の目の前で、自信を持ち、思慮深く、有能なひとりの人間に変化するという魔法である。

私たちが選んだ方法
 私たちは、ここまで述べてきたような、厳格であると同時に、人間同士の関係を重視した卒業審査会をどのようにして創り出したのか。教員が、幼稚園の先生のように細部まで目端を利かせることができるような校内組織をどのようにして創ったのか。私たちが生んだ変化は単純なものではない。そうした変化によって、私たちは重い選択をせざるをえなくなくなり、その選択のそれぞれに犠牲を強いられたのである。
半日単位のテーマ中心授業
 本校は、第7学年から第10学年までのすべての生徒に、共通のコア・カリキュラムを提供しており、それは主要な2つの領域を中心に編成されている。つまり、学校日のうち半分は数学/理科が中心となり、残り半分は人文(芸術、歴史、社会および文学)が中心となっている。
 各授業は一つのテーマを中心としている。たとえば、ここで2つの研究テーマを紹介しよう。一つは人文の、もう一つは数学/理科のもので、ともに第�学年区分、つまり第9および第10学年のカリキュラムのものである。
・正義(justice):法および政府のシステム。1年にわたって取り扱うこのテーマのなかで、正義に関する少なくとも2つの異なる概念が探究される。一方は、社会的に合意が得られているもので、もう一方は、社会的に対立するものである。公平、紛争の解決、平等といった考え方を、合意が形成されている面と対立している面との両面で検討する。アメリカにおける正義のシステム、および法に関する、特に重要なこれまでの事件を詳細に検討する。生徒は訴訟事件の摘要書を準備し、そこでの主張を弁護することで、扱うテーマに関する直接的経験を〔模擬裁判を通して〕積む。生徒は陪審員制度について、および証拠というものの本質について探究する。この研究における最も重要な問いは、権威はどのように正当化されるのか、紛争はどのように解決されるのか、正義、道徳、公平さというこれらの言葉は同じ意味なのか、という問いである。
・運動そしてエネルギーの諸力。これは、次に示すような本質的な問いを中心に、2年間にわたって取り組むテーマである。つまり、物体はどのように運動するのか、エネルギーはそれがとるさまざまな形態において、どのような働きを示すのか、エネルギーは、いったいつくられるものなのか、それとも失われるものなのかという問いである。これらの問いを調べていく際に、生徒がとりくむプロジェクトして、たとえば独自に遊園地の乗り物を設計し、その分析を行なったり、あるいは投射物(たとえば、飛んでいるバスケットボールや矢)の科学的分析を行なったりすることがあげられる。生徒は、市販されているさまざまなコンピューター・ソフトウェアを利用して、投射物の運動や、2つあるいはそれ以上の物体の衝突をモデル化したり、分析したりしたことがある。このテーマには、科学的方法論や、統計上・確率上のテクニックを重視することも含まれている。生徒はまた、計算、測定、位置、作図といった数学上のテーマを研究し、それによって代数、幾何、三角法、数学的変換、ベクトル、行列に関するより密度の濃い学習に至ることになる 
 第7学年から第10学年において、各授業の時間は、1時限=2時間となる。各教員は、一般的に他の多くの高校で行なわれているように1日に5つのクラス=授業(1時限=1時間)を教えるのではなく、2つのクラス=授業だけを教える。この変化は、私たちが授業について改めて考え直すきっかけとなった。2時間連続授業をしなければならないことによって教員は、多岐に渡る戦略を、たとえば全体授業、小グループでの協働作業、図書館での文献調査、実際的問題解決といった方策を用いる必要に迫られる。教員は、続けて2時間も講義スタイルの授業をして生徒を退屈させるわけにはいかないのである。
 上級学年部−第11および第12学年−における教育方法は、それとは少し異なっている。この過渡段階の生徒は、学校の外での学習課程により多くの時間を費やすことになっている。たとえば、大学・短大や博物館・美術館での学習、その他の校外研修(インターンシップ)や自主研究である。また、卒業や進級に備えて、指導教員と費やす時間も、生徒の一日のなかできわめて重要な部分である。  
小規模クラス
