学習指導要領と国旗・国歌

 togetterで、@ekesete1 さんの「【君が代】維新の会府議・奥野康俊氏のツイートと、私の一方的返事」をお気に入りにしました(以下、そのリンク)。

 togetter.com/li/281180 

 それで、せっかくなので、学習指導要領の中で「国歌」のことが、どこでどのように扱われているかを、少々くどめに確認しておこうと思います。教員志望の学生さんには、教採対策にもなるかもしれないですしね。

 ここでは現行版中学校学習指導要領(H.20.3告示)を取り上げますが、小学校及び高等学校等もほぼ同様です。各々の異同詳細を確認されたい方は、文科省のwebサイトで全てダウンロード可能なので、そちらを参照してください(以下、そのリンク)。

 新学習指導要領(本文、解説、資料等)

 とくに参照すべきは、各教育段階の「学習指導要領解説」の「特別活動編」です。

 なぜ「特別活動編」なのでしょうか。中学校学習指導要領は、各教科、道徳、総合的な学習の時間、特別活動から編成されていますが、特別活動とは、学級活動・生徒会活動・学校行事を意味し、「国歌」斉唱は、この学校行事を構成する内容の一つ「儀礼的行事」と最も関係が深いからです。

 そこで「中学校学習指導要領解説 特別活動編」のpdfファイルを文科省サイトからダウンロードして「国歌」で検索をかければ、@ekesete1 さんが、

 学習指導要領は現場の裁量を認めております。一律全校全員に強制はできません。

twitterで述べられている意味が理解できます。

 さて、同解説「第3章 各活動・学校行事の目標と内容」の「第3節 学校行事」の「2 学校行事の内容 (1) 儀式的行事」の「イ 実施上の留意点」には、

(エ)入学式や卒業式などにおいては,国旗を掲揚し,国歌を斉唱することが必要である。その取扱いについては,本解説の第4章第3節「入学式や卒業式などにおける国旗及び国歌の取扱い」を参照されたい。

とあります。

 というわけで、今度は、本丸の該当箇所から丸ごと引用してみましょう(なお、以下の引用の[ ]部分は、もとの分では囲みで示されています)。

 第3 節入学式や卒業式などにおける国旗及び国歌の取扱い
 このことについて学習指導要領第5章第3の3では,次のように示している。
[入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。]
 国際化の進展に伴い,日本人としての自覚を養い,国を愛する心を育てるとともに,生徒が将来,国際社会において尊敬され,信頼される日本人として成長していくためには,国旗及び国歌に対して一層正しい認識をもたせ,それらを尊重する態度を育てることは重要なことである。
 学校において行われる行事には,様々なものがあるが,この中で,入学式や卒業式は,学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛かつ清新な雰囲気の中で,新しい生活の展開への動機付けを行い,学校,社会,国家など集団への所属感を深める上でよい機会となるものである。このような意義を踏まえ,入学式や卒業式においては,「国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする」こととしている。
 入学式や卒業式のほかに,全校の生徒及び教職員が一堂に会して行う行事としては,始業式,終業式,運動会,開校記念日に関する儀式などがあるが,これらの行事のねらいや実施方法は学校により様々である。したがって,どのような行事に国旗の掲揚,国歌の斉唱指導を行うかについては,各学校がその実施する行事の意義を踏まえて判断するのが適当である。
 国旗及び国歌の指導については,社会科において,「国旗及び国歌の意義並びにそれらを相互に尊重することが国際的な儀礼であることを理解させ,それらを尊重する態度を育てるよう配慮すること」としている。入学式や卒業式などにおける国旗及び国歌の指導に当たっては,このような社会科における指導などとの関連を図り,国旗及び国歌に対する正しい認識をもたせ,それらを尊重する態度を育てることが大切である。

 このように示されています。言うまでもなく、ここでのポイントは、「…これらの行事のねらいや実施方法は学校により様々である。したがって,どのような行事に国旗の掲揚,国歌の斉唱指導を行うかについては,各学校がその実施する行事の意義を踏まえて判断するのが適当である。」という部分です。

 学習指導要領解説を総則編を含めて読んで行けば一目瞭然ですが、教育課程(カリキュラム)の編成権は各学校にあり、学習指導要領及びその解説は、各学校を宛先として書かれています。すなわち、制度上は、教育課程編成上裁量を認められている範囲に関しては、その判断が各学校に委ねられているわけです。したがって、「国歌を斉唱するよう指導する」ことが明記されているとしても、全ての学校に国歌の斉唱を強制することができないことが、学習指導要領という国家レベルで法的拘束力を持つ教育基準で明示されているわけです。

 これに対して、"それでも最初に「国歌を斉唱するよう指導する」と書いてあるじゃないか!"という反論がすぐに返って来ることが考えられるわけですが、指導の仕方は様々です。どんな考え方を生徒に教えるにも、あるいは、どんな方針を部下に伝えるにしても、"そんなことは叩き込めばいいのだ!"と、強制を是として、相手がそれに服従しているように見えることを最優先させる教育観もあるでしょうが、内発性や自主性を重視する今次の学習指導要領では、そうした教育観が採用されていないことも事実です。

