愛知県東浦町立石浜西小学校授業研究会

minor-pop2010-02-12

 この日、午前中から愛知県東浦町立石浜西小学校でミニ公開授業研究会=拡大校内研修会が開かれた。今回の授業研究会には、岐阜聖徳大学椙山女学園大学上智大学合わせて計80名ほどの学生の参加を得て盛況なものとなったが、同時に、上智大学奈須正裕氏、岐阜聖徳大学成田幸夫氏ら個別化・個性化教育のビッグネームの参加も得られ、大変贅沢な会となった。
 公開された授業は、主として、同校で「◯◯学習」と名づけられている「二教科同時進行単元内自由進度学習」による教科学習、そして、同じく「わくわくフリータイム」と名づけられ、今年度から「総合的な学習の時間」枠で実施されている自由活動に関する、児童による発表会であった。一定の教科学習を一斉指導ではなく、それぞれの子どもが自分でコースを選択し、自分で立てた計画にそって個別に進めていく二教科同時進行単元内自由進度学習と、子どもが自ら選んだテーマにそって(内容面でも方法面でも自主的な判断に基づいて)活動を進めていく自由活動は、ひとりひとりの子どもの個性を最大限に尊重し、生かし、その上で個の自立を目指す教育にとって、最も重要な機軸となる教育方法である。ついでながら、これらの方法論においても、当然、協働性は重視され、子どもどうしの学び合いという側面も軽視されているわけではないが、その協働性の基盤に「自立した個」という要因(その意味では、時に集団から距離をおく「個=孤」という要因を否定的にのみ考えないという考え方)を置くというところに特徴があると言えるかもしれない。
 さて、今回の研究会で私が注目した具体的な諸点について記すことは別の機会に譲り、さしあたりこのミニ公開研に参加した学生の一部から、この日のあとに送られてきた感想文と、それに対する私のコメントを以下に列挙しておきたい。大半の学生は、当日、紙ベースで手書きによる感想を提出しているので、以下に送られてきた感想は、私の求めに応じて特別に送られてきたものである。
 送られてきた感想文に、あえて褒め言葉をいちいち掲げてはいないが、どれも真摯な姿勢に基づくもので、また内容も充実している。小学校に送付したファイルには、氏名などもそのまましたが、以下では削除して、所属だけを明記している。
 なお各学生の感想文のあとに付した私のコメントは、疑問に対する具体的な解答をあたえるというよりも、むしろ、あえて今後の考察に向けた示唆を与えるようなものとした。その意味で、各学生は、このコメントを読んですっきりするというよりも、新たな宿題が与えられたような印象を受けるかもしれないが、この点、予め了承されたい。
 

椙山女学園大学国際コミュニケーション学部国際言語コミュニケーション学科2年>
 初めて石浜西小学校を訪問させていただいて、最初に感じたことは子どもたちって元気だなと思いました。日本人の子も外国人の子もわたしたちを見つけて「おはようございます!」と元気よくあいさつをしてくれて、すごくうれしかったです。学校に行き、外国人の子の多さに驚くとともに、その言葉でのおはようなどのあいさつを言えないことに気付き内心かなり戸惑っていました。石浜西小学校に通う日本人の子どもたちは、ポルトガル語などでのあいさつなどはできるのかな、と疑問に思いました。
○○学習を初めて見学させていただき、こういう授業の進め方もあるんだ、自由でいいな、と思いましたが最後の全体集会の場で淑子先生がおっしゃった「これしか方法がなかった」という言葉を聞き、苦肉の策であることを痛感しました。わたしの考えでは、一般の小学校とは違い、まずは「学校に来てもらうこと」が最優先である石浜西小学校にとって「一斉授業」は至難の業で困難に近い。そうした難しい環境の中で編み出されたのが○○学習、習熟度別学習であるのだなと思いました。わくフリでは、そこが「学校」であることを忘れているかのように子どもたちは自分の好きなことをし、楽しんでいます。団地暮らしの中ではできないことをいろいろ試しているような感じがしました。ピアノの発表をしていた女の子は、家にピアノがないのに13小節も発表していました。それはすごい集中力だと思います。子どもたちの一生懸命さ、ひたむきさを見ることができる時間がわくフリなのかなと思いました。
 中学校に進学した子どもたちは、授業に付いていけず荒れているとおっしゃったのを聞いてかわいそうだと思いますが、中学校となれば全校生徒の人数もかなり増えますし西小みたいな少人数での授業は難しいのでしかたないのかもしれません。しかし、西小の先生たちが中学校に進学した子どもたちの様子を把握できればなにかできることはあるのかなと思います。
 石浜西小学校を訪問させていただいて、ありがとうございました。

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・ 単元内自由進度学習の導入は、実際には、たんに「苦肉の策」とは言えないので、そのあたりは、出版本を読み直して確認してください。その導入の要因は、むしろ複合的です。
・ 石西の子どもは、たしかに「すれている」ところが少ないと言えるかもしれません。塾に通う子どももほとんどいないので、学校の授業内容をすでに知っているということもほとんどないというのは、多くの都市部の学校と異なるところでしょうか。

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椙山女学園大学国際コミュニケーション学部表現文化学科2年>
 学校に来た瞬間から、あいさつが明るくおもしろくて、先生方がとても気さくだなというのが最初の印象でした。わくわくしながら中に入ると、壁一面が生徒たちの作品で溢れていて、朝の眠気が吹っ飛んで元気になれました。授業を見学させてもらうと、子どもたちが一人一人いきいきしているなとすぐ感じました。なんといっても挙手率が高く、積極的な子どもたちが多いなと思いました。また、授業見学で一番印象深かったのがやはりわくフリの発表でした。自分の好きなことを相手にわかるようにきちんと伝えるということは簡単なことではないし、ましてや小学生にとっては困難なことだと思います。私はこのようなプレゼン的なものは大学に入って初めてやったので大学みたいなことをやっているなぁと感心してしまいました。発表している子も熱意があって、楽しそうだったし、聞いている子も相槌を打つ子もいて、真剣に友達の話を聞いていました。私も小学生の時にこういう発表会ができていたら、楽しかっただろうなと思いました。また、かぐや姫の劇とても楽しく拝見させてもらいました。どの役も本格的で驚きました。語り手の子がプロのナレーター並に上手ですごく迫力がありました。きっとたくさん練習したのだろうなと思います。先生たちが上でライトをあてたりしている姿も教師と生徒が一体化して努力してきた様子がうかがえました。素敵なひとときでした。先生方の討論会もとても興味深く聞かせてもらいました。教師一人一人がポリシーをもっていて、何より石西の教師は生徒のことをよく理解していることがわかりました。担任ではない生徒の名前をほとんどの教師が理解していることも衝撃でした。本当に子どもたちのことが好きなことが本当によく伝わりました。授業のやり方とか、学校の方針ももちろん大切だけれど、それ以上に大切なものを石西の先生たちはよくわかっていると思います。だから笑顔の生徒が多いのだろうと思います。1日本当に良い経験になりました。ありがとうございました。

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・ 学校をひとつのコミュニティとして成立させる際に、子どもの一人ひとりの名前をすべての教員が知っていることは、基本としてとても大事にですね。しかし、それができるということは、全校でTTが成立しているからこそだと言えるかもしれません。