次に重視されるのは、行なわれる授業の数だけでなく、クラス・サイズを小さくすることである。この目標を達成するために、この学校に充当された教育資源(リソース)の大半を、コア・カリキュラムの授業に集中させることにした。私たちの学校は、1985年に、たった一つの第7学年のクラスから始まったのだが、今日のような完全に教室が埋まる状態にまで大きくなってきたので、教員に対する生徒数の割合を優先事項にしたのである。
 この学校には、指導相談員(ガイダンス・カウンセラー)も、体育教員もおらず(もっとも、広範囲にわたる校内プログラムや、内容の充実した放課後のスポーツ・プログラムが設けられてはいるが)、音楽教員もおらず、美術教員も全校に一人だけである。さらに、教科主任も学年主任もおかれず、ソーシャル・ワーカーも一人である。1クラス生徒数を20人以下と定めた代わりに、従来そうした教職員が果たしてきた役割の多くを、他の多くの教員が担うことになった。すべての専任教員は、2年間に15人以下の生徒たちのグループを指導教員として担当する。このグループは、毎週数時間ミーティングを行い、また、指導教員は、各生徒の家族と長期にわたって親密な関係をもつことになる。

学校外の批判的な友人
 本章に見られるような教育のプロセスは、効力のあるものだが、それを採用することによって、私たちは、暗記や、広範囲の知識の保証を重視するようなカリキュラムや評価をよしとする考え方とは相容れない立場をとることになる。上に述べてきたような学習は、個人的(パーソナル)なものである。この種の学習においては、何らかの知識をただ言えるというだけでなく、それを内面化することが求められる。そこでは学習者による積極的な役割が前提とされており、その他の創造的行為と同様に、そうした学習は予測不可能で、驚きに満ちたものである。このような教え方には、教科書も標準化されたテキストも存在しない。大人たちは協力して、常にカリキュラムを再創造し、知識を提示する新たな形式を生み出し、また、どの段階で、学校は「彼女はよくやった。彼女に修了証書を渡すときがきた」とすすんで言うべきなのかということを決められなければならない。こうした大胆不敵な試みにおいて、評価基準は、常に議論した上で合意すべきものとすることが求められる。
 私たちが批判的友人(・・・・・)と呼ぶ学校の外の仲間は、私たちがこの学校の仕事を批判的に見る上で必要不可欠な存在である。自律(オートノミー)が、私秘性(プライヴァシー)と同義になることは決してない。まったく逆である。本校と、そこでの仕事は常に公的なものである。私たちは、一年に何度かさまざまな方面の専門家の話を聞き、その助言によって諸基準を設定し、カリキュラムを検討している。たとえば、地域の大学教授たちが、本校に来て、ポートフォリオに含まれている様々な提出物の質を点検してくれたのだが、ほとんどの場合、そのポートフォリオの提出物に対する私たちの評価に太鼓判を押してくれた。さらに、私たちは、このような批判的友人に、丸一日、卒業ポートフォリオの検討に付き合ってもらいさえした。ニューヨーク市にある従来型の公立学校から来た教員や、州教育局の職員、総合制ハイスクールの校長、私たちの学校の姉妹校の校長や教員、財団の代表、学校外の専門家らが、様々な質のポートフォリオを見た上で、生徒たちとその研究について話をし、生徒の発表録画を見てくれた。また、こうした人々は、私たち筆者や本校教員とも懇談して、問題提起的なコメント、様々な批判を与え、学校のしくみに関することから、学業成績要件のことにいたるまで広い範囲にわたる諸点について助言をしてくれた。こうした学校外部の人たちに、本校の教育プログラムを綿密に検討してもらうことで、私たちは公に対して責任を果たしている。また一方で、豊かな協働作業の経験を学校職員に提供してもいるのである。
計画立案・協働・評価のための時間
 このような協働を可能にするために、私たちは一つ優先事項を設ける必要があった。それは、教員のための時間である。専門職としての教員の生活の中に、上に見たような新たな種類の計画立案、協働作業、および評価を、生徒がいないところで行なう時間を組み込む必要があった。
