板橋区立大谷口小学校での授業研究


マイマイ学習」と大谷口小学校の授業研究

 小文は、大谷口小学校のウェブサイトに頻出する「マイマイ学習」がどんな形態の学習のことなのか、また、この学校でいまどんな授業研究が行われているのかという点に関して、簡略な解説を施したものです。

目次
0. はじめに:マイマイ学習=単元内自由進度学習
1. 単元内自由進度学習の概要
2. 単元内自由進度学習の目的・目標
3. 単元内自由進度学習の内容面と方法面
 (1) 単元内自由進度学習の内容的側面=カリキュラム
 (2) 単元内自由進度学習の方法的側面=実践上の留意点
4. 単元内自由進度学習の研究授業と事後検討会
5. まとめにかえて:単元内自由進度学習のルーツと教育学的意義



0  はじめに               
 大谷口小学校の「マイマイ学習」は、より一般的な名称では「単元内自由進度学習」と呼ばれます。マイマイ学習とは、この単元内自由進度学習に対して、大谷口小学校が独自に与えた固有名詞です。この名には、マイペース&マイウェイの学習という意味が込められています。同校では、先生方にとっても、子どもたちにとっても、この学習が自らのものとして根付くようにと、その名に因んだキャラクターも作成されました(上掲:ちなみに、カタツムリの学術上の和名は、まいまいですね)。
 最初にお断りしておいた方がいいでしょうが、単元内自由進度学習を先進的に展開してきた学校の最盛期でも、それは全単元の最大3割程度、たいてい各学年とも各学期に1単元から2単元程度(10時間から20時間程度の授業時数分)であり、それ以外は、いわゆる一斉授業、あるいは集団的ないし協働的な学習が実施されてきているというのが実情です。しかし、それでも、全体の一部にすぎないとしても、以下に述べるような単元内自由進度学習を本格的に導入すると、教師が変化し、それによって子どもが変化し、学校が変化するというメタモルフォーゼ(変身)が生じて行くように思われるのです。
 さて、以下では、次のような順序で説明を進めて行くことにしたいと思います。第1に、単元内自由進度学習とは、そもそもどんな学習のことを意味するのか、その概要を紹介することにしましょう。第2に、このような学習が、何のために導入されているのか、何を目指すものなのかというこの実践の目的・目標について整理することにしましょう。第3に、単元内自由進度学習のさらなる詳細に関して、内容面=カリキュラムづくりの側面と、方法面=実践上の留意点という側面に分けて、さらに具体的に説明しておきたいと思います。そして、第4に、この単元内自由進度学習の研究授業と事後検討会がどのように行われているのかを簡潔にご紹介することにしましょう。
 これに加えて、こうした授業実践のルーツはどこにあり、その教育学的な意義はどういうことなのか、という諸点に関しても触れる必要があるでしょう。しかし、こうした実践の目的、歴史的背景や学問的意義等の紹介は、最後にごく簡潔に触れるに留めたいと思います。

1 単元内自由進度学習の概要
 さて、単元内自由進度学習とは、教科学習のための一方法論で、ある教科のある単元において、個々の子どもが、予め準備された教材を用いて、それぞれ自分なりのペースで主体的・自立的に進める学習を意味します。その点で、教師の板書・発問・説明等を軸に、学習の進度がクラス全体で統一される、いわゆる一斉授業とは対照的です。一般に、単元内自由進度学習は、以下のように推移します。
 たとえば、ある教科に10 時間で実施する単元があるとしましょう。この10時間のうち、最初に、その単元全体の見通しを子どもたちに与えるために行われる「ガイダンス」の1時間と、最後に、単元全体の振り返りのために行われる「まとめ」の1時間では、クラス全員を集めて、教師がリードし、子どもたち全員を一斉に相手にした授業を展開しますが、その間の8時間は、子どもが自ら立てた学習計画表に沿って、自立的に学習を進めて行くので、この8時間に関しては、基本的に、一斉授業で見られるような、教師が黒板を背にして、子どもに対面して行うような授業は見られず、子どもたちが、一人ひとり個別に、あるいは、時には互いに協力しながら、自立的・主体的に学習を進めて行きます。オープン建築の校舎を持つ大谷口小学校の場合、子どもたちは、ホームルーム及び、そこから壁なしに多目的スペースが広がる開放的な空間の、各自思い思いの場所で、あるいは、その時々に必要な場所で、マイペースに沿って学習を進めて行くのです。
 ただし、自由進度といっても、当然のことながら、学習指導要領上、その単元で最低限扱う必要がある指導事項については、どの子どもも、その単元の授業時数内で終えることが求められます。また、どの子どもであれ、その単元で最低限習得することが求められる事項に関しては、単元の節目でチェック・ポイントとして、学習カードの確認・添削や小テストなどの機会を設けることになります。
 他方で、この学習では、一つの単元に対して、子どもたちが自由に選択できる複数のコースを設けるのが一般的です。これらのどのコースでも、上述のように最低基準としての学習事項は必ず扱われますが、同時に、コース毎に、その学習過程に異なる作業内容や手順・方法を取り入れることで、それぞれ部分的に異なる一連の学習カード等の教材が準備されます。子どもたちは、最初のガイダンスの時間に、それら複数のコースの違いについて、担当教師からの説明を聞き、その中から、自らがとくに興味を持った、あるいは、自分に合っていると思うコースを選択し、そのコースのために用意された各種学習材や教科書を用いて、自立的に学習を進めることが求められるのです。
 くわえて、これら各コースの学習材の他に、より高度で追究的・問題解決的な課題、あるいは、より多様で発展的で、子どもにとって魅力的に映るような課題も合わせて用意され、規定の授業時数内で各コースの学習材を早く終えた子どもたちは、自らの興味・関心や適性に応じて新たに課題を選択し、さらに学習を継続できるように工夫が施されます。
 こうした学習形態が、現行学習指導要領で言うところの「個に応じた指導」あるいは「個性を生かす教育」という趣旨に沿うものであることは明らかですが、単元内自由進度学習の概要を確認した今、我々が、こうした方法を何のために導入しようとしているのかという点に関して、より詳細に明確化しておく必要があるでしょう。
 
2 単元内自由進度学習の目的・目標
 単元内自由進度学習を導入しようとする目的は、ある意味で単純明快です。第1に、一斉授業だけでは実現することが難しい水準の「個に応じた」学習プログラムを準備することによって、また、多様な子どもをそれぞれに動機づけることが可能な多様な教材や環境を整備することによって、どの子どもも最低限身につけることが求められる学力を形成できるようにし、同時に、それぞれの持つ資質・能力を可能な限り伸ばす機会を保証しようとすることです。
 第2に、一斉授業では実現することは不可能な水準で、学習上の大幅な自由度を一人ひとりの子どもに与えることによって、「自己学習力」と呼びうるものを子どもたちが身につけることを支援しようとすることです。このことは、端的に、現行学習指導要領の言う「自主的, 自発的な学習が促されるよう工夫すること」を、明確な実践方法として具現化したのが、この学習方法であるということを意味します。
 これら二点に関して、もう少し詳しく検討しておきましょう。第1の点に関して言えば、ここで紹介している単元内自由進度学習など導入せずとも、従来の方法論の枠内で「個に応じた指導」の工夫を施しておられる学校は多くあります。一斉指導を基本としながらの、机間巡視と個別指導、提出物の丁寧な確認・添削、あるいは、習熟度別に分けた小編成クラスでの指導などが、それらに含まれるでしょう。しかしながら、単元内自由進度学習というこの方法論は、はるかに徹底的な水準で、個に応じ、個を生かす授業を成立させようとするものです。特に、一定の特別な支援を要する子どもたちや、一斉指導ではなかなか集団的秩序の枠に収まらない子どもへの動機付けや支援のあり方について、強く意識した方法論であるとも言えるでしょう。
