個別化・個性化教育(2):東海個性化研究会定例研修会から[下]

minor-pop2008-03-07

 ちょっと学年末の業務その他で、間があいたが、前回の続き。

 つまり、なぜいま週プロ=二教科同時進行単元内自由進度学習なのか、という点に関して考えておきたいと思う。要するに、週プロの意義、について。

 この点は、前回日記で書いた研究会では、時間の関係もあって、十分に議論されることはなかったので、とりあえずここに覚書を残しておきたい。

 週プロの概要に関しては、すでにある程度書いたので繰り返さないが、復習のために、あらためて単純化して言えば、週プロは、一斉指導とは別に、個々の子どもが、与えられた学習環境やコース、コース別の教材などに基づき、自分で立てた計画に沿って「一人学び」を軸に展開する学習を意味する。この方法は、そのようなものとして、いわば個別化個性化教育の軸をなす要素だ(ここでも、緒川小学校での「週プロ」と、卯の里小学校での「個別」、あるいは石浜西小学校での「○○」との差異に関しては、とりあえず主題としない)。

 さて、こうした「一人学び」、さらに少し広めに考えて、個別化個性化教育を考える場合、活動の「効率性」の問題と、活動の「価値」の問題をいったん分けて考えるべきではないだろうか。これは、量と質、と言い換えることもできるのかもしれない。(概念的に、効率性と価値という分け方に問題があることは確実だが、その問題に関しては別の機会に考えたい。また、個別化教育と個性化教育の違いについては、東海個研メンバー内では「常識」の部類に入るだろうが、これもとりあえずおく。)

 この「効率性」と(それと対局に位置づけられる)「価値」という両要因は、最終的には通底するものなのかもしれないが、週プロの意義について語られる時、この二つの要因の違いが充分意識されないと、問題の所在が見えなくなってしまって、意義を語りながら意義が見えなくなるということになりかねない。各教員が、この二つの要因のどちらの方に、より大きな比重を置いているかで、同じ週プロをやっていても、どうも向いている方向が違うという感覚が、その教員集団に生じてしまうことがあるような気がするのだ。以下、徐々に具体化して行きたい。

 まず、「効率性」という観点について。簡単に言えば、週プロがいいのは、一斉指導(だけで授業を展開する)よりも、週プロの方が「ちゃんと学力が身に付く」からだという考え方のことだ。つまり、週プロは、子どもの知識・技能・理解などの水準を上げるために、一斉指導よりも効率的だから推進すべきだという見方を意味する。
 個に応じて指導することで、限られた時間で、知識や技能の水準をよりよく伸ばし、必要な知識・技能をより確実に習得させられるというわけである。ここでは、学習環境も、ガイダンスの工夫も、子どもをうまく「動機付け」ることで、確実に、効率的に、ある種の知識・技能を付けさせようという目標に資するものとしてあるということになる。
 この時、週プロにおける個々の子どもの活動は、手段であり、目的ではない。週プロにおける個々の子どもの活動スタイルは、ある種の知識・技能・理解などの到達水準をあげるという目的のための、有効な手段として考えられている。
 こうした「効率性」に、相対的に大きな比重を置いて週プロを考える先生は(といっても、その自覚があるかどうかは別だが)、たとえば、週プロの取組を振り返って、「一斉でやるよりも、頑張って勉強しているからよかった」、とか「一斉よりもよく勉強しているかな、とも思うけれども、でもやっぱり一斉でやった方がしっかりポイントを理解させられたんじゃないかなという気もする」といった感想を示すという傾向が見られるのではないか。