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上智大学 総合人間科学部 教育学科 2年>
 石浜西小学校を見学してみて感じたことをある程度いくつかの項目に分けて述べていこうと思う。
1)児童について
 児童については、すれ違う子どもの多くが元気よく大きな声であいさつをしてくれ、非常に明るく、よい印象を受けた。また日系ブラジル人の児童は積極的に話しかけてくるなど、とても人懐こいように感じられた。この学校の特色は外国人が多いことであるが、教室内の一斉授業ではそれをあまり感じさせられなかった。それほど上手く日本と外国の文化がうまく一つの空間に共有されているからなのかとも思われた。しかし○○学習などの一人学びの場面では多くの子どもが仲の良い子どもたちと一緒になって行動している様子が見られたが、そこではやはり外国人は外国人同士、日本人は日本人同士で仲良くしている様子が見られた。そのことを考えると本当に子どもたちが出生の違いを超え互いに理解しあった上に生まれる友情が石浜西小学校で見られるか、といえば疑問ではあるが、これほど多くの外国人の子どもたちがおり、言語、文化、考え方が違うなかで、学校という一つの組織がきちんと運営されていることはまぎれもない事実であり、ここまで到達するのに石浜西小学校なりの努力がなされてきたのだろうということが教科書を読んだりして伺われた。
2)先生方について
 授業見学ではいくつかの教室を回ったが、当たり前であるが教師ごとにそれぞれの個性のようなものが見られた。学生の分際で実務経験のない私がこのようなことを言える立場ではないと思うが、残念ながら児童の扱い方や対応、受け答えなどが形式的なものとなっており、本当に学びを追究しようとしているのか、子どもの心に答えようとしているのか、疑問に思う場面もいくつか見られた。教師の個性や石浜西小学校独自のプログラムも、児童と真摯に向き合うことが大前提としてあると思う。さまざまな雑務などで大変であるとは思うが、それぞれの教師が日々成長していく姿勢をもっていれば、この小学校の取り組みがより輝くのではないかと思われた。また○○学習では子どもが自分で自力で調べていくものであると思うが、ある場面では教師が調べ方を手とり足とり教えすぎているのではないか、と思われる部分もあった。私の解釈が間違っているのかもしれないが、せっかく児童の自主性を大切にする学習だと思うので子どもにもっと任せてはいいのではないかとも思われた。このあたりは、学校独自のプログラムについての共通した認識、解釈を教師観でより強く確立、共有していかなければならないものかもしれない。学校の掲示物については先生方の頑張りや熱がこちらに伝わってきて、素直にすごいなあと尊敬の念を抱いた。
3)その他疑問点など
・疑問1
ノーチャイム制なのに、大放課では放課終了5分前を知らせる放送があったり、そうじの音楽がながれたりしていたのが不思議だった。ノーチャイム制ということで完全に子どもたちが自分で時計を見て動くものであると思っていたため驚いた。せっかくなのだから完全に子どもに時間管理を任せてみたらどうなのだろうと思った。時間を知らせるものを完全になくすには何か限界があったのであろうか。
・疑問2
日適担当者についてであるが、日本語を話すことや聞き取ることが難しい子どもが負担を少なく学習を進めていくにはとても重要な存在だと思った。しかし、今回見学してみて、日適担当者がほとんど1人の子どもにつきっきりで、しかもずっと外国語でコミュニケーションをとっているので、いつまでたってもその名とは裏腹に子どもが日本に適応するのを遅くしたり、阻んでしまうのではないかという不安が頭に浮かんだ。授業中にサポートすることももちろん必要ではあるが、それとは別の時間にももっとその子が日本でも自分の力で立っていけるような援助の仕方ができればより子どものためになるのではないかと感じられた。
・その他感じたこと
かぐや姫のダンスや演奏はすばらしかった。自分の小学校でもソーラン節を踊ったりといういい思い出があったことが思い出された。私の出身小学校にはない石浜西小学校の特色やよいところは、外部、地域の講師の方々と子どもが非常に親しく、仲がよいことであろう。廊下で外部の先生だと思われる方と児童がとても親しげに話しているのを見かけ、その関係のよさが伺われた。教師や親以外に仲のよい大人ができるということは子どもにとって視野が広がるであろうし、よい大人の見本とか、子ども自身の将来像などにももしかしたら繋がっていく可能性もあり、とてもいい影響をもたらしていると思う。
全員の参加強制ではなく、生徒の自分の意思による自由参加であのような発表できるような作品を作り出していく、その生徒の自主性、自発性に任せるというスタンスも非常によいと思った。先生から無理やり教えられたダンスや歌は決して楽しいものではないが、自分からやりたいと願ってやるそれらは、楽しさと同時に一生懸命やるがうえのつらさなども経験でき、「学び」としての質が豊かになるののではないかと思われるのである。
これからはできるだけ多く現場の学校教育をぜひ自分の目で確認していきたいと思った。そうして自分の目で事実をつかんでいくことや、他校との比較を通して、本当によい教育とは、本当によい教師とは、そして子どもが真に学ぶとは、どのようなものなのか、考察を深めていきたいと思った。

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・ 南米系の子どもたちと日本の子どもたちが「固まる」ことを指摘してくれているので補足しておきましょう。日本人がほとんどの学校でも、自由に活動させると、たいていの場合、男子女子で分かれて固まるのはわかりやすいとしても、階級・階層的要因で分離しているのは明らかです。上智の学生のなかで、公立の中学校の教員になりたがらない学生が少なくないのは、この点と無関係ではありません。さて、とすると、君の疑問はどう応用できるでしょうか?
・ 子ども一人ひとりへの適切な対応の仕方というのは、本当に難しいですね。援助が足りなかったり、干渉しすぎたりと。君の批判的視点は、今後、君自身の課題にもなるでしょう。教師にならないとしても、親になったり、あるいは、後輩や部下を持つことになる可能性が誰にも考えられるので、その意味で、教育から無縁な人間はいないと行っても過言ではありません。そして、こうした教師の子どもへの対応を判断する際に重要なのは、その判断が表面的でないかをつねに自問することでしょう。その上で、さらに見る目を養ってくれればと思います。
・ ノーチャイム制、といっても、その方法は、様々考えられるでしょう。ある程度「ゆるい方法」もひとつの方法と言っていいでしょう。そして、どの方法をどのように採用するかに唯一の正解はありませんので、その時々で学校で判断していくということになります。
ポルトガル語で個別対応されていたのは、おそらく教員ではなく、ボランティアの方か、加配の方でしょう。多民族が当たり前のアメリカでは、フルタイムの教員がバイリンガルであるようにするといったことはまれではないですが、この辺りは、むしろ日本の政策の遅れ、あるいは、日本という国の閉鎖性の一旦と言えるかもしれません。
かぐや姫の活動に関する感想は、おそらく、現場の先生の意図にほぼ一致しているのではないでしょうか。しかし、練習風景では、君の想像とはもしかすると異なる厳しい叱責も見られました。その是非はともかく、実践は一筋縄では行かないものですね。
・ ともあれ、提起された疑問はとても重要なものばかりです。遠くて大変でしょうが、もしさらに疑問を追究したいということであれば、また訪問を考えてみてください。