 まず、単元内自由進度学習を導入しようとするのは、単なる知識・技能の習熟の差のみならず、多様な子どもの興味・関心、学習スタイル、あるいは、学習のペースなどにも、できるだけ対応し、それらを生かすことを目指すためです。子どもによっては、新しい学習内容の導入に際して、言葉や文字情報による解説が取り組みやすい子どももいれば、その学習内容に関する言語的情報の前に、その単元に関連するものづくりなどの手作業から入ることではじめて学習に動機づけられる子どももいます。また、教科書だけでなく、それ以外の図鑑や図録を使う方が、あるいはVTRで何度でも必要な情報を繰り返し見ながらの方が、また、コンピューターを用いながらの方が、より学習に集中できるという子どももいます。さらには、その単元のどの部分でより時間を要するか、どこにどんな時間の掛け方をすることで、より単元目標に近づきやすくなるかといった点でも、子どもにより差が見られます。これらは、必ずしも序列化されるべき差ではなく、むしろ、それぞれの子どもがもつ持ち味として生かされるべきものだと考えることができます。 
 だからこそ、単元内自由進度学習では、一つの単元内で、それぞれの子どもの持ち味が活きるような、あるいは、普段の一斉授業では否定的に映るような特性が否定的にのみ扱われなくなるように複数のコースを設けたり、できるだけ自由な学習場所を認めたりするのです。あるいは、それぞれの子どもが自らのつまずきのポイントを着実に乗り越えてくれるように、また、自分の資質・能力をそこで可能な限り伸ばしてくれるように、さらには、自分の追究したい課題にじっくりと取り組めるように単元構成を図るのです。こうした工夫を通して、子どもたち全員に、ミニマム・スタンダード(最低基準)の達成と、より高度な、あるいは多様な学習機会を保証することを目指すわけです。
 このように、できるだけ「個に応じた」あるいは「個を生かした」手立てやプログラムを準備することによって、学習の内容面に関する充実化を図るのみならず、単元内自由進度学習は、主体的で自立的な学びの作法を、つまりは「自己学習力」と呼びうるものを、それぞれの子どもたちが身につけることを目指すのです。ここでいう自己学習力という言葉に、特に複雑な意味合いは込められていません。それは、他人からの命令・指示によってではなく、自分の意志・判断によって、自分の学習を組み立て、進めて行くことができる資質・能力を指しています。
 単元内自由進度学習は、自分がこれからすることの内容や方法が、誰か自分以外の人の指示に大きく依存するような状況おいてではなく、子どもたちが、大幅に与えられた自由度の中で(たとえ、当人の思い込みに過ぎないとしても)自分で自分をコントロールし、自分の学び方を工夫し、その中で学ぶ楽しさや充実感・達成感を味わうという経験を積み重ねることができてこそ、自己学習力は育つという視座に根ざして導入されるものです。「指示待ち人間」と呼ばれるような存在ではなく、あるいは、自分の動き方を他人に委ねてしまう存在ではなく、失敗や停滞を経つつも、それを少しでも克服して、主体的に自分の課題を解決できるような存在に、より大きな価値を置き、そうした資質・能力を持つ人間を育てようとするのが、この学習方法論なのだと言ってもいいでしょう。
 では、このような目的・目標を持つ単元内自由進度学習では、どのように単元構成がなされ、どのように学習材が作成され、どのようなことに注意しながら実践が展開されるのでしょうか。より具体的に説明を続けることにしましょう。
 
3 単元内自由進度学習の内容面と方法面:カリキュラムとその実践上の留意点
(1) 単元内自由進度学習の内容的側面=カリキュラムづくりの側面

 単元内自由進度学習では、上に述べましたように、ガイダンスが終わったあとは、教師が予め準備した教材や学習環境を用いて、子どもたちが、自分で学習を進めて行きます。したがって、子どもたちが、基本的に、自分一人で学習を進めて行くことで、学習カードやヒントカード、その他を含む一連の教材を、教師が作成することが必要になります(こうして構成された単元およびその学習材を「学習パッケージ learning package」と呼ぶことがあります)。
 これらの理解を深めるには、その具体的な学習材を手にして、実際に、その作成過程や、授業という活用場面を参観するに越したことはありませんが、ここでは具体例を示しながら、そして、作業場面や授業の画像をお見せしながら解説することはできません。その点は、是非、今回の公開研や普段の取組を参観頂いて、補っていただければ幸いです。
 さて、先に触れましたように、単元内自由進度学習の特徴の一つは、単元毎に複数のコースを設けることにあります。したがって、この単元全体の構成には、a.複数のコースを含む単元計画、b.学習材づくり(子どもたちが書き込みをしながら進める学習カード、その学習カードを進めて行くためのヒントカードなど)、c.学習環境づくり(掲示資料・展示物の作成・設置など)が含まれています。これらは、今回ご覧頂く公開研究会で、実際にご覧頂けるわけですが、それぞれに関して、どのように作業が進むのかを以下に紹介して、解説に替えたいと思います。なお、これらの各作業は、実際には、必ずしも、a→b→cというように整然と一方向に進むわけではなく、この間を行きつ戻りつだったり、複数の作業が同時並行的に進められたりしながら進展していくことも多いのですが、以下では、便宜上、上記、a, b, cに分けて説明を進めることにしましょう。
a. 単元構想
 単元構成においては、まず、どの単元を、この方法で実施するかを決める必要があります。基本的に、どのような教科単元でも、適切な工夫を施せば、子どもの自立的な学習を軸とするこの方法論で実施することは不可能ではないというのが、我々が経験的に得た知見です。が、この学習では、子どもたちが、カードと教科書などを用いて、基本的に自分一人で進めて行くだけに、個人差が現れやすい手作業的な活動が多いものや、創作的な活動を含めやすい単元が、この学習には向いているとされます。また、一定の時間数を子どもに任せることで、ある程度自分なりの「見通し」を持って計画を立てさせることに意味が生じ、自分なりに学習を深めるための追究活動にある程度じっくりと時間を費やすこともできるようになるので、あまり短い時数の単元は向いていないとされます。8-12時間程度の単元を選ぶのが標準的です。
 実施する教科と単元が決まると、いよいよ具体的に単元計画案の作成がスタートしますが、そこではまず複数のコースをどう設定するかを決めることになります。
 ここで最初に検討すべき最も重要な資料は、該当教科の学習指導要領解説と複数出版社の検定教科書です。学習指導要領解説は、その単元の目標及び内容、さらに内容の取り扱いや指導事項、活動例などを丁寧に再確認し、その単元で最低限達成されるべき目標を明確化するために参照します。このようにその単元で確実に押さえるべきポイントを確認する上で、学習指導要領解説は最優先資料であるわけですが、それと同時に、必ず複数の教科書を比較検討します。たとえば、該当単元に関して、自校で用いている出版社の教科書に含まれていて、別の出版社の教科書で含まれていない事項があるとすれば、その事項は、学習指導要領上最低限必要とされる内容ではない可能性が高いことがわかります。くわえて、複数のコースを組み、その学習材に関するアイデアを豊富化していく上で、自校で用いている教科書以外の教科書から、大きなヒントを与えられることもしばしばです。
 また、この作業によって、担当教師の教材理解は目に見えて深化すると言えます。自分が用いている教科書の教材が、どんな目的のためにあり、その目的を満たすために具体的にどのような教材や学習内容の可能な選択肢があり得るのか、そして、そうした可能な選択肢のネットワークの中で、当該教科書の教材はどのような位置づけにあるのか、どういう特徴を有し、その背後にはどのような意図が存在しているのかということがより明確になるわけです。要するに、教科書の教材構成が持つ意味を、教科書編者の立場に近づいて理解することができるようになるわけです。