 毎週月曜日、教員は3時から4時半まで会議を開く。金曜日には、朝8時から午後1時まで授業があるので、午後1時半から3時まで、再び会議を持つ。このように、週3時間、教員スタッフは協力して学校全体の諸問題に取り組む。この時間の一部は、縦割りにした教科別の教員グループ(人文系の教員全員と数学/理科の教員全員をいう集まり)で会議をもち、第7学年から第12学年(つまり、全学年)について、その作業(ワーク)の範囲(スコープ)・系列(シークエンス)・基準について話し合う。また、少なくとも月に1回、全スタッフが一堂に会して、人種・階級・ジェンダーの諸問題について議論する。さらに、学校に関わる様々な事柄について、たとえば、保護者面談、報告書の作成・提出、そして、いろいろな部会からの勧告などを検討するために集まる。くわえて、1年に何度か、週末を使って、生徒の作業の公的な点検のためや、カリキュラム開発のために会議を開く。共同プロジェクトに関する、7月夏期休暇の中の仕事に対して、教員に手当てを支払うための募金を募ったこともあった。
 その他にも、同じ生徒を担当している教員グループのために、一度にまとめて3時間の枠を毎週捻出してきた。このような措置は、第7学年から第10学年のすべての生徒に、それぞれコミュニティ奉仕活動の担当を割り振ることによって行なわれた。この学校には、こうした割り振りを責務とする教員が1人おり、割り振りの編成は、コミュニティへ奉仕活動に出る生徒が1日当たり80人になるように行なわれている。そのような調整によって、生徒が奉仕活動に出るその半日の間、その生徒を担当する教員グループが自由に集まって一緒に作業に当たれるのである。当番の生徒たちは、午前9時に、指導教員と出席確認を済ませ、それから担当地域へと赴く。生徒は、正午に学校に戻って昼食をとり、昼休みの間(体育館や図書館などで)自由に活動する。こうして、当番の生徒たちを担当している教員は、午後1時まで共同で計画立案にあたれることになる。また、生徒は、託児所から博物館・美術館、病院や老人ホームにいたるまで、実に多様な組織・機関のもとで、自分の精神を活用する豊富な機会に恵まれることになる。
 正式なものもそうでないものも含めて、1日中行なわれているこうした集まりこそ「教員開発(スタッフ・デヴェロップメント)」の場なのである。それは、新任の教員が自分の仕事を学ぶ場であり、また先輩の教職員が昔からある諸問題について再度振り返って吟味する場でもある。誰でも時に、もうへとへとだといって不満を漏らすことがある−だから、あちこちで私たちは会議をさぼるのだが−その一方で、反対に、完全燃焼することに不平を言うことはない。私たちは、機械の部品のように扱われるでは決してなく、プロとして自分の仕事を自分自身でコントロールしているのである。
 上に述べてきたようなさまざまな形態の、互いに顔と顔を付き合わせる会議を通して、学校管理は行なわれている。意思決定は可能な限り、それを運用しなければならない人々によって行なわれているのである。しかし同時に、意思決定は、教職員、保護者、生徒を含めたより広範なコミュニティによるものでもあり、人々は、何らかの意思決定について再考・擁護・説明を求める権利を常にもっている。このようにオープンで、誰もが近づきやすい学校運営のもとで、教員と生徒は、民主主義の複雑さを学ぶのである。同時に、教員と生徒は、民主主義の限界や制度的取引の現実をも学ぶ。そして、どうしたらそれらをさらに一層うまく学べるのかという問題について考えをめぐらせるのである。こういう筆者たち自身、生徒に要求しているのと同じ精神の習慣を活用しながら、ああでもないこうでもないとさまざまな方法でより良い(あるいは、さほど良くもないかもしれない)学校運営をこれから先もずっと試みていくことであろう。
 

改められた認識
 私たちは、個人的なもの(ザ・パーソナル)に立ち返る(以前、幼稚園の教員だったものとして、それ以外の方法は採りえないのである)。そして、これには、子どもたちを、その子どもたちの家族の成員として見ることや、学校教育によって子どもたちやその家族の自己認識がどのように改められたのかを振り返ることが含まれている。ある子どもの母親が、こうした学校教育が、どのようにして彼女の家庭を変えていったのかということについて、教員を前に語ったことがある。彼女の言葉は、まさに私たちが本校における教育に期待しているものを伝えている。 
自分の作品を批評してもらうために、協力的な仲間にそれを発表するというプロセスがよくわかるようになって、私たち(私の家族)全員が、このプロセスに関わるようになりました。