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上智大学 総合人間科学部 教育学科2年>
 本や授業でしか見たことのなかった多文化共生の学校を見学できたことは非常に勉強になった。石浜西小学校の授業形態の特徴である、習熟度別学習や○○学習、わくフリはどの生徒も楽しんで参加していた。以前、教育格差に関する本を読んだ際、習熟度別学習は多くの学校で取り入れられるようになってきたが、公立小学校は公共の教育機関であるため、それをしてしまっては公立の中でも学力格差を広げてしまうのではないか、という記述があった。確かに都心部での平均的な学力を持った子どもたちが集まる学校であれば、そうかもしれない。受験組、普通組、落ちこぼれ組のように階級ができてしまうかもしれない。しかし石浜小での授業を見学して、それはあくまである程度の学力を持った子どもたちが集まった学校であればそうなのであって、石浜小のような全国的な学力水準に届かず、外国人生徒も多く、同じ授業を一つのクラスで行うのが困難な学校の場合には、それは学力格差ではなく、学力区別であると考えるようになった。習熟度別学習をクラスごとに見てみたが、一番上のクラスでは生徒も活発に発言し、答えもしっかりしていた。しかし下のクラスでは「かわいい」を「かはいい」、「おおきい」を「おきい」といったように初歩的なことをまだ理解出来ていない生徒もいた。日適のクラスでは、日本語を教えながら、ポルトガル語でもせ説明しながら授業を行っていた。やはりこのレベル差では同じ教室で同じ内容の授業を行うことは困難であり、この習熟度別学習はすばらしい授業形態だと思った。
 わくフリの授業では、クラスあるいは学年全員が発表者の発言に耳を傾け、発表者も堂々と発表していた。日本語がたどたどしいながら一生懸命に発表する外国人生徒を温かく見つめる生徒も多く、クラスの雰囲気が非常に良い。自分のやりたいことを行い、それについて自分なりに発表し、それを聴いてもらうことで、生徒たちは自信をつけていくのだと感じた。
 ○○学習では、2教科を組み合わせ、学んでいくもので、これも習熟度でクラス分けされていた。各クラスでの取り組みは異なり、手を動かすことを中心に発見していくクラスを見学したのだが、発見したり、出来たりすると生徒は嬉しそうに「出来た!」と先生の元へ駆け寄っていった。机上の勉強や、教師の一方的な授業では決して学ぶことのできない、自分でやって自分で発見することでの理解をすることで子どもたちの学習意欲が高まるのだと感じた。
 教室を移動中にある生徒が自分が書いたという物語を見せてくれた。それを読んで、石浜小学校の生徒は想像力が豊かなのだと感じた。 物語を読んでいる最中、何度も私たち学生の前を行き来し、その評価はどのようなものか気にしているその生徒がほほえましかった。面白かったと、率直に感想を述べると、嬉しそうに次の授業の教室に向かっていった。石浜小で自分で調べ、学び、発表することをやっているから、そのように休み時間でも知らない学生に自分の行ったものを見せることが出来るのだと感じた。
 かぐや姫の発表は、目を見張るものだった。公立の小学校でここまで出来てしまうのかと驚きを隠せなかった。純粋に楽しめた時間だった。朗読、合奏からのダンスパフォーマンスは格好良く、子どもたちも生き生きしていた。
 石浜小学校は普通の学校とは違っているところが多いが、それが故に経験できることがたくさんある。学力的には都心部の学校に劣っている部分が多いかもしれないが、学習意欲や満足度ははるかに勝っているのではないか。最後の全体会で、石浜小出身の生徒が中学校では荒れているという話があった。小学校だけで学習は終わることはないから、中学校の授業形式になれるためにも、魅力的な石浜小の授業をしつつ、集団での普通の授業も少しずつ取り入れられたら・・・と思った。
 ありがとうございました。

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・ 習熟度別授業でも、クラス単位の授業でも、あるいは、個別やグループ別学習でも、一斉授業でも、その形態それ自体の意味ももちろん重要ですが、それ以上に重要なのは、その適用の仕方や文脈であると言えるかもしれません。習熟度別授業は、適用の仕方次第で、いわゆるトラッキングにしかなりえないということも考えられます。
・ 補足しておく必要があるのは、君たちがみたような二教科同時進行単元内自由進度学習という授業形態の割合は、全体の3分の1あるかどうかだということです。その意味では、大半の授業は、他の学校で多く見られる一斉授業という形態であることを踏まえておいてください。他の学校は、一斉しかない、のに対し、石浜西は部分的に個別学習的スタイルを採用しているということです。この点、誤解のないようにしてください。
・ それから、中学校に行くと慣れないと困るから、という問題が生じるときに、ほとんどの場合に、小学校が中学校に合わせるべきだという方向での指摘が出て来るのですが、なぜその逆はあり得ないのでしょうか?この点、考えるべきポイントになるかもしれません。

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上智大学総合人間科学部 教育学科 三年次>
私は教育学科、教職科目の授業で那須先生の講義を受講し、石浜西小学校に大変興味を持ちました。また、ボランティアで、外国籍の住民が多い秦野市で小学生や中学生に日本語を教えたり、日本の生活を支援する家庭教師ボランティアをしており、小学校や中学校に訪れたり、学校の先生と話し合う機会が多く様々な問 題意識持っていたため、外国籍の生徒が多い石浜西小学校の教育活動を学びたいと思ったことが今回の参加理由でした。
 実際に学校を訪問させていただいて、授業の様子や教育カリキュラムの構成など、本や授業である程度は知識を得ていたものの、実際に見ることによってさらに今までの私のイメージや受けてきた教育と全く異なる世界がそこにはあり驚きました。また、子どものびのび、イキイキとしており先生方のちょっとした工夫 や子どもに対する愛情を感じました。
 特に最後に参加した学校の先生、教授、学生を含めた話し合いは特に、私の今までの学校教育に対するイメージや、考え方を多角的に、より広い視野からとら える大きなきっかけとなったように思います。ここで私は、より、現場の先生方の考え、方針、実践、価値観をうかがうことができ、さらにそこに学術的な視野からの教育のあり方、教育の理論、あり方、さらにそこから国の教育方針に繋がるようなトピックにまで及ぶダイナミックな、広く、深い様々なものをコンバイ ンしたお話を伺えたのは大きな収穫でした。様々な教育に関して本気で情熱を持って取り組んでいるプロフェッショナルな先生、教授方の様々なお話を聞きアプ ローチの方法は様々であるけれど共通したものを多く発見し、「一人一人の子どものため」という姿勢に感動しました。私も将来教育関係の仕事に携わっていきたいと思っているので今回学んだことを心に刻みさらにこれからの学びで広げていきたいと思いました。
 公立学校の外国籍の子どもに対する教育方針などを中心におこなわれたプログラムではなかった為、それらについては深く追求できなかったことは少し残念でしたが、これから機会があればそのような視点でも学んでいきたいと思います。
 今回はこのような貴重な機会を提供していただき、本当にありがとうございました。石浜西小学校をはじめ、先生や教授、関わってくださった全ての方に心から感謝いたします。

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・ すぐれた実践を行う学校には、いつのまにか多くの訪問者が見られるようになります。そして、そのことが、学校をよい意味で刺激して、実践の質が維持されたり、高められたりするということが確実にあります。その意味では、みなさんの訪問それ自体が、そして、学校に対するあたたかな眼差し(そしてそれをベースとした批判的視点)が、学校の成長に寄与していると言えるでしょう。
・ 補足すれば、大半の教員は、こういう経験を一度も自分の学校で経験できずに退職しているわけですから。

