板橋区立大谷口小学校での授業研究


マイマイ学習」と大谷口小学校の授業研究

 小文は、大谷口小学校のウェブサイトに頻出する「マイマイ学習」がどんな形態の学習のことなのか、また、この学校でいまどんな授業研究が行われているのかという点に関して、簡略な解説を施したものです。

目次
0. はじめに:マイマイ学習=単元内自由進度学習
1. 単元内自由進度学習の概要
2. 単元内自由進度学習の目的・目標
3. 単元内自由進度学習の内容面と方法面
 (1) 単元内自由進度学習の内容的側面=カリキュラム
 (2) 単元内自由進度学習の方法的側面=実践上の留意点
4. 単元内自由進度学習の研究授業と事後検討会
5. まとめにかえて:単元内自由進度学習のルーツと教育学的意義



0  はじめに               
 大谷口小学校の「マイマイ学習」は、より一般的な名称では「単元内自由進度学習」と呼ばれます。マイマイ学習とは、この単元内自由進度学習に対して、大谷口小学校が独自に与えた固有名詞です。この名には、マイペース&マイウェイの学習という意味が込められています。同校では、先生方にとっても、子どもたちにとっても、この学習が自らのものとして根付くようにと、その名に因んだキャラクターも作成されました(上掲:ちなみに、カタツムリの学術上の和名は、まいまいですね)。
 最初にお断りしておいた方がいいでしょうが、単元内自由進度学習を先進的に展開してきた学校の最盛期でも、それは全単元の最大3割程度、たいてい各学年とも各学期に1単元から2単元程度(10時間から20時間程度の授業時数分)であり、それ以外は、いわゆる一斉授業、あるいは集団的ないし協働的な学習が実施されてきているというのが実情です。しかし、それでも、全体の一部にすぎないとしても、以下に述べるような単元内自由進度学習を本格的に導入すると、教師が変化し、それによって子どもが変化し、学校が変化するというメタモルフォーゼ(変身)が生じて行くように思われるのです。
 さて、以下では、次のような順序で説明を進めて行くことにしたいと思います。第1に、単元内自由進度学習とは、そもそもどんな学習のことを意味するのか、その概要を紹介することにしましょう。第2に、このような学習が、何のために導入されているのか、何を目指すものなのかというこの実践の目的・目標について整理することにしましょう。第3に、単元内自由進度学習のさらなる詳細に関して、内容面=カリキュラムづくりの側面と、方法面=実践上の留意点という側面に分けて、さらに具体的に説明しておきたいと思います。そして、第4に、この単元内自由進度学習の研究授業と事後検討会がどのように行われているのかを簡潔にご紹介することにしましょう。
 これに加えて、こうした授業実践のルーツはどこにあり、その教育学的な意義はどういうことなのか、という諸点に関しても触れる必要があるでしょう。しかし、こうした実践の目的、歴史的背景や学問的意義等の紹介は、最後にごく簡潔に触れるに留めたいと思います。

1 単元内自由進度学習の概要
 さて、単元内自由進度学習とは、教科学習のための一方法論で、ある教科のある単元において、個々の子どもが、予め準備された教材を用いて、それぞれ自分なりのペースで主体的・自立的に進める学習を意味します。その点で、教師の板書・発問・説明等を軸に、学習の進度がクラス全体で統一される、いわゆる一斉授業とは対照的です。一般に、単元内自由進度学習は、以下のように推移します。
 たとえば、ある教科に10 時間で実施する単元があるとしましょう。この10時間のうち、最初に、その単元全体の見通しを子どもたちに与えるために行われる「ガイダンス」の1時間と、最後に、単元全体の振り返りのために行われる「まとめ」の1時間では、クラス全員を集めて、教師がリードし、子どもたち全員を一斉に相手にした授業を展開しますが、その間の8時間は、子どもが自ら立てた学習計画表に沿って、自立的に学習を進めて行くので、この8時間に関しては、基本的に、一斉授業で見られるような、教師が黒板を背にして、子どもに対面して行うような授業は見られず、子どもたちが、一人ひとり個別に、あるいは、時には互いに協力しながら、自立的・主体的に学習を進めて行きます。オープン建築の校舎を持つ大谷口小学校の場合、子どもたちは、ホームルーム及び、そこから壁なしに多目的スペースが広がる開放的な空間の、各自思い思いの場所で、あるいは、その時々に必要な場所で、マイペースに沿って学習を進めて行くのです。
 ただし、自由進度といっても、当然のことながら、学習指導要領上、その単元で最低限扱う必要がある指導事項については、どの子どもも、その単元の授業時数内で終えることが求められます。また、どの子どもであれ、その単元で最低限習得することが求められる事項に関しては、単元の節目でチェック・ポイントとして、学習カードの確認・添削や小テストなどの機会を設けることになります。
 他方で、この学習では、一つの単元に対して、子どもたちが自由に選択できる複数のコースを設けるのが一般的です。これらのどのコースでも、上述のように最低基準としての学習事項は必ず扱われますが、同時に、コース毎に、その学習過程に異なる作業内容や手順・方法を取り入れることで、それぞれ部分的に異なる一連の学習カード等の教材が準備されます。子どもたちは、最初のガイダンスの時間に、それら複数のコースの違いについて、担当教師からの説明を聞き、その中から、自らがとくに興味を持った、あるいは、自分に合っていると思うコースを選択し、そのコースのために用意された各種学習材や教科書を用いて、自立的に学習を進めることが求められるのです。
 くわえて、これら各コースの学習材の他に、より高度で追究的・問題解決的な課題、あるいは、より多様で発展的で、子どもにとって魅力的に映るような課題も合わせて用意され、規定の授業時数内で各コースの学習材を早く終えた子どもたちは、自らの興味・関心や適性に応じて新たに課題を選択し、さらに学習を継続できるように工夫が施されます。
 こうした学習形態が、現行学習指導要領で言うところの「個に応じた指導」あるいは「個性を生かす教育」という趣旨に沿うものであることは明らかですが、単元内自由進度学習の概要を確認した今、我々が、こうした方法を何のために導入しようとしているのかという点に関して、より詳細に明確化しておく必要があるでしょう。
 
2 単元内自由進度学習の目的・目標
 単元内自由進度学習を導入しようとする目的は、ある意味で単純明快です。第1に、一斉授業だけでは実現することが難しい水準の「個に応じた」学習プログラムを準備することによって、また、多様な子どもをそれぞれに動機づけることが可能な多様な教材や環境を整備することによって、どの子どもも最低限身につけることが求められる学力を形成できるようにし、同時に、それぞれの持つ資質・能力を可能な限り伸ばす機会を保証しようとすることです。
 第2に、一斉授業では実現することは不可能な水準で、学習上の大幅な自由度を一人ひとりの子どもに与えることによって、「自己学習力」と呼びうるものを子どもたちが身につけることを支援しようとすることです。このことは、端的に、現行学習指導要領の言う「自主的, 自発的な学習が促されるよう工夫すること」を、明確な実践方法として具現化したのが、この学習方法であるということを意味します。
 これら二点に関して、もう少し詳しく検討しておきましょう。第1の点に関して言えば、ここで紹介している単元内自由進度学習など導入せずとも、従来の方法論の枠内で「個に応じた指導」の工夫を施しておられる学校は多くあります。一斉指導を基本としながらの、机間巡視と個別指導、提出物の丁寧な確認・添削、あるいは、習熟度別に分けた小編成クラスでの指導などが、それらに含まれるでしょう。しかしながら、単元内自由進度学習というこの方法論は、はるかに徹底的な水準で、個に応じ、個を生かす授業を成立させようとするものです。特に、一定の特別な支援を要する子どもたちや、一斉指導ではなかなか集団的秩序の枠に収まらない子どもへの動機付けや支援のあり方について、強く意識した方法論であるとも言えるでしょう。
 まず、単元内自由進度学習を導入しようとするのは、単なる知識・技能の習熟の差のみならず、多様な子どもの興味・関心、学習スタイル、あるいは、学習のペースなどにも、できるだけ対応し、それらを生かすことを目指すためです。子どもによっては、新しい学習内容の導入に際して、言葉や文字情報による解説が取り組みやすい子どももいれば、その学習内容に関する言語的情報の前に、その単元に関連するものづくりなどの手作業から入ることではじめて学習に動機づけられる子どももいます。また、教科書だけでなく、それ以外の図鑑や図録を使う方が、あるいはVTRで何度でも必要な情報を繰り返し見ながらの方が、また、コンピューターを用いながらの方が、より学習に集中できるという子どももいます。さらには、その単元のどの部分でより時間を要するか、どこにどんな時間の掛け方をすることで、より単元目標に近づきやすくなるかといった点でも、子どもにより差が見られます。これらは、必ずしも序列化されるべき差ではなく、むしろ、それぞれの子どもがもつ持ち味として生かされるべきものだと考えることができます。 
 だからこそ、単元内自由進度学習では、一つの単元内で、それぞれの子どもの持ち味が活きるような、あるいは、普段の一斉授業では否定的に映るような特性が否定的にのみ扱われなくなるように複数のコースを設けたり、できるだけ自由な学習場所を認めたりするのです。あるいは、それぞれの子どもが自らのつまずきのポイントを着実に乗り越えてくれるように、また、自分の資質・能力をそこで可能な限り伸ばしてくれるように、さらには、自分の追究したい課題にじっくりと取り組めるように単元構成を図るのです。こうした工夫を通して、子どもたち全員に、ミニマム・スタンダード(最低基準)の達成と、より高度な、あるいは多様な学習機会を保証することを目指すわけです。
 このように、できるだけ「個に応じた」あるいは「個を生かした」手立てやプログラムを準備することによって、学習の内容面に関する充実化を図るのみならず、単元内自由進度学習は、主体的で自立的な学びの作法を、つまりは「自己学習力」と呼びうるものを、それぞれの子どもたちが身につけることを目指すのです。ここでいう自己学習力という言葉に、特に複雑な意味合いは込められていません。それは、他人からの命令・指示によってではなく、自分の意志・判断によって、自分の学習を組み立て、進めて行くことができる資質・能力を指しています。
 単元内自由進度学習は、自分がこれからすることの内容や方法が、誰か自分以外の人の指示に大きく依存するような状況おいてではなく、子どもたちが、大幅に与えられた自由度の中で(たとえ、当人の思い込みに過ぎないとしても)自分で自分をコントロールし、自分の学び方を工夫し、その中で学ぶ楽しさや充実感・達成感を味わうという経験を積み重ねることができてこそ、自己学習力は育つという視座に根ざして導入されるものです。「指示待ち人間」と呼ばれるような存在ではなく、あるいは、自分の動き方を他人に委ねてしまう存在ではなく、失敗や停滞を経つつも、それを少しでも克服して、主体的に自分の課題を解決できるような存在に、より大きな価値を置き、そうした資質・能力を持つ人間を育てようとするのが、この学習方法論なのだと言ってもいいでしょう。
 では、このような目的・目標を持つ単元内自由進度学習では、どのように単元構成がなされ、どのように学習材が作成され、どのようなことに注意しながら実践が展開されるのでしょうか。より具体的に説明を続けることにしましょう。
 