 非常に素朴な見解を述べれば、一番危険なのは、上のいうことにはとにかく従うという思考停止の連鎖を生むことです。だから、あの状況で、敢えて起立しなかった先生方を私はむしろ尊敬の眼差しで見たでしょう。校長が教育委員会などに、現場の教員が校長などの管理職に、生徒が現場の教員の指示に、何よりもまずそれに従うことを重視することは、社会の問題を多様な角度から考察する可能性や主体的選択の契機を奪うことで、守ろうとしている社会全体の成長を阻害し、その成長にコミットする成員を育てられないことになるのではないでしょうか。だから、大事なのは、意見が折り合わないところで、粘り強く議論・考察を重ねつつ、妥協・調整を図っていくことでしょう。結果的に、国歌を同じように唱わせるにしても、その唱わせ方や、その後の対話の仕方が問われているように思います。

 時々、自分が大阪で教員だったらどうしただろうと考えます。正直、やはりよくわからないのですが、たぶん、血の気の多かった若い頃30代くらいまでだったら、あるいは、子どももいなくて独身なら、きっと起立せず反抗したでしょうね。しかし、全ての先生が次のようではないでしょうが、こういう時には、ある種のヒーロイズムがその反抗している自分の中に顔を出すことがあります。この自己陶酔も、さきほど思考停止と言ったことと、ほとんど変わらなくなる場合もあるので、振り返りが必要かもしれないとも思います。

 他方、非常に弱気になった時に、一つの可能性として考えられるのは、生徒たちにこう吐露するかもしれないということです。「自分も日本は好きだし、ある種の誇りも持っているように思うけど、反対に、日本のダメさということも痛感することの方が多く、歴史的経緯を振り返っても、国歌斉唱を強制するなどということはどうしても賛成できない。けど、これで処分されるのも困るよなという弱さが自分にある。ちょっと情けないけど、国家を斉唱するってどういうことかなんかなあ、って考えながら卒業式で唱うわ。ただ、唱わない先生を俺は非難すする気にはなれんけど。」などと格好をつけて逃げ、そして、一部の生徒にその弱腰を軽蔑されるというところでしょうか。

 さて、直接関係ないですが、先日、自分の所属する学会のあるシンポで、フランスの教育に関して、たいへん興味深い報告を聞く機会がありました(渡邉雅子(名古屋大学)「フランスの公共性と教育実践−伝統文化の継承と市民の育成」日本カリキュラム学会第23回大会(2011年度7月16-17日@北大)課題研究 II「カリキュラムにおける公共性のポリティクス(2):学校教育におけるナショナルなものの位相を問う」)。以下は、配布資料から一部を抜粋したものです。

…公教育で児童・生徒は様々な場面(歴史・国語・公民)で「抵抗権」を教えられる。フランスの学校は「抵抗することを教える」と言われるのは、この「抵抗権(抑圧的な支配には抵抗する権利があり、さらに積極的によりよい社会を作るためには抵抗しなければならないこと)」を教えるからである。高校生にデモの権利を法的に認めているのはおそらくフランスだけであろうが、2001年の極右の大統領候補者への抗議や2004年の若年者雇用法の改正の際にはリセの生徒がデモの口火を切って抵抗運動を全国規模に展開し、様々な組合と連帯して政治力を発揮した。討論では過去の歴史を使って文化共同体を作る討論法が使われ、それが様々な社会グループを結び付ける源になっている。公に抵抗する手法とその歴史的・法的根拠が公教育で教えられるのである。
 体制の中にいる人間が体制を変えるのは難しいが、リセの生徒は普通バカロレアを受験するエリート候補生ながら、彼らはまだ体制(国家)に取り込まれていない。それゆえに体制を外から批判し、変える原動力になり得る。デモの参加も、あくまで個人の選択で行われていて、デモに参加しない権利も勿論ある。若年者雇用法反対のデモが長引き、バカロレアの時期にずれこんだ時には、受験勉強のためにデモから脱落する学生が続出し、バカロレア試験のために学校閉鎖を解けとデモ中止のデモを行う高校生も現れたが、「個人の小さな都合のためにもっと大きなものを失うな」とデモは続けられ、結局この法律は議会を通らなかった。
 このような価値観の共有と価値の共有に基づく共同体は、ナショナル・カリキュラムを通して養われている。国語ではフランス革命をたたえる詩の暗唱を行い、革命期の戯曲を演じ、歴史では革命の功罪両面を検討し、公民教育では現制度の法的根拠を説く、というように子どもたちはフランス革命を何度も追体験しながら共和国の理念を初等教育では情緒的に、中等・高等教育では理念的に学んでいる。ナショナル・カリキュラムが、国を愛しその伝統文化と国土を守ることを教えながら、同時に自律的な市民となり、国に抵抗することを教えるのは、フランス革命という歴史的な経験を経たこの国のパラドックスであると同時に強みと言える。全体を優先させる、徹底的な個人主義者。服従する反抗者。※

 このような市民が学校教育によって育てられているのか、歴史の中で醸成されたこのような市民性を学校教育が追認しているのかは定かでないにしても、それでも、フランスにおける、より錬磨された愛国心の内実やそれを鍛え上げるための基盤整備の仕方と、ここで問題視している日本での国歌斉唱をめぐる一部学校教育の現況とを対照すると、再考を促されるべきはやはり後者であるように見えます。そのためにも、とりあえず黙って上に従っていれば問題が生じないという環境ではなく、議論を深めるための場を確保することが、あらゆるレベルで重要であるように思います。