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上智大学 総合人間科学部教育学科2年>
 石浜西小学校を見学して、石浜西小学校では、子どもたち一人ひとりが何らかの形で自分を表現することができている、と強く感じました。「わくフリ」の発表、そして「かぐや姫」の発表のどちらからも感じたのが、石浜西小学校の子どもたちは一人ひとりがとても生き生きしていて、自分の持っている良い部分を上手く活かせているということでした。子どもたちが一生懸命頑張っている姿には本当に強く心を打たれたし、このように一人ひとりが輝いている学校が今の日本には必要なんじゃないかと思いました。私は、人は自分の持っている可能性を最大限に活かして生きていくことが一番いい生き方だと思っています。しかし、実際には自分の持っている可能性に気づく機会がなかったり、経済的な理由でそのような環境にいない子どもたちがほとんどです。でも、石浜西小学校の子どもたちは、少なくともその機会はあり、自分の持っている可能性を、自分で追及しているように感じました。普通の机の上だけでの授業、先生から一方的に受ける一斉授業からは与えられることのない機会、チャンスが、石浜西小学校にはあると私は思います。今の子どもたちは、「関心、興味を持つ」ことが少ない気がします。関心を持ったり、興味を持ったりといったことは他人に強制されてもできることではなく、自らが本当にそう感じなければできないことです。関心、興味を持たせること、というのは子どもたちに勉強させることより大変なことで、そのきっかけをつくるのが教師、学校の役割なのだと思います。石浜西小学校の先生の一人が「子どもたちの学習機会をできるだけ増やしたい」とおっしゃっていたのが私は心に残りました。その意思があるからこそ、あんなにたくさんの学習掲示物を作ったり、子どもたちのために多くの時間を費やそうとするのだと実感したし、その思いは教師として絶対に欠かすことのできない思い、また愛情であるのだと思いました。
また、子どもたちにとって、何か一つのことをやり遂げるという経験はとても大きなものだと思います。先生がおっしゃっていたように、何かに一生懸命打ち込み、やり遂げることで自己肯定感や自信を持つことができ、その「自分はこんなことができるんだ」という自信を持ってこの先進んで行くのとその自信がないとのでは、子どもたちが新たな事と向き合った時の向き合い方や乗り越え方が全然違うと思います。知識などの学問などだけでなく、こういった事が本当に学校で教えられるべきことなのだと強く実感しました。 

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・ 子どもたちが自己表現において積極性を示しているように見えるとすれば、これほど、現場の先生方が喜ばれることはないかもしれません。それは、君が指摘している自己肯定感が基礎になければ、そういう積極性は生じないからです。self-esteemの問題は、他の多くの学校でも、きっと非常な重要な問題でしょう。

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上智大学 文学部ドイツ文学科 1年>
石浜西小学校の公開研究会に参加でき、想像していた以上に、先生達が工夫を凝らして学校作りをしている現場をこの目で確認することができて「行ってよかったな」と思ったことが私の率直な感想です。今まで、私が通っていた日本の学校や本などで知る学校の現状で、味わう事の出来ない実際の教育現場を垣間見ることができ、とても貴重な体験をすることができました。公開授業や教室の展示物、授業のカリキュラム等、先生達の子供達にかけている時間は私たちの想像以上に長い時間であり、また先生達が子供達に期待するものの大きさ、熱心さ、愛情がとても伝わってきました。正直、石浜西小学校の生徒の皆さんがとても羨ましく思いました。私の通っていた小学校は典型的な学校カリキュラムに沿った学校であり、他の小学校と特に変わったことをあまりしていませんでした。もし、私が石浜西小学校の生徒であったならば、自分の素を出すことができ、個性をもっと尊重してもらえたのではないかなと思います。現に私は高校時代、海外へ渡り一人一人の個性を尊重してくれる学校のカリキュラムを受け、楽しい高校生活を送ることができました。そのカリキュラムは、石浜西小学校にとても似ていて文献や教室風景も見ていると、通っていた高校と似た箇所が何箇所もあり懐かしく思えました。一斉授業や固定したカリキュラムを遵守する日本の指導とは違い、一人一人の個性を尊重する海外のカリキュラムは私にとってとても居心地がよい学校でした。
知人のアフリカ人の人は、アフリカから養子をもらい先進国日本の教育を受けさせ、将来アフリカの国の発展に担う子を育てたいと考え、地元の中学校に通う予定です。しかし、私がその地元の中学校に通っていたとき、フィリピン出身の女の子がいたのですが、皆になじめず、先生達は、英語が話せないのを子供達に知られたくないのか、彼女と距離を置き、いつもALTの先生だけと話をしていたのが印象的でした。ただでさえ、様々な問題を抱えている中学校の教育現場で、他の国の子達まで手が回らないのも今となっては理解できますが、多くの障害を乗り越え、先生達が率先して彼女を育てようとする努力を見せる事は日本人の子供達の教育にもつながることだと思いました。知人に本を貸してあげたところ、石浜西小学校のような学校が近くにあったらな・・と嘆いていました。石浜西小学校は生徒の約3分の1が外国人という特別な環境の学校ですが、異文化の子供達が共に学びあう事の障害を乗り越える事を学習した子供達は多くの事を身に着けることができると思います。石浜西小学校はパイオニア的存在で他校の見本もなく、多くの苦労もたくさんされてきたと思います。全体会での生徒達の名前が出たときに先生方が楽しそうに話している姿を見ると、先生方の苦労も生徒達の成長で揉み消されているように感じました。私も将来石浜西小学校のように情熱と喜びを持って働ける職場で働くことが夢です。
全体会で、「石浜西小学校を卒業した子達のその後は?」という質問で現中学の先生が「荒れている生徒が多い」と聞き、とても残念に思えました。推測するには、前記した私の通っていた中学校の様な状況で高校受験の為のカリキュラム重視の教育についていけずドロップアウトする子が多いのではないかと思います。これは、日本人の子供達にも言えることです。いわゆる皆から受け入れられない異文化(個性のある子)の子ども達は、いじめを受けやすいのも現実です。子ども達に異文化を受け入れる力をつけることは、海外子女の為だけでなく現在の日本教育が直面している問題解決に結びつくヒントとなると思います。
全ての子供達が「楽しい」と思える学校づくりを今後も研究し発見してもらいたいです。このような貴重な体験をさせてくれた澤田先生を始め、石浜西小学校の先生方、また挨拶を元気よくしてくれた子供達等にとても感謝しております。また機会があればさらにパワーアップした石浜西小学校を訪れたいです。ありがとうございました。
P.S.一つだけ質問があるのですが・・石浜西小学校の少人数クラスでは一人あたり先生がつく生徒は二人〜五人といったクラスが何クラスかを見かけましたが、先生方は空き時間を利用してでも他のクラスの授業に出ておられるのでしょうか?「先生の人数には恵まれている」とおしゃっていましたが、もし先生方の人数が少なかった場合、このような生徒一人一人を見る授業は可能なのでしょうか?私の学校のイメージでは一クラスに約40名以内の生徒で先生一人がクラスを運営しているように感じますが・・石浜西小学校は日本語の理解が十分ではない生徒には補助の先生もついていて、先生の人数は普通の学校よりも多いと感じました。先生方の授業の振り分け時間割にも何か工夫されているのでしょうか。