 さて、そのコース設定は、次のような複線化を基本としています。まず、標準的なコースとして、教科書準拠のコースがあります。すなわち、自校で用いている教科書の流れにほぼそのまま沿う学習カードが作成され、子どもたちは、主として、このカードの指示や問いに従って、教科書を順に読み進め、その内容や活動をフォローしていくことで、学習を進めて行くことができるようなコースです。
 それに対して、教科書の流れとは、若干、あるいは、大きく異なるコースも設定します。たとえば、一つには、教科書では、何らかの原理を理解してから、あるいは、特定の知識を理解した上で、ものづくりなどの制作的ないし創作的活動に入るという流れになっているところを、単元の冒頭から、そうした制作的ないし創作的活動に入ることで、原理的思考や知識習得へと動機付け、その上で、教科書的な文字情報による学習に導くようなコースが考えられます。また、教科書よりも、さらにスモール・ステップの発問形式を採用したコースを設けるという方法もあります。他方で、教科書では、子どもたちが、ある理解に到達するためのスモール・ステップを設けていたり、あるいは、一定の選択肢を提示したりしているところを、そうではなく、よりオープンで根本的な課題を与えることで、自らの試行錯誤によって、目標となる認識に向かおうとするように仕向けるといった単元構成も考えられるでしょう。
 いずれにせよ、こうした複数のコースは、どのコースであれ、学習指導要領上、全ての子どもに最低限身につけることを要請されている項目が必ず含まれるように、それと同時に、多様な子どもの特性や持ち味に応じて、あるいは、それを生かすように、様々な仕掛けを施しつつ構成することになります。
 このような手順を単元内自由進度学習の単元構成法の基本型と呼ぶことができますし、我々もこれに従うことが多いものの、同時に、我々は、こうした単元構成やコースの設定は、柔軟かつ多様なものであってよいと考えています。その意味では、この学習方法に根ざす理念(上記の目的・目標)に照らして、また、この方法論の肯定面も否定面も見据えた上で、目の前の一人ひとりの子どもたちや、学校の事情に即応して、様々な工夫が積み重ねられて行くべきでしょう。
 その際に、特に我々が重視しているのが次の2点です。第1に、このコース設定やその運用に関する企画を、特定の教師個人ではなく、学年団等の教員チームで進めるということです。第2に、その企画過程で、子ども「たち」ではなく、具体的な一人一人の子どものことを念頭に置く、強く意識するということです。したがって、「〜が得意な子どもと不得意な子ども」という(子どもを一括りに見るような)表象に留まらず、「…クラスの○○さん」という一人一人の子どもの名前を上げながら、「こんなコースにすることで、あの子が生きてくるはずではないか」、「だから、こんなコースをこういうふうに設定しましょう」といった協議を積み重ねることになります。子どもたちの姿や声を「束」としてではなく、「固有名詞レベル」で振り返り、その子が活きる(と我々が判断した)要素を織り込んだコースを、チームワークで考案するわけです。
 ところで、単元構成には、複数のコース設定以外に、もう一つ重要な仕事が含まれています。このコース別のカリキュラムは、原則として、その単元で最低限押さえるべき指導事項について学習する部分であり、このコース学習の先に、自由に選択できるいくつもの発展学習を準備することになります。魅力的かつ価値のある発展学習を用意することで、子どもがコース学習をきちんと効率よく終わらせて、さらに学びを深める機会を手に入れようと動機づけられることにもなります。
 では、そのような発展学習はどのように準備されるのでしょうか。まず、一人一人の子どもの特質・持ち味を考えつつ、教師陣がチームワークで企画するということは、コースづくりの場合と共通しています。では、どのような種類の発展学習を準備するのかという点に関して述べれば、教師陣が様々な資料や情報を渉猟しながらも、自分たちの想像力・創造力を駆使して、子どもの興味関心を生かすと同時に拡げられるような内容や、一斉授業では実施が難しい作業、教科書では扱われていない追究的な活動等々を用意することになります。他方、単に、より難易度の高い問題集を用意したり、その子どもが最初に選択したのとは異なる別のコースをもう一つやってみることを認めたりするという選択肢も、発展学習の一つとして用意することがあります(上手に手抜きすることも技の一つかもしれません)。
 最後に一つ補足しておくと、きわめて逆説的なことですが、一般受けを狙ったコースや発展学習が案外多くの子どもを生かしきれず、反対に、固有名詞レベルのピンポイントで特定の子どもに狙いを定めた仕掛けの方が、かえって多くの子どもを学習に惹き付けるということが、これまでの経験で見られています(「いつも授業で困らせてくれているアイツだけど、これならどうだ!」という具合に教材創作)。その点で、普段からのそうしたレベルでの子ども理解が、より優れた単元構成の基盤になることは間違いないことでしょう。そして、このことは、以下の学習材準備に関しても当てはまることです。
b. 学習材づくり
 単元構想の段階でコース設定が決まると、今度は、各コースに合わせた学習材づくりが開始されます。その学習材には、それぞれのコース毎に準備されるものとして、(1)子どもが各コースについて単元全体の見通しを持てるように作られた「学習の手引き」、(2)子どもが選択したコースに沿って学習をどのような順序・進度で進めて行くかを明記した計画表と、その計画通りに進められているかという点を含めて各授業後の感想が書けるようになっている「学習計画表・振り返りカード」、(3)子どもが書き込みながら学習を進めて行くことになる「学習カード」、(4)その学習カードを進める上での支援的役割を果たす「ヒントカード」、さらに、(5)これらのカードと連動した各種資料(図鑑・図録・マンガ・絵本を含む各種書籍、視聴覚資料、実物資料、様々な器具・用具など)が含まれます。また、ゲスト・ティーチャーを招くこともありますので、このような人的資源も、また、この次の節で述べる各種学習環境の大半も、広義には、学習材の一部と考えることができるでしょう。
 担当教員チームは、設定したコースにおける子どもの自立的な学びが充実したものになるように、これらの多元的・多層的な学習材を整合的に結びつけて構成する必要があります。中でも、我々の経験によると、これらの学習材作成の中で最も重要でかつ苦労を強いられるのは、学習カードづくりだと言えます。たしかに、「学習の手引き」(1番目の学習カードに入る前のカードという位置づけなので「ゼロ番」と呼ばれることがあります)は、そのコースにおける学習へと子どもをいざなう動機付けの役割を担う重要な位置づけにありますが、その手引きに、子どもを十分に惹き付けられるような明快かつ魅力的な前口上を入れることができるためには、一定の確信を持って作成された学習カード本体が不可欠になるからです。また、学習カードの出来がよければ、教師が直接教え込まなくても、学習カードの指示に依拠し、学習環境との相互作用の中で、子どもが自立的に学ぶことができる可能性が高まるからです。
 教科書準拠コースに関して言えば、その学習カードのおよそのイメージを持って頂くために次のように言えばいいかもしれません。つまり、一斉授業において、教科書の流れに沿って、教師が子どもたちに向けて口頭で行う指示や発問を、文字にして、一区切り毎のプリントに落とし込んだものというイメージです。子どもたちは、カードの指示にしたがって、教科書を参照しながら、様々な学習活動(実験・観察、製作・創作活動などを含む)を展開し、カードに示された問いの解答を作成して、一枚一枚のカードを仕上げて行くことで単元を進めて行くわけです。
 他方、教科書準拠コースと異なるコースの学習カードに関しては、単純な作成パターンを示すことはできません。ここは、このマイマイ学習を実施している期間に、授業を参観頂いて、具体例をできるだけ多くご覧いただくしかないのかもしれません。実際、教科書準拠以外のコースをどう設定し、その学習カードの内容をどう組んで行くのかは、各担当教師、あるいは、学年団などでチームを組む教員陣のまさに腕の見せ所なのです。