3 単元内自由進度学習の内容面と方法面:カリキュラムとその実践上の留意点
(1) 単元内自由進度学習の内容的側面=カリキュラムづくりの側面

 単元内自由進度学習では、上に述べましたように、ガイダンスが終わったあとは、教師が予め準備した教材や学習環境を用いて、子どもたちが、自分で学習を進めて行きます。したがって、子どもたちが、基本的に、自分一人で学習を進めて行くことで、学習カードやヒントカード、その他を含む一連の教材を、教師が作成することが必要になります(こうして構成された単元およびその学習材を「学習パッケージ learning package」と呼ぶことがあります)。
 これらの理解を深めるには、その具体的な学習材を手にして、実際に、その作成過程や、授業という活用場面を参観するに越したことはありませんが、ここでは具体例を示しながら、そして、作業場面や授業の画像をお見せしながら解説することはできません。その点は、是非、今回の公開研や普段の取組を参観頂いて、補っていただければ幸いです。
 さて、先に触れましたように、単元内自由進度学習の特徴の一つは、単元毎に複数のコースを設けることにあります。したがって、この単元全体の構成には、a.複数のコースを含む単元計画、b.学習材づくり(子どもたちが書き込みをしながら進める学習カード、その学習カードを進めて行くためのヒントカードなど)、c.学習環境づくり(掲示資料・展示物の作成・設置など)が含まれています。これらは、今回ご覧頂く公開研究会で、実際にご覧頂けるわけですが、それぞれに関して、どのように作業が進むのかを以下に紹介して、解説に替えたいと思います。なお、これらの各作業は、実際には、必ずしも、a→b→cというように整然と一方向に進むわけではなく、この間を行きつ戻りつだったり、複数の作業が同時並行的に進められたりしながら進展していくことも多いのですが、以下では、便宜上、上記、a, b, cに分けて説明を進めることにしましょう。
a. 単元構想
 単元構成においては、まず、どの単元を、この方法で実施するかを決める必要があります。基本的に、どのような教科単元でも、適切な工夫を施せば、子どもの自立的な学習を軸とするこの方法論で実施することは不可能ではないというのが、我々が経験的に得た知見です。が、この学習では、子どもたちが、カードと教科書などを用いて、基本的に自分一人で進めて行くだけに、個人差が現れやすい手作業的な活動が多いものや、創作的な活動を含めやすい単元が、この学習には向いているとされます。また、一定の時間数を子どもに任せることで、ある程度自分なりの「見通し」を持って計画を立てさせることに意味が生じ、自分なりに学習を深めるための追究活動にある程度じっくりと時間を費やすこともできるようになるので、あまり短い時数の単元は向いていないとされます。8-12時間程度の単元を選ぶのが標準的です。
 実施する教科と単元が決まると、いよいよ具体的に単元計画案の作成がスタートしますが、そこではまず複数のコースをどう設定するかを決めることになります。
 ここで最初に検討すべき最も重要な資料は、該当教科の学習指導要領解説と複数出版社の検定教科書です。学習指導要領解説は、その単元の目標及び内容、さらに内容の取り扱いや指導事項、活動例などを丁寧に再確認し、その単元で最低限達成されるべき目標を明確化するために参照します。このようにその単元で確実に押さえるべきポイントを確認する上で、学習指導要領解説は最優先資料であるわけですが、それと同時に、必ず複数の教科書を比較検討します。たとえば、該当単元に関して、自校で用いている出版社の教科書に含まれていて、別の出版社の教科書で含まれていない事項があるとすれば、その事項は、学習指導要領上最低限必要とされる内容ではない可能性が高いことがわかります。くわえて、複数のコースを組み、その学習材に関するアイデアを豊富化していく上で、自校で用いている教科書以外の教科書から、大きなヒントを与えられることもしばしばです。
 また、この作業によって、担当教師の教材理解は目に見えて深化すると言えます。自分が用いている教科書の教材が、どんな目的のためにあり、その目的を満たすために具体的にどのような教材や学習内容の可能な選択肢があり得るのか、そして、そうした可能な選択肢のネットワークの中で、当該教科書の教材はどのような位置づけにあるのか、どういう特徴を有し、その背後にはどのような意図が存在しているのかということがより明確になるわけです。要するに、教科書の教材構成が持つ意味を、教科書編者の立場に近づいて理解することができるようになるわけです。
 さて、そのコース設定は、次のような複線化を基本としています。まず、標準的なコースとして、教科書準拠のコースがあります。すなわち、自校で用いている教科書の流れにほぼそのまま沿う学習カードが作成され、子どもたちは、主として、このカードの指示や問いに従って、教科書を順に読み進め、その内容や活動をフォローしていくことで、学習を進めて行くことができるようなコースです。
 それに対して、教科書の流れとは、若干、あるいは、大きく異なるコースも設定します。たとえば、一つには、教科書では、何らかの原理を理解してから、あるいは、特定の知識を理解した上で、ものづくりなどの制作的ないし創作的活動に入るという流れになっているところを、単元の冒頭から、そうした制作的ないし創作的活動に入ることで、原理的思考や知識習得へと動機付け、その上で、教科書的な文字情報による学習に導くようなコースが考えられます。また、教科書よりも、さらにスモール・ステップの発問形式を採用したコースを設けるという方法もあります。他方で、教科書では、子どもたちが、ある理解に到達するためのスモール・ステップを設けていたり、あるいは、一定の選択肢を提示したりしているところを、そうではなく、よりオープンで根本的な課題を与えることで、自らの試行錯誤によって、目標となる認識に向かおうとするように仕向けるといった単元構成も考えられるでしょう。
 いずれにせよ、こうした複数のコースは、どのコースであれ、学習指導要領上、全ての子どもに最低限身につけることを要請されている項目が必ず含まれるように、それと同時に、多様な子どもの特性や持ち味に応じて、あるいは、それを生かすように、様々な仕掛けを施しつつ構成することになります。
 このような手順を単元内自由進度学習の単元構成法の基本型と呼ぶことができますし、我々もこれに従うことが多いものの、同時に、我々は、こうした単元構成やコースの設定は、柔軟かつ多様なものであってよいと考えています。その意味では、この学習方法に根ざす理念(上記の目的・目標)に照らして、また、この方法論の肯定面も否定面も見据えた上で、目の前の一人ひとりの子どもたちや、学校の事情に即応して、様々な工夫が積み重ねられて行くべきでしょう。
 その際に、特に我々が重視しているのが次の2点です。第1に、このコース設定やその運用に関する企画を、特定の教師個人ではなく、学年団等の教員チームで進めるということです。第2に、その企画過程で、子ども「たち」ではなく、具体的な一人一人の子どものことを念頭に置く、強く意識するということです。したがって、「〜が得意な子どもと不得意な子ども」という(子どもを一括りに見るような)表象に留まらず、「…クラスの○○さん」という一人一人の子どもの名前を上げながら、「こんなコースにすることで、あの子が生きてくるはずではないか」、「だから、こんなコースをこういうふうに設定しましょう」といった協議を積み重ねることになります。子どもたちの姿や声を「束」としてではなく、「固有名詞レベル」で振り返り、その子が活きる(と我々が判断した)要素を織り込んだコースを、チームワークで考案するわけです。
 ところで、単元構成には、複数のコース設定以外に、もう一つ重要な仕事が含まれています。このコース別のカリキュラムは、原則として、その単元で最低限押さえるべき指導事項について学習する部分であり、このコース学習の先に、自由に選択できるいくつもの発展学習を準備することになります。魅力的かつ価値のある発展学習を用意することで、子どもがコース学習をきちんと効率よく終わらせて、さらに学びを深める機会を手に入れようと動機づけられることにもなります。
 では、そのような発展学習はどのように準備されるのでしょうか。まず、一人一人の子どもの特質・持ち味を考えつつ、教師陣がチームワークで企画するということは、コースづくりの場合と共通しています。では、どのような種類の発展学習を準備するのかという点に関して述べれば、教師陣が様々な資料や情報を渉猟しながらも、自分たちの想像力・創造力を駆使して、子どもの興味関心を生かすと同時に拡げられるような内容や、一斉授業では実施が難しい作業、教科書では扱われていない追究的な活動等々を用意することになります。他方、単に、より難易度の高い問題集を用意したり、その子どもが最初に選択したのとは異なる別のコースをもう一つやってみることを認めたりするという選択肢も、発展学習の一つとして用意することがあります(上手に手抜きすることも技の一つかもしれません)。
 最後に一つ補足しておくと、きわめて逆説的なことですが、一般受けを狙ったコースや発展学習が案外多くの子どもを生かしきれず、反対に、固有名詞レベルのピンポイントで特定の子どもに狙いを定めた仕掛けの方が、かえって多くの子どもを学習に惹き付けるということが、これまでの経験で見られています(「いつも授業で困らせてくれているアイツだけど、これならどうだ!」という具合に教材創作)。その点で、普段からのそうしたレベルでの子ども理解が、より優れた単元構成の基盤になることは間違いないことでしょう。そして、このことは、以下の学習材準備に関しても当てはまることです。
b. 学習材づくり
 単元構想の段階でコース設定が決まると、今度は、各コースに合わせた学習材づくりが開始されます。その学習材には、それぞれのコース毎に準備されるものとして、(1)子どもが各コースについて単元全体の見通しを持てるように作られた「学習の手引き」、(2)子どもが選択したコースに沿って学習をどのような順序・進度で進めて行くかを明記した計画表と、その計画通りに進められているかという点を含めて各授業後の感想が書けるようになっている「学習計画表・振り返りカード」、(3)子どもが書き込みながら学習を進めて行くことになる「学習カード」、(4)その学習カードを進める上での支援的役割を果たす「ヒントカード」、さらに、(5)これらのカードと連動した各種資料(図鑑・図録・マンガ・絵本を含む各種書籍、視聴覚資料、実物資料、様々な器具・用具など)が含まれます。また、ゲスト・ティーチャーを招くこともありますので、このような人的資源も、また、この次の節で述べる各種学習環境の大半も、広義には、学習材の一部と考えることができるでしょう。
 担当教員チームは、設定したコースにおける子どもの自立的な学びが充実したものになるように、これらの多元的・多層的な学習材を整合的に結びつけて構成する必要があります。中でも、我々の経験によると、これらの学習材作成の中で最も重要でかつ苦労を強いられるのは、学習カードづくりだと言えます。たしかに、「学習の手引き」(1番目の学習カードに入る前のカードという位置づけなので「ゼロ番」と呼ばれることがあります)は、そのコースにおける学習へと子どもをいざなう動機付けの役割を担う重要な位置づけにありますが、その手引きに、子どもを十分に惹き付けられるような明快かつ魅力的な前口上を入れることができるためには、一定の確信を持って作成された学習カード本体が不可欠になるからです。また、学習カードの出来がよければ、教師が直接教え込まなくても、学習カードの指示に依拠し、学習環境との相互作用の中で、子どもが自立的に学ぶことができる可能性が高まるからです。
 教科書準拠コースに関して言えば、その学習カードのおよそのイメージを持って頂くために次のように言えばいいかもしれません。つまり、一斉授業において、教科書の流れに沿って、教師が子どもたちに向けて口頭で行う指示や発問を、文字にして、一区切り毎のプリントに落とし込んだものというイメージです。子どもたちは、カードの指示にしたがって、教科書を参照しながら、様々な学習活動(実験・観察、製作・創作活動などを含む)を展開し、カードに示された問いの解答を作成して、一枚一枚のカードを仕上げて行くことで単元を進めて行くわけです。
 他方、教科書準拠コースと異なるコースの学習カードに関しては、単純な作成パターンを示すことはできません。ここは、このマイマイ学習を実施している期間に、授業を参観頂いて、具体例をできるだけ多くご覧いただくしかないのかもしれません。実際、教科書準拠以外のコースをどう設定し、その学習カードの内容をどう組んで行くのかは、各担当教師、あるいは、学年団などでチームを組む教員陣のまさに腕の見せ所なのです。
 あえて簡略にその例を掲げるとすれば、次のような作り方が考えられるでしょう。たとえば、自校採用の教科書よりもずっとオープンかつ根本的な問題解決過程を経験させるようなコースの学習材として、算数科や理科で、その単元で習う新たな公式や実験方法を、子どもたち自身が、それまでの既習事項を前提に、試行錯誤によって自ら発見する、ないし導き出すような課題を設けた学習カードを準備するという方法があります。それは、いわば、子どもを小さな数学者や科学者に見立てて、最も深い思考に誘うような一連の流れを準備するというやり方です。また、社会科で、歴史上の人物が学習カードに写真や絵入りで登場し、その吹き出しセリフとして、直接、現代の子どもに語りかけるような設定を凝らし、その単元で考察して欲しい課題、調べて理解して欲しいことを、その人物らしく語りかけたり問いかけたりするような発問形式を用い、その課題の解決や調べ学習に、教科書その他の資料を駆使せざるをえなくなるような学習カードを作るといったやり方も考えられるでしょう。他方で、自校採用の教科書のその単元にはない手作業的な活動やものづくりなどを織り込んだ学習過程を含むコースの学習材として、国語科の物語単元などで、その主人公の名前を出し、「〜さんに、手作りのプレゼントを送ろう」というめあてを掲げつつともに、そのプレゼントの説明を含んだ、その主人公への手紙を作成させるといった課題を含む一連の学習カードを準備するというやり方があり得るでしょう。
 このように、子どもたちの実態や資質に応じて、オリジナリティ溢れるカードを準備することは、異なる教科書を新たに編むに近い作業でもあるわけですから、そうした創造的活動に必然的に伴う苦労があります。が、だからこその楽しい作業にもなり得るわけです。同時に、教師は、中心教材(=教科書)を与えられ「使う」という立場だけでなく、それを「作る」のに近い立場に身をおくと、検定教科書編集上の細部にわたる工夫や意図がより深く読み取れるようになり、だからこそ、多くの英知や技を結集して編集されている検定教科書のスゴさを実感できることにもなります(「教科書って、ホントによくできてますよねえ、特に、この教科で行くと〜社とかね。」という声とかね)。
 他方、教科書準拠以外のコースの学習カードを作成して行く時に、より単純簡明な方法として、我々が頻繁に採用している方法があります。この方法は、教科書準拠コースが、複数コースの中のスタンダード(基準)コースであるというところから派生するやり方です。すなわち、一つには、教科書準拠以外のコースでも、そのうちの何枚かの学習カードは教科書準拠コースと同じカードを用いるという方法があります(うまい手の抜き方)。実際、教科書準拠コースとさほど大きく変わるところはないが、学習内容や活動の順序を教科書準拠コースと入れ替えただけというコースの組み方も考えられなくはありません。また一つには、教科書準拠コース用のカードの何枚かを部分的に改編したカードを用いるという方法があります。つまり、教科書準拠コースと、学習順序・活動順序にさほど大きな変化はないが、その内容に、難易度を含む若干の変化をつけたものですね。
 それだけに、教科書コースという基準となるコースの学習カードが、丁寧に作成されることが重要な意味を持つことになります。検定教科書には、多くの場合出版社により指導書が作成されているだけに、教科書準拠コースの学習カード作成という作業は、一見さほど難しくは思えないかもしれませんが、我々の経験では、それでも、この作業にもいろいろな工夫や苦労を要します。 
 何よりも、どの子どもが読んでも、文面だけで、その意味するところが、子どもの頭の中ではっきりとした像を結ぶように、明快かつ適切な指示や発問を準備するのは、苦戦を強いられることしばしばです。普段の授業のように、口頭による指示・発問の場合には、誤摩化すとまではいかずとも、言い直したり、言い足したりすることが可能ですが、学習カードでは、それができないからです。具体的な指示や発問の設計とその言葉選びは、学習カード作成上の鍵であると言えます。また、子どもたちに要求することがある手作業に関しても、その作業手順が印刷された内容で理解できるようにするために、様々に工夫された図や画像の挿入などに難儀することもあります。くわえて、一枚の学習カードが、ある程度すっきりと見やすくなるようなレイアウトにも腐心することにもなります。
 よって、こうした作業も、先に見た単元構成と同様に、教師個人としてのみならず教員チームとしても取り組むことが大切になります。つまり、ある教師が叩き台として作成した学習カードを、チームを組む他の教師に見てもらい、問題の解答例を作成してもらったり、発問や指示に関する感想を述べてもらったりしつつ、互いに改善案を出し合うなどという手順を踏まえることが必要になります。そして、こうしたチームワークが、教員集団全体の教材理解や授業研究の理解や、教員同士の相互理解を深め、実践の質を高めることになると考えることができるでしょう。
c. 学習環境づくり
 大谷口小の学校webサイトには、同校の「校内研究」について紹介したページがありますが、そこには様々に工夫された学習環境が整備されていることをお分かり頂けますので、是非ご覧下さい。
 ここでいう学習環境の構成物には、単元名を示したパネル(平面的な掲示だけでなく立体的な掲示物なども)、学習上のヒントやアドバイス掲示(つまづきのポイントになりやすい箇所に関する図入りの説明、学習上のポイントを体験的に学べるような掲示物など)、学習過程で用いる器具・用具や材料、あるいは拡大判の図版・地図・写真などの資料や各種図書等(学習内容・活動へと動機づけるような・学習を進める上での助けになるような・学習をさらに発展させる契機となるようなものなど)、あるいは、実物・模型展示、子どもによる思考・表現の成果を紹介・共有するための掲示板などがあります。
 従来型の一斉授業では、算数の図形について、教師が、発問・説明・板書等を通してイニシャティヴを握り、子どもたちの学習状況を直接的にコントロールしながら実践を展開することになりますが、この自由進度学習においては、教師が子どもに「教える」という形式ではなく、子どもたち自身が「自立的」に「学ぶ」という形式を基盤とするので、必然的に、そこでは教師による直接的な指示や指導よりも、むしろ教師が予め準備・構築した学習空間による、子どもたちに対する間接的な動機付けや支援を軸に、子どもの学習が成立することを目指すことになります。したがって、教師には、子どもがそこで学習する内容に対する興味・関心を引き起こされるような、また、一人一人の子どもがその学習活動を楽しんで、持続的に進められるような、さらに、その学習に関する子どもの理解が深まったり、広がったりするような仕掛けを縦横に張り巡らせた学習環境を構築することが求められるわけです。
 こうした学習環境によって目指すのは、その単元に関する一大「学習ワールド」を出現させることであると言い換えてもいいでしょう。つまり、算数の図形について学習する単元であれば、教室・廊下・オープンスペースなどの壁・窓・天上・床をあらゆる方法で駆使して、「図形学習ワールド」を作り上げるわけです。天上からは学習する図形をあしらった単元名掲示を吊るし、子どもの目の高さくくらいの壁にはその図形の性質が一目でわかるようなパネルや図形クイズなどを、共有スペースの真ん中には、学習カードのヒントとなる情報が視覚的にわかりやすく示された立て看板的な大きなパネルを設置し、いくつかのテーブルには様々な図形遊び体験のためのパズルやタングラムを、その横にはタングラムの出来上がり例を拡大コピーした看板を、さらに、窓にも縦横にテープを張り巡らせて構成される図形模様を、くわえて、別の壁面には子どもたちが作った図形的製作物が貼り出されて行く巨大な台紙を、棚には図形にまつわる様々な図録や絵本などの紹介コーナーを、というように、その学習空間の学習情報密度を客観的にも主観的にも飛躍的に上昇させることで、教師の直接的指示が極小化されても、子どもがその環境との相互作用によって、そこでの自立的学習の充実度を極大化できるように環境構成が行われるのです。それは優れた幼児教育現場において準備される環境構成と多くの類似点を持つものかもしれません。そこでは、単に平面的な掲示だけでなく、より子どもたちの目を引くような凹凸のある、あるいはダイナミックな三次元の構成物を含む様々な掲示やコーナーが、色彩豊かに、かつ、学習に最適な子どもの動線が確保されるようなレイアウトで配置することが目指されるわけです。
 こうした学習環境を制作した経験のない方が、非常に優れた学習環境をご覧になると、その作業の負担はさぞや大きいものだろうと懸念され、こんなものは自分の学校では絶対に用意できないという諦めに似た気分になられることが少なくないのですが、経験的に振り返って言えることは、単元構成や学習カードづくりなど学習材の準備で苦労を感じることはあっても、こうした学習環境作りに関してストレスを溜める教員は皆無に近いのが実情です。もちろん、教師個人としてそのような環境構成を進めることは困難ですが、強力なチームワークが出来ていると、環境構成に相当な盛り上がりを見せるという事態の方がはるかに多く見られるのです(「こんなことまでするのは、並大抵の負担じゃないですよね?」「たしかに、そこそこ時間はかかりますが、まあ趣味の世界ですね。結構楽しいもんですよ。ハハ。」)。そして、そうして出現するミクロにもマクロにも圧倒的な印象を与える学習環境に込められた教員集団の熱が、子どもの学習の姿に感染したかのように見えるという事態もしばしば目にされてきたところなのです。
(2) 単元内自由進度学習の方法的側面=実践上の留意点
 単元内自由進度学習における実践上の留意点は、当然ながら、まずは、この学習の目的・目標から直接導き出されることになります。その目的・目標とは、上述のように、一つには、一斉指導あるいは集団学習では十分に実現できない水準の「個に応じた」あるいは「個を生かした」学習指導・学習支援の可能性を拡げることであり、また一つには、教師による直接的指示・コントロールにとってではなく、一人一人の子どもが、高度に与えられた自由を引き受けて、自己の判断と責任で学習を進められるようになること、すなわち、自己学習力を身につけられるようにすることでした。
 これらの目的・目標を念頭に置くこの学習では、第1に(子どもが他の子どもに迷惑をかけたり、邪魔をしたり、共有財産としての学習材や道具を手荒に扱ったり、使用したものを元通りに片付けなかったりというルールが破られない限り)、子どもたちの学習活動に対する教師による直接的な指導や支援をできるだけ控え、教師は、授業中、子どもの様子を見取り、それを記録し、見守ることの方に重点を置きます。いわば「引いて、見る」と呼びうるような姿勢をとるわけです。  
 一斉授業・集団学習では、一定の学習速度やペースが全ての子どもに共通に当てはめられることになり、せいぜい別の教師がごく少数の子どもに対して個別支援を施すという程度の対応になりがちですし、自分の机について、一定の姿勢を保つことも要求されますが、この単元内自由進度学習では、できるだけ多様な子どもの個性が活かされる学習材を準備するだけでなく、授業中も、少々の停滞・沈滞や間違い・失敗があっても、すぐに介入せず、その子ども固有のペースや学習スタイルを尊重することを原則にしています。
 といいますのも、子どもによっては、やり始めのペースがゆっくりで、なかなかサクサク進まず、支援が必要に見える場合でも、ひとたびスイッチが入ると、とたんに集中してどんどん自分の学習を自分で進めていくという場面が見られるからです。あるいは、学習をサボっているような子どもも、傍で集中して黙々と進める他の子どもたちを見たり感じたりして、それにだんだん刺激され、教師からの指示がなくても、自分で一念発起して実質的な学習活動に向かって行くという場面も見られてきているからです。
 よって、当然ながら、この学習の際には、何かの必然性がない限り、机につく姿勢を正させるというようなこともしません。子どもによっては、椅子に座らず、机の前に膝断ちで、時には、立ったまま、あるいは、地べたや低いところに教材を並べて、あぐらをかきながら、それでも活動には集中しているという場面は多々見られるからです。人に迷惑をかけなければ、公共財を丁寧に扱っていれば、そして、実質的に学んでいれば、「好き勝手が」が何でも許されるわけです(許せませんか?)。
 くわえて、時々途中で集中力が切れて、作業が進まず、徘徊したり、寝ころがったりする場合でも、他の子どもを妨害しない限り、また、目に余るということがない限り、「適度な自主休憩」さえ容認することにしています。そうした停滞や沈滞があっても、大部分の子どもたちは、自分の学習へと自分から復帰して行く場面が多く見られてきているからです。
 もちろん、目に余る場合には、その子どもに合わせて即時支援や事後指導は行うことになりますし、この学習を始めて経験する低学年や経験の浅い学年などでは、高学年に比べて、教師による助言や支援をやや厚くすることになりますが、基本的には、子どもたち自身が、様々な学習材を活用して、課題を自分で乗り越える契機を大切にしたいということです。ただし、与えられた時間内で終えられそうにない場合には、宿題あるいは居残りというかたちで補充学習をしなければならないということは、予め子どもたちに伝えられることになります。
 第2に―これは第1の点と全く別のことではないですが―この学習では、子どもたちが教員に支援を求めることがあっても、教師は、できるだけ子どもが自分で解決しようとするように促そうとします。そこで、子どもたちは、頼りたい気持ちを抑えて、自力で壁を乗り越えることを求められるわけですが、自立は容易いことではないという点を踏まえた上で、自由には責任が伴うことに身をもって気づかせ、自由度が大きい学習である分だけ、学ぶ楽しさとともに、学ぶ苦労も経験させたいという意図がそこにはあります。
 この学習に慣れていない段階では、学習カードの指示等をよく確認せずに、すぐに教師に質問したり、支援を求めて頼ってきたりする場面がやや多く見られます。あるいは、教師に質問しようとする子どもの列が出来てしまうということがあります。教師の側でも、この学習に慣れていない段階では、ついつい子どもに頼られることに直接応じようとして、結局、子どもの自立の契機を奪いかねない方向で対応してしまうこともあります。たしかに、その場で分厚い支援が必要な子どももいますので、一概には言えないものの、基本的に、教師は、子どもに質問されたり頼られたりした時には、その子どもに対して、学習カードや教科書を開いて再度よく確認することを励ましたり、ヒントコーナーやその他の学習材を利用することを勧めたりすることで、子どもが自立的に課題に取り組み、解決する場面を増やすことを心がけるわけです。
 第3に、どのような学習過程においても重視されてよいはずの、多様な子どもの視点・思考の共有という側面が、この自立的な学習においては軽視されることになりはしないかという批判が差し向けられることがありますが、この問題への対策を意識的に講じることについて述べておきたいと思います。たしかに、クラス全体で、あるいは小グループでの子ども同士の直接的な交流や議論は非常に意味のあることですが、同時に、そういう直接的な議論では、発言に無視できない偏りが生じることもしばしば目にする所です。むろん、そういう偏りが生じないようなクラス運営こそが、教師の重要な任務であるという考え方は、一定の正当性を持つものではありますが、子どもたちが学校に来る前にすでに持っている資質や能力が、そこには影響を及ぼすので、その偏りを大きく修正することには困難も伴います。また、たしかに、単元内自由進度学習では、そうした直接的な交流や議論の場を設けることが極端に少ないことは間違いありません。しかし、一定の視点を持ち、一定の工夫をすることで、この学習にはこの学習で、それなりに効果的な共有場面や協働性を確保することができるのです。
 たとえば、ある学習カードの指示によって、あるポイントに関する子どもの感想や意見を付箋で貼り出すコーナーを設けることによって、普段の直接的な意見交換の場では、なかなか積極的な発言が見られない子どもが、そこに何枚も自分の考えを書いて披露するということがあります。さらには、人の意見を聞きましょう、と直接指示しても、なかなかそういう指導が通じない子どもが、授業中だけではなく、休み時間のふとした瞬間に、その付箋に書かれた友達の考えにじっと目を通しているという場面が生じるわけです。
 くわえて、協働学習と呼ばれる方法論では、そうした協働的活動が最初からそれ自体目的として織り込まれる計画が立てられることになるわけですが、よって、その点で、協働学習が教師によって仕組まれるわけですが(そして、もちろんこうした学習計画・活動は大変重要な意味を持つわけですが)、この単元内自由進度学習では、いわば「自然発生的な協働性」を重視しています。子どもたちは、それぞれ自立的に学習を進めていても、様々な場面で、時には意外な子ども同士の間で、お互いの学習活動について意見を交換したり、相談や助言の場面が見られたりしています。その点で、我々は、集団的な協働的活動だけが協働ではないと考え、このような個別の自立的な学習の中でも、意味のある協働性が育まれる可能性が充分にあると見ています。再度確認しておくと、この点は、いわゆる協働学習的な実践の不要性を結論づけるものでは断じてなく、むしろ、個に準拠した自立的学習との共存こそが当然あるべき姿であるとの認識に支えられているのです。
 第4に、この学習で教師は、その子どもの活動を肯定的に価値付けることができる場面を見いだし、その肯定的評価を子どもに返してやることを心がけることになります。この学習では、上述のように、一人ひとりの子どもの持ち味が生かされるような、また、子どもが自分一人でも進めて行けるようなコースや学習材をできるだけ周到に準備するわけですが、それを用いて展開される子ども一人ひとりの個性的な活動の中に、できるだけ「いいところ」を見いだし、適切なタイミングで(手段としてのみならず)実質的に「褒める」ことができるようにすることを旨とします。
 特別な支援を要する子どもの一部を含めて、通常の一斉授業では、そこで要求される秩序に収まらず、否定的な評価を受けることが多い子どもに対しても、この学習においては特に、できるだけ肯定的に捉え、その自尊感情が掘り崩されないように配慮し、その子どもが、自らの失敗や挫折と向き合いながら、試行錯誤を通して課題を解決していけるための、そして、自己を肯定的かつ批判的に捉えることができるようになるための基盤づくりが目指されるのです。その意味で、この学習においては、いわゆる「個人内評価」により重要な位置づけが与えられることになるでしょう。
 さらに敷衍すれば、ここで言う自尊感情は、個々の子どもの「尊厳」という側面と結びついています。というよりも、自尊感情(高い場合も低い場合も含めて)とは、尊厳が担保されたり、されなかったりすることによって生じる自己評価であると言ったほうがいいかもしれません。一定の基準を満たしてはじめて、あるいは、所属集団との一体化によってはじめて、その子どもの価値を認めるというのではなく、そうした外的基準とは別に、まず個々の子ども自身に価値を認めるという立場に立つとすれば、大人の指示に従わせることだけでなく、むしろ思い切って自由を与える必要があります。この自由の中ではじめて現れて来る自己に承認が与えられてこそ、その尊厳が保たれ、それに応じた自尊感情を得ることになります。その点で、我々が考える自尊感情とは、依存状態ではなく、依存可能な安定性に支えられた自立のなかでこそ育まれるものです。というわけで、ここで紹介してきた学習は、子どもに可能な範囲で大幅な「自由」を与え、個々の子どもに試行錯誤を経験させるなかで現れるその個々の子どもの姿や声に、教師や他の子どもが「承認」を与えることで、個々の子どもに対する「尊厳」が確保され、そこで育まれた自尊感情に基づいて、新たな挑戦(試行錯誤の旅、すなわち、失敗や挫折を経験する旅)へと踏み出せるような基盤形成を図り、このスパイラルが成長を続けることを目指すものなのです(宮台真司『14歳からの社会学』を参照)。
 第5に、ここまでの留意点と一見矛盾するように見えても、子どもたち一人ひとりの学習状況を確認しながら、この学習の進め方に関して柔軟な対応を取ってよいということも確認しています。すなわち、たとえば、学習カードの文言の思わぬ不備や、子どもの学習とそれに関する教師側の事前予測との間の不一致などから、子どもの間に無用な混乱が生じたり、過度の停滞が生じたりした場合には、自由進度学習の途中でも、自由な活動をいったん遮断して、一斉指導を入れ込むという禁じ手も否定しないということです。現場での具体的な実践には、いろいろな要因が複雑に絡みあって、生じた問題の原因を常にすぐに明確に理解できるわけではありません。しかし、そこで生じている事態に大きな問題を担当教員がチームとして感じるとすれば、その原因の追究の前に、あるいはそれと同時に、まずは問題となっている事態への具体的な対応を教師陣は求められることになります。そこで予め持っていた理念や願望に固執することは、この学習の意味を掘り崩すことになりかねないからです。
 しかし、こうした予期せぬ問題が生じることが稀に生じることはあるとしても、TT体制によって様々な角度から検討に検討を重ねて作られた学習材と、大人が見ても惹き付けられるような学習環境が準備されれば、子どもたちは、むしろこちらの予想をいい意味で裏切って「自ら学ぶ」ことを、我々は幾度となく目撃してきました。このことが、教師が教えなければ子どもは学ばないという固定観念を振り払ってくれるのです。そうなると、コースがスタートしてみれば、教師は、特に支援が必要になる子どもに集中したり、あるいは、端的に、子どもの学習状況を文字や画像で記録したりする程度で、子どもたちが頑張っている姿を見ながら、気分よく「楽をする」ことができるのが、この方法論であると言ってもあながち間違いではないでしょう。
   