 ザワルディ(私の真ん中の娘です)が、フィリップ・パーネルに関する、つまり、ニュージャージーで警官に撃たれて亡くなった十代の子どもの事例に関するポートフォリオを作成していたときのことを覚えています。私は、娘と図書館に行って、たくさんの文献調べをしました。彼女は、私に何を探せばいいのか教えてくれました。
 彼女は、ニューヨーク市で警官をしている私の兄弟にインタビューをしました。それは、同じようなことが起きたときに、警官はどんなことを感じるのかということを知るためでした。彼女は、自分の発表を偏ったものにしたくなかったのです。
 私は、娘が質問を練っているのを見守っていました。彼女がインタビューするのを見守っていました。彼女が発表の方法として用いることにした劇のなかに、そのインタビューで得た全ての情報を組み込むのを、何年かにわたって見守っていました。
 それから、彼女が学校のお友達に家までに来てもらった時も、それを見守っていました。娘がそのグループの長になるのを見ていました。それに、彼女が、お友達の話をじっと聴くのも見ていました。彼女は、友達がどう感じるか、その事件にどんな反応を見せるかということを考えに入れようとしていたのです。
 私の息子は、三つの違う州で暮らしたことのある子どもとして、自分が体験したことと、その経験が、現在の自分にどんな影響を与えたのかということに焦点を合わせることにしました。
 息子がこのように自分自身のことを明確化しようとしたことは、私たち家族全員にとって、多くを考えさせてくれるものとなりました。人種差別に関するいくつかの具体的事例について、彼が説明したことの正しさを、彼の姉たちが証明し、さらに、その事例について家族で議論することにもなりました。また、もしその人種差別に対する怒りを、強さに変えられれば、そうした事例が、いかに力強いものになるかということについても議論しました。
 私の末娘は、家族史を描くことにしました。その歴史像には、合衆国全体の歴史とカリブ人の歴史も組み込まれていました。彼女は言い伝えによる歴史を中心に、非常に多くのことを調べなければなりませんでした。それは、私にとっても重要でした。というのも、私は、そうした言い伝えで語られた歴史を耳にして育ったのですが、それらを記述しようと思ったことがなかったからです。このプロセスに関わることで、娘は言い伝えを記述することができるようになりましたし、その時間が与えられたのです。ですから、彼女は、昔、子どもがしたうような棒暗記の勉強をしなくてすみ、彼女にとって意味深い重要なことに自分の時間を振り向けていたのです。彼女はこのことに興奮していました。
 進歩主義教育の歴史の大半は、幼い子どものための学校において−つまり、幼稚園や保育所、あるいはヘッド・スタートの施設などで−書かれてきた。その語り手は、自分の仕事(クラフト)を子どもたちとともに研究し、実践した専門家だったのである。マリア・モンテッソーリ(Maria Montessori)、ジャン・ピアジェ(Jean Piaget)、ジョン・デューイ(John Dewey)、リリアンウェーバー(Lillian Weber)、バーバラ・バイバー(Barbara Biber)や、他にもすでに亡くなった多くの教員がそうだった。そういった人々がつくった学校では、生徒が学んだことが生徒自身の生活と密接に結びついていたし、皆が寄り添いあって活動し学習していた。本校での成功とは、そうした構造を再びつくり出すことであり、年長の生徒も一緒に学習する環境のなかで目的を達成することである。これもまた、私たちの挑戦なのである。
私たちは、生徒に自分の精神のより上手な活用の仕方を身につけさせるために、教員が生徒のことを十分に知ることができる構造をつくり出してきた。教員が、専門職に就く者として、自分の職業生活を、責任を持ってコントロールできるような構造をつくり出してきた。そうした教員を支える、強力な専門職集団としてのコミュニティが存在するような構造をつくり出してきた。さらに、私たちは標準化=規格化(スタンダーダイゼーション)を伴わずに、生徒を高い水準に保つことができるような評価システムをつくり出した。単に断片的な知識ではなく、思考の道具に焦点を合わせる精神の習慣に基づいたカリキュラム構造を考案してきた。しかし、こうしたことは、まだ易しい部分である。困難なのは、それを実現していくことなのだ。


帰ってきたセントラル・パーク・イースト校