 あえて簡略にその例を掲げるとすれば、次のような作り方が考えられるでしょう。たとえば、自校採用の教科書よりもずっとオープンかつ根本的な問題解決過程を経験させるようなコースの学習材として、算数科や理科で、その単元で習う新たな公式や実験方法を、子どもたち自身が、それまでの既習事項を前提に、試行錯誤によって自ら発見する、ないし導き出すような課題を設けた学習カードを準備するという方法があります。それは、いわば、子どもを小さな数学者や科学者に見立てて、最も深い思考に誘うような一連の流れを準備するというやり方です。また、社会科で、歴史上の人物が学習カードに写真や絵入りで登場し、その吹き出しセリフとして、直接、現代の子どもに語りかけるような設定を凝らし、その単元で考察して欲しい課題、調べて理解して欲しいことを、その人物らしく語りかけたり問いかけたりするような発問形式を用い、その課題の解決や調べ学習に、教科書その他の資料を駆使せざるをえなくなるような学習カードを作るといったやり方も考えられるでしょう。他方で、自校採用の教科書のその単元にはない手作業的な活動やものづくりなどを織り込んだ学習過程を含むコースの学習材として、国語科の物語単元などで、その主人公の名前を出し、「〜さんに、手作りのプレゼントを送ろう」というめあてを掲げつつともに、そのプレゼントの説明を含んだ、その主人公への手紙を作成させるといった課題を含む一連の学習カードを準備するというやり方があり得るでしょう。
 このように、子どもたちの実態や資質に応じて、オリジナリティ溢れるカードを準備することは、異なる教科書を新たに編むに近い作業でもあるわけですから、そうした創造的活動に必然的に伴う苦労があります。が、だからこその楽しい作業にもなり得るわけです。同時に、教師は、中心教材(=教科書)を与えられ「使う」という立場だけでなく、それを「作る」のに近い立場に身をおくと、検定教科書編集上の細部にわたる工夫や意図がより深く読み取れるようになり、だからこそ、多くの英知や技を結集して編集されている検定教科書のスゴさを実感できることにもなります(「教科書って、ホントによくできてますよねえ、特に、この教科で行くと〜社とかね。」という声とかね)。
 他方、教科書準拠以外のコースの学習カードを作成して行く時に、より単純簡明な方法として、我々が頻繁に採用している方法があります。この方法は、教科書準拠コースが、複数コースの中のスタンダード(基準)コースであるというところから派生するやり方です。すなわち、一つには、教科書準拠以外のコースでも、そのうちの何枚かの学習カードは教科書準拠コースと同じカードを用いるという方法があります(うまい手の抜き方)。実際、教科書準拠コースとさほど大きく変わるところはないが、学習内容や活動の順序を教科書準拠コースと入れ替えただけというコースの組み方も考えられなくはありません。また一つには、教科書準拠コース用のカードの何枚かを部分的に改編したカードを用いるという方法があります。つまり、教科書準拠コースと、学習順序・活動順序にさほど大きな変化はないが、その内容に、難易度を含む若干の変化をつけたものですね。
 それだけに、教科書コースという基準となるコースの学習カードが、丁寧に作成されることが重要な意味を持つことになります。検定教科書には、多くの場合出版社により指導書が作成されているだけに、教科書準拠コースの学習カード作成という作業は、一見さほど難しくは思えないかもしれませんが、我々の経験では、それでも、この作業にもいろいろな工夫や苦労を要します。 
 何よりも、どの子どもが読んでも、文面だけで、その意味するところが、子どもの頭の中ではっきりとした像を結ぶように、明快かつ適切な指示や発問を準備するのは、苦戦を強いられることしばしばです。普段の授業のように、口頭による指示・発問の場合には、誤摩化すとまではいかずとも、言い直したり、言い足したりすることが可能ですが、学習カードでは、それができないからです。具体的な指示や発問の設計とその言葉選びは、学習カード作成上の鍵であると言えます。また、子どもたちに要求することがある手作業に関しても、その作業手順が印刷された内容で理解できるようにするために、様々に工夫された図や画像の挿入などに難儀することもあります。くわえて、一枚の学習カードが、ある程度すっきりと見やすくなるようなレイアウトにも腐心することにもなります。
 よって、こうした作業も、先に見た単元構成と同様に、教師個人としてのみならず教員チームとしても取り組むことが大切になります。つまり、ある教師が叩き台として作成した学習カードを、チームを組む他の教師に見てもらい、問題の解答例を作成してもらったり、発問や指示に関する感想を述べてもらったりしつつ、互いに改善案を出し合うなどという手順を踏まえることが必要になります。そして、こうしたチームワークが、教員集団全体の教材理解や授業研究の理解や、教員同士の相互理解を深め、実践の質を高めることになると考えることができるでしょう。
c. 学習環境づくり
 大谷口小の学校webサイトには、同校の「校内研究」について紹介したページがありますが、そこには様々に工夫された学習環境が整備されていることをお分かり頂けますので、是非ご覧下さい。
 ここでいう学習環境の構成物には、単元名を示したパネル(平面的な掲示だけでなく立体的な掲示物なども)、学習上のヒントやアドバイス掲示(つまづきのポイントになりやすい箇所に関する図入りの説明、学習上のポイントを体験的に学べるような掲示物など)、学習過程で用いる器具・用具や材料、あるいは拡大判の図版・地図・写真などの資料や各種図書等(学習内容・活動へと動機づけるような・学習を進める上での助けになるような・学習をさらに発展させる契機となるようなものなど)、あるいは、実物・模型展示、子どもによる思考・表現の成果を紹介・共有するための掲示板などがあります。
 従来型の一斉授業では、算数の図形について、教師が、発問・説明・板書等を通してイニシャティヴを握り、子どもたちの学習状況を直接的にコントロールしながら実践を展開することになりますが、この自由進度学習においては、教師が子どもに「教える」という形式ではなく、子どもたち自身が「自立的」に「学ぶ」という形式を基盤とするので、必然的に、そこでは教師による直接的な指示や指導よりも、むしろ教師が予め準備・構築した学習空間による、子どもたちに対する間接的な動機付けや支援を軸に、子どもの学習が成立することを目指すことになります。したがって、教師には、子どもがそこで学習する内容に対する興味・関心を引き起こされるような、また、一人一人の子どもがその学習活動を楽しんで、持続的に進められるような、さらに、その学習に関する子どもの理解が深まったり、広がったりするような仕掛けを縦横に張り巡らせた学習環境を構築することが求められるわけです。
 こうした学習環境によって目指すのは、その単元に関する一大「学習ワールド」を出現させることであると言い換えてもいいでしょう。つまり、算数の図形について学習する単元であれば、教室・廊下・オープンスペースなどの壁・窓・天上・床をあらゆる方法で駆使して、「図形学習ワールド」を作り上げるわけです。天上からは学習する図形をあしらった単元名掲示を吊るし、子どもの目の高さくくらいの壁にはその図形の性質が一目でわかるようなパネルや図形クイズなどを、共有スペースの真ん中には、学習カードのヒントとなる情報が視覚的にわかりやすく示された立て看板的な大きなパネルを設置し、いくつかのテーブルには様々な図形遊び体験のためのパズルやタングラムを、その横にはタングラムの出来上がり例を拡大コピーした看板を、さらに、窓にも縦横にテープを張り巡らせて構成される図形模様を、くわえて、別の壁面には子どもたちが作った図形的製作物が貼り出されて行く巨大な台紙を、棚には図形にまつわる様々な図録や絵本などの紹介コーナーを、というように、その学習空間の学習情報密度を客観的にも主観的にも飛躍的に上昇させることで、教師の直接的指示が極小化されても、子どもがその環境との相互作用によって、そこでの自立的学習の充実度を極大化できるように環境構成が行われるのです。それは優れた幼児教育現場において準備される環境構成と多くの類似点を持つものかもしれません。そこでは、単に平面的な掲示だけでなく、より子どもたちの目を引くような凹凸のある、あるいはダイナミックな三次元の構成物を含む様々な掲示やコーナーが、色彩豊かに、かつ、学習に最適な子どもの動線が確保されるようなレイアウトで配置することが目指されるわけです。