4 単元内自由進度学習の研究授業と事後検討会
 次に、大谷口小学校のマイマイ学習の、つまり、単元内自由進度学習の研究授業や事後検討会の特徴を簡潔に整理しておきたいと思います。
 この研究授業の第1の特徴は、その指導案において「本時」という枠組が存在しないということです。したがって、「本時」の指導案というものは作成されません。一般に、一斉授業の指導案では、本時の指導案として、全何時間中の何時間目というかたちで、その日の研究授業が、単元全体の何時間目に当たるかが明記されることになります。しかしながら、単元内自由進度学習の研究授業の場合には、当然ながら、子どもたちによって、選択したコースや学習のペースも違っているわけですので、本時の指導案というものが意味をなさないわけです。
 よって、一般に、この学習の指導案は、単元全体の指導案のみが作成されることになります。そして、その研究授業は、コース別の学習が開始されて、子どもたちのコース別学習の活動が本格化して行く単元中盤から、発展学習に取り組んでいる子どもも多く現れる単元終盤に設定することが多いと言えます。
 他方で、この学習でも、本時という枠組が伴う時限も存在します。それは、単元当初のガイダンスと、単元終了時のまとめの時間です。これらに関しては、学年ないしチームを組むクラスの子どもたちを一斉に集めて行われますので、本時の指導案を作成し、時系列的な活動計画の詳細を明記した指導案を作成することになります。ガイダンスでは、子どもたちを今後の学習に動機づけ、設定した各コースの特徴をよく理解して、子どもたちがそれぞれ選択コースを決定できるように、また、発展学習を含めた単元全体の見通しを持てるように、単に一方通行的なコース解説に終始しないという点を含めて、教師陣が様々な工夫を施すことが求められます。
 また、最後のまとめの時間では、直接的にクラス全体で、様々な視点や考え方などについて共有する機会がほとんどない単元内自由進度学習であるだけに、特にクラス・全体で共有しておきたいというポイントや、全員で重点的に確認しておきたいというポイントを扱うということが重要な目的の一つとなります。同時に、この単元で子どもたちが取り組んできた学習活動やその成果・作品などを、子ども皆の前で、教師が適切な価値付けを行える重要な機会でもあります。普段の一斉授業で、なかなか褒められることが少ない子どもや、目立たない子どもの学習を見取っておくことで、それを全員で共有する評価(つまり、その子への明確な「承認」)として、子どもたちに返すことができる場面となるわけです。
 これら、ガイダンスやまとめの時間も、単元内自由進度学習の重要な一要素であることは間違いありませんので、この学習の研究授業を進めて行く中で、一定の経験を積むようになった段階で、これらの時間を研究授業として設定し、全体で検討するという機会も設けられてよいでしょう。
 第2の特徴として、研究授業における授業者と参観者の視点や動き方に関して、従来型の一斉授業とは大きく異なるという点が挙げられます。授業者の側は、子どもたち全員の前で発問や説明をすることはありませんので、研究授業当日は、一斉授業の研究授業の時のような緊張感はないかもしれません。授業者は、ある程度のターゲットを定めながらも、子どもたち一人ひとりの学習状況を、できるだけつぶさに把握すること、必要に応じて最小限の適切な支援を行うことを、安全面の確保とともに心がけることになるだけです。
 他方、参観者も、この研究授業では、ひとり一人の子どもの具体的な学びの姿を見とることが最も重要な目的になります。その際に、典型的な参観方法として次のようなやり方が考えられるでしょう。一つには、学習スペース全体を歩いて、全体を見渡した後、特定の子ども(たち)に焦点を合わせて、その子どもを追って観察するという方法です。その子どもが、どのような時間帯に、どのような進み具合や停滞を示しているのか、何に関心を示し、何に困っているのか、どのような子どもと交流し、どのような学習材や環境の活用の仕方をしているのかを、ミクロに見て行くわけです。その際重要なのは、表面的な子どもの行動記録だけでなく、できるだけ子どもたちのつぶやきや声を詳細に拾い、むしろ、そこでの思考・内面を推察しながら観察するということでしょう。また、一つには、ある場所で定点観測するという方法があります。特定の学習環境のところに、どのような子どもたちがやってきて、その環境をどのように活用しながら学びを展開しているのかを観察するわけです。さらに、特定の授業者を追うことで、この学習における授業者の視点や、子どもへの支援の仕方、それに対する子どもの反応などを観察するという方法が考えられます。実際には、これらを適宜組み合わせて授業を参観するということになるでしょうが、いずれにせよ、一人ひとり子どもの学びのあり方を、固有名詞レベルで分厚く追うことが基本になることは間違いありません。この点は、単元内自由進度学習の場合に限らない重要な視点であるわけですが、この学習ではとりわけ欠くべからざる見方であると言えるでしょう。
 この種の研究授業の特徴として、最後に、次の点を掲げておきましょう。すなわち、この授業では、あくまで「単元」こそが、その基本単位であるということです。単元とは、英語で言うunit、つまり単位のことですから、これは当然のことでもあります。どのような方式の授業でも単元計画を作成する以上、この点に変わりはないはずですが、多くの研究授業に接してきて言えることは、「本時」には相当の労力と時間をかけた準備が行われ、それに関する議論もなされるものの、授業者も参加者も、本時にのみ強く意識が向きすぎて、単元全体での子どもたちの学び・育ちという視点や考察が十分でないという印象を持つことが少なくありません。単元内自由進度学習の研究授業では、単元全体を通して、その子が充実した学びを展開して行けるのかどうか、あるいは、最低限の目標を達成することができるのかどうか、授業者の狙いが単元全体で達成されているかどうかといったことに着眼点が置かれることになります。
 こうした特徴を持つ研究授業の後に行われる検討会も、その特徴に対応した内容を持つものとなります。何よりもまず、検討会の話題の中心は、子どもの具体的な学びの姿や声についてであるということです。毎年多くの教師が参観に訪れるような公開研究会を開催している公立小学校(たとえば、諏訪市立高島小、富山市立堀川小、横浜市立大岡小、奈良女子大付属小など)での検討会は、まさに徹底して固有名詞を挙げながら、その子どもが、普段はどんな子どもで、どのような興味関心、思考様式・行動様式の持ち主で、その子どものことを授業者がどのように感じているのか、そこでの学習でどのような学びがその子どもに生じることを狙っているのかという点を確認しながら、その研究授業時におけるその子どもの実際の学びとその意味について振り返るということが行われています。その意味では、単元内自由進度学習だけではなく、集団学習や協働的学習においても、検討会における議論の中心軸を具体的な一人ひとりの子どもに置くという観点は、より注目されてもよいでしょうか。この点は、いまやレッスン・スタディとして海外にも紹介されている日本の「授業研究」で重視される点と通底するところでしょう。
 このような子どもの学びの姿を振り返る上で、我々が常に活用しているのが、研究授業における子どもの姿を映した画像です。検討会における議論の焦点を明確するために、いわゆる抽出児童を3名程度決めて、授業者または参観者の内の担当者がそれぞれの子どもの姿を集中的に画像に収め、その画像と子どもの作成した学習カードや作品などを、参加教員全員で見ながら、子どもの学習のあり方を検討会で振り返り、その子どもの学びの姿や学習状況を通して、単元構成や学習材・学習環境の出来具合や意味について振り返るという方法です。デジカメとパソコン、プロジェクターが簡単に利用できるようになった今日、このやり方は存外大きな効果をもたらすように感じています。
 一斉授業の事後検討会では、教師の発問・板書・説明などの課題を指摘することが議論の焦点になることが少なくありませんので、授業者は、その意味でも緊張し、まな板の鯉のような気分になる場合もあるわけですが、単元内自由進度学習の上のような研究授業や検討会の場合(もちろん、単元構成や学習材に対する批判的議論は必ずあってしかるべきではあるものの)、授業者たちにとって、むしろ、参加者の多くの目で自分の子どもたちの学びを見取ってもらった上で、報告してもらえるので、自分が十分に気づけていなかった子どものよさや課題について認識を深めることができるという意味で、大変「有り難い」機会と映ることが多くなるようです。同時に、こうして、子どもたちのことについて、ああでもないこうでもない、ああしたらどうかこうしたらどうかと意見を交換することで、それによって教師集団のチームとしての協働性や結束力が増すとも感じています。
 
