批判的教育研究とCritical Pedagogy:アップルとジルー

 ところで、この論文のCritical Pedagogyにどういう訳語をはめるかということだけでも、いささかやっかないところがある。この用語がアメリカの教育学で広く用いられるようになったのは、パウロフレイレに乗っかる形でヘンリ―・ジルーがこの用語を自分の著作におけるキーワードとして用いるようになったからだが、この背景には、アメリカの批判的教育研究におけるある種の象徴闘争(ブルデュー)があると言っていいように思う。どういうことか。

 1970年代に学会にデビューし、批判的教育研究の第一人者となったアップルは、カリキュラム研究者curricularistとしてのアイデンティティを明確に持ち続けてきた。したがって、批判的教育研究は、批判的カリキュラム研究として始まったとも言える。この後に登場したのがジルーであり、ジルーは、デビュー当初はアップルを支持するような論調の業績をものしていたし、実際、その頃は、自分の書く物を全てアップルの所に送っていたらしい。しかし、ジルーは、徐々にアップルの論じた問題のある側面をさらにクローズアップするかたちで独自の視角を明示するようになり、そこで彼が用いたのがcritical pedagogyという用語だった。要するに、このcritical pedagogyという用語は、critical curriculum studiesに対峙させ得るものとして用いられることになったということだ。

 実際、pedagogyという言葉は、少なくともアメリカ英語の文脈では、curriculumが教育内容や教材・教科書などを指すのに対して、教育の方法的側面、実践的側面を指す用語として用いられることが多い。その意味では、instructionと同様である。curriculum and instructionと言えば、教育内容と教育方法という対比関係にあるように、pedagogyは、意味的にこのinstructionに近い位置づけにある。

 とすると、pedagogyに広義の「教育学」という用語をあてて、critical pedagogyを「批判的教育学」と訳すことはミスリーディングだと思われる。アップルは、critical educational studiesの研究者であることは一貫して認めてきたが、これまでcritical pedagogyという用語を自分の論文では用いたことは一切なかった。これは、ジルーによる教育論を背景とする用語になっていたからだ。

 今回、上の論文は、アップルが、まさに、このcritical pedagogyなる用語を、自らの教育論に奪還し、再定義しようとする試みであるように見える。しかし、いずれにせよ、こうした意味で、critical pedagogyを「批判的教育学」と訳すのはまずいだろう。実際には、これまで日本では、あまりこの点に自覚的でなく、そのような訳語が散見されてきた。

 こうした文脈に関心のない方々にとってはどうでもよいことだろうが、言葉の定義は象徴闘争の核なのだから、我々には無視できることではない。しかし、ではcritical pedagogyを「批判的教授学」とすればいいのか?いまのところ、そうしているが、なんだかなあ〜、って感じではある(^^;;)。

 では、批判的教育方法(学)?、批判的教育実践(学)?にする???いっそのこと、批判的ペダゴジーとカタカナ標記で、この用語の特殊性を浮き立たせて、訳注を付ける方がいいのか?curriculumも最近は、カリキュラムだし。とはいえ、最後まで迷いそう。というか、もとの訳者T氏や、この論文の邦訳が収められる編者の先生と話さないといけない。

 というわけで、このブログを利用できるだろか。

批判的教育学と公教育の再生

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