ブルデューが考える「芸術における普遍」


 Pierre Bourdieu and Loïc Wacquant, An Invitation to Reflexive Sociology, Chicago: University of Chicago Press, 1992, p.87
からほんの一部を試訳した。

 この本は、もともとこの英語版で出版され、のちに仏語版でも出版されたが、周知(←どこで?)のように、後者では、前者の註を初めとしてかなりの部分が削除されている。仏語版を定本とした邦訳(水島和則訳)では、訳者の配慮により、英語版の一部を取り込んだものになっていて助かるものの、当然のことながら、全てが復活されているわけではない。
 それで英語版を96年に初めて読んだときに、ブルデューが、「普遍的なるもの」について、こんなふうに(ある意味で、簡潔に)考えているのか、と感心して記憶に残った部分があったのだが、今回邦訳を読んでみると、そこはあっさり(か、どうかはわからんが)削除されていたので、英語版から訳し直した次第。
 デュルケームの『宗教生活の原初形態』に該当箇所があるかどうか、確認したはずなのだが、本が見つからないf^^;;。しかも、記憶がほとんどない-_-;;。帰省先から帰京次第確認して(いや、実はいま京都なので帰京と言いたくないところだが)このブログを更新することにしよう(←実は、意気込みだけである)。※と言って、実際意気込みだけだったのが、ようやく2011/04/13、このページ下に更新情報を加えたのでご参照頂きたい。
 それはともかく、この箇所の仏語版は思っていたほど削除されていなくて、英語版から削除されたのは、以下の下線の部分だけ。イタリック以外の部分は邦訳にもあるが、以下は全て英語版からの訳し直しである。なお、この本の第2部は、共著者ヴァカンによる問い(イタリックで示した)とブルデューによる回答という対話形式になっている。

ヴァカン:そうすると、あなたの仕事は「美的なものを、単なる階級的シグナルや衒示的消費として、十把一絡げに論難するもの」(Jameson 1990:132 さらに、Burger 1990, Garnham1986) ではないのですね。全てを平準化する相対主義に向かえと、私たちに宣告するものではないのですね。


ブルデュー: もちろん、そんなものではありません。芸術界(the artistic field)は、客観的な志向性及び累積性を持つプロセスが展開される場であり、純化・洗練の度を極めるべく、そうした歴史の産物ではない芸術的表現の諸形態から自らを峻別する到達水準に至る作品を生み出すプロセスが展開される場なのです。(私は、『ディスタンクシオン』のあとがきに、文化相対主義の問題に取り組んだ文章を書いたのですが、出版しませんでした。それを削除したのは、次のように考えたからです。美学的信仰に対して、つまり、一般的に共有されている芸術フェティシシズムに対して批判的な問題提起をしておきながら、そのまさに終結部で、それらに逃げ道を用意するのか、芸術の神は死んだにもかかわらず、その神を生き返らせようとするのか、と。)
 デュルケームは『宗教生活の原初形態』において、この問題を取り上げ、次のように問います。文化に関して普遍的なものというのは存在しないのか、と。そう、鍛錬(ascesis)のことです。あらゆるところで、文化は、自然に抗して、すなわち、努力や練習や苦しみを通して構築されます。人類は全て、文化を自然よりも上に位置づけます。したがって、前衛絵画が、郊外のショッピング・モールのリトグラフよりも優れていると言うことができるとすれば、それは、後者が歴史の無い産物(あるいは、否定的歴史の産物、つまり、それに先立つ時代の高度な芸術の漏洩の産物)だからなのです。他方で、前者は、それ以前の芸術生産の相対的に累積的な歴史をマスターして初めて、すなわち、現在に到達するのに必要な否定と超越の絶え間なき連続体―たとえば、反・詩とか反・詩学としての詩に見られるような―をマスターして初めてアクセス可能なものだからです。


(更新加筆2011/04/13)
 上記訳文で、「鍛錬」と訳したascesisには、修行とか禁欲という訳語が当てられることもある。とすると、ブルデューが言及しているデュルケーム『宗教生活の原初形態』において該当する一節とは、「第三編 主要な儀礼的態度 第一章 消極的礼拝とその諸機能、禁欲的諸儀礼」の次の部分のことだろうか。「文化に関して普遍的なものというのは存在しないのか」という文字通り同じ文言は、ここには見当たらないのだが、以下に一部抜粋する。

古野清人訳(一部改) 岩波文庫版 p.146

けれども、禁欲主義は単に宗教的目的に役立つだけではない。ここでも、他と同様、宗教的利害は社会的・道徳的利害の象徴的形態にすぎない。礼拝が向けられる理想的存在だけが、その奉仕者に、苦悩のためにある程度の蔑視を要求するのではない。社会もまた、この代償によってのみ、可能である。人の力を多いに高めながら、社会は、しばしば、個人に対しては苛酷である。それは、必然的に、個人に恒久的な犠牲を要求する。それは、絶えず、われわれの自然的な欲望に暴力を加える。明らかに、社会はわれわれを自身の彼方に高揚させるからである。したがって、社会に対するわれわれの義務を果たしうるためには、われわれは、ときとして、自己の本能に強制を加え、必要なときには、天性の斜面を上るように教化されていなくてはならない。したがって、あらゆる社会生活に固着し、あらゆる神話学や、あらゆる教義に残存すべく運命づけられた禁欲主義がある。これは、あらゆる人間文化の集成的部分の一部をなしている。しかも、これこそ、根本において、あらゆる時代の宗教が教えたものの存在理由であり、また、正当化である。

※一部改というのは、以下の部分(もとの訳文)である。私の解釈が間違っていたら、ツイッターなどでご指摘頂けると助かります。「礼拝が向けられる理想的存在だけが、その奉仕者に苦悩に対する若干の蔑視を要求するのではない。」

リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待―ブルデュー、社会学を語る (Bourdieu library)

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宗教生活の原初形態〈上〉 (岩波文庫)

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宗教生活の原初形態〈下〉 (岩波文庫)

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