5 まとめにかえて:ルーツとしての二教科同時進行単元内自由進度学習とその教育学的意義
 意外に思われる方は多いと思いますが、実は、単元内自由進度学習は、日本では、二教科同時進行単元内自由進度学習として始まったという経緯があります。単元内自由進度学習は、もともとは単独教科での実施ではなく、二教科同時進行だったのです。今から30年以上も前、日本のオープンスクールの草分け、愛知県知多郡東浦町立緒川小学校で(今回公開研の指導講師に名を連ねている)当時米国留学から帰国したばかりの加藤幸次氏の指導・助言を受けつつ、研究主任成田幸夫氏を中心にこの学校で開発され、週間プログラム学習(略して週プロ)と呼ばれていたのが、この方法論でした(ちなみに、大学院生として足しげく緒川小を訪問し、その実践を研究していたのが、今回のもう一人の指導講師佐野亮子氏です)。
 では、いったいその二教科同時進行とは何を意味するのでしょうか。それは、たとえば、算数10時間と社会10時間の単元があるとすると、それぞれ自由進度学習用の複数コースと発展学習、そのための学習材及び学習環境を整備し、合計20時間について、子どもたちは、自分の選択したコースに沿って計画を立て、その計画が担当教師に認められたら、その計画に沿って学習を進めて行くことになります。それぞれの単元に割り当てる時数も、よほど極端なものでない限り、子どもの見通しに基づいて自由に決めることが許されます。たとえば、算数は得意なので8時間で終えられそうだが、社会には12時間費やそうとか、あるいは、算数は好きなので思い切り発展学習に費やしたいので12時間、社会はあまり好きではないので最低限のコース学習を8時間で終えることにするという計画も考えられます。もちろん、学習指導要領上、各教科とも年間最低授業時数が定められているので配慮が必要になりますが、その学校での年間授業日や授業時数が最低基準よりも多めに実施されていれば、こうした法律上の問題に抵触することは皆無です。
 各教科に割り当てた総時数の具体的な配列例としては、算数と社会を1時間づつ交互に進める子どももいれば、算数2−3時間の次に社会2−3時間という計画を立てるとか、あるいは、算数を10時間連続で終えてから、社会を10時間続けるという子どもも見られます。
 ところで、この二教科は、相関カリキュラムやクロス・カリキュラムなどのような関係にあるわけではないということにも注意を促しておきましょう。合科関連指導のような視点は含まれていないということです。むしろ、文系科目と理系科目などのように、互いの学習の性質の違いがある程度際立って、子どもの得意不得意もある程度分かれるような教科目、単元を組み合わせるようにすることもあります。なぜなら、その方が、子どもたちが自立的に学習を進める上で、得意だったり好きだったりする単元における学習の充実度や、その学習を楽しみにしている気持ちが、そうではない方の単元の学習に肯定的に影響することが期待できるからです。実際、子どもたちは、好きな教科や得意な教科の方の学習で充実感を味わうことで、その勢いをもう一方の学習に持ち込んで、「意外に自分は、こっちの教科も進められた」という感想を示す子どもも少なくありません。また、他方で、おいしいものを後に残すように、好きな学習を後でたっぷりやりたいので、好きではない方の教科を、チェックテストに合格するように速めに頑張って進めるという子どもも見られます。
 したがって、二教科同時進行で進める自由進度学習における両教科間には、特に必然的な結びつきがある必要はなく、むしろ、それぞれの特質に関係があるように見えない単元であるからこそ、上記のように、子どもの多様性を生かす可能性が増すと言えるでしょう。むろん、合科関連指導やテーマ別単元学習の重要性は強調されてしかるべきですが、二教科同時進行単元内自由進度学習は、それを目的としたものではなく、もし相関カリキュラム的な実践やテーマ別単元学習をより豊富にカリキュラムに組み込みたいということであれば、緒川小学校の場合がそうであったように、別枠でカリキュラムを構成し、実践することができるでしょう。
 ここで同時に指摘しておかなければならないことは、次のような当然の点です。我々は、この二教科同時進行単元内自由進度学習こそが、何より優れた実践方法であるとか、これだけで十分であるとか考えることは全くないということです。ここで詳細を論じる余裕はありませんが、実際、緒川小学校では、この週プロ(二教科同時進行単元内自由進度学習)を含む合計6つの学習プログラムを設定し、個と集団(協働)や、今でいう習得と活用・探究、系統性と総合性といった座標軸間の均衡を図ったカリキュラムが構築・実践されていたわけです。
 大谷口小学校でも、このような均衡を目指したカリキュラム・デザインや授業実践を目指すべきですが、最初から、多くの学習様態を持ち込むよりも、まずは、今まで経験したことのないドラスティックな方法論に集中して研究を重ねたいという現場の希望に沿って、まずは単元内自由進度学習を、しかも、二教科同時進行に限定せず、単教科の単元内自由進度学習からスタートして、ここまで研究を進めてきました。また、冒頭にお断りしたように、この実践は学期に1−2単元程度であり、それ以外は、一斉指導・集団学習であり(むろん、その中でも、子ども一人ひとりの学びにも焦点を合わせた研究を進めるべきであると考えてはいますが)、単元内自由進度以外の学習の意義を軽視しているわけではありません。しかし、我々が、一斉授業や集団学習、あるいは協働的学習を否定しないのと同様に、単元内自由進度学習のような自立的な学習も、どの学校でも試みられてよいのではないかと考えています。
 ところが、こうした学習は、オープン建築の学校だからこそできることなのではないかという懐疑的感想を惹起することが少なくありません。たしかに、オープン建築と、その教育理念と、そこで適用されるカリキュラム・教育方法論とが、三位一体的な関係にあることは間違いありません。現在の日本では、オープン建築の学校を設立したものの、それを支える教育理念や対応するカリキュラム・教育方法論が忘却されているために、単なる使いにくい箱物として受け止められていることも多いのが現実です。しかし、だからといって、一般的建築様式の学校で、こうした実践を蓄積して行くことが困難なわけでもないことは、同じ愛知県東浦町の石浜西小学校や、それだけでなく、大谷口小学校と区内で合同研究を進めてきているものの、現在プレハブ建築であることを余儀なくされている板橋第一小学校での最近の授業研究を見れば明らかだと言えるでしょう。むしろ、その意味では、建築よりも教育理念や方法論の方がより重要な意味を持つわけです。
 ここに紹介してきた子どもの自立的な学習に基づく教育方法論は、さらに遡れば、アメリカ合衆国における有名な進歩主義的教育実践であるウィネトカ・プランやドルトン・プランに行き着くと考えられるかもしれません(後者は、特に今で言う教科センター方式のルーツです)。そこで模索されたのは、子どもたちが受け身的な学習に終始する集団主義的な一斉指導に対する代替案でした。
 将来の民主主義社会を担う子どもたちは、重要な意思決定を何らかの権威や他人に頼るというだけに終始せず、自立的に判断し、その上で他者と協働していける資質を身につける必要があります。その点では、個人として孤立し閉じこもることも、集団の中に個人が埋没することも望ましい帰結を生じさせない可能性が高いわけです。上位機構やエリートと呼ばれる人々に任せて、我々が思考停止に陥ることが、どのような悲劇を生むことになりかねないかということは、つい最近この日本で大きな痛みを持って感じてきたことではないでしょうか。
 さらに、ポストモダンと呼ばれることがある飛躍的に流動性の高まった社会においては、いま必要とされている知識・技能が十年後二十年後も同様の価値を持ち続けるとは限らず、反対に、新たに重視される知識・技能が登場するということが常態化します。とすると、そこで子どもたちが身につけるべき資質・能力とは、教師に習得するよう指示された内容を指示された通りに習得し再現できるというだけでなく、自らの思考と判断に基づいて新たな事について学ぼうとし、新たな局面において、その時点で持っている自らのリソースを活用して、また必要に応じて他者と協働しながら、問題を解決して行くという類いのものであるでしょう。こうした理念こそ、PISA などで探究されていることでもあります。上記のアメリカにおける教育実践は、その先取り、嚆矢と考えることができるでしょう。
 そして、このように、生涯学習が求められる時代には、自発性や意欲の持つ意味がより増すことになるわけですが、外からの強制や圧力(大人からの命令や受験など)がなくても、自らすすんで学んで行こうという姿勢を保つことができるためには、そうした学習が楽しかったという経験と、時に苦労や失敗や挫折を経た上でそれなりに乗り越えてきたという実績とが不可欠になるでしょう。だからこそ、ここで紹介してきた自立型の単元内自由進度学習の実践において、我々は、一人ひとりの子どもがまずは学習が楽しいと感じることが多くなるように工夫し、子どもが自由を与えられてそこで経験する楽しさのみならず苦しさをも意味のあることとして、その子の成長に活かしていく道を探ろうとしてきたわけです。
 最後に、これらの点で、我々は、この自立学習としての単元内自由進度学習によって、個の孤立化を是としているわけではありません。学習指導要領の言う「開かれた個」をこそ念頭に置いているつもりです。しかし、この日本の教育現場では、まだまだ集団性、「みんな一緒」性により大きな比重が置かれているのではないかという認識があります。その意味でも、ここに紹介した方法論の意義は、やはり大きいと言えるのではないでしょうか。
 ともあれ、我々のこの取組はまだ始まったばかりであり、課題は山ほどあります。実際、この取組自体が試行錯誤の連続でした。しかし、何より、その取組の中で、変化した子どもの姿を共に目の当たりにしたという事実は消えません。そして、その子どもの姿こそが、我々の基づくべき客観的データであるとともに、我々の背中を押す原動力ともなってきました。今後の大谷口小学校に、さらに期待できる所以です。

学習指導要領と国旗・国歌

 togetterで、@ekesete1 さんの「【君が代】維新の会府議・奥野康俊氏のツイートと、私の一方的返事」をお気に入りにしました(以下、そのリンク)。

 togetter.com/li/281180 

 それで、せっかくなので、学習指導要領の中で「国歌」のことが、どこでどのように扱われているかを、少々くどめに確認しておこうと思います。教員志望の学生さんには、教採対策にもなるかもしれないですしね。

 ここでは現行版中学校学習指導要領(H.20.3告示)を取り上げますが、小学校及び高等学校等もほぼ同様です。各々の異同詳細を確認されたい方は、文科省のwebサイトで全てダウンロード可能なので、そちらを参照してください(以下、そのリンク)。

 新学習指導要領(本文、解説、資料等)

 とくに参照すべきは、各教育段階の「学習指導要領解説」の「特別活動編」です。

 なぜ「特別活動編」なのでしょうか。中学校学習指導要領は、各教科、道徳、総合的な学習の時間、特別活動から編成されていますが、特別活動とは、学級活動・生徒会活動・学校行事を意味し、「国歌」斉唱は、この学校行事を構成する内容の一つ「儀礼的行事」と最も関係が深いからです。

 そこで「中学校学習指導要領解説 特別活動編」のpdfファイルを文科省サイトからダウンロードして「国歌」で検索をかければ、@ekesete1 さんが、

 学習指導要領は現場の裁量を認めております。一律全校全員に強制はできません。

twitterで述べられている意味が理解できます。

 さて、同解説「第3章 各活動・学校行事の目標と内容」の「第3節 学校行事」の「2 学校行事の内容 (1) 儀式的行事」の「イ 実施上の留意点」には、

(エ)入学式や卒業式などにおいては,国旗を掲揚し,国歌を斉唱することが必要である。その取扱いについては,本解説の第4章第3節「入学式や卒業式などにおける国旗及び国歌の取扱い」を参照されたい。

とあります。

 というわけで、今度は、本丸の該当箇所から丸ごと引用してみましょう(なお、以下の引用の[ ]部分は、もとの分では囲みで示されています)。

 第3 節入学式や卒業式などにおける国旗及び国歌の取扱い
 このことについて学習指導要領第5章第3の3では,次のように示している。
[入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。]
 国際化の進展に伴い,日本人としての自覚を養い,国を愛する心を育てるとともに,生徒が将来,国際社会において尊敬され,信頼される日本人として成長していくためには,国旗及び国歌に対して一層正しい認識をもたせ,それらを尊重する態度を育てることは重要なことである。
 学校において行われる行事には,様々なものがあるが,この中で,入学式や卒業式は,学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛かつ清新な雰囲気の中で,新しい生活の展開への動機付けを行い,学校,社会,国家など集団への所属感を深める上でよい機会となるものである。このような意義を踏まえ,入学式や卒業式においては,「国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする」こととしている。
 入学式や卒業式のほかに,全校の生徒及び教職員が一堂に会して行う行事としては,始業式,終業式,運動会,開校記念日に関する儀式などがあるが,これらの行事のねらいや実施方法は学校により様々である。したがって,どのような行事に国旗の掲揚,国歌の斉唱指導を行うかについては,各学校がその実施する行事の意義を踏まえて判断するのが適当である。
 国旗及び国歌の指導については,社会科において,「国旗及び国歌の意義並びにそれらを相互に尊重することが国際的な儀礼であることを理解させ,それらを尊重する態度を育てるよう配慮すること」としている。入学式や卒業式などにおける国旗及び国歌の指導に当たっては,このような社会科における指導などとの関連を図り,国旗及び国歌に対する正しい認識をもたせ,それらを尊重する態度を育てることが大切である。

 このように示されています。言うまでもなく、ここでのポイントは、「…これらの行事のねらいや実施方法は学校により様々である。したがって,どのような行事に国旗の掲揚,国歌の斉唱指導を行うかについては,各学校がその実施する行事の意義を踏まえて判断するのが適当である。」という部分です。

 学習指導要領解説を総則編を含めて読んで行けば一目瞭然ですが、教育課程(カリキュラム)の編成権は各学校にあり、学習指導要領及びその解説は、各学校を宛先として書かれています。すなわち、制度上は、教育課程編成上裁量を認められている範囲に関しては、その判断が各学校に委ねられているわけです。したがって、「国歌を斉唱するよう指導する」ことが明記されているとしても、全ての学校に国歌の斉唱を強制することができないことが、学習指導要領という国家レベルで法的拘束力を持つ教育基準で明示されているわけです。

 これに対して、"それでも最初に「国歌を斉唱するよう指導する」と書いてあるじゃないか!"という反論がすぐに返って来ることが考えられるわけですが、指導の仕方は様々です。どんな考え方を生徒に教えるにも、あるいは、どんな方針を部下に伝えるにしても、"そんなことは叩き込めばいいのだ!"と、強制を是として、相手がそれに服従しているように見えることを最優先させる教育観もあるでしょうが、内発性や自主性を重視する今次の学習指導要領では、そうした教育観が採用されていないことも事実です。

 非常に素朴な見解を述べれば、一番危険なのは、上のいうことにはとにかく従うという思考停止の連鎖を生むことです。だから、あの状況で、敢えて起立しなかった先生方を私はむしろ尊敬の眼差しで見たでしょう。校長が教育委員会などに、現場の教員が校長などの管理職に、生徒が現場の教員の指示に、何よりもまずそれに従うことを重視することは、社会の問題を多様な角度から考察する可能性や主体的選択の契機を奪うことで、守ろうとしている社会全体の成長を阻害し、その成長にコミットする成員を育てられないことになるのではないでしょうか。だから、大事なのは、意見が折り合わないところで、粘り強く議論・考察を重ねつつ、妥協・調整を図っていくことでしょう。結果的に、国歌を同じように唱わせるにしても、その唱わせ方や、その後の対話の仕方が問われているように思います。

 時々、自分が大阪で教員だったらどうしただろうと考えます。正直、やはりよくわからないのですが、たぶん、血の気の多かった若い頃30代くらいまでだったら、あるいは、子どももいなくて独身なら、きっと起立せず反抗したでしょうね。しかし、全ての先生が次のようではないでしょうが、こういう時には、ある種のヒーロイズムがその反抗している自分の中に顔を出すことがあります。この自己陶酔も、さきほど思考停止と言ったことと、ほとんど変わらなくなる場合もあるので、振り返りが必要かもしれないとも思います。

 他方、非常に弱気になった時に、一つの可能性として考えられるのは、生徒たちにこう吐露するかもしれないということです。「自分も日本は好きだし、ある種の誇りも持っているように思うけど、反対に、日本のダメさということも痛感することの方が多く、歴史的経緯を振り返っても、国歌斉唱を強制するなどということはどうしても賛成できない。けど、これで処分されるのも困るよなという弱さが自分にある。ちょっと情けないけど、国家を斉唱するってどういうことかなんかなあ、って考えながら卒業式で唱うわ。ただ、唱わない先生を俺は非難すする気にはなれんけど。」などと格好をつけて逃げ、そして、一部の生徒にその弱腰を軽蔑されるというところでしょうか。

 さて、直接関係ないですが、先日、自分の所属する学会のあるシンポで、フランスの教育に関して、たいへん興味深い報告を聞く機会がありました(渡邉雅子(名古屋大学)「フランスの公共性と教育実践−伝統文化の継承と市民の育成」日本カリキュラム学会第23回大会(2011年度7月16-17日@北大)課題研究 II「カリキュラムにおける公共性のポリティクス(2):学校教育におけるナショナルなものの位相を問う」)。以下は、配布資料から一部を抜粋したものです。

…公教育で児童・生徒は様々な場面(歴史・国語・公民)で「抵抗権」を教えられる。フランスの学校は「抵抗することを教える」と言われるのは、この「抵抗権(抑圧的な支配には抵抗する権利があり、さらに積極的によりよい社会を作るためには抵抗しなければならないこと)」を教えるからである。高校生にデモの権利を法的に認めているのはおそらくフランスだけであろうが、2001年の極右の大統領候補者への抗議や2004年の若年者雇用法の改正の際にはリセの生徒がデモの口火を切って抵抗運動を全国規模に展開し、様々な組合と連帯して政治力を発揮した。討論では過去の歴史を使って文化共同体を作る討論法が使われ、それが様々な社会グループを結び付ける源になっている。公に抵抗する手法とその歴史的・法的根拠が公教育で教えられるのである。
 体制の中にいる人間が体制を変えるのは難しいが、リセの生徒は普通バカロレアを受験するエリート候補生ながら、彼らはまだ体制(国家)に取り込まれていない。それゆえに体制を外から批判し、変える原動力になり得る。デモの参加も、あくまで個人の選択で行われていて、デモに参加しない権利も勿論ある。若年者雇用法反対のデモが長引き、バカロレアの時期にずれこんだ時には、受験勉強のためにデモから脱落する学生が続出し、バカロレア試験のために学校閉鎖を解けとデモ中止のデモを行う高校生も現れたが、「個人の小さな都合のためにもっと大きなものを失うな」とデモは続けられ、結局この法律は議会を通らなかった。
 このような価値観の共有と価値の共有に基づく共同体は、ナショナル・カリキュラムを通して養われている。国語ではフランス革命をたたえる詩の暗唱を行い、革命期の戯曲を演じ、歴史では革命の功罪両面を検討し、公民教育では現制度の法的根拠を説く、というように子どもたちはフランス革命を何度も追体験しながら共和国の理念を初等教育では情緒的に、中等・高等教育では理念的に学んでいる。ナショナル・カリキュラムが、国を愛しその伝統文化と国土を守ることを教えながら、同時に自律的な市民となり、国に抵抗することを教えるのは、フランス革命という歴史的な経験を経たこの国のパラドックスであると同時に強みと言える。全体を優先させる、徹底的な個人主義者。服従する反抗者。※

 このような市民が学校教育によって育てられているのか、歴史の中で醸成されたこのような市民性を学校教育が追認しているのかは定かでないにしても、それでも、フランスにおける、より錬磨された愛国心の内実やそれを鍛え上げるための基盤整備の仕方と、ここで問題視している日本での国歌斉唱をめぐる一部学校教育の現況とを対照すると、再考を促されるべきはやはり後者であるように見えます。そのためにも、とりあえず黙って上に従っていれば問題が生じないという環境ではなく、議論を深めるための場を確保することが、あらゆるレベルで重要であるように思います。

教育さんのアクティヴィストとしてのお仕事

 晒すかどうかチビ迷ったが、試験問題作成や研究会レジュメ作成の合間に急いで書いたので、どっかなあ?ダイジョウビかなあ?と心配していたところ、送り先からよかったとの反応を得たので、ちょっと気を良くして公開f^^;;)。まあ、このブログは訪問者も少ないので、晒そうと晒すまいとそれほど大きな違いはないかもしれないが...