 私たちが本章を書いて―そのころ筆者の一人デボラ・マイヤーは、そこに示されたような教育の考え方を市全体に普及させることに深く関わっており、ポール・シュワルツはワシントンでの2年間にわたる仕事に向かう前だったが―それが評判になってから、10年以上がたった。それから、たくさんのことが起こった。そして、今日、デボラは、ボストンにパイロット・スクール・プロジェクトの一環として、セントラル・パーク・イースト校と類似の理念に基づいて彼女自身が開いた小学校(K-8 school)をちょうど退職したばかりで、ポールは、いま、ブロンクスにあるニューデイ・アカデミーという新設の学校の初代校長をしており、この学校で、セントラル・パーク・イースト的学校文化を、そのときよりもはるかに困難な時代に、本質的な方法でつくり出し、その教育理念を広めようとしているところである。
 私たちは、過去のこのような大胆な言葉を読み直してみて、そうした言葉がどうなったのかを振り返ることができてうれしく思う。まず一つには、セントラル・パーク・イースト校という学校それ自体が生き残らなかった。私たちがここに描いた実践は、10年ほどの間に、次第に衰退し、ついにはほとんど消滅してしまったのである。驚くことでもないこの結果―驚くことでもないというのは、教育改革の長い歴史における公立部門の模範的学校の歴史を見ればわかるからである―の理由は、いろいろと言うことができる。そうした学校を「創設した」指導者たちが去ったからだ、とか……結局、他に換えのきかない特別な指導者が必要なのだ……そして、一般に、さらに多くの理由が、その学校の短命を説明するために持ち出される。しかし、私は問いたい。それがたとえ真実だとしても、より好ましい条件があれば、さほど「稀な」というわけでもない指導者たちでもより容易く成功することができるのだろうか、あるいは、さほど好ましくない時代でも、わずかに進歩して、破壊しないということができるのだろうか。また、その創設者の新機軸をもっとうまく維持し、さらに、それ以上のことができるのだろうか。私たちの考えるところ、これらの疑問はきわめて重要で、成功を収めた改革とその所産を長きにわたって育んでいく上で、何が必要なのかが理解できない限り、我々は常に、またゼロからの出発をすることになる。
 セントラル・パーク・イースト校で起こったことは、もし成功した学校改革に、その創設者以上に長く存続してほしいと思った場合に、何をすべきではないのかということに関する優れた事例研究(ケース・スタディ)になっている。むろん、それは、そうした改革を消滅させたいと考える人々には、格好の事例史(ケース・ヒストリー)になるかもしれない。デボラ・マイヤーがボストンへと去っていった数年後に、ポール・シュワルツは、自分がセントラル・パーク・イースト校を去る時、この学校はしっかりしていて大丈夫だ、と考えていた。また、彼の知るところでは、その数年間に、次のような経緯から、何人もの中心的な教員が、学校を離れていった。すなわち、そうした教員は、ひとつには、新たな小規模中高校に種をまくのだという明確な意識をもって努力していたことから、また、90年代のアネンバーグ計画に―ニューヨーク市で最も貧しい生徒たちのために、選択制の小規模自主運営ハイスクールの強力な並列ネットワークを構築するために―熱心に関与していたことから、別の場所に移っていったのである。三十人という小規模で、驚くほど安定していた教員集団から、1992年から96年の間に、そのうちの三分の一近くが、私たち二人とともに新たな学校に転任していった。
 同時に、地域と州レベルの双方で、一連の政治的な変化がいくつか生じた。州教育長、市教育委員会委員長、高校課上層部、教員組合幹部、そして、とりわけ州知事と州教育委員会の変化は、セントラル・パーク・イーストのような学校には壊滅的な打撃をもたらすことになった。新しい州教育長は、本校や、本校と同様の考え方を持つ学校がその教育を押し進めるために得ていた免責事項を廃止し、カリキュラムの全教科に対する負担の重いテスト体制を敷き、高校の成績データを改善するために一つの基準で全てを網羅する解決策を求めた。当該学校区の上層部は、学校区内部で生じていた諸問題を前にして、本校を選んでいたわけではない多くの生徒たちをはじめて本校に送り込み、それにより、次期7年生のクラスを増やし、これに伴い、本校の教え方に不慣れな新任教員の増員を求めることを主張したのである。加えて、「上」からの支援体制が―オルターナティブ・ハイスクール群においては―次第に弱体化(ついには消滅)し、設立以降、本校が得ることができた後援者たちも、亡くなったり、地域を離れたりした。以前から本校にいた教員が減り、経験の浅い教員が増え、さらに、どちらかと言えば自らこの学校を選んだわけではない生徒の数が増えて、「普通に戻る」という傾向が強まることは一見して明らかだった。