 こうした学習環境を制作した経験のない方が、非常に優れた学習環境をご覧になると、その作業の負担はさぞや大きいものだろうと懸念され、こんなものは自分の学校では絶対に用意できないという諦めに似た気分になられることが少なくないのですが、経験的に振り返って言えることは、単元構成や学習カードづくりなど学習材の準備で苦労を感じることはあっても、こうした学習環境作りに関してストレスを溜める教員は皆無に近いのが実情です。もちろん、教師個人としてそのような環境構成を進めることは困難ですが、強力なチームワークが出来ていると、環境構成に相当な盛り上がりを見せるという事態の方がはるかに多く見られるのです(「こんなことまでするのは、並大抵の負担じゃないですよね?」「たしかに、そこそこ時間はかかりますが、まあ趣味の世界ですね。結構楽しいもんですよ。ハハ。」)。そして、そうして出現するミクロにもマクロにも圧倒的な印象を与える学習環境に込められた教員集団の熱が、子どもの学習の姿に感染したかのように見えるという事態もしばしば目にされてきたところなのです。
(2) 単元内自由進度学習の方法的側面=実践上の留意点
 単元内自由進度学習における実践上の留意点は、当然ながら、まずは、この学習の目的・目標から直接導き出されることになります。その目的・目標とは、上述のように、一つには、一斉指導あるいは集団学習では十分に実現できない水準の「個に応じた」あるいは「個を生かした」学習指導・学習支援の可能性を拡げることであり、また一つには、教師による直接的指示・コントロールにとってではなく、一人一人の子どもが、高度に与えられた自由を引き受けて、自己の判断と責任で学習を進められるようになること、すなわち、自己学習力を身につけられるようにすることでした。
 これらの目的・目標を念頭に置くこの学習では、第1に(子どもが他の子どもに迷惑をかけたり、邪魔をしたり、共有財産としての学習材や道具を手荒に扱ったり、使用したものを元通りに片付けなかったりというルールが破られない限り)、子どもたちの学習活動に対する教師による直接的な指導や支援をできるだけ控え、教師は、授業中、子どもの様子を見取り、それを記録し、見守ることの方に重点を置きます。いわば「引いて、見る」と呼びうるような姿勢をとるわけです。  
 一斉授業・集団学習では、一定の学習速度やペースが全ての子どもに共通に当てはめられることになり、せいぜい別の教師がごく少数の子どもに対して個別支援を施すという程度の対応になりがちですし、自分の机について、一定の姿勢を保つことも要求されますが、この単元内自由進度学習では、できるだけ多様な子どもの個性が活かされる学習材を準備するだけでなく、授業中も、少々の停滞・沈滞や間違い・失敗があっても、すぐに介入せず、その子ども固有のペースや学習スタイルを尊重することを原則にしています。
 といいますのも、子どもによっては、やり始めのペースがゆっくりで、なかなかサクサク進まず、支援が必要に見える場合でも、ひとたびスイッチが入ると、とたんに集中してどんどん自分の学習を自分で進めていくという場面が見られるからです。あるいは、学習をサボっているような子どもも、傍で集中して黙々と進める他の子どもたちを見たり感じたりして、それにだんだん刺激され、教師からの指示がなくても、自分で一念発起して実質的な学習活動に向かって行くという場面も見られてきているからです。
 よって、当然ながら、この学習の際には、何かの必然性がない限り、机につく姿勢を正させるというようなこともしません。子どもによっては、椅子に座らず、机の前に膝断ちで、時には、立ったまま、あるいは、地べたや低いところに教材を並べて、あぐらをかきながら、それでも活動には集中しているという場面は多々見られるからです。人に迷惑をかけなければ、公共財を丁寧に扱っていれば、そして、実質的に学んでいれば、「好き勝手が」が何でも許されるわけです(許せませんか?)。
 くわえて、時々途中で集中力が切れて、作業が進まず、徘徊したり、寝ころがったりする場合でも、他の子どもを妨害しない限り、また、目に余るということがない限り、「適度な自主休憩」さえ容認することにしています。そうした停滞や沈滞があっても、大部分の子どもたちは、自分の学習へと自分から復帰して行く場面が多く見られてきているからです。
 もちろん、目に余る場合には、その子どもに合わせて即時支援や事後指導は行うことになりますし、この学習を始めて経験する低学年や経験の浅い学年などでは、高学年に比べて、教師による助言や支援をやや厚くすることになりますが、基本的には、子どもたち自身が、様々な学習材を活用して、課題を自分で乗り越える契機を大切にしたいということです。ただし、与えられた時間内で終えられそうにない場合には、宿題あるいは居残りというかたちで補充学習をしなければならないということは、予め子どもたちに伝えられることになります。
 第2に―これは第1の点と全く別のことではないですが―この学習では、子どもたちが教員に支援を求めることがあっても、教師は、できるだけ子どもが自分で解決しようとするように促そうとします。そこで、子どもたちは、頼りたい気持ちを抑えて、自力で壁を乗り越えることを求められるわけですが、自立は容易いことではないという点を踏まえた上で、自由には責任が伴うことに身をもって気づかせ、自由度が大きい学習である分だけ、学ぶ楽しさとともに、学ぶ苦労も経験させたいという意図がそこにはあります。
 この学習に慣れていない段階では、学習カードの指示等をよく確認せずに、すぐに教師に質問したり、支援を求めて頼ってきたりする場面がやや多く見られます。あるいは、教師に質問しようとする子どもの列が出来てしまうということがあります。教師の側でも、この学習に慣れていない段階では、ついつい子どもに頼られることに直接応じようとして、結局、子どもの自立の契機を奪いかねない方向で対応してしまうこともあります。たしかに、その場で分厚い支援が必要な子どももいますので、一概には言えないものの、基本的に、教師は、子どもに質問されたり頼られたりした時には、その子どもに対して、学習カードや教科書を開いて再度よく確認することを励ましたり、ヒントコーナーやその他の学習材を利用することを勧めたりすることで、子どもが自立的に課題に取り組み、解決する場面を増やすことを心がけるわけです。
 第3に、どのような学習過程においても重視されてよいはずの、多様な子どもの視点・思考の共有という側面が、この自立的な学習においては軽視されることになりはしないかという批判が差し向けられることがありますが、この問題への対策を意識的に講じることについて述べておきたいと思います。たしかに、クラス全体で、あるいは小グループでの子ども同士の直接的な交流や議論は非常に意味のあることですが、同時に、そういう直接的な議論では、発言に無視できない偏りが生じることもしばしば目にする所です。むろん、そういう偏りが生じないようなクラス運営こそが、教師の重要な任務であるという考え方は、一定の正当性を持つものではありますが、子どもたちが学校に来る前にすでに持っている資質や能力が、そこには影響を及ぼすので、その偏りを大きく修正することには困難も伴います。また、たしかに、単元内自由進度学習では、そうした直接的な交流や議論の場を設けることが極端に少ないことは間違いありません。しかし、一定の視点を持ち、一定の工夫をすることで、この学習にはこの学習で、それなりに効果的な共有場面や協働性を確保することができるのです。
 たとえば、ある学習カードの指示によって、あるポイントに関する子どもの感想や意見を付箋で貼り出すコーナーを設けることによって、普段の直接的な意見交換の場では、なかなか積極的な発言が見られない子どもが、そこに何枚も自分の考えを書いて披露するということがあります。さらには、人の意見を聞きましょう、と直接指示しても、なかなかそういう指導が通じない子どもが、授業中だけではなく、休み時間のふとした瞬間に、その付箋に書かれた友達の考えにじっと目を通しているという場面が生じるわけです。