 この文章は、小生が、現場の先生方の授業実践研究(現職研修)の手伝いをしているある公立中学校の研究主任から、翌年度以降の研修のために、外部講師として、この中学校の先生方全員に向けたメッセージとして何か配付できるものを書いて送って欲しいと頼まれたので、この2年間の現職研修を振り返った上で、今後の課題を整理したもの。

 今、公立の中学校で、こういう外部講師を招いて現職研修としての研究授業とその検討会を定期的に(といっても学期に一度程度だが)開いているところは、どの程度あるんじゃろ。しかも、この中学校は、生徒指導上、かなり大変な状況を抱えてきたところ。そういう学校では、授業研究どころではない、という空気すら漂っている場合もある。

 もちろん、教育委員会の指導主事による学校訪問は、どこの自治体でも必ず行われているはずなので、その際に研究授業とその後の検討会があるので、特別に外部講師を招かなくとも研修の機会はある。その一般的なスタイルは、指導主事訪問日に向けて、何らかの順繰りその他の事情に配慮して、授業担当者が決められ、その教員が指導案を事前に準備して、訪問日前に指導主事に送付し、その指導案に基づいて訪問日の研究授業を行い、放課後、授業を参観した教員や管理職、指導主事とともに授業検討会に出席し、まずは、授業者による研究授業に関する説明、参観した教員同士との質疑応答の後、最後に、指導主事から「御高評・御指導」というかたちで、教材理解や発問・板書を含む授業展開に関する有り難いまとめのお言葉(批評)を頂戴して終了!みたいなパターンが多い。

 自分が3年前にこの役目を頼まれたとき、このスタイルだけはできるだけ避けたいと思った。今までこの種の研修の場を他の学校で見てきて、形式を整える方に注意が払われ過ぎで、後につながるような実質的意義があるとは到底思えない取組に見えたから。幸い、この学校の若き研究主任は、この先生が小学校教員時代にその小学校で関わりがあったので(それで俺が呼ばれたわけだが)、研究授業と後の検討会の進め方に関して、自分の意図と擦り合わせがしやすかった。そこで決めた方法は、当初、ごくごくシンプルで、次のようなものだった。

 研究授業は、生徒がたんに受動的に話を聞いて、ノートをとって、教師の指名に従って発問に回答するというだけで終わるような形式の一斉授業方式だけで最初から最後まで終わることのないように、授業の中に、たとえ部分的でもいいので、個別の、あるいは小グループによる活動を取り入れた研究授業を組んでもらうこと。

 検討会は、授業担当者の授業を直接批評するというよりもむしろ、その授業で生徒たちがどのような様子で、どのような声を発し、どのような感情を持ち、どのような思考を巡らせていたと考えられるか、という議論を通して、つまり、生徒の授業中の姿と声(無言を含む)に関する振り返りを通して、その日の授業の意味を検討するというスタイルの会にすること。その点で、参観者と授業者との質疑応答と、講師によるまとまった指導・講評で終わるという形式ではなく、ワークショップ的に検討会を展開すること。

 こうした方針であった。こうした目論見を実現するために、研究主任と相談して、さらに次のような方法を採用した。すなわち、予めとくに研究授業参観中に細かく観察する生徒をクラスから3人程度(一般には成績や積極性などを規準に、互いに異なるタイプの生徒を)授業担当者に選んでもらい、参観するグループの教員を予め3グループに分けて、各教員は、授業全体や他の生徒にも目を配りながら、その3人のうち自分に割り当てられた生徒一人をとくに詳細に観察し、検討会では、その生徒の授業中のあり方やその生徒から見たその日の授業について、グループ毎に(KJ法的なワークショップの技法も駆使しながら)意見交換し、授業担当者は各グループを回って、その議論に耳を傾け、各グループ代表による簡単な発表の後、全体討論に移り、授業担当者も管理職も外部講師も入り交じって議論するという方法である。もちろん、講師として呼ばれているので、最終的な締めのコメントくらいはするが、それはごく短く簡略で、むしろ、全体討論で出てきたポイントを整理したり、敷衍したりする方向でのコメントをするというものだった。

 研究授業の検討会というと、まあ、授業者がさらし者になって、いろいろ指摘を受けるというのが定番といえるくらいなのだが、我々の採用した方法がいいかも、と思うのは、先生のことより、まず生徒のことを、ああでもないこうでもない、と話し合って、授業者が叩かれる時間があまりないこと(^_~)。いや、叩かれるだけじゃなく、賞賛の嵐ってこともあるだろうけど、まあ、経験者はみなわかるように、授業はだいたい失敗の連続だかんね〜。それはともかく、授業者による研究授業の課題が指摘される時でも生徒の姿や声を根拠に、その理解をすりあわせて議論が重ねられるので、賞賛されても、批判されても、得心が行く議論になることが多いように感じる。

 むろん、「子どもの考察や議論を待っているよりも、こっちが教えた方が早くて効率的だ!」という先生がいるのと同じで、参加されている先生方の議論を中心に展開する検討会では、正直、講師役の自分が、もうちょっとここまで言って欲しいという視点に到達しなくて、もどかしい印象で終わるということも全くないわけではない。しかし、これも教員対子どもと類比的で、手っ取り早いからとある種の視点をポンと与えても、聞き手の先生がたに浸透することはなく、ご高説をたれた本人のカタルシスで終わるだけということもしばしば。これでは、たとえその人がエラく見えるとしても、現場は何も変わらず、よって、授業でかなりしんどい状況に置かれている子どもにとっても、何の改善にもならないということになりがち。だから、まとめの話がスゴく短くなっても、この方式を捨てていない。その分、短い時間でコメントをまとめる集中力は、ときどき鍛えられたかもと思う瞬間も出てくる^_~(←なんや、自慢かい!?)。

 それはともかく、だいたい、自分も現場の経験があるから十分想像できるが、外部講師なんて、現場の事情もわからずに、なんかエラソーに理屈をこねに来るやっかいものに決まっている。この学校の研究主任のように俺を慕ってくれてなどいないどころか、当たり前だが、実感的にはどこの馬の骨ともわからんくせに、丁重に扱わないとマズそーな、できればテキトーにスルーしたい相手である。

 てわけで、最初は、先方もそうだったと思うが、自分も訪問するのは少々気が重かった。当初の救いは校長先生と話が合ったことだった。これは非常に大きかった。外部講師がトップと理念が共有できるかどうかは、その後の研修に決定的な影響を及ぼす。が、俺の勘違いかもしれないが、徐々に、他の管理職の先生やそれ以外の先生とも、共通項が増えていって、相互理解が深まったように思う。たとえ勘違いだとしても、最近は、この中学校への訪問が楽しみになってさえいる。こういう感触は、たとえ幻想でも、間違いなく互いの交流を良好なものにしている(もちろん、まだまだ部分的だが)。

 とはいえ、大変な状況を抱える中学校の先生は、小学校の先生以上に忙しい。生徒指導・部活・受験という、小学校とは比較にならない「三重苦」が、物理的時間を奪い、授業研究への動機付けを掘り崩すことになりやすい。同時に、そういう状況の学校だからこそ、生徒が学校で費やす時間の大半を占める授業を中心とした改善に向けた継続的な取組が、本当に大きな意味を持つことになると思う。てわけで、忙しくされている現場の先生がたのご要望にお応えして、メッセージを書いた次第。

 しかし、俺も忙しい^^;;。だから、今日の午後2時締切と言われていたところ、午後は他の要件があったので、結局午前中の1時間半ほどであまり推敲もできず書きっぱなしで送信した(ここにアップしたのは、少々誤字脱字修正した。これでもね…-_-;;)。という言い訳はしてみたものの、俺は次の仕事に向かわねばならぬのに、なぜか、ブログに上げるぞと決めた勢いで、今またダチョー文を重ねている(首があんなにビューンって伸びたらどうしよ?←そやから、ええって、もう)。もしかして、下の文章を晒すためのイントロなのに、せっかく訪問頂いているかもしれない読み手の方が、下の文章に到達するのを阻害してきただけではないかと、鈍い頭でいま感づいた。さすがダチョーだ、と書くと、あの長い足で蹴飛ばされるかもな(←懲りてない)。

 だが、もう遅い。けど、もう、やめとこ。

 いや、最後に一つだけ。ある意味、俺は、ただでも忙しい現場の先生の労働強化を悪化させているのではないかという批判があるとすれば、かなり当たっているだろうね。それだけに、この点に関してどう考えるべきかという点を補足すべきかもしれんが、やめとこ、と言った以上、やっぱやめとく。

 では、ここまで御到達頂いた方は、よろしければ奥の院へ↓へどうぞ。

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2012年1月30日

T中学校における過去2年間の現職研修と今後の課題

澤田稔(J大学)

 寒い日が続いておりますが、先生方みなさん、お元気にお過ごしでしょうか。今日は、この2年間、外部講師として現職研修に関わった立場から、これまでの成果を振り返り、今後の課題を示してほしいという依頼を受けましたので、先生方は、いつものようにお忙しくされていることと存じますが、以下の文章に、しばらくおつきあい頂ければ幸いです。

 何よりもまず、生徒指導・部活動・高校受験対策という、三つの大きな指導上の負荷を避けられない中学校で、その他の多くのお仕事を抱えられているにもかかわらず、この2年間、授業研究という活動に継続的に取り組んで来て頂いていることに、まず感謝申し上げたいと思います。

 こうした取組は、何らかの機会が無理矢理設けられないと、日々の忙しさの中でつい後回しになりがちになるものであるだけに、定期的・継続的に機会が設けられ、いやでもそれに向けた準備が必要になるという状況の整備が大切な意味を持つように思います。しかしながら、私の勝手な見方かもしれませんが、私がT中に伺うのが段々楽しみになってきたのと同様に、先生方の中にも、ただ嫌々ながらとか面倒くさいけどというだけではない、「まあ、たまには、こういうのもあっていいかも。」といった、幾分かでも肯定的な感想をお持ち頂けるようになった方も少なからずおられるのではないかというポジティブな感触を得ております。

 こうしたポジティブな感触は、私の希望的推測に過ぎないという可能性も残るかもしれませんが、それなりの根拠もあると考えています。その根拠にあたるポイントこそ、この2年間の現職研修の最大の成果であると言えるでしょう。

 それは、第1に、生徒たちの姿や声を、その固有名詞レベルで、できるだけ共感的に捉え、そうした生徒理解に基づいて、実践・観察した授業を振り返るという授業研究のあり方に、ほぼ全ての先生が慣れてきて下さり、こうした方法の意義に関するご理解を深めていただけるようになったと感じられることです。集団学習においては、授業者の発問や板書なども重要ですが、これらに関しても、あくまで、目の前にいる具体的な生徒一人ひとりの活動や思考、外面や内面に関する十分な考察や議論を通じて検討するというスタイルが共有できるようになりつつあることは、最も大きな成果の一つと考えられます。

 第2に、それと同様に、一斉画一授業から少しでも脱却して、学習指導要領にも明記されているような個に応じた、個性を活かす授業の工夫や、個別の、あるいは小グループによる活動を通した生徒の自主性・主体性を引き出す試みが、ほぼ全ての研究授業で見られるようになったことです。普段の一斉授業では、なかなか意欲的な姿が見られないアイツに少しでも積極的に授業に参加させたいと考えて、固有名詞レベルのピンポイントで考案した工夫が、意外に多くの生徒たちを活性化させるということがよく生じますが、先生方の授業でも、さらに今後このような場面が増えて来るのではないかと期待しております。

 第3に、様々な専門的バックグラウンドをお持ちの先生方から構成される検討部会が作られて、教科や学年の枠を越えて、一人ひとりの生徒のことや、お互いの授業について、議論を深められてきたことです。互いの立場や専門を尊重することと、口出しをしないこととは全く意味が違います。我々は、自分にとって大事な相手であれば、相手を理解しようとし、異論があれば必ず質問し、自分の考えを伝え、お互いの考えをすりあわせようとします。また、専門外の人間が授業を見て分かりにくい授業は、実は、専門的にも低いレベルの授業である場合が大半です。その意味で、教科・学級学年・分掌に閉じこもりがちな中学校では、目の前の生徒たちのために、専門外の立場からも、どんどん意見を交換し合う空気がさらに醸成されていくことが期待されます。
 このように、生徒一人ひとりの姿や声をできるだけ共感的に拾い上げて、その理解を深め、そうした生徒理解に基づいて、画一的ではない、生徒の自主性や主体性を活かした授業を工夫し、その上で、専門・専門外を問わず、その授業について活発に議論し合うという機会を、今後も継続的に持つことができればと思います。

 たしかに、生徒指導や部活動も重要ですが、生徒が最も多くの時間を費やす授業に関する工夫がなければ、学校の根幹が揺らぐことになるでしょうし、教師個人としても、多くの生徒や同僚の信頼を勝ち取ることは難しいでしょう。そして、生徒や同僚の信頼を勝ち取ることができないことほど、教師にとって辛いことはないはずです。

 一方で、生徒指導において、生徒一人ひとりと逃げずに向かい合ってこられた、あるいは、部活動に熱心に取り組んで、生徒の授業とは別の側面に関する理解を深めてこられた先生は、若いながらもさすがに大きく成長されるのだなと、また、一見こうした授業研究に熱心に見えないベテランの先生も、ここぞという時には、生徒の主体性を活かした授業をうまく準備し展開されるのだなという点も強く感じてきたところです。個々の教師が、生徒たちと正面から向かい合って、試行錯誤を重ねつつ成長を遂げることは、授業力を高める上でも大きな意味を持つものと言えます。

 ともあれ、結局、学校もチームですので、それぞれの個性や立場を尊重しつつも、その仕事の核である授業を中心にチーム力を上げていくことが求められることは、繰り替えし強調するに値するポイントでしょう。詳細は、来年度伺うことができたら、またお話出来ればと思いますが、来年度の授業研究では、次の2点をさらに発展させていただけるようにお願いできればと考えております。

 第1に、研究授業を単発のイベントに終わらせないために、今年度よりも、「単元構成」という視点をさらに強化すること。生徒の学びを充実化し、学習に入り込めていない子どもを少しでも引き込んで行くという目標を、研究授業本時での取組だけでなく、その単元全体を通して実現して行くための、少し長いスパンでの構想と実践を試みていただくこと。その意味では、その単元が開始される前に、単元計画や指導案を作成頂いて、研究授業に備えること。

 第2に、個別化・個性化教育の方法論や協働学習的方法論を、さらに豊かに取り入れて頂いて、思い切った授業方法に挑戦していただくこと。研究授業は成功させるためではなく、今後に活かすための機会であり、むしろスベってもいいから、自らの殻を少しでも破り、新しいことに挑戦するチャンスと位置づけていただき、従前の無難な一斉画一授業の枠から脱却していただくこと。そのために、生徒を引きつける学習環境や独自教材作成にも取り組んでいただきたいこと(ちなみに、自分が新たなことに挑戦できない教員は、おそらく、生徒に対して新たなことに挑戦させたり、新たなことに向けて頑張らせようとしようとしたりすることができないでしょう)。

 今後、これらのことをお願いしていきたいと思います。現場の本当の忙しさも知らずに、まあよく簡単にこんなことが言えたものだ、というご感想をお持ちになるのも無理はありません。しかし、こうした研鑽は、必ず一教師として指導し続けて行く上でも、先輩や管理職として他の教員をリード・指導して行く上でも、必ず活きてくると信じています。私へのご批判も歓迎します。一外部講師の身で僭越ではありますが、是非、引き続き、先生方と一緒にT中のチーム力向上策に僅かでも貢献できればと思います。今後とも、どうかよろしくお願いいたします。

セントラル・パーク・イースト中等学校:困難なのは、やって見せることだ

デボラ・マイヤー
ポール・シュワルツ
(訳 澤田稔) 


編者序文
 中等教育の多くの教員は、官僚による過剰規制がもたらした萎縮効果に直面しながら、より進歩主義的・民主主義的で、学習者中心の学校をつくる可能性を探ろうとしてきた。いまでも、こうした試みとして、公立学校体制の内部に含まれているものとして、独立した代替学校(オルターナティブ・スクール)と、一つの比較的大きな総合制中高校の内部で様々な資源を共有する学校内学校(スクールズ・ウィズイン・スクール)との両方がある。いずれの場合にも、ほとんど常に、これらは、従来型の学校よりも小規模で、したがって、大規模校にありがちな非人称的匿名性を克服し、より民主主義的な学びのコミュニティを生み出している。この章では、デボラ・マイヤー氏とポール・シュワルツ氏が、おそらく、合衆国で最もよく知られたオルターナティブ・スクールである、ニューヨーク市のセントラル・パーク・イースト中等学校のことを描いている。本章を読む上で注目すべき重要な点は、そこで概要が示される「精神の習慣(ハビッツ オヴ マインド)・作業(ワーク)・心(ハート)」にくわえて、同時に、このセントラル・パーク・イーストは、いろいろな教科の厳格な州規模テストが実施される体制に、生徒たちを備えさせていたという点である。
※訳注:この編者序文は、Democratic Schoolsの編著者M. W. AppleとJ. A. Beaneによるものである。