 他方で、基礎基本(習得)という点であれ、思考力・想像力・表現力(活用)という点であれ、それをより効率的に身につけさせる教育方法として個別化教育に着目するという側面だけでなく、この教育方法には、活動それ自体の価値、とか、あるいは、大げさに言えば美学の問題がある。
 単純化して言えば、たとえば同じ80点でも、人から与えられた内容を、与えられた路線にそって得た知識技能としての80点と、自分で工夫し、試行錯誤を通して、自立的に得た知識技能としての80点とを比べた場合、どちらにより大きな価値を見出すのか、そこで価値論的な立場が別れる。かりにこれを、前者の方法で85点、後者の方法で75点になるとすれば、効率性重視の立場からは、明らかに前者を選択することになろうが、それとは反対の立場を考えることも可能だろう。それが、ここでいう、効率性重視とは対局に位置するような立場である。
 むろん、これはトリッキーな設定である。どんなテストでの80点なのか、どんな文脈でのテストなのか、を明確にしないではまともに判断などできないという反論を差し向けられそうではある。しかし、さしあたり、従来実施されて来た教科書に沿って出題されるペーパーテストを思い浮かべて現場では議論されることが多いので、さしあたりは、そのようなテストを思い浮かべていただければいいだろう、というふうに、漠然さをあえてそのままにしておこう。
 また、ここでいう二つの立場に関して、一般に、どの先生も、効率重視かその正反対か、という両極端の立場に分かれるのではなく、そのどちらもある程度重視しているのであって、完全に対立させて表現するのはおかしいと感じられる向きもあろう。それはその通りだ。が、だからこそ、この二項対立軸は、自分がこの座標軸上のどの辺りに位置するのかを考える上で有効な目安になるのではないだろうか。そして、二項対立があった場合には、多くの場合、美しい中立の立場は無く、そういう立場があるとすれば、別の新しい座標軸からメタ認知的に両立場をともに否定する場合に限られるのかもしれない(たとえば、男か女かでなく、人間か人間でないかの方が重要だという具合に)。
 いずれにせよ、効率性だけの問題で考えれば、点数の伸びだけを考えることになる。しかし、言うまでもなく、週プロはそれだけではない。研究会で話題に出た「公文式」は、もしかしたら、「効率的かもしれないが、美しくない」という感覚を「わたしたち」は持っているのではないか。
 テストの結果(点数)はある程度大事だとしても、せかせか点数のことばかり意識するのは美しくないのではないかという感覚の是非に関わる問題である。
 そこでは、活動はあくまで「手段」だからであろう。この側面を否定することはできない。が、自立的に活動してみること、やりたいようにやってみること、一人で楽しんで/苦労してやってみること、もっと言えば、一人で苦労を楽しむこと、苦労を乗り越えて楽しみを味わうこと、その果てに自分なりの発見を経験をすること、こうしたことそのものに「価値」、あるいは活動の「豊かさ」を見いだすという立場が、週プロ的なるものを支えている心性だとは言えないだろうか。
 効率性とは対局にあるかもしれない、こういう価値、あるいは美学に、より大きな比重を置く先生は、「〜さんは、今度の活動では、すごくここの部分でこだわって苦労して、最初どうなるかとは思ったけれども、それができたときには、いい顔してましたよ。」とか、「〜さんは、今回は、最後までこの単元の方には乗って来なかったね。あそこをこういう風にする手もあったかもしれない。」といった反応を示すかもしれない。

 とりあえずの結論。週プロには、個々の子どもたちの学力を保障するために有効であるという側面もあるかもしれないが、それだけではない。それを「ある程度」実現しながら、子どもが「自立的に活動する(苦労する/楽しむ)」ことそのものに「美しさ」があるという側面も、そこには無視できない要因としてあるのではないか、ということである。