 くわえて、協働学習と呼ばれる方法論では、そうした協働的活動が最初からそれ自体目的として織り込まれる計画が立てられることになるわけですが、よって、その点で、協働学習が教師によって仕組まれるわけですが(そして、もちろんこうした学習計画・活動は大変重要な意味を持つわけですが)、この単元内自由進度学習では、いわば「自然発生的な協働性」を重視しています。子どもたちは、それぞれ自立的に学習を進めていても、様々な場面で、時には意外な子ども同士の間で、お互いの学習活動について意見を交換したり、相談や助言の場面が見られたりしています。その点で、我々は、集団的な協働的活動だけが協働ではないと考え、このような個別の自立的な学習の中でも、意味のある協働性が育まれる可能性が充分にあると見ています。再度確認しておくと、この点は、いわゆる協働学習的な実践の不要性を結論づけるものでは断じてなく、むしろ、個に準拠した自立的学習との共存こそが当然あるべき姿であるとの認識に支えられているのです。
 第4に、この学習で教師は、その子どもの活動を肯定的に価値付けることができる場面を見いだし、その肯定的評価を子どもに返してやることを心がけることになります。この学習では、上述のように、一人ひとりの子どもの持ち味が生かされるような、また、子どもが自分一人でも進めて行けるようなコースや学習材をできるだけ周到に準備するわけですが、それを用いて展開される子ども一人ひとりの個性的な活動の中に、できるだけ「いいところ」を見いだし、適切なタイミングで(手段としてのみならず)実質的に「褒める」ことができるようにすることを旨とします。
 特別な支援を要する子どもの一部を含めて、通常の一斉授業では、そこで要求される秩序に収まらず、否定的な評価を受けることが多い子どもに対しても、この学習においては特に、できるだけ肯定的に捉え、その自尊感情が掘り崩されないように配慮し、その子どもが、自らの失敗や挫折と向き合いながら、試行錯誤を通して課題を解決していけるための、そして、自己を肯定的かつ批判的に捉えることができるようになるための基盤づくりが目指されるのです。その意味で、この学習においては、いわゆる「個人内評価」により重要な位置づけが与えられることになるでしょう。
 さらに敷衍すれば、ここで言う自尊感情は、個々の子どもの「尊厳」という側面と結びついています。というよりも、自尊感情(高い場合も低い場合も含めて)とは、尊厳が担保されたり、されなかったりすることによって生じる自己評価であると言ったほうがいいかもしれません。一定の基準を満たしてはじめて、あるいは、所属集団との一体化によってはじめて、その子どもの価値を認めるというのではなく、そうした外的基準とは別に、まず個々の子ども自身に価値を認めるという立場に立つとすれば、大人の指示に従わせることだけでなく、むしろ思い切って自由を与える必要があります。この自由の中ではじめて現れて来る自己に承認が与えられてこそ、その尊厳が保たれ、それに応じた自尊感情を得ることになります。その点で、我々が考える自尊感情とは、依存状態ではなく、依存可能な安定性に支えられた自立のなかでこそ育まれるものです。というわけで、ここで紹介してきた学習は、子どもに可能な範囲で大幅な「自由」を与え、個々の子どもに試行錯誤を経験させるなかで現れるその個々の子どもの姿や声に、教師や他の子どもが「承認」を与えることで、個々の子どもに対する「尊厳」が確保され、そこで育まれた自尊感情に基づいて、新たな挑戦(試行錯誤の旅、すなわち、失敗や挫折を経験する旅)へと踏み出せるような基盤形成を図り、このスパイラルが成長を続けることを目指すものなのです(宮台真司『14歳からの社会学』を参照)。
 第5に、ここまでの留意点と一見矛盾するように見えても、子どもたち一人ひとりの学習状況を確認しながら、この学習の進め方に関して柔軟な対応を取ってよいということも確認しています。すなわち、たとえば、学習カードの文言の思わぬ不備や、子どもの学習とそれに関する教師側の事前予測との間の不一致などから、子どもの間に無用な混乱が生じたり、過度の停滞が生じたりした場合には、自由進度学習の途中でも、自由な活動をいったん遮断して、一斉指導を入れ込むという禁じ手も否定しないということです。現場での具体的な実践には、いろいろな要因が複雑に絡みあって、生じた問題の原因を常にすぐに明確に理解できるわけではありません。しかし、そこで生じている事態に大きな問題を担当教員がチームとして感じるとすれば、その原因の追究の前に、あるいはそれと同時に、まずは問題となっている事態への具体的な対応を教師陣は求められることになります。そこで予め持っていた理念や願望に固執することは、この学習の意味を掘り崩すことになりかねないからです。
 しかし、こうした予期せぬ問題が生じることが稀に生じることはあるとしても、TT体制によって様々な角度から検討に検討を重ねて作られた学習材と、大人が見ても惹き付けられるような学習環境が準備されれば、子どもたちは、むしろこちらの予想をいい意味で裏切って「自ら学ぶ」ことを、我々は幾度となく目撃してきました。このことが、教師が教えなければ子どもは学ばないという固定観念を振り払ってくれるのです。そうなると、コースがスタートしてみれば、教師は、特に支援が必要になる子どもに集中したり、あるいは、端的に、子どもの学習状況を文字や画像で記録したりする程度で、子どもたちが頑張っている姿を見ながら、気分よく「楽をする」ことができるのが、この方法論であると言ってもあながち間違いではないでしょう。
   
4 単元内自由進度学習の研究授業と事後検討会
 次に、大谷口小学校のマイマイ学習の、つまり、単元内自由進度学習の研究授業や事後検討会の特徴を簡潔に整理しておきたいと思います。
 この研究授業の第1の特徴は、その指導案において「本時」という枠組が存在しないということです。したがって、「本時」の指導案というものは作成されません。一般に、一斉授業の指導案では、本時の指導案として、全何時間中の何時間目というかたちで、その日の研究授業が、単元全体の何時間目に当たるかが明記されることになります。しかしながら、単元内自由進度学習の研究授業の場合には、当然ながら、子どもたちによって、選択したコースや学習のペースも違っているわけですので、本時の指導案というものが意味をなさないわけです。
 よって、一般に、この学習の指導案は、単元全体の指導案のみが作成されることになります。そして、その研究授業は、コース別の学習が開始されて、子どもたちのコース別学習の活動が本格化して行く単元中盤から、発展学習に取り組んでいる子どもも多く現れる単元終盤に設定することが多いと言えます。
 他方で、この学習でも、本時という枠組が伴う時限も存在します。それは、単元当初のガイダンスと、単元終了時のまとめの時間です。これらに関しては、学年ないしチームを組むクラスの子どもたちを一斉に集めて行われますので、本時の指導案を作成し、時系列的な活動計画の詳細を明記した指導案を作成することになります。ガイダンスでは、子どもたちを今後の学習に動機づけ、設定した各コースの特徴をよく理解して、子どもたちがそれぞれ選択コースを決定できるように、また、発展学習を含めた単元全体の見通しを持てるように、単に一方通行的なコース解説に終始しないという点を含めて、教師陣が様々な工夫を施すことが求められます。
 また、最後のまとめの時間では、直接的にクラス全体で、様々な視点や考え方などについて共有する機会がほとんどない単元内自由進度学習であるだけに、特にクラス・全体で共有しておきたいというポイントや、全員で重点的に確認しておきたいというポイントを扱うということが重要な目的の一つとなります。同時に、この単元で子どもたちが取り組んできた学習活動やその成果・作品などを、子ども皆の前で、教師が適切な価値付けを行える重要な機会でもあります。普段の一斉授業で、なかなか褒められることが少ない子どもや、目立たない子どもの学習を見取っておくことで、それを全員で共有する評価(つまり、その子への明確な「承認」)として、子どもたちに返すことができる場面となるわけです。