 オルターナティブ・ハイスクールの一つである本校、セントラル・パーク・イースト中等学校(Central Park East Secondary School: CPESS)は、この20年にわたってセントラル・パーク東地区の小学校群でつくり出され、好結果を生んでいる学習環境を発展させたものである。この中等学校は、地域学校委員会第4部会、ニューヨーク市教育委員会オルターナティブ・ハイスクール局、および、ハイスクールの全国的な組織網であるエッセンシャル・スクール連合(the Coalition of Essential Schools)の共同プロジェクトによる。
 本校は、1985年秋に、第7学年の生徒80名とともにスタートした。この学校には、通常、第7学年から第12学年までの450名の生徒が在籍している。本校が、これ以上大きくなることはないだろうが、ニューヨーク市には、新たな連合加盟ハイスクール11校が創設されることになった。本校に通う生徒たちは、大半が近隣地区(イースト・ハーレム)の住民である。生徒の85%は、アフリカ系アメリカ人、あるいはラテン系アメリカ人で、まだ20%強の生徒が、特別な教育のサービスを受ける要件を満たしている。本校の生徒を、転校した生徒も含めて注意深く追跡調査した結果、在学していた生徒の97.3%がハイスクールを卒業し、そのうち90%の生徒が大学・短大(カレッジ)に進学したことがわかった。
本校の基本的な目標は、自分の精神(マインド)をうまく働かせる方法を生徒に教えることであり、生産的で社会的に有用な、また個人的にも満足のいく充実した人生を送れるようにすることである。この学校の学業面でのプログラムでは知的到達度が重視されており、特に重要な一定数の教科を習得することに力点がおかれている。このようなプログラムには、それと一体となっているある注目すべきアプローチがある。そこでは、協働と個人的責任との両方が求められるような複雑な問題点について、いかに学習し、いかに推論し、いかに調査するかに力点がおかれている。
 ハイスクール修了時の卒業証書は、授業に出席した時間数やカーネギー単位によってではなく、各生徒が〔後に述べるような〕14のポートフォリオを卒業認定委員会に提出して一定の成果を収めたことが証明されることによって授与される。本校が価値をおくものには、高い期待、信頼、ある種の人格的品位、また、多様性の尊重というものが含まれている。本校は、あらゆる生徒に開かれており、各生徒には多くを期待する。
 本校は、テッド・サイザー(Ted Sizer)が会長を務める全米的なハイスクールの組織、エッセンシャル・スクール連合の方針によって導かれている。当連合の方針には、次のような項目が含まれている。 
1. より少なく学ぶことはより多く学ぶこと(Less is more)。多くのことについて表面的に知ることよりも、〔数は少なくとも〕いくつかのことについてよく知っていることのほうが重要である。
 2.個別化(Personalization)。教育課程(コース・オブ・スタディ)が統一化・普遍化されていても、授業や学習は個別化されている。〔一度の授業で〕80人以上の生徒を教えたり、15人以上の個別指導生を担当したりする責任を負わされる教員がいてはならない。
 3.目標設定(Goal setting)。すべての生徒に高い要求水準が設定される。生徒は、学校における作業で学んだことが完全に習得されていることをはっきりと示さなければならない。
 4.作業主体(worker)としての生徒。本校の教員は生徒の「コーチ」役を務めて、生徒が自ら答えを見出すのを促し、実質的に、生徒自らが自分の教師となるよう奨励する。こうして生徒は、回答や解決法を発見し、単に教科書(あるいは教員)の言うことを反復するのではなく、むしろ、実際にすることにより学ぶ(ラーン・バイ・ドゥーイング)。


精神の習慣(ハビッツ オヴ マインド)、作業(ワーク)、心(ハート)
 1992年5月2日、金曜日のことだった。セントラル・パーク・イースト校の生徒たちは、その週はずっと、ロドニー・キング事件の評決やロスアンゼルス暴動の余波が消えない中で、自分が強く感じたことついて話し合ったり、それを筋道立ててまとめたりして考え続けていた。折しもその日、ミシガンのある小さな街から、メンバー全員が白人のコーラス隊がやって来て、私たちのために歌を披露してくれることになっていた。ロスアンゼルスの街に火の手が上がり、おそらくは街の人々に死の恐怖が迫っていたときに、このコーラス隊は、大半がアフリカ系アメリカ人、またはラテン系アメリカ人の子どもたちからなる聴衆、しかも、その多くが抗議に立ち上がりたいという溢れんばかりの気持ちを、なお抑えきれずにいる聴衆と向かい合っていたのだった。そこにはピンと張りつめた空気が流れていた。と、そのとき、最高学年の生徒の一人が壇上に歩み出て、少し話をさせてもらえないか、そうすれば、場の雰囲気もよくなるように思う、と言い出したのである。
 「僕は、ここに上がって、このところ僕らが経験してきたことを、ここにいるみんなに話すことにしました。上の学年の生徒から聞いて知ったんですが、たくさんの生徒が、最近ロスアンゼルスで起こっていることについて話をしていて、この事件に心を痛めているらしいんです。」
 「僕はただ、ぼくらの敵なんて、ここには一人もいやしないって、言いたかっただけなんです。……それに、僕らは、まとまらなきゃならないんだって。」
 「……それと、たくさんの人たちが来てくれているって……。ミシガンから、でしたよね?」これを聞いた生徒たちが笑う。「ミシガンからで、カリフォルニアからじゃなかったですよね?」生徒たちから、さらに大きな笑いが起こる。
 「この人たちが、ここで今しようとしていること、ここに来てくれた人たちが、ぼくらのためにしようとしてくれているのは、それだけなんです。ここにこの人たちがいるのは、僕らの気分をよくするためじゃない。ここに、この人たちがいるのは、歌を歌いたいからなんです。自分たちが積み上げてきたものを、僕らに見せたいからなんです。」
 「この人たちは、敵なんじゃない。この場所には、僕らの敵なんて、一人もいない。もし、僕らが手を結んで、まとまることができれば、僕らが他の人たちのようにバラバラになったりしないということを、この人たちに見せることができるんです。」喝采と歓声が、その場を埋める。
 「やらなきゃならないことは、やらなきゃならない。けど、ここに来てくれている人たちに怒りをぶつけても、僕たちには何にもならないじゃないですか。」

 税金で賄われている学校の主要な公的責任と正当性が、同胞としての市民を育成することにあるとすれば、学校は−その必然として−ここで言う民主主義の核となるような、精神の習慣、作業、心を生徒が学ぶ場所でなければならない。
 人は、これまでに一度も−感情移入的にでさえ−経験したことのないことを、うまくできるようになることなどない以上、当然、学校は、そのような民主主義的な習慣となりうるものを経験できるにふさわしい場所となるべきなのである。この点は、次のことと同様に単純なことであるが、同時に同じくらい複雑なことでもある。ゲームが行なわれているところを見たことがなければ、そのゲームができるようにはならない。また、誰かを音楽家にしようとすれば、必ずその人を音楽家の仲間に、しかも、特に秀でた音楽家の仲間に入れようとするのである。
 本校での私たちの課題は、こうした理念をもう一度真剣にとらえ直し、子どもを育てるという仕事を、このような基本的方針に引き戻すことだった。子どもたちを、同程度に無知な成員からなる集団におくのではなく、また初心者の前で自分の技法(クラフト)をみせることができる特に優れた者(エキスパート)が一人もおらず、子どもたちはそれについておしゃべりをするだけで終わるというような集団に子どもをおくのではなく、むしろ、私たちは、それと正反対の状況をつくり出そうとしたのである。
 私たち筆者が初めて仕事に就いたのは幼稚園だったのだが、その幼稚園の理念を、ハイスクールの教員になっても−そして、その後もずっと−持ち続けることができればと私たちは考えていた。私たちが望んでいたのは、ちょうど優れた幼稚園の教室がそうであるように、ごく自然な設計がなされていながら、それでいて興味をかき立てられるような校舎だった。あるいは、子どもも教員も、ともに思わず扱いたくなるような話題や題材を中心にして、最初からあまりガミガミ言われることなく、長期にわたってそれぞれのやり方で仕事(ワーク)ができる場所だった。また、私たちは、何かあることについて最も不得手な者が、それを最も得意とする者をじっと観察して、自分のペースで試みることができるような機会があればよいと考えていた。互いの作業を通して、また−教員仲間(カリーグ)や生徒仲間により−実際に行なわれていることを詳しく観察することを通して、互いに知り合えるような環境を設定したかったのである。真に同等な仲間同士の場を。
 だからこそ、私たちは、自分たちの学校が、小規模集団で、いろいろな年齢の者がいる、親密で、興味深い集団でなければならないことを心得ていた。家庭と学校は、子どもを育てるという、それぞれに割り当てられた務めに責任を負うべき2つの制度として、手を組む必要があった。家庭と学校との間で協力して、成長という理念が、すばらしく魅力的なものと見えるようにするための、また、どんな子どものことをも含み込むほどに、特に多様な意味を持つようにするための方法を見つけ出されなければならなかったのである。さらに、絶えず拡大している議論の場(プラットフォーム)において、公私両面で効果的な役割を果たす器を持った力強い市民(パワフル シチズン)になるという理念が、実現や創造が不可能なものではなく、魅力あふれたものとして受け取られるようにする必要があった。
 こうしたことこそ、優れた学校教育が成しうることなのである。とはいえ、それには、このような大げさで冗漫なレトリックの虚飾を排して、こまごまとしたことであっても重視すべきことをつぶさに見出していくことが必要だった。筆者たち二人は、それとちょうど同じようなことを、幼稚園の教室づくりに取りかかったときに行なっていた。つまり、私たちは、常に特定の子どものことを思い浮かべ、また、特定の目的を念頭に置きながら、教室の隅に置く積み木から、砂遊び用のテーブルにいたるまで配置を工夫し、さらに特定の本を選定し、鉛筆や絵の具をそろえ、美術作品を置くという仕事に日々勤しんだのである。
 だから、私たちが、セントラル・パーク・イーストで学校づくりを進めるにあたっては、時間をかけ、一つひとつ積み上げていくようにした。そして、その過程で、私たち自身も変化していった。さらに、その際、共通の目的をもつとともに、あふれるほど多くの物語に彩られてもいる〔学校という〕場所のこまごましたことすべてに注意を払った。私たちは、人々が−つまり、生徒同士が、あるいは生徒と教員が、また教員同士や教員と保護者が−自分の考えていることを、ともに声高に唱え、協力して意思決定が行なえるような仕組みをつくり出したのである。私たちは、「精神をうまく活用すること」−それは、エッセンシャル・スクール連合全体として掲げている課題でもあった−とは、何を意味するのかを明確に定義する必要があった。ある人物をまさに民主主義的な市民にする精神の習慣とは何なのか、ということも明確化する必要があった。私たちは「善き市民」である友人たちを思い浮かべ、その友人たちが、いったいどんな特性を共通にもっているのかを考えてみた。それが一定量の事実や知識を記憶のなかから呼びおこす能力を指しているのではないことは確かだった。もっとも、それは、その友人たちが、日常生活上のこまごまとした事実や知識に興味がなかったということではない。私たちにとって、理想的な市民というものを明確に定義づける特性には、二つあるように思われた。それは共感(エンパシー)と懐疑的態度(スケプチシズム)であった。すなわち、一つの状況を他者の視点から見ることができる能力のことであり、また、私たちが出くわすさまざまな事例について、本当にそれでいいのだろうかと考えようとする態度のことである。
 思慮に富む人物、つまり、私たちが誇りをもって本校の卒業生だと言いたくなる人物の操作的定義を示すならば、それは、以下にあげるような5つの問いに取り組む習慣が身についていることをはっきりと示すことのできる人物であり、しかも、そのことを、多彩な方法で、きわめて多くの学問的分野(ディシプリン)にまたがって示すことができる人物である。

 ・自分が知っていることは、どうすればわかるのか。(証拠・証明(エビデンス))
 ・これは、誰の視点からの提示されているものなのか。(観点(パースペクティブ))
 ・この出来事や作業(ワーク)は、他の活動とどんなつながりをもっているのか(連関)
・もし事情が違っていればどうなるか。(仮定)
 ・このことが重要なのはなぜか。(妥当性)

 まったく新しい状況に直面した際、こうした五つの問いに対する答えを探し出そうとする習慣をもつ者こそが、自己の精神をうまく活用している人物なのだと私たちは考えている。そして、この考え方を中心にして、本校のカリキュラムや評価方法をまとめた。むろん、そのニュアンスや語彙や道具立ては、物理学と文学や幾何学などとの間で異なってはくる。しかしながら、もしこうした問いが適切な問いであるなら、それらは、遊び場でも、作業〔=勉強〕の場でも適合するはずである。そして当然、真空状態のなかでは、そのような習慣を身につけることも、活用することも決してできない。そうした習慣は、適切な教科学習の中に深く埋め込まれているのである。つまり、この習慣が身につけられるかどうかは、読むことや書くこと、論理的思考、コンピューターの操作、調査研究、また、これらに質的内容を与える科学的探究といった技能を、学習者が活用できるどうかにかかっている。しかし、私たちは、上に述べたような習慣には、教科や年齢を超えた普遍性が備わっていると常に考えている。上にあげた五つの問いを自分に対して投げかける人物こそが、考える力を持つ人物なのである。
 実際、私たちがとった最大の措置は、次のような決定であった。すなわち、生徒は、自分がそのように考える力をもっていることを、指定された14の作業領域で繰り返し証明することによって、そして、ほぼそれだけに基づいて、セントラル・パーク・イースト校の卒業が認められるという決定である。私たちはこれを「ポートフォリオ卒業」と呼んだ。 もっとも、本校のポートフォリオは、単に何か書かれたものを寄せ集めたものではなく、それによって、私たちが詳細に示した卒業基準を、その生徒が満たしていることが十分明らかになっていると生徒自身が考えるものであれば、どのようなものをまとめてもよいというものなのである(次頁参照)。
 私たちは、博士論文の審査委員会に少し似た卒業審査会を発案した。卒業審査会は〔各生徒につき一つずつ構成され〕、少なくとも二人の教員、卒業生徒が選んだ大人一人が含まれる。委員たちの仕事は、生徒が自分の能力を示す証拠として提出するものを読み、吟味し、観察し、その話に耳を傾け、さらに、改訂や認定のために適切な勧告を行なうことである。当初は、このような過程を想像することさえ難しかった。しかし、今日では、この後の 頁に記したような物語に刺激されて、私たちは、時間を要するこの過程に力を注ごうという決意を新たにしている。