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・ 君の高校の様子も、また詳しく聞ければと思います。集団主義的な教育とは異なる可能性とその意義について、さらに広い認知がなされる必要があるでしょうが、それは、日本という国に住む我々の民度(政治的リテラシー)の問題と直結するところもあるだけに、先を見据えた取組が必要でしょう。日本も、いろいろな意味で、より明白に多民族国家にシフトすべき時期に来ているのではないかと思います。
・ くわえて、日本の学校では、まだまだ「我慢させる」ことや「忍耐」こそが教育の基本という固定観念が根強く、「楽しむ」ことの意味を十分に深める教育が軽視される傾向にあります。むろん、前者の方が、教師にとって思考停止が容易いからでしょう。これは、保護者を含む多くの大人も同じですが。
・ 中学校に移った先生の発言に関しては、誤解を生む危険性もあるので補足しておきますが、石西の子どもの多くが中学校で必ずしも荒れているわけではありません。ひとクラスの人数も多いなかでの中学校での一斉授業、個に応じた指導の工夫という点でもまだまだ開発途上の中学校では、授業における活動の中で、石西のときと比べて生き生きとしているとは言えない場合が多く、場合によっては、荒れ気味になることもあるという程度でしょうか。
・ 教員配置に関して言えば、石浜西小学校は、外国人児童の数が多いので、加配教員の先生が特別に配置されていること、そして、地域のボランティアの方が来てくださることもあることで、一人当たりの子どものケアに携われる人の数が多いわけです。

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上智大学 総合人間科学部 教育学科 2年>
1、子どもたちの様子から。
 5年生と6年生のわくフリの発表を見学して、子どもたちが自分のことや友人のことを素直に受け入れて認めていることを感じました。自分の長所、短所、頑張ったことや得意なこと、苦手なことをそのまま受け止めていることが伝わる発表内容でした。そして、その発表に対して、聞いている側の子どもたちも、友人が自分の短所を語ったらそれを笑い合い(馬鹿にしてではなく、愛情のある笑いで)、得意なことやうまくいったことを語ったら、いやな目で見たりしないで素直にそれを認めている様子が分かりました。それは、それぞれの子どもが「自分はこれでいい」「友人もこれでいい」という思いを持っているからだろうと思いました。
2、先生方の様子から。
 先生方の様子は、私にとって意外なものでした。先生方の間にも強い信頼があることを一日を通して感じました。とくに最後の全体会で、先生方がご自分の意見を建前でなく語っている様子、「自分はこう思う」という自分なりの意見をぶつけあう様子は、新鮮でした。先生方のそういった雰囲気が、子どもたちにも少なからず影響していると思います。
 また、学校内の数々の掲示物は、見ているだけでわくわくして、とても魅力的でした。子どもたち全員が掲示物をアカデミックな興味で見てくれるということはないかもしれないですが、先生方もおっしゃっていたようにそういったものに出会う機会を十分に与えているだろうと感じました。そして、先生方のご努力、熱意は子どもたちに伝わっているのだろうな、と思いました。
3、多文化共生の学校。
 『多文化共生の学校を創る』という本を読んでから、学校に訪問させていただきましたが、初めから“多文化共生を目指す”と決めて取り組まれた改革というより、必要性に応じていく中で現在の石西小の姿が生まれたのだろうと思いました。必要は発明の母なのだな、と思いました。そのため、どこかほかの学校が全く同じように真似をしてもうまくいくかは分からないと思います。参考にはもちろんできると思いますし、合っている学校であればうまくいくのかもしれないです。
 また、一日限りの印象ですが、外国人の子どもたちが三分の一もいるようには感じないまとまり感がありました。
4、個性尊重について。
 ○○学習でも、わくフリでも、子どもたちの興味や主体性を大切にして、個性を伸ばす教育をされているのが分かりました。私が、自分が先生の立場であったら難しいだろうなと感じたのは、どこまでが個性なのかを見極めることです。子どもたちの個性を大事にしていても、その中で間違ったことをしたときはそれを伝えなければならないと思います。どこまでを許容するかということが難しいと思いました。また、そのことは石西小だけでなく多くの学校でも言えることだと思います。

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・ たしかに、本当に子どもたちの醸し出す雰囲気がよくなっていました。これが、子どもを学校に来させることにさえ腐心していたあの石西?という驚きがあります。その意味では、このような状況に簡単に到達したわけでないことは、再度確認しておいてほしいことです。
・ 先生たちのなかにも、どの学校でもそうですが、いろいろな温度差があります。おそらく、いまの石西でもそうでしょう。しかし、最初から無理に全員に枠をはめるのではなく、やりたい人、やれる人から、やれる範囲でやっていこう、というところから始まったことがいまの雰囲気につながっているのかもしれません。いまの方法論に全ての教員がどの程度の共感や理解を持っているかは定かでないとしても、何より、子どもたちの様子を見て、その意義を確認することによって、ここまで浸透したというのが実情ではないかと思います。とはいえ、ここ2−3年の教員全体の雰囲気の変化は驚くべきものがあります。
・ 多文化共生という大義が、はじめからこの学校の取組の中心にあったわけではないことは、出版本でも確認してもらえたと思います。個人的な印象ですが、日本において、こうした政治的大義に基づく質の高い教育実践は、ほとんど醸成されてきていないように見えます。むしろ、そうした政治的大義から距離をおいて、ただ目の前の子ども一人ひとりに寄り添って実践を積み重ねようとする教員が質の高い取組をしてきているというのが実情かもしれません。これは、逆説的な、あるいはアイロニカル(皮肉)な問題であり、この国が克服すべき問題ではないかと思います。

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椙山女学園大学国際コミュニケーション学部国際コミュニケーション学科2年> 
 ブラジル人が多いこともあったが、ポルトガル語を話せる教師がいることに驚きました。日本語では言い表せられないことでもうまくできるからいいと思いました。また、○○学習のときにはポルトガル語で先生が教えながら、算数の用語は日本語で教えていて、きちんと身につかせるいい方法だと思いました。
 わくわくフリータイムや○○学習で、生徒の個性をうまく尊重できていてすばらしいと思った。それに、毎回先生たちが生徒の写真を撮って残しておいていて、生徒も自分の達成したところを客観的にもみることができるため、いいと思いました。また、先生たちがわくわくフリータイムのときは入れ替わったりするので、先生が自分のクラスの生徒以外の生徒を見れ、先生同士がその生徒のことを共有できたりしている、その連携プレイができていてすごいと思いました。それに、○○学習は一人学びだと思いましたが、孤立じゃなくて、生徒同士が何も言わなくても教え合っていることがすばらしいと思いました。そういうことって、教えるよりも、子どもたち自身で考えて行動できるようになった方が子どもたちにとって成長にもなると思うからです。わくわくフリータイムでは、ターザンとかあったけれど、ああいう子どもたちの興味をどこまで認めるのか、気になりました。今までにできなかった課題とかってあるのですか。
 掲示物については、本当に驚きました。先生が本当に生徒を喜ばせたい、楽しませたいと思っていることが感じられて本当に素敵だと思いました。私ももし教師になれたら、子どもたちのことを考えて行動できる教師になりたいと思います。そして、あの中学校の先生のように、一人でも生徒の興味を見出してあげられるような企画などを作って、子どもたちの視野を広げさせられたらなと思います。
 今回参加させていただき、ありがとうございました。校長先生が変わってからも、このような企画を続けられるなんて、本当にすごいことだと思います。また、このようなイベントに参加させてください。ありがとうございます。