 これら、ガイダンスやまとめの時間も、単元内自由進度学習の重要な一要素であることは間違いありませんので、この学習の研究授業を進めて行く中で、一定の経験を積むようになった段階で、これらの時間を研究授業として設定し、全体で検討するという機会も設けられてよいでしょう。
 第2の特徴として、研究授業における授業者と参観者の視点や動き方に関して、従来型の一斉授業とは大きく異なるという点が挙げられます。授業者の側は、子どもたち全員の前で発問や説明をすることはありませんので、研究授業当日は、一斉授業の研究授業の時のような緊張感はないかもしれません。授業者は、ある程度のターゲットを定めながらも、子どもたち一人ひとりの学習状況を、できるだけつぶさに把握すること、必要に応じて最小限の適切な支援を行うことを、安全面の確保とともに心がけることになるだけです。
 他方、参観者も、この研究授業では、ひとり一人の子どもの具体的な学びの姿を見とることが最も重要な目的になります。その際に、典型的な参観方法として次のようなやり方が考えられるでしょう。一つには、学習スペース全体を歩いて、全体を見渡した後、特定の子ども(たち)に焦点を合わせて、その子どもを追って観察するという方法です。その子どもが、どのような時間帯に、どのような進み具合や停滞を示しているのか、何に関心を示し、何に困っているのか、どのような子どもと交流し、どのような学習材や環境の活用の仕方をしているのかを、ミクロに見て行くわけです。その際重要なのは、表面的な子どもの行動記録だけでなく、できるだけ子どもたちのつぶやきや声を詳細に拾い、むしろ、そこでの思考・内面を推察しながら観察するということでしょう。また、一つには、ある場所で定点観測するという方法があります。特定の学習環境のところに、どのような子どもたちがやってきて、その環境をどのように活用しながら学びを展開しているのかを観察するわけです。さらに、特定の授業者を追うことで、この学習における授業者の視点や、子どもへの支援の仕方、それに対する子どもの反応などを観察するという方法が考えられます。実際には、これらを適宜組み合わせて授業を参観するということになるでしょうが、いずれにせよ、一人ひとり子どもの学びのあり方を、固有名詞レベルで分厚く追うことが基本になることは間違いありません。この点は、単元内自由進度学習の場合に限らない重要な視点であるわけですが、この学習ではとりわけ欠くべからざる見方であると言えるでしょう。
 この種の研究授業の特徴として、最後に、次の点を掲げておきましょう。すなわち、この授業では、あくまで「単元」こそが、その基本単位であるということです。単元とは、英語で言うunit、つまり単位のことですから、これは当然のことでもあります。どのような方式の授業でも単元計画を作成する以上、この点に変わりはないはずですが、多くの研究授業に接してきて言えることは、「本時」には相当の労力と時間をかけた準備が行われ、それに関する議論もなされるものの、授業者も参加者も、本時にのみ強く意識が向きすぎて、単元全体での子どもたちの学び・育ちという視点や考察が十分でないという印象を持つことが少なくありません。単元内自由進度学習の研究授業では、単元全体を通して、その子が充実した学びを展開して行けるのかどうか、あるいは、最低限の目標を達成することができるのかどうか、授業者の狙いが単元全体で達成されているかどうかといったことに着眼点が置かれることになります。
 こうした特徴を持つ研究授業の後に行われる検討会も、その特徴に対応した内容を持つものとなります。何よりもまず、検討会の話題の中心は、子どもの具体的な学びの姿や声についてであるということです。毎年多くの教師が参観に訪れるような公開研究会を開催している公立小学校(たとえば、諏訪市立高島小、富山市立堀川小、横浜市立大岡小、奈良女子大付属小など)での検討会は、まさに徹底して固有名詞を挙げながら、その子どもが、普段はどんな子どもで、どのような興味関心、思考様式・行動様式の持ち主で、その子どものことを授業者がどのように感じているのか、そこでの学習でどのような学びがその子どもに生じることを狙っているのかという点を確認しながら、その研究授業時におけるその子どもの実際の学びとその意味について振り返るということが行われています。その意味では、単元内自由進度学習だけではなく、集団学習や協働的学習においても、検討会における議論の中心軸を具体的な一人ひとりの子どもに置くという観点は、より注目されてもよいでしょうか。この点は、いまやレッスン・スタディとして海外にも紹介されている日本の「授業研究」で重視される点と通底するところでしょう。
 このような子どもの学びの姿を振り返る上で、我々が常に活用しているのが、研究授業における子どもの姿を映した画像です。検討会における議論の焦点を明確するために、いわゆる抽出児童を3名程度決めて、授業者または参観者の内の担当者がそれぞれの子どもの姿を集中的に画像に収め、その画像と子どもの作成した学習カードや作品などを、参加教員全員で見ながら、子どもの学習のあり方を検討会で振り返り、その子どもの学びの姿や学習状況を通して、単元構成や学習材・学習環境の出来具合や意味について振り返るという方法です。デジカメとパソコン、プロジェクターが簡単に利用できるようになった今日、このやり方は存外大きな効果をもたらすように感じています。
 一斉授業の事後検討会では、教師の発問・板書・説明などの課題を指摘することが議論の焦点になることが少なくありませんので、授業者は、その意味でも緊張し、まな板の鯉のような気分になる場合もあるわけですが、単元内自由進度学習の上のような研究授業や検討会の場合(もちろん、単元構成や学習材に対する批判的議論は必ずあってしかるべきではあるものの)、授業者たちにとって、むしろ、参加者の多くの目で自分の子どもたちの学びを見取ってもらった上で、報告してもらえるので、自分が十分に気づけていなかった子どものよさや課題について認識を深めることができるという意味で、大変「有り難い」機会と映ることが多くなるようです。同時に、こうして、子どもたちのことについて、ああでもないこうでもない、ああしたらどうかこうしたらどうかと意見を交換することで、それによって教師集団のチームとしての協働性や結束力が増すとも感じています。
 
5 まとめにかえて:ルーツとしての二教科同時進行単元内自由進度学習とその教育学的意義
 意外に思われる方は多いと思いますが、実は、単元内自由進度学習は、日本では、二教科同時進行単元内自由進度学習として始まったという経緯があります。単元内自由進度学習は、もともとは単独教科での実施ではなく、二教科同時進行だったのです。今から30年以上も前、日本のオープンスクールの草分け、愛知県知多郡東浦町立緒川小学校で(今回公開研の指導講師に名を連ねている)当時米国留学から帰国したばかりの加藤幸次氏の指導・助言を受けつつ、研究主任成田幸夫氏を中心にこの学校で開発され、週間プログラム学習(略して週プロ)と呼ばれていたのが、この方法論でした(ちなみに、大学院生として足しげく緒川小を訪問し、その実践を研究していたのが、今回のもう一人の指導講師佐野亮子氏です)。
 では、いったいその二教科同時進行とは何を意味するのでしょうか。それは、たとえば、算数10時間と社会10時間の単元があるとすると、それぞれ自由進度学習用の複数コースと発展学習、そのための学習材及び学習環境を整備し、合計20時間について、子どもたちは、自分の選択したコースに沿って計画を立て、その計画が担当教師に認められたら、その計画に沿って学習を進めて行くことになります。それぞれの単元に割り当てる時数も、よほど極端なものでない限り、子どもの見通しに基づいて自由に決めることが許されます。たとえば、算数は得意なので8時間で終えられそうだが、社会には12時間費やそうとか、あるいは、算数は好きなので思い切り発展学習に費やしたいので12時間、社会はあまり好きではないので最低限のコース学習を8時間で終えることにするという計画も考えられます。もちろん、学習指導要領上、各教科とも年間最低授業時数が定められているので配慮が必要になりますが、その学校での年間授業日や授業時数が最低基準よりも多めに実施されていれば、こうした法律上の問題に抵触することは皆無です。