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14のポートフォリオの領域:生徒と保護者のための概説
 上級学年部(第11及び12学年)の生徒の主要な責務は、後に示すような14のポートフォリオ要件を満たすことである。
 これらのポートフォリオは、セントラル・パーク・イースト校における一定の精神の習慣や作業だけでなく、個々の領域において積み重ねてきた知識や技能をも反映するものとする。生徒は、ポートフォリオ14領域すべてについて、その作品を自分の卒業審査会に提出し、検討および認定を求める。生徒は、自らの作品(ワーク)を提出し、それについて論じ、それを擁護するために、自分で選んだ7つの「専攻」に十分な検討を加えるための審査会に出席することになっている。したがって、生徒は、次の二つの段階を心に留めておかなければならない。すなわち、(1)指導教員(アドバイザー)やその他の人の協力を得て、提出するポートフォリオの内容を準備すること、(2)そのポートフォリオの内容について発表を行い、口頭試問を受けること。場合によっては、ポートフォリオが、最終的に認定されるように、それをさらに発展、修正、再提出する必要が生じることもあろう。また、生徒は、より高い評価を得るために、再度、作品の提出・発表をすることを選んでもよい。
 次のことを留意しておくことが重要である。つまり、ポートフォリオとの関連で行われる作業の大半は、生徒が、上級学年部の通常課程の間に受けた授業、セミナー、校外研修(インターンシップ)、自主研究(インデペンダント・スタディ)の成果であってよく、また、そうであるべきだということである。くわえて、提出するポートフォリオの一部分は、第一学年区分(第7及び8学年)及び第二学年区分(第9及び10学年)に始められた学習を発展させたものであってもよい。あるいは、特殊なものの場合(たとえば、英語以外の言語によるポートフォリオ等)は、上級学年部に進学する前に完成した作業・作品でもよい。
 ポートフォリオは、14領域の作品を含み、それが七つの「専攻(メジャー)」と七つの「副専攻(マイナー)」に分かれる。これらの要件を満たす何か一つの方法というものはなく、また、ただ一つの発表の仕方というものもない。人間はみな異なるのだから、個々のポートフォリオは、そうした違いを反映することになる。ポートフォリオ(・・・・・・・)という用語は、生徒が、自分の知識、理解力、技能を示す際のあらゆる方法を包含するものである。本校は、その生徒にとって可能ならばいつでも、〔複数の教科にまたがる〕学際的研究を行うことを奨励する。よって、ある領域の要件を満たすために完成した作品を、同時に、別の領域の要件を満たすものとすることもできる。
 ポートフォリオの最終的な検討は、個々人の業績に基づくものではあるが、一方で、ほぼ全ての領域におけるポートフォリオの要件は、グループ発表等、他の生徒との協働によってなされた作業に基づくものであってもよい。そのような協働作業・作品はとくに奨励される。というのも、それによって、生徒が、より一層複雑で興味深い企画に携わることができるからである。
 理解が深くその質が高いこと、本校の五つの精神の習慣をうまく活用していること、それぞれ特定の領域に関して妥当と見なしうる熟達度(マスタリー)を的確に、説得力をもって発表する能力があること、これらが卒業審査会によって用いられる主な規準(クライテリア)である。しかしながら、ポートフォリオ作業・作品は、実質的内容と表現形態の双方に対する関心を反映するものでなければならない。たとえば、文書による作品は、明確で、文法的に正しい英語で提出されなければならず、当然、その英語は、綴り、文法、読みやすさの点で、高校卒業段階で期待される習熟度(プロフィシャンシー)を反映するものでなければならない。誤字脱字等は、ポートフォリオを委員会に提出する前に修正しておくべきである。文書による作品は、原則的に、タイプ原稿のかたちで提出しなければならない。ポートフォリオの準備や発表における場合と同様の配慮が、他のあらゆる作業・作品にも適用されるべきである。ポートフォリオ作業・作品は、その生徒の最大限の努力を反映するものとなるべきである。同様のことが、発表の仕方にも当てはまる。
 ポートフォリオの各領域には、多かれ少なかれ、それに関連する様々な特徴がある。たとえば、学問教科領域には、各科目ごとに独自の「採点表」が開発され、それによって生徒や卒業審査会のメンバーが、適切な基準に客観的に焦点を合わせるのに役立つからである。時の経過とともに、新たな採点表が作成されることによって、また、認定された技能のレベルを示す生徒による過去の作業・作品がポートフォリオに入れられることによって、認定可能な実績(パフォーマンス)を決めるための諸規準が、さらにいっそう十分なかたちで設定されていくことになろう。生徒には、自分が評価される際の諸規準を(採点表についても、過去の卒業生の作業・作品についても)熟知しておくことが期待される。
 何度か開かれる卒業審査会にあたって、生徒は、ポートフォリオの内容だけでなく、コンピューターに関する知識や、特定の分野における自分の成長に関して議論するための準備をしておくべきである。
 以下に、ポートフォリオの14の領域を揚げておく。
1. 卒業後の計画
2. 科学/技術
3. 数学
4. 歴史および社会科
5. 文学
6. 自伝
7. 学校・コミュニティでの奉仕活動、及びインターンシップ
8. 倫理および社会問題
9. 美術/美学
10. 実践的技能
11. メディア
12. 地理
13. 英語以外の言語/二重言語習得
14. 体育(Physical Challenge)
上級学年(シニア)プロジェクト
 上にあげたポートフォリオの題目・項目のうちの一つが最終的な卒業プロジェクトとして、それ以外のものと分けて評価される。各生徒は、上の14の領域のうち七つを専攻として発表することが求められる。この専攻の中には、上にあげたもののうち星印のついた4つの領域のポートフォリオを含み、それ以外に、少なくと三つの専攻を指導教員と相談して決めなければならない。全体としての成績をつけるにあたっては、特優、優、良、可の四段階評定が用いられる。七つの「副専攻」のポートフォリオに関しては、合格・不合格という評定だけが行われる。合格判定は、指導教員の推薦と、卒業審査会の承認に基づく。
 しかしながら、生徒は、指導教員に何らかの成績(特優や優など)を要求することができる。この場合に、生徒は、審査会がその評定に関連するすべての提出物を再検討し、求められた成績に関して議論するだけの十分な時間を審査会に対して与えなければならない。そうした成績が認められるかどうかは、審査会全体の承認次第である。

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卒業審査会の一場面
 とある9月の金曜日、午後のこと。モニークという生徒の卒業審査会が、初めて開かれることになっている。私たちがモニークの母親の到着を待っていると(各生徒は、卒業審査会の審査委員に学校の教員以外の大人を一人選んでよいことになっており、モニークは、自分の母親を選んだのである。ある種の常識に従うなら、それは常に危険な選択ではあったのだが)、モニークは、緊張のあまりじっとしていられない。「トイレに行っとかないと。」と彼女は言って、この15分ほどの間に3回もトイレに立っている。
 ついに、私たち審査員全員が、校長室のテーブルを囲んでそろって席につき、モニークが発表を始める。彼女は、保健医療サービスにおけるエイズ差別を扱ったレポートを発表することにしていた。彼女は、自分のレポートのことに触れるのだが、それは時折そうするという程度でしかない。発表し始めるときの彼女の顔色がよくない。彼女は、ガチガチに緊張して座っている。それは、ふだん彼女が、この年代の子どもがよくやるダラッと前屈みになって座っている姿とは対照的だ。そして、ほとんど全ての文を「私が出すのは……」という言葉で始める。たとえば、「私が出すのは、救急治療室で働く看護婦さんとのインタビュー記録で、その中で私は、直接エイズと関わらない仕事が主要な任務である医療の専門家の感じていることを話そうと思います。」というふうに。
 モニークは、自分の発表を終えて、「何か質問はありませんか」と尋ねる。彼女には、質問が出ることがわかっているのだ。ここは、彼女が、本校の卒業の証であるあの五つの精神の習慣を身につけたかどうかを、審査会のメンバーが見極めようとする会議の一部である。私たちは、彼女がもっている情報の出所を示してくれるよう、穏やかに質問を始める。彼女は、簡単にこの質問に対処する。生徒たちは、審査会でどんなことがあったかということについて、いつも友達同士で話し合っているので、モニークは、情報の出所について質問されることを予測できたのである。
 ところが、ここで質問は、にわかに予想を超えたものになる。「モニーク」と私は尋ねる。「あなたは、患者について十分知りもせず、その人たちの許可も得ないで、HIV検査を行った医師たちのことについて話してくれましたね。あなたは、それを悪い事だ、プライヴァシーの侵害だと考えている。ちょうど、このあいだの日曜日、キューバについてのテレビ番組を見てたんだけど、そこでエイズ感染に対するお医者さんたちの対応を見たの。キューバでは、誰でも検査されるの。お医者さんたちは、許可なんて得てないですよ。お医者さんは、HIV検査で陽性反応の人を見つけると、その人たちを隔離するの。その人たちは、十分な食べ物と、すばらしい医療保険サービスを受けられる快適な場所に移されるのね。けれど、その人たちは、そこから出られない。私が言いたいのはそれだけ。その一つの結果として、お医者さんたちは、その病気が広まるのを大幅に抑えてきたわけ。ここで、もしそういうことが行われたらどうしますか。」
 モニークは、ここでは自分の力だけでなんとかしなければならない。彼女が、このような質問が出ると予測していなかったことは確かだった。そして、彼女はもう「私が出すのは」という言葉で、自分の答を始めることはできない。しかし、その瞬間、何かが彼女の中で起こった。目に見える変化が生じたのだ。こうしたことを、私は卒業審査会の場でしばしば目にしてきた。モニークは、もう口ごもったりしない。背筋をピンと伸ばし、体を前に乗り出す。そして、私の目を真っすぐに見据えて言う。
 「私の父は、エイズで亡くなったんです。だから、私は、このポートフォリオについて最初に発表することに決めたんです。これは、私には、本当に大事なことなんです。」
 彼女は、続けて言う。
 「私は、エイズを防いだり、エイズの進行を少しでも遅らせることなら、どんなことにも賛成します。けれど、自分が検査されていることが、その人たちに知らされないということについてはどうかわかりません。私は、その問題のいい面についても、悪い面についても考えられますから、どちらかに決めつけたくないんです。投票して決めるべきだと思います。」
 「誰が投票すればいいんですか。」と、私が尋ねる。
 「全員です。」彼女が即答する。「ちっちゃな子どもでも。このことは、すごく重要なことだから、みんなが投票することができて当然です。」
 審査会による試問が、1時間にわたる発表と質疑応答ののちに終了する。審査会のメンバーは、本校で作成された採点表を埋める。そのうちの一つは、ポートフォリオのなかで最も中心的なプロジェクトを評価するためのものである(ポートフォリオは、一連の作業・作品をひとまとめにしたものである)。もう一つは、今回のポートフォリオ、つまり、彼女が最初に出す七つの専攻に関するポートフォリオに成績をつけるための、表形式の採点用紙である。
 私はモニークに、成績―優よりもさらにいい成績―を言い渡し、その上で、私たち審査委員が、彼女の作業についてとくにすばらしいと思った点や、こうすればもっとこのポートフォリオはよくなったかもしれないと考えられる点について総括的に伝えた。すると、彼女は、口を、その両端が両耳に届くほど大きく開いてニヤニヤ笑っている。彼女は、幼い頃の自分に返っている。ほとんど私たちが言うことも耳に入らず、そそくさと、「失礼します」と断って、ロビーで待っている親友のユイザやフランセスのもとに話しに出て行く。
 私は、レポートと採点用紙や採点表を脇において、次の卒業審査会の準備をする。カルロスが、文学に関するポートフォリオを発表しようとしている。いや、むしろ、彼は、自己の精神をうまく活用するという習慣が身に付いている人物として、自分自身のことを示そうとしているのであり、文学という領域における自分の作業・作品を通して、自分がそうした特質をもっているということを明らかにしようとしているのである。
 放課後、私が同僚教員に会うと、なぜそんなに興奮しているのか、と尋ねられた。それは、モニークの場合のように、審査会の審議中に、様々な人たちと一緒に、私たちの仕事の成果を、この目で確認できることがあるからだ。本当に多くの教師や保護者や生徒たちが、隠れたところで何時間も頑張って努力したことがわかるのである。何度か開かれる審査会は、最終的な評価の場ではなく、それは、むしろ「給料日」のようなものだ。つまり、生徒たちが、非常に長い間、本当に一生懸命、勉強し、読み、書き、議論し、考えてきたことに対して、具体的なかたちで報奨が与えられる時なのである。
 そして、時に、私は魔法を目にする。手品ではなく、子どもが初めて歩くとか、初めて言葉を話す時の魔法。その人が、自ら手に入れる魔法。生徒たちが、考える者として成長するという、また、自信を手にするという、あるいは、自己の知力(マインド)を誇示するという魔法―若い人が、自分の目の前で、自信を持ち、思慮深く、有能なひとりの人間に変化するという魔法である。

私たちが選んだ方法
 私たちは、ここまで述べてきたような、厳格であると同時に、人間同士の関係を重視した卒業審査会をどのようにして創り出したのか。教員が、幼稚園の先生のように細部まで目端を利かせることができるような校内組織をどのようにして創ったのか。私たちが生んだ変化は単純なものではない。そうした変化によって、私たちは重い選択をせざるをえなくなくなり、その選択のそれぞれに犠牲を強いられたのである。
半日単位のテーマ中心授業
 本校は、第7学年から第10学年までのすべての生徒に、共通のコア・カリキュラムを提供しており、それは主要な2つの領域を中心に編成されている。つまり、学校日のうち半分は数学/理科が中心となり、残り半分は人文(芸術、歴史、社会および文学)が中心となっている。
 各授業は一つのテーマを中心としている。たとえば、ここで2つの研究テーマを紹介しよう。一つは人文の、もう一つは数学/理科のもので、ともに第�学年区分、つまり第9および第10学年のカリキュラムのものである。
・正義(justice):法および政府のシステム。1年にわたって取り扱うこのテーマのなかで、正義に関する少なくとも2つの異なる概念が探究される。一方は、社会的に合意が得られているもので、もう一方は、社会的に対立するものである。公平、紛争の解決、平等といった考え方を、合意が形成されている面と対立している面との両面で検討する。アメリカにおける正義のシステム、および法に関する、特に重要なこれまでの事件を詳細に検討する。生徒は訴訟事件の摘要書を準備し、そこでの主張を弁護することで、扱うテーマに関する直接的経験を〔模擬裁判を通して〕積む。生徒は陪審員制度について、および証拠というものの本質について探究する。この研究における最も重要な問いは、権威はどのように正当化されるのか、紛争はどのように解決されるのか、正義、道徳、公平さというこれらの言葉は同じ意味なのか、という問いである。
・運動そしてエネルギーの諸力。これは、次に示すような本質的な問いを中心に、2年間にわたって取り組むテーマである。つまり、物体はどのように運動するのか、エネルギーはそれがとるさまざまな形態において、どのような働きを示すのか、エネルギーは、いったいつくられるものなのか、それとも失われるものなのかという問いである。これらの問いを調べていく際に、生徒がとりくむプロジェクトして、たとえば独自に遊園地の乗り物を設計し、その分析を行なったり、あるいは投射物(たとえば、飛んでいるバスケットボールや矢)の科学的分析を行なったりすることがあげられる。生徒は、市販されているさまざまなコンピューター・ソフトウェアを利用して、投射物の運動や、2つあるいはそれ以上の物体の衝突をモデル化したり、分析したりしたことがある。このテーマには、科学的方法論や、統計上・確率上のテクニックを重視することも含まれている。生徒はまた、計算、測定、位置、作図といった数学上のテーマを研究し、それによって代数、幾何、三角法、数学的変換、ベクトル、行列に関するより密度の濃い学習に至ることになる 
 第7学年から第10学年において、各授業の時間は、1時限=2時間となる。各教員は、一般的に他の多くの高校で行なわれているように1日に5つのクラス=授業(1時限=1時間)を教えるのではなく、2つのクラス=授業だけを教える。この変化は、私たちが授業について改めて考え直すきっかけとなった。2時間連続授業をしなければならないことによって教員は、多岐に渡る戦略を、たとえば全体授業、小グループでの協働作業、図書館での文献調査、実際的問題解決といった方策を用いる必要に迫られる。教員は、続けて2時間も講義スタイルの授業をして生徒を退屈させるわけにはいかないのである。
 上級学年部−第11および第12学年−における教育方法は、それとは少し異なっている。この過渡段階の生徒は、学校の外での学習課程により多くの時間を費やすことになっている。たとえば、大学・短大や博物館・美術館での学習、その他の校外研修(インターンシップ)や自主研究である。また、卒業や進級に備えて、指導教員と費やす時間も、生徒の一日のなかできわめて重要な部分である。  
小規模クラス
次に重視されるのは、行なわれる授業の数だけでなく、クラス・サイズを小さくすることである。この目標を達成するために、この学校に充当された教育資源(リソース)の大半を、コア・カリキュラムの授業に集中させることにした。私たちの学校は、1985年に、たった一つの第7学年のクラスから始まったのだが、今日のような完全に教室が埋まる状態にまで大きくなってきたので、教員に対する生徒数の割合を優先事項にしたのである。
 この学校には、指導相談員(ガイダンス・カウンセラー)も、体育教員もおらず(もっとも、広範囲にわたる校内プログラムや、内容の充実した放課後のスポーツ・プログラムが設けられてはいるが)、音楽教員もおらず、美術教員も全校に一人だけである。さらに、教科主任も学年主任もおかれず、ソーシャル・ワーカーも一人である。1クラス生徒数を20人以下と定めた代わりに、従来そうした教職員が果たしてきた役割の多くを、他の多くの教員が担うことになった。すべての専任教員は、2年間に15人以下の生徒たちのグループを指導教員として担当する。このグループは、毎週数時間ミーティングを行い、また、指導教員は、各生徒の家族と長期にわたって親密な関係をもつことになる。