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・ 別の学生のコメントにも記したように、わくフリは全校TT体制の賜物です。TTというと、一斉指導をする教員と個別補助をする教員の組み合せしか出て来ないというのが日本の現状といっていいかもしれませんが、これ以外の様々な方法論の蓄積も少なからずあることにも認識を拡げてくれればと思います。
・ わくフリにおける、子どもたちの興味をどこまで認めるかということですが、できるだけ全部認めるところから始める、というスタンスの取り方(決意)が重要だという認識を我々は持っています。そうでない限り、既成観念から脱却することはできず、結局、これまでの教育も悪くないという居直りに終わる危険性が大きいからです。

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上智大学 総合人間科学部教育学科一年>
授業において二教科同時進行単元内自由進度学習をやった時は、これこそ迫る多文化化に求められる現実的なやり方だと思いましたが、実際に実践の現場をみて、問題も多く残されていることを知りました。今回は院生の皆さんも参加されるなかで、大学一年という未熟な視点から得た感想を簡単に三点述べたいと思います。
 第一に、○○学習が日本語の指示による以上、より日本語能力の重要性が高まるのではないかと思いました。
 次に、学校TTを行う上での教師間の連携にももっと注目すべきなのではと思いました。
 最後にわくフリに関してです。最初は、学校外でも出来るこの活動に疑問を感じていました。それまでも登校させることに大きな時間を割いてきたわけですから、その一貫として授業時間外でも出来るのではないかと思ったのです。
 しかし、総合で目指す生きる力とは自尊心に始まるのではないか、そうであるなら自尊心を育てることの出来るわくフリは総合の狙いにかなうのではないかと考え直す結果となりました。
 一つ疑問に思ったのはわくフリの発表の機会に関してです。これが、先生方がおっしゃっていたように動機づけに役立っているのであれば、どうして一年に一回しかやらないのでしょうか。総合の時間でとおっしゃっていたので週に3時間ほど行っているのだと思います。そうであれば、一学期に一回くらいの発表も可能なのではないかと思いました。
今回は、実行可能な教育の多様性をみることが出来、また理論と現場の相互行為をみることが出来た点で非常に有意義な公開研究会だったと考えています。

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・ 第1の点に関して、『多文化共生の学校を創る』を最後まで読んでもらえればわかるように、日本以外の文化との共生という視点からこの取組が始まったわけでは必ずしもないことを再度確認してください。ここで重要なのは、多文化とか異文化という言葉、あるいは、文化という言葉で何を意味するのかということでしょう。
・ 第2の点は、誰が教師の連携に注目すべきだということなのか、また、注目できていないとすればどういう点でなのかということが明示されていないので、ここではコメントを避けたいと思います。
・ 第3のわくフリの時間枠の点については、実際、総合学習の時間枠ではなかったものを、総合学習の時間として敢えてカウントすることにしたという点の意味について理解してもらう必要があるでしょう。つまり、この自由な活動を、「あえて総合学習として続ける」というチャレンジの意味を理解するということですね。それが無謀なチャレンジでは決してなく、まさに総合学習にとしてみなしうる優れた実践なのだというコメントが、まさに学習指導要領の総合学習編の解説者から得られたというのが、あの最後の検討会の重要な意義の一つだったわけです。
・ 発表会のタイミングをどの程度の頻度で設けるのかということは、たしかに、重要な問題ですね。中間発表ということも含めて。では、どのような諸要因をどのように考慮して、その頻度を決めればいいのでしょうか。逆に言えば、どの程度の頻度で発表会を設ければ、どのような子どもに、どのような、どの程度の動機付けに効果的なのでしょうか、また、それを実践する教員にも意義のあるものになるのでしょうか。ここはたしかに考えるべき問題ですね。