 各教科に割り当てた総時数の具体的な配列例としては、算数と社会を1時間づつ交互に進める子どももいれば、算数2−3時間の次に社会2−3時間という計画を立てるとか、あるいは、算数を10時間連続で終えてから、社会を10時間続けるという子どもも見られます。
 ところで、この二教科は、相関カリキュラムやクロス・カリキュラムなどのような関係にあるわけではないということにも注意を促しておきましょう。合科関連指導のような視点は含まれていないということです。むしろ、文系科目と理系科目などのように、互いの学習の性質の違いがある程度際立って、子どもの得意不得意もある程度分かれるような教科目、単元を組み合わせるようにすることもあります。なぜなら、その方が、子どもたちが自立的に学習を進める上で、得意だったり好きだったりする単元における学習の充実度や、その学習を楽しみにしている気持ちが、そうではない方の単元の学習に肯定的に影響することが期待できるからです。実際、子どもたちは、好きな教科や得意な教科の方の学習で充実感を味わうことで、その勢いをもう一方の学習に持ち込んで、「意外に自分は、こっちの教科も進められた」という感想を示す子どもも少なくありません。また、他方で、おいしいものを後に残すように、好きな学習を後でたっぷりやりたいので、好きではない方の教科を、チェックテストに合格するように速めに頑張って進めるという子どもも見られます。
 したがって、二教科同時進行で進める自由進度学習における両教科間には、特に必然的な結びつきがある必要はなく、むしろ、それぞれの特質に関係があるように見えない単元であるからこそ、上記のように、子どもの多様性を生かす可能性が増すと言えるでしょう。むろん、合科関連指導やテーマ別単元学習の重要性は強調されてしかるべきですが、二教科同時進行単元内自由進度学習は、それを目的としたものではなく、もし相関カリキュラム的な実践やテーマ別単元学習をより豊富にカリキュラムに組み込みたいということであれば、緒川小学校の場合がそうであったように、別枠でカリキュラムを構成し、実践することができるでしょう。
 ここで同時に指摘しておかなければならないことは、次のような当然の点です。我々は、この二教科同時進行単元内自由進度学習こそが、何より優れた実践方法であるとか、これだけで十分であるとか考えることは全くないということです。ここで詳細を論じる余裕はありませんが、実際、緒川小学校では、この週プロ(二教科同時進行単元内自由進度学習)を含む合計6つの学習プログラムを設定し、個と集団(協働)や、今でいう習得と活用・探究、系統性と総合性といった座標軸間の均衡を図ったカリキュラムが構築・実践されていたわけです。
 大谷口小学校でも、このような均衡を目指したカリキュラム・デザインや授業実践を目指すべきですが、最初から、多くの学習様態を持ち込むよりも、まずは、今まで経験したことのないドラスティックな方法論に集中して研究を重ねたいという現場の希望に沿って、まずは単元内自由進度学習を、しかも、二教科同時進行に限定せず、単教科の単元内自由進度学習からスタートして、ここまで研究を進めてきました。また、冒頭にお断りしたように、この実践は学期に1−2単元程度であり、それ以外は、一斉指導・集団学習であり(むろん、その中でも、子ども一人ひとりの学びにも焦点を合わせた研究を進めるべきであると考えてはいますが)、単元内自由進度以外の学習の意義を軽視しているわけではありません。しかし、我々が、一斉授業や集団学習、あるいは協働的学習を否定しないのと同様に、単元内自由進度学習のような自立的な学習も、どの学校でも試みられてよいのではないかと考えています。
 ところが、こうした学習は、オープン建築の学校だからこそできることなのではないかという懐疑的感想を惹起することが少なくありません。たしかに、オープン建築と、その教育理念と、そこで適用されるカリキュラム・教育方法論とが、三位一体的な関係にあることは間違いありません。現在の日本では、オープン建築の学校を設立したものの、それを支える教育理念や対応するカリキュラム・教育方法論が忘却されているために、単なる使いにくい箱物として受け止められていることも多いのが現実です。しかし、だからといって、一般的建築様式の学校で、こうした実践を蓄積して行くことが困難なわけでもないことは、同じ愛知県東浦町の石浜西小学校や、それだけでなく、大谷口小学校と区内で合同研究を進めてきているものの、現在プレハブ建築であることを余儀なくされている板橋第一小学校での最近の授業研究を見れば明らかだと言えるでしょう。むしろ、その意味では、建築よりも教育理念や方法論の方がより重要な意味を持つわけです。
 ここに紹介してきた子どもの自立的な学習に基づく教育方法論は、さらに遡れば、アメリカ合衆国における有名な進歩主義的教育実践であるウィネトカ・プランやドルトン・プランに行き着くと考えられるかもしれません(後者は、特に今で言う教科センター方式のルーツです)。そこで模索されたのは、子どもたちが受け身的な学習に終始する集団主義的な一斉指導に対する代替案でした。
 将来の民主主義社会を担う子どもたちは、重要な意思決定を何らかの権威や他人に頼るというだけに終始せず、自立的に判断し、その上で他者と協働していける資質を身につける必要があります。その点では、個人として孤立し閉じこもることも、集団の中に個人が埋没することも望ましい帰結を生じさせない可能性が高いわけです。上位機構やエリートと呼ばれる人々に任せて、我々が思考停止に陥ることが、どのような悲劇を生むことになりかねないかということは、つい最近この日本で大きな痛みを持って感じてきたことではないでしょうか。
 さらに、ポストモダンと呼ばれることがある飛躍的に流動性の高まった社会においては、いま必要とされている知識・技能が十年後二十年後も同様の価値を持ち続けるとは限らず、反対に、新たに重視される知識・技能が登場するということが常態化します。とすると、そこで子どもたちが身につけるべき資質・能力とは、教師に習得するよう指示された内容を指示された通りに習得し再現できるというだけでなく、自らの思考と判断に基づいて新たな事について学ぼうとし、新たな局面において、その時点で持っている自らのリソースを活用して、また必要に応じて他者と協働しながら、問題を解決して行くという類いのものであるでしょう。こうした理念こそ、PISA などで探究されていることでもあります。上記のアメリカにおける教育実践は、その先取り、嚆矢と考えることができるでしょう。
 そして、このように、生涯学習が求められる時代には、自発性や意欲の持つ意味がより増すことになるわけですが、外からの強制や圧力(大人からの命令や受験など)がなくても、自らすすんで学んで行こうという姿勢を保つことができるためには、そうした学習が楽しかったという経験と、時に苦労や失敗や挫折を経た上でそれなりに乗り越えてきたという実績とが不可欠になるでしょう。だからこそ、ここで紹介してきた自立型の単元内自由進度学習の実践において、我々は、一人ひとりの子どもがまずは学習が楽しいと感じることが多くなるように工夫し、子どもが自由を与えられてそこで経験する楽しさのみならず苦しさをも意味のあることとして、その子の成長に活かしていく道を探ろうとしてきたわけです。
 最後に、これらの点で、我々は、この自立学習としての単元内自由進度学習によって、個の孤立化を是としているわけではありません。学習指導要領の言う「開かれた個」をこそ念頭に置いているつもりです。しかし、この日本の教育現場では、まだまだ集団性、「みんな一緒」性により大きな比重が置かれているのではないかという認識があります。その意味でも、ここに紹介した方法論の意義は、やはり大きいと言えるのではないでしょうか。
 ともあれ、我々のこの取組はまだ始まったばかりであり、課題は山ほどあります。実際、この取組自体が試行錯誤の連続でした。しかし、何より、その取組の中で、変化した子どもの姿を共に目の当たりにしたという事実は消えません。そして、その子どもの姿こそが、我々の基づくべき客観的データであるとともに、我々の背中を押す原動力ともなってきました。今後の大谷口小学校に、さらに期待できる所以です。