学校外の批判的な友人
 本章に見られるような教育のプロセスは、効力のあるものだが、それを採用することによって、私たちは、暗記や、広範囲の知識の保証を重視するようなカリキュラムや評価をよしとする考え方とは相容れない立場をとることになる。上に述べてきたような学習は、個人的(パーソナル)なものである。この種の学習においては、何らかの知識をただ言えるというだけでなく、それを内面化することが求められる。そこでは学習者による積極的な役割が前提とされており、その他の創造的行為と同様に、そうした学習は予測不可能で、驚きに満ちたものである。このような教え方には、教科書も標準化されたテキストも存在しない。大人たちは協力して、常にカリキュラムを再創造し、知識を提示する新たな形式を生み出し、また、どの段階で、学校は「彼女はよくやった。彼女に修了証書を渡すときがきた」とすすんで言うべきなのかということを決められなければならない。こうした大胆不敵な試みにおいて、評価基準は、常に議論した上で合意すべきものとすることが求められる。
 私たちが批判的友人(・・・・・)と呼ぶ学校の外の仲間は、私たちがこの学校の仕事を批判的に見る上で必要不可欠な存在である。自律(オートノミー)が、私秘性(プライヴァシー)と同義になることは決してない。まったく逆である。本校と、そこでの仕事は常に公的なものである。私たちは、一年に何度かさまざまな方面の専門家の話を聞き、その助言によって諸基準を設定し、カリキュラムを検討している。たとえば、地域の大学教授たちが、本校に来て、ポートフォリオに含まれている様々な提出物の質を点検してくれたのだが、ほとんどの場合、そのポートフォリオの提出物に対する私たちの評価に太鼓判を押してくれた。さらに、私たちは、このような批判的友人に、丸一日、卒業ポートフォリオの検討に付き合ってもらいさえした。ニューヨーク市にある従来型の公立学校から来た教員や、州教育局の職員、総合制ハイスクールの校長、私たちの学校の姉妹校の校長や教員、財団の代表、学校外の専門家らが、様々な質のポートフォリオを見た上で、生徒たちとその研究について話をし、生徒の発表録画を見てくれた。また、こうした人々は、私たち筆者や本校教員とも懇談して、問題提起的なコメント、様々な批判を与え、学校のしくみに関することから、学業成績要件のことにいたるまで広い範囲にわたる諸点について助言をしてくれた。こうした学校外部の人たちに、本校の教育プログラムを綿密に検討してもらうことで、私たちは公に対して責任を果たしている。また一方で、豊かな協働作業の経験を学校職員に提供してもいるのである。
計画立案・協働・評価のための時間
 このような協働を可能にするために、私たちは一つ優先事項を設ける必要があった。それは、教員のための時間である。専門職としての教員の生活の中に、上に見たような新たな種類の計画立案、協働作業、および評価を、生徒がいないところで行なう時間を組み込む必要があった。
 毎週月曜日、教員は3時から4時半まで会議を開く。金曜日には、朝8時から午後1時まで授業があるので、午後1時半から3時まで、再び会議を持つ。このように、週3時間、教員スタッフは協力して学校全体の諸問題に取り組む。この時間の一部は、縦割りにした教科別の教員グループ(人文系の教員全員と数学/理科の教員全員をいう集まり)で会議をもち、第7学年から第12学年(つまり、全学年)について、その作業(ワーク)の範囲(スコープ)・系列(シークエンス)・基準について話し合う。また、少なくとも月に1回、全スタッフが一堂に会して、人種・階級・ジェンダーの諸問題について議論する。さらに、学校に関わる様々な事柄について、たとえば、保護者面談、報告書の作成・提出、そして、いろいろな部会からの勧告などを検討するために集まる。くわえて、1年に何度か、週末を使って、生徒の作業の公的な点検のためや、カリキュラム開発のために会議を開く。共同プロジェクトに関する、7月夏期休暇の中の仕事に対して、教員に手当てを支払うための募金を募ったこともあった。
 その他にも、同じ生徒を担当している教員グループのために、一度にまとめて3時間の枠を毎週捻出してきた。このような措置は、第7学年から第10学年のすべての生徒に、それぞれコミュニティ奉仕活動の担当を割り振ることによって行なわれた。この学校には、こうした割り振りを責務とする教員が1人おり、割り振りの編成は、コミュニティへ奉仕活動に出る生徒が1日当たり80人になるように行なわれている。そのような調整によって、生徒が奉仕活動に出るその半日の間、その生徒を担当する教員グループが自由に集まって一緒に作業に当たれるのである。当番の生徒たちは、午前9時に、指導教員と出席確認を済ませ、それから担当地域へと赴く。生徒は、正午に学校に戻って昼食をとり、昼休みの間(体育館や図書館などで)自由に活動する。こうして、当番の生徒たちを担当している教員は、午後1時まで共同で計画立案にあたれることになる。また、生徒は、託児所から博物館・美術館、病院や老人ホームにいたるまで、実に多様な組織・機関のもとで、自分の精神を活用する豊富な機会に恵まれることになる。
 正式なものもそうでないものも含めて、1日中行なわれているこうした集まりこそ「教員開発(スタッフ・デヴェロップメント)」の場なのである。それは、新任の教員が自分の仕事を学ぶ場であり、また先輩の教職員が昔からある諸問題について再度振り返って吟味する場でもある。誰でも時に、もうへとへとだといって不満を漏らすことがある−だから、あちこちで私たちは会議をさぼるのだが−その一方で、反対に、完全燃焼することに不平を言うことはない。私たちは、機械の部品のように扱われるでは決してなく、プロとして自分の仕事を自分自身でコントロールしているのである。
 上に述べてきたようなさまざまな形態の、互いに顔と顔を付き合わせる会議を通して、学校管理は行なわれている。意思決定は可能な限り、それを運用しなければならない人々によって行なわれているのである。しかし同時に、意思決定は、教職員、保護者、生徒を含めたより広範なコミュニティによるものでもあり、人々は、何らかの意思決定について再考・擁護・説明を求める権利を常にもっている。このようにオープンで、誰もが近づきやすい学校運営のもとで、教員と生徒は、民主主義の複雑さを学ぶのである。同時に、教員と生徒は、民主主義の限界や制度的取引の現実をも学ぶ。そして、どうしたらそれらをさらに一層うまく学べるのかという問題について考えをめぐらせるのである。こういう筆者たち自身、生徒に要求しているのと同じ精神の習慣を活用しながら、ああでもないこうでもないとさまざまな方法でより良い(あるいは、さほど良くもないかもしれない)学校運営をこれから先もずっと試みていくことであろう。
 

改められた認識
 私たちは、個人的なもの(ザ・パーソナル)に立ち返る(以前、幼稚園の教員だったものとして、それ以外の方法は採りえないのである)。そして、これには、子どもたちを、その子どもたちの家族の成員として見ることや、学校教育によって子どもたちやその家族の自己認識がどのように改められたのかを振り返ることが含まれている。ある子どもの母親が、こうした学校教育が、どのようにして彼女の家庭を変えていったのかということについて、教員を前に語ったことがある。彼女の言葉は、まさに私たちが本校における教育に期待しているものを伝えている。 
自分の作品を批評してもらうために、協力的な仲間にそれを発表するというプロセスがよくわかるようになって、私たち(私の家族)全員が、このプロセスに関わるようになりました。
 ザワルディ(私の真ん中の娘です)が、フィリップ・パーネルに関する、つまり、ニュージャージーで警官に撃たれて亡くなった十代の子どもの事例に関するポートフォリオを作成していたときのことを覚えています。私は、娘と図書館に行って、たくさんの文献調べをしました。彼女は、私に何を探せばいいのか教えてくれました。
 彼女は、ニューヨーク市で警官をしている私の兄弟にインタビューをしました。それは、同じようなことが起きたときに、警官はどんなことを感じるのかということを知るためでした。彼女は、自分の発表を偏ったものにしたくなかったのです。
 私は、娘が質問を練っているのを見守っていました。彼女がインタビューするのを見守っていました。彼女が発表の方法として用いることにした劇のなかに、そのインタビューで得た全ての情報を組み込むのを、何年かにわたって見守っていました。
 それから、彼女が学校のお友達に家までに来てもらった時も、それを見守っていました。娘がそのグループの長になるのを見ていました。それに、彼女が、お友達の話をじっと聴くのも見ていました。彼女は、友達がどう感じるか、その事件にどんな反応を見せるかということを考えに入れようとしていたのです。
 私の息子は、三つの違う州で暮らしたことのある子どもとして、自分が体験したことと、その経験が、現在の自分にどんな影響を与えたのかということに焦点を合わせることにしました。
 息子がこのように自分自身のことを明確化しようとしたことは、私たち家族全員にとって、多くを考えさせてくれるものとなりました。人種差別に関するいくつかの具体的事例について、彼が説明したことの正しさを、彼の姉たちが証明し、さらに、その事例について家族で議論することにもなりました。また、もしその人種差別に対する怒りを、強さに変えられれば、そうした事例が、いかに力強いものになるかということについても議論しました。
 私の末娘は、家族史を描くことにしました。その歴史像には、合衆国全体の歴史とカリブ人の歴史も組み込まれていました。彼女は言い伝えによる歴史を中心に、非常に多くのことを調べなければなりませんでした。それは、私にとっても重要でした。というのも、私は、そうした言い伝えで語られた歴史を耳にして育ったのですが、それらを記述しようと思ったことがなかったからです。このプロセスに関わることで、娘は言い伝えを記述することができるようになりましたし、その時間が与えられたのです。ですから、彼女は、昔、子どもがしたうような棒暗記の勉強をしなくてすみ、彼女にとって意味深い重要なことに自分の時間を振り向けていたのです。彼女はこのことに興奮していました。
 進歩主義教育の歴史の大半は、幼い子どものための学校において−つまり、幼稚園や保育所、あるいはヘッド・スタートの施設などで−書かれてきた。その語り手は、自分の仕事(クラフト)を子どもたちとともに研究し、実践した専門家だったのである。マリア・モンテッソーリ(Maria Montessori)、ジャン・ピアジェ(Jean Piaget)、ジョン・デューイ(John Dewey)、リリアンウェーバー(Lillian Weber)、バーバラ・バイバー(Barbara Biber)や、他にもすでに亡くなった多くの教員がそうだった。そういった人々がつくった学校では、生徒が学んだことが生徒自身の生活と密接に結びついていたし、皆が寄り添いあって活動し学習していた。本校での成功とは、そうした構造を再びつくり出すことであり、年長の生徒も一緒に学習する環境のなかで目的を達成することである。これもまた、私たちの挑戦なのである。
私たちは、生徒に自分の精神のより上手な活用の仕方を身につけさせるために、教員が生徒のことを十分に知ることができる構造をつくり出してきた。教員が、専門職に就く者として、自分の職業生活を、責任を持ってコントロールできるような構造をつくり出してきた。そうした教員を支える、強力な専門職集団としてのコミュニティが存在するような構造をつくり出してきた。さらに、私たちは標準化=規格化(スタンダーダイゼーション)を伴わずに、生徒を高い水準に保つことができるような評価システムをつくり出した。単に断片的な知識ではなく、思考の道具に焦点を合わせる精神の習慣に基づいたカリキュラム構造を考案してきた。しかし、こうしたことは、まだ易しい部分である。困難なのは、それを実現していくことなのだ。


帰ってきたセントラル・パーク・イースト校
 私たちが本章を書いて―そのころ筆者の一人デボラ・マイヤーは、そこに示されたような教育の考え方を市全体に普及させることに深く関わっており、ポール・シュワルツはワシントンでの2年間にわたる仕事に向かう前だったが―それが評判になってから、10年以上がたった。それから、たくさんのことが起こった。そして、今日、デボラは、ボストンにパイロット・スクール・プロジェクトの一環として、セントラル・パーク・イースト校と類似の理念に基づいて彼女自身が開いた小学校(K-8 school)をちょうど退職したばかりで、ポールは、いま、ブロンクスにあるニューデイ・アカデミーという新設の学校の初代校長をしており、この学校で、セントラル・パーク・イースト的学校文化を、そのときよりもはるかに困難な時代に、本質的な方法でつくり出し、その教育理念を広めようとしているところである。
 私たちは、過去のこのような大胆な言葉を読み直してみて、そうした言葉がどうなったのかを振り返ることができてうれしく思う。まず一つには、セントラル・パーク・イースト校という学校それ自体が生き残らなかった。私たちがここに描いた実践は、10年ほどの間に、次第に衰退し、ついにはほとんど消滅してしまったのである。驚くことでもないこの結果―驚くことでもないというのは、教育改革の長い歴史における公立部門の模範的学校の歴史を見ればわかるからである―の理由は、いろいろと言うことができる。そうした学校を「創設した」指導者たちが去ったからだ、とか……結局、他に換えのきかない特別な指導者が必要なのだ……そして、一般に、さらに多くの理由が、その学校の短命を説明するために持ち出される。しかし、私は問いたい。それがたとえ真実だとしても、より好ましい条件があれば、さほど「稀な」というわけでもない指導者たちでもより容易く成功することができるのだろうか、あるいは、さほど好ましくない時代でも、わずかに進歩して、破壊しないということができるのだろうか。また、その創設者の新機軸をもっとうまく維持し、さらに、それ以上のことができるのだろうか。私たちの考えるところ、これらの疑問はきわめて重要で、成功を収めた改革とその所産を長きにわたって育んでいく上で、何が必要なのかが理解できない限り、我々は常に、またゼロからの出発をすることになる。
 セントラル・パーク・イースト校で起こったことは、もし成功した学校改革に、その創設者以上に長く存続してほしいと思った場合に、何をすべきではないのかということに関する優れた事例研究(ケース・スタディ)になっている。むろん、それは、そうした改革を消滅させたいと考える人々には、格好の事例史(ケース・ヒストリー)になるかもしれない。デボラ・マイヤーがボストンへと去っていった数年後に、ポール・シュワルツは、自分がセントラル・パーク・イースト校を去る時、この学校はしっかりしていて大丈夫だ、と考えていた。また、彼の知るところでは、その数年間に、次のような経緯から、何人もの中心的な教員が、学校を離れていった。すなわち、そうした教員は、ひとつには、新たな小規模中高校に種をまくのだという明確な意識をもって努力していたことから、また、90年代のアネンバーグ計画に―ニューヨーク市で最も貧しい生徒たちのために、選択制の小規模自主運営ハイスクールの強力な並列ネットワークを構築するために―熱心に関与していたことから、別の場所に移っていったのである。三十人という小規模で、驚くほど安定していた教員集団から、1992年から96年の間に、そのうちの三分の一近くが、私たち二人とともに新たな学校に転任していった。
 同時に、地域と州レベルの双方で、一連の政治的な変化がいくつか生じた。州教育長、市教育委員会委員長、高校課上層部、教員組合幹部、そして、とりわけ州知事と州教育委員会の変化は、セントラル・パーク・イーストのような学校には壊滅的な打撃をもたらすことになった。新しい州教育長は、本校や、本校と同様の考え方を持つ学校がその教育を押し進めるために得ていた免責事項を廃止し、カリキュラムの全教科に対する負担の重いテスト体制を敷き、高校の成績データを改善するために一つの基準で全てを網羅する解決策を求めた。当該学校区の上層部は、学校区内部で生じていた諸問題を前にして、本校を選んでいたわけではない多くの生徒たちをはじめて本校に送り込み、それにより、次期7年生のクラスを増やし、これに伴い、本校の教え方に不慣れな新任教員の増員を求めることを主張したのである。加えて、「上」からの支援体制が―オルターナティブ・ハイスクール群においては―次第に弱体化(ついには消滅)し、設立以降、本校が得ることができた後援者たちも、亡くなったり、地域を離れたりした。以前から本校にいた教員が減り、経験の浅い教員が増え、さらに、どちらかと言えば自らこの学校を選んだわけではない生徒の数が増えて、「普通に戻る」という傾向が強まることは一見して明らかだった。
 革新者は、重力によって、もとの状態へと引き戻されるのが常である。柔軟性を持つこと(それにより変化に開かれた状態でいること)と、困難に直面してただ挫折してしまうこととの違いを認識するには、意識的かつ思慮に富む抵抗(レジスタンス)が必要になる。また、時の経過とともに、本校の卒業制度が持つ相対的な価値と、州教育委員会が求める要件及び、とりわけそれが有色人種の生徒たちにとって持つ価値との間で、これらに関する意見の違いが真っ向から対立するようになった。新たな指導者層は、セントラル・パーク・イースト方式は終わるべきだと考えた。そして、ポール・シュワルツとデボラ・マイヤーが本校を去ったほぼ十年後、ついに、本校は、高度に集権化した新たな教育局により再編され、一つのミドル・スクール(第6学年から第8学年)と一つのハイスクール(第9学年から第12学年)という、それぞれ生徒数400人規模の、意識的にそれまでとは異なる方針で運営される二つの新たな学校に分割されたのである。セントラル・パーク・イースト第1小学校(CPE I)、同第2小学校(CPE II)、及びリバー・ウエスト小学校(River West)―これらの学校は本校のもとの「フィーダー・スクール」だった―の卒業生で、セントラル・パーク・ミドルスクールや同ハイスクールに進学する者は、今では、まずほとんどいなくなり、セントラル・パーク・イースト中等学校は歴史の中に消え去ったのである。
 とはいえ、ニューヨーク市のいたるところに、また、筆者たちが訪れたその他の実に多くの地域で、〔セントラル・パーク・イースト中等学校を設立した〕1985年に私たちを突き動かした理念が、いまでも元気に生き残っており、それぞれ自分なりのやり方で、私たちと同じような問いに立ち向い、ジョン・デューイやテッド・サイザー(Ted Sizer)の理念をその時代に合わせて活かすという、より長い歴史を持つ取組に、新たなページを加えようとしている。筆者たちには、考え直すべきことが多くあるが、後悔していることはほとんどない。当時の教え子たちから、毎日のように、電話や手紙やメールが来る(と書いているときにも1通メールが届いた)。当時の教員は、転任して他の多くの学校に影響を及ぼしてきた。セントラル・パーク・イースト校の最初の十年に公刊された書物や論文―それに映画―は、筆者たち二人が夢にも思わなかったほど広範に活用されている。そして、私たちは二人とも、次の冒険に乗り出し、来るべき日に向けていかにして様々な変化を組み込んでいけばいいのかということに関して多くのことを考えてきており、また、ここに述べてきたような経験から学んだだけに、おそらく、より大きな成功を収め長続きするような学校を創り出してきたのではないかと考えている。そして何よりも、他の人たちが、そこから学ぶことができよう。ことほど左様に、取組は続いている。私たちが〔本書初版で〕この章の終わりに注記したように、「困難な」のは、これからも常に「実現していくこと」なのであろう。繰り返し何度でも。


原著:Meier, D. and Schwarz, P. 2007 Central Park East Secondary Schools: The Hard Part is Making It Happen. In Democratic Schools: Lessons in Powerful Education, 2nd ed, edited by M. W. Apple and J. A. Beane, 130-149. Portsmouth, NH: Heinemann.

※この翻訳は、平成21〜23年度日本学術振興会・科学研究費補助金(基盤研究(C))「現代アメリカ合衆国における批判的ペダゴジーの最前線:ポストNCLBの理論と実践へ」(研究代表者・澤田稔,課題番号21530894)による研究成果の一部である。

デモクラティック・スクール 力のある教育とは何か

デモクラティック・スクール 力のある教育とは何か

(マイケル・アップル ジェームズ・ビーン編著『デモクラティック・スクール』第2版)

からの抜粋翻訳。
 Deborah Meier氏来日講演会に合わせて(といっても、これが初来日でもないが※)アップロードしておくことにする。これは、同氏が、ニューヨークのイーストハーレムに開いた中等学校(中高校)に関するスクール・ストーリー=実践記録だ。困難な条件を抱える地域で、進歩主義的な教育(まあ、真の「ゆとり教育」と言っておこうw)を実践し、目覚ましい成果を収めた学校である。
 この学校は、同氏や共著者のポール・シュワルツ氏が離れてしばらくすると、姿を変えてしまったのだが、今回の第2版は、初版の文章に加えて、その顛末に関しても補足的に触れられている。
 この本全体の翻訳は既に完了しているので、来年度前半には出版にこぎ着けたい。
 なお、翻訳でルビを振った箇所は、このブログの書式上、全て( )で示されている。
 ツイッター(@minorusawada)経由での誤訳の御指摘大歓迎!
 どうぞ、お楽しみあれ。

※これは誤りで、初来日だったようです。以下の情報をネットで見て、来日されていたと勘違いしてました。この時から来日が延期になった模様。お詫びの上、訂正させていただきます。
http://hs-manabi.epoch-net.ne.jp/archives/housen20110613.pdf'情報源'

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第6章