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上智大学 大学院 教育学専攻 M1>
校舎に入り、初めにもった印象は、「楽しそう」でした。参観者の私たち学生を見て、恥ずかしそうにしながらも、嬉しそうな笑顔を幾つか見たとき、「あー、この学校は楽しいんだなー」と感じました。
・校内の展示物について
教室内外、オープンスペースなどの展示物の多さとその工夫に驚かされました。子供たちの学習の成果として絵画やお習字などが展示されているだけではなく、教科教育に関わるもの、刺激になるようなものがあちこちで見られました。動物について学ぶ1年生を意識した原寸大のシマウマやヤギの切り抜きがあったり、数学の面や辺の数についてのクイズが壁に書かれており、紙をめくって答えを確認できるようになっていたりして、大人の私でもついつい、めくりたくなるような仕組みでした。廊下の壁にはポルトガルの移民の歴史についての説明がありました。在校生の文化的背景を意識した展示は、日本人生徒に対して異文化への扉を開くだけでなく、自国の文化や歴史について学ぶ機会がないまま移住してきた子どもたちにとって、家族が意図的に行わなければ得ることのできない機会を学校でも与えていることになり、母語・自国文化への意識を高め、自文化に関わる自尊心を高めるのに役立つのではないかと思いました。移民の子供の場合、移民先での言語と文化の吸収が速く、習得のスピードの遅い両親やほかの家族たちとの間のつながりが持ちにくいという問題を抱えることがあるようですが、このような展示物によって、家庭でのつながりのきっかけを作ることにも貢献しているだろうと思いました。
 これらの展示物は先生方一人ひとりの子どもへの愛情と教育への強いコミットメントからなされていることだと思います。一人、もしくは少人数の先生方の努力だけでは、あれだけ充実した展示を行うことは難しいと思います。教員が一丸となって取り組んでいらっしゃる背景には、このような取り組みを始めよう、と立ち上がった先生方がいらっしゃり、そして、この活動を続けていこう、と他の先生と一緒に行っていらしたリーダーシップとチームワークがあるのだと感じました。
・生徒の学びについて
 「わくわくフリータイム」という授業を総合的な学習の時間の「児童の興味・関心に基づく課題」として行っているということでした。発表のテーマをみると「万華鏡を作ろう」・「初めてつくったポーチ」などがありました。私のイメージでは、このテーマからは教科との結び付きや創作活動を描くことができ、納得できたのですが、「バービー人形で遊ぼう」というテーマでは、一体どのような学びが起こっているのか、どんな発表をするのだろう?と興味をもって発表を見に行きました。バービー人形で遊ぶという活動を通して、私が事前に想像していたことは、お人形遊びを通してジェンダー別の役割を学んだり、生活用語に触れ、会話における交渉技術などを学んでいくだろうということでした。もし、参加者が日本人とそれ以外の文化出身者である場合には文化の違いも表出するだろうと思いました。そして、「でもこれって、学校で時間を与えて学習として位置付けるのに十分なのだろうか?」という疑問を持ちながら発表に向かいました。二人の六年生の女子生徒による発表でした。一人は、口頭発表では他の日本人生徒たちに遜色ないレベルで、もう一人の生徒は原稿を読みながら途中で字が読めなかったり、どこまで読んだかわからなくなってしまったりするようでしたが、日本語が堪能な生徒が随時手助けしていました。このような姿からも、課題の発表を通して生徒間の支援と学び合いがあるのだな、と思いました。発表では、子どもたちがこの活動の中で人形の衣装をデザインし、それを作るところまで行っていることがわかりました。自分が想像していたことよりも更に進んだところで活動が行われていたことに感動しました。子どもたちが自然と活動を延長させたのかもしれませんし、先生のご指導があったのかもしれませんが、「興味を軸にして、学びが広がって深まっていくというのはこのことなのだなあー」、と感心しました。今回の発表では、活動風景も先生方によって撮影されており、プロジェクターで映しだされていました。今後、例えば、子どもたちのわくフリの活動が初期、中期、後期にどのように移り変わっていったか、また、活動計画を立てる段階で予想していたこと、やりたいと思っていたことと、最終的に行ったことはどのように変化していったのか、そのきっかけは何だったのか、などが分かるような資料や発表があったら、更に興味深いと思いました。
・子どもたちの学ぶ形について
○○学習における、一人学習の時間には、教室で取り組んでいる子もいれば、オープンスペースに移動している子もいました。床の上に座り、テーブルを移動させている子もいれば、背の高いテーブルを使って立ったまま取り組んでいる子もいました。「これが個人個人が自由に自分のやりやすい学習スタイルを見つけていくことか・・・」と思いました。この自由さから、一斉授業では得られない、どんなことが育っていくのだろう?と考えました。個人の好み、自由さを提供することで、例えば、一斉授業では避けることが難しい不安感や緊張を低減させてあげるのだろう、と想像ができます。同時に、私は、それと同じことを一斉授業の一部として形を変えて行うことは可能か?と考えていきたいと思います。なぜなら、一つには、一斉授業以外の形で教える環境は教師が個人レベルで行えるものではないということ。もう一つは、参観にいらしていた中学の先生からコメントしていただいた通り、一斉授業以外の自由さに慣れた子どもたちが一般的な一斉授業の環境の中で、そのギャップに適応するのに難しさを抱えてしまうということも考慮しなくてはいけないと思うからです。小学校から高校までが同じスタイルで学習できるのならば、おそらく問題はないと思うのですが、小中高と3段階に分かれて学習環境が変わることを考えると、中高への橋渡しとして、特徴的な学習スタイルを身につけることと、その後の適応については、石浜西小ではどのようにお考えなのでしょうか?
「一人学習では、友達のプリントを写す生徒もいるけれども、大目に見ている」という先生のコメントがありました。これは小学生ではなくても起こる現象だと思います。一人学習を6年間を通して行った場合、課題を写して提出するタイプの生徒に変化はあるのでしょうか?おそらく得意な科目の場合は自分で取り組む割合も増えるのだと思いますが、低学年から高学年に進むにつれて学習への責任感が芽生える姿が見られることもあるのではないか?と思いました。それには何かのきっかけがるのか、それとも継続して、学習者にある一定の責任をゆだねていくことによって次第に培われていくものなのでしょうか?
 学び方に関連して、使用言語に注目しました。一人学習の時間には自由にポルトガル語が飛び交っていました。グループの編成をみてみると、一人、二人、複数の3種ですが、一人の場合は話していないので、日本語話者かポルトガル語話者かはわかりませんでした。ポルトガル語話者が二人、ポルトガル語話者複数の場合、全く日本語を使わず、ポルトガル語で話し続けているグループもありました。その隣には一人日本人の男の子が居り、「何言ってるのかわかんねーよ」と何度か口ずさんでいたのが印象的でした。この場合には、ポルトガル語をしゃべっていた子どもたちは、日本語が殆どわからなくて、ポルトガル語になっているのか、それとも、母語によるグルーピングが楽でポルトガル語での会話に終始し、日本人生徒の入るスペースも与えなくなってしまっているのか、もっとよく知りたいと思いました。学校の中では母語を排除して日本語を強制するのとは逆に、母語を生かしているようで、そのために自由さと楽しさが創り出されているのだという印象を受けましたが、このことによって、日本人生徒たちは、自分の理解できない言語で会話が繰り広げられている場面に会うことが多いと思います。そのような時、わからないことを日本語で説明してもらうように求めるとか、ポルトガル話者の子どもたちも、自分たちの言葉がわからない人たちに対する配慮をするというような意識を指導の一部としてつくるのでしょうか?それとも必要に応じて子どもたちは自分たちなりに自然と取り組んでいるのでしょうか?
 一人で取り組んでいる子、二人で話しながら行っている子たち、複数で行っている子たちをそれぞれ観察してみました。奈須先生のお話では、課題の内容によって、子どもたちは一人で作業を進めることを選んだり、ペアーやグループで進めることを選んでいるということでした。一人で学習している生徒が一人を選んでいる場合と、一緒に活動できる友達がいなくて一人でいる場合があると思うのですが、後者の場合には先生はどのような対応をされているのだろう、と思いました。一斉授業でも孤独を感じている子どももいるとは思いますが、自由なスペースの中で属するグループがないと感じる子どもは、より一層孤独感を感じてしまうのではないか、という懸念を持ちました。
全体を通しての感想は、始めに述べたとおり、「楽しそう」というものです。多くの子どもたちが楽しそうに学習している姿と、自由な雰囲気、そして、充実した展示物などから自由で楽しい場所、という印象を受けました。参観中、一人の参加者が「学校楽しい?」と生徒に尋ねると「うん、たのしぃっ!」と「本音だな」と感じられる溌剌とした声と活き活きとした笑顔で答えていたのが象徴的でした。

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・ 大学院生なので、ちょっとした専門用語を用いれば、「校内の展示物について」で指摘されている問題は、アイデンティテイ・ポリティクスの問題ですね。たしかに、外国籍児童や保護者にとって、母語掲示があるかないかは、彼女/彼らの母国の文化が尊重されているかどうかという点と密接に関係しているので、あるいは、そこを自らの「居場所」と感じられるかどうかという問題と切り離せないので、自尊感情の備給という点でも非常に重要な意味を持つことになるわけですからね。
・ 「生徒の学びについて」(日本の小学校では児童と表現しますが)のバービー人形の活動に関しては、言いたいことはよくわかりますし、必ず出てくる批判的視点です。そして、こういう点に関しては、細かいところでは、おそらく石西の教員間でも多様な見方があるはずです。しかし、まずは、子どもたちの活動はどんなことでもまずは肯定し、尊重することから始めるという覚悟から、こういう活動は始まります。また、どんな「遊び」にしか見えないことにも必ず学びが生じうるというスタンスをあえて選ぶのです。これを選ぶ世界観を持つかどうかは、いわばパラダイムの違いと言えるでしょう。
・ 「子どもたちの学ぶ形について」に関して一部コメントするならば、ここで指摘されている「自由」という要因が重要になります。ルソーも『エミール』の中で「統制された自由」といった点の重要性を指摘していますが、石西で目指されていることも、この天に通底すると言えるでしょう。
・ 「楽しさ」という点に関しては、別の学生のところで書いた通りですが、ひとつ補足すれば、「競争」ではない、自分の能力の伸ばし方があるということですね。自分が自分のベストを尽くす、あるいは、そうしたいと思えるということから、能力を伸ばし、自分のことに集中するからこそ、逆説的に、他者の取組に注目したり、共感できるという方向性がありえるということを、ここにつけ添えておきたいと思います。おそらく、そのベースには、自分の周りの人々とのコミュニティ感覚が必要になるでしょう。