 革新者は、重力によって、もとの状態へと引き戻されるのが常である。柔軟性を持つこと(それにより変化に開かれた状態でいること)と、困難に直面してただ挫折してしまうこととの違いを認識するには、意識的かつ思慮に富む抵抗(レジスタンス)が必要になる。また、時の経過とともに、本校の卒業制度が持つ相対的な価値と、州教育委員会が求める要件及び、とりわけそれが有色人種の生徒たちにとって持つ価値との間で、これらに関する意見の違いが真っ向から対立するようになった。新たな指導者層は、セントラル・パーク・イースト方式は終わるべきだと考えた。そして、ポール・シュワルツとデボラ・マイヤーが本校を去ったほぼ十年後、ついに、本校は、高度に集権化した新たな教育局により再編され、一つのミドル・スクール(第6学年から第8学年)と一つのハイスクール(第9学年から第12学年)という、それぞれ生徒数400人規模の、意識的にそれまでとは異なる方針で運営される二つの新たな学校に分割されたのである。セントラル・パーク・イースト第1小学校(CPE I)、同第2小学校(CPE II)、及びリバー・ウエスト小学校(River West)―これらの学校は本校のもとの「フィーダー・スクール」だった―の卒業生で、セントラル・パーク・ミドルスクールや同ハイスクールに進学する者は、今では、まずほとんどいなくなり、セントラル・パーク・イースト中等学校は歴史の中に消え去ったのである。
 とはいえ、ニューヨーク市のいたるところに、また、筆者たちが訪れたその他の実に多くの地域で、〔セントラル・パーク・イースト中等学校を設立した〕1985年に私たちを突き動かした理念が、いまでも元気に生き残っており、それぞれ自分なりのやり方で、私たちと同じような問いに立ち向い、ジョン・デューイやテッド・サイザー(Ted Sizer)の理念をその時代に合わせて活かすという、より長い歴史を持つ取組に、新たなページを加えようとしている。筆者たちには、考え直すべきことが多くあるが、後悔していることはほとんどない。当時の教え子たちから、毎日のように、電話や手紙やメールが来る(と書いているときにも1通メールが届いた)。当時の教員は、転任して他の多くの学校に影響を及ぼしてきた。セントラル・パーク・イースト校の最初の十年に公刊された書物や論文―それに映画―は、筆者たち二人が夢にも思わなかったほど広範に活用されている。そして、私たちは二人とも、次の冒険に乗り出し、来るべき日に向けていかにして様々な変化を組み込んでいけばいいのかということに関して多くのことを考えてきており、また、ここに述べてきたような経験から学んだだけに、おそらく、より大きな成功を収め長続きするような学校を創り出してきたのではないかと考えている。そして何よりも、他の人たちが、そこから学ぶことができよう。ことほど左様に、取組は続いている。私たちが〔本書初版で〕この章の終わりに注記したように、「困難な」のは、これからも常に「実現していくこと」なのであろう。繰り返し何度でも。


原著:Meier, D. and Schwarz, P. 2007 Central Park East Secondary Schools: The Hard Part is Making It Happen. In Democratic Schools: Lessons in Powerful Education, 2nd ed, edited by M. W. Apple and J. A. Beane, 130-149. Portsmouth, NH: Heinemann.

※この翻訳は、平成21〜23年度日本学術振興会・科学研究費補助金(基盤研究(C))「現代アメリカ合衆国における批判的ペダゴジーの最前線:ポストNCLBの理論と実践へ」(研究代表者・澤田稔,課題番号21530894)による研究成果の一部である。

デモクラティック・スクール 力のある教育とは何か

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