 ここで余談。自己目的的活動として「遊び」を定義づけた人にホイジンガ(オランダの歴史家 1872-1945)という人がいる。個性化個別化教育を実践している学校を見て、「子どもが遊んでいるじゃないか!」という批判は少なくないのかもしれない。が、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』(遊ぶ存在としてのヒト、くらいの意味になるだろうか)を読むと、そういう不用意な発言を少しは抑制できるようになるかもしれない。ホイジンガのいう通り、遊びは真剣であり、本気で遊ぶという側面がある。
 遊びとは、それ自体が目的で、何か他の目的のために、何か(広い意味での報酬)を手に入れるためにするのではなく、それ自体が楽しいからする、それ自体がおもしろいからする。それにひたすら打ち込んでいる姿を、もし私たちが美しいと感じることがあるとすれば、それは、そうした何か他の目的(報酬)から「自由」に、それ自体の価値に自らを賭けているからではないだろうか。また、そこには、自らが選んだという、自己決定という「自由」をも見ることができるのかもしれない。「ゆとり」とは、もしかすると、こういう方向で捉え直すべき要因なのではないかという気がするのだが。
 最後に別の話題をもう一つ。研究会で、ある先生が出された「逆転」というポイントも、間接的には、こうした「自由」という価値・美学の問題とつながっているのかもしれない。その先生がおっしゃったことを自分なりに翻訳して書けば、子どもにある種の自由度を与えて、子どもに任せる部分を増やし、とりわけ、直観的判断や直観的見通しがものを言うような作業を織り込んだ活動を用意して取り組ませると、活動の豊かさと言う点で、あるいは、作業の到達度、作品の出来具合に、普段の一斉指導で見られる「できる/できない」といった差に逆転現象が見られることがあるということである。
 勉強ができるように見える子どもが、意外に打開できないポイントを、そうでないと見えていた子どもが、案外あっさりと直観的に乗り越えてしまうことが見られるということだろうか。
 そういう作業が展開しているときに、逆転した子どもは、おそらく、追い抜いたなどという意識を持たずに、真剣にその作業に没頭・集中して、あくまでその結果として、そこで知識・理解面での学びを深めている場合がある、とは言えないだろか。
 美化し過ぎ、かもしれない。でも、点数は、あくまで結果であり、目的ではない、という意味での、点数からの自由、効率性からの自由、という美学は可能に思うのだが。どうだろう?
 最後の最後にまた補足。効率性を高める上で、効率性だけを考えると効率が落ちるという逆説もある。「遊び」は効率性をあげるにも大事なはず。しかし、こういう見方における遊びとは、効率性をあげるための手段としての遊びだから、本来の遊びではなくなる。
 そういう意味では、デコマス(デコレーションマスコットの略らしい)づくりって、まさに「遊び」=自己目的的活動だよなあ(写真を参照)。
 少し余談が過ぎた(^^;;)。また、もっと勉強して整理したら、別の展開を考えたい。そろそろ読者募って、批判受けないとダメかも(^ ~)。
 最後の最後の最後にもう一つだけ(^^;;)。いずれにせよ、今回の研究会は企画した先生の功績大で、非常に意義深いものになった。その先生のこの企画の進め方が、個別化個性化教育の路線っぽい。
 つまり、何か相手に伝えたいこととして自分の頭の中にある理念や考え方を前提にして、自分が基調講演するとか、各実践報告に詳細なコメントをするとか、発問的質疑応答でまとめていく、ということではなく、まず、近年、東浦町の小学校で営まれてきた週プロの実践事例(その単元ごとの授業計画は「パッケージ」と呼ばれているのだが)を全て、学校ごと、学年・教科ごとに整理して東浦町立小学校作成パッケージ一覧表を作って、それをじっと眺めて考える。そこから生じた「気づき」から、今回の研究会の企画を立ち上げていた。なんてことなさそうだけど、すごい。
 個々の相手を見て気づいたことと、伝えたいこととをすりあわせて、しかも、自分ではなく、参加者の発表(活動)を中心に研究会を組み立てていたのだ。
 結果、東浦町の小学校がやっぱり先進地域だということを改めて思い知らされたいい研究会だった(^^)V。だいたい、先進校はあっても、こんな歴史を持った先進「地域」って、日本でほかにあるのか? 短いスパンでも歴史的蓄積(縦のつながり)って、すごい。また、いろんな小学校で、それぞれの個性を持ちながら同時に進行している(横のつながり)ってのもすごい。あんまり、当の先生方はすごいなんて自覚はお持ちじゃないみたいだったから、両肩つかんで揺さぶりながら、「あなたたち、すごいんだよ!」って言いたいところだったけど、もち、控えました(^^;;)。