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上智大学総合人間科学部教育学科3年>
 先日は、石浜西小学校を見学させていただく機会をいただき、本当にありがとうございました。これまで公開研究会といえば、研究開発に力を入れている有名大学の附属校か、伝統ある教育実践を行っている公立学校を中心に参観させていただいてきた中で、初めていわゆる「困難校」と呼ばれる学校の実態に触れさせていただきました。児童の3人に1人が日本語能力や自身のアイデンティティに不安定さを抱える外国籍の子どもであり、わずか5年前まで1日平均20名強の欠席者数に悩まされていた石西小の、「とにかく子どもたちに楽しく学校に通ってもらいたい」という実践は、学校教育の純粋なる姿であり、多文化社会への道を突き進むであろう今後の日本の教育のあり方に大きな示唆を与えてくれるものであるように思われました。
 石西小の取り組みの中で私が特に注目したのは、やはり「○○学習」と「わくわくフリータイム」です。個別化・個性化の教育を徹底して追究したこれらの学びのかたちは、子どもたちに学校に来る動機を与え、自ら主体的に学び、他者と学び合う楽しさに気づかせた点において大変意義深い実践でしょう。公開研において私が実際に参観させていただいた折も、4年生の「○○学習」において、自ら資料を集めて熱心にドリルに取り組む一人の男子児童が、時折「これは〜だな」、「おっしゃ、できた!」と自ら納得し、自己肯定する姿を拝見し、「○○学習」が子どもたちの主体的で自己肯定的な学びに与える影響を確認させていただきました。また、女子児童が自分で取り組んだピアノの演奏の一部を披露してくれるなどした6年生の「わくフリ」の発表からは、子どもたちが日常生活の中で出逢った課題意識や取り組むべきテーマに真正面から向き合うという、課題解決型学習の最も純粋なあり方を見せていただいたような気が致します。
 しかし、こうした「○○学習」や「わくフリ」にも、私なりに抱いた疑問があり、乗り越えるべき課題が考えられる気がします。ここでは三点述べさせていただきたいと思います。 
 まずは、個別化・個性化の教育が頻繁に向き合う誤解ある批判に、石西小の取り組みも真摯に向き合わなければならないでしょう。その批判とは、個別化・個性化の教育は、子どもたちを単に放任するものであり、偏った児童中心主義によるものだとするものではないでしょうか。こうした批判に立ち向かうためにも、子どもたちの学びへの動機づけをどのように支援するか、あるいは「○○学習」や「わくフリ」を通して子どもたちの価値ある学びをいかにしてコーディネートするかということが石西小の先生方には今後も強く求められていくのではないかと思います。柔軟なみとりに基づく教師の適切な手立てと、子どもたちの主体性が相まって初めて「○○学習」や「わくフリ」の真の意義が実現されるものと私なりに解釈しております。
 二点目に、「パッケージ」としての「○○学習」が本当に子どもたちの自発的で創造的な学びを実現し得るのかという課題も存在するように思われます。それぞれの子どもの進度や興味で学べるとはいえ、予め筋道立てられた「パッケージ」としての「○○学習」が辿るプロセスと行き着く答えはどの子どもも似通ったものであり、果たしてそれが本当に個性化の教育たり得るのかという疑問がそれです。ただし、石西小のように、多様なバックグラウンドを持つ子どもたちを抱え、なお且つ彼らの多くがいわゆる基礎学力において問題を抱えている環境においては、個別化に重点を置いた「パッケージ」による教育で確実な成果を出し、子どもたちに学びの喜びと自尊心をもたらすことが先決であるのかもしれないという気も致しております。
 最後に、三点目として、上級学校での学びとの連携の必要性も感じられました。個別化・個性化を重視する学校の子どもたちの多くがそうであると言われるように、石西小の卒業生も、中学・高校で受験競争や偏差値重視の学力観に巻き込まれる中で、大きな葛藤を抱えているのではないかと推察致します。小・中・高等学校の連携の必要性もそうですが、個別化・個性化を尊重する教育と、受験勉強に偏重した教育とがどのように相容れるものとなり得るのかということは、石西小に限らず、広く取り組んでいかなければならない課題なのではないでしょうか。
 ここまで、勉強不足であるにも関わらず、様々なことを述べさせていただいてきましたが、授業参観と「かぐや姫」の観劇を通して、石西小の子どもたちの熱気やパワーも強く感じさせていただいた公開研でした。子どもたちのそうした内面からの力が、彼らの抱える困難性を乗り越えさせるのではないかと思います。協議会の最後に、山下校長が、「石西小の教師は常に試行錯誤を続けています」とおっしゃっていました。多くの公開研究会の最後で、各学校の先生方がそのようにおっしゃいますが、とりわけ石西小の場合はその言葉に切実さが込められていたように感じられました。石西小の先生方と子どもたちのこれからの取り組みに、この度このような機会をいただいた身として、私も注目していければと思います。本当にありがとうございました。

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・ 「時折『これは〜だな』、『おっしゃ、できた!』と自ら納得し、自己肯定する姿を拝見し、『○○学習』が子どもたちの主体的で自己肯定的な学びに与える影響」とありますが、こういう具体的な場面を(さらに分厚い記述を目指しながら)うまく切り取るということは、ぜひ続けて欲しいところです。非常に個別具体的な記述でありながら、そこに特殊的普遍というか、普遍的特殊というか、そういう広がりを持つポイントを捕まえること。これは、こうした個別化個性化教育を見ていく時に非常に重要な姿勢と言えるでしょう。
・ 提示されている疑問に関して、簡単にコメントをすれば、まず「自由」をどうとらえるのか、という点については、まさに政治哲学や倫理学の分野で、重要な議論が積み重ねられてきています。いわばリベラリズムの問題ですね。ぜひ、勉強してください。さて、ここで指摘されている「価値ある学びを目指す」というときの、まさに「価値」は真空の中にあるわけではありませんよね。いったいその「価値」とは誰にとっての価値なのでしょう。あるいは、逆に普遍的価値があるとすれば、その普遍性は何によって担保されるのでしょう。ここは非常に大事な問題になります。現場の先生方は、もちろん、このあたりを理論的にすべて整理して動くわけではなく、いわば勘(というと語弊があるなら社会学者のブルデューが言う実践感覚)で動くわけです。もちろん、その勘を磨くための試行錯誤とその振り返り、そして、他の教員との意見交換が不可欠ですが。
・ 二点目に関しては、個別化と個性化とをいったん分けて考えるという視点が、日本における個別化個性化教育の歴史の中にひとつの遺産としてあります。これに関しては、上智大学名誉教授の加藤幸次氏の議論をまず参照するといいでしょう。単元内自由進度学習は、あくまで教科に関するひとり学びとして始められたもので、その意味では、個性化ではなく、個別化という要因がより大きな意味を持ちます。という、この点の理解が、ここにある疑問を解決するひとつの鍵になります。
・ 連携に関しては、別の学生のところでも少し触れたので、それを再度繰り返すことになりますが、連携と言うときに、問題にすべきは「より上級」の方だとあえて言っておきましょう。大学は、より上質の高校や中学や小学校や幼稚園から、高校は、より上質の中学や小学校や幼稚園から(以下同様)より多くを学ぶべきだと。石浜西小学校のようなことをやるのはいいが、中学校に行くと困るから、中学校でやっていけるようにも小学校でちゃんとしておくべきだ、と言った意見の反復は、端的に言えば思考停止によるものです。このように言うと、最終的に出てくる反批判が、競争渦巻く現実の社会は甘くない、という視点です。さて、その現実は変革する必要はないのでしょうか。いずれにせよ、上に指摘されている疑問は重要であるものの、こういう疑問の提起の仕方は、これだけで終わると、こういう進歩主義的な教育を抑圧する方向で歴史的には機能してきたという経緯があります。それだけに、もし石西で試みられている教育を支援し、豊富化できるようにしようとするならば、どのようなかたちで問題提起をすればいいのかという点に関しても、さらに考察を深めて欲しいと思います。

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