ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踏団 「フルムーン』 

minor-pop2008-04-01

 初ピナ・バウシュ体験。圧倒的。
 私は舞踏を知らない。だから、比喩的にしか言えない。その上で、敢えて言うのだが、そこには全てがあった。
 清廉も猥雑も、そのような二項対立の批判も。アダージョスケルツォも、カデンツァもアンサンブルも、反復も裏切りも、理性も狂気も、内も外も、それらの弁証法的ではない否定も。舞踏も舞踏以外も、舞台も舞台の外も、芸術至上主義も政治も。
 小難しい言葉を並べたが、何も予備知識は要らない。ただ、舞踏を、細部にも全体にも目を凝らして、目に焼き付けるように見ているだけでいい。いや、そうでもないかもしれない。見たいところだけ見ていてもいいのかもしれない。
 いずれにせよ、人間が持つ想像力・創造力のすごさを見せつけられ、最大限の驚愕を帯びた歓喜に浸りながら、これまで鑑賞の機会を逸してきたことを後悔した。
 著作権の都合上、この公演のスチール画像等をここにアップすることはできないので、それを見ることができるサイトのURLを示しておきたい*1
http://www1.ocn.ne.jp/~ncc/pina08/program_b1.html
 また、ピナ・バウシュの略歴やヴッパタール舞踏団については、以下のサイトを参照されたい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ピナ・バウシュ
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D4%A5%CA%A1%A6%A5%D0%A5%A6%A5%B7%A5%E5
 さて、今回の公演『フルムーン』についてもう少し詳しく。
 今回見たのは、3月30日(日)の公演で、新宿文化センターにおける4日連続公演の最終日だった。
 開演前、舞台の幕は上がっていて、中央奥、やや舞台上手よりには巨大な隕石のような物体が置かれている。開演を知らせるブザーが鳴り、客席が暗くなると、舞台にほのかな照明が当てられる。このゴツゴツとした大きな石には、ダンサーが駆け上ることもあれば、下をくぐることもある。
 この石とともに、この舞台で重要な役割を果たすのが、水だ。公演途中から舞台の奥半分には、上から大量の雨が降り、大きな水たまりが下手から上手まで浅い池のようになる。上の巨大な石にも大量の水が降り注ぐ中で、ソロで、あるいは、集団で、ありとあらゆるテンポ、種類のダンス=身体言語・身体音楽が、絶妙の伴奏音楽(録音)とともに繰り広げられる。
 しかし、冒頭はまず音楽無しで始まる。上半身裸の二人の男性が、1リットルの透明な空のペットボトルを持って、それぞれ上手と下手から登場。そのボトルを、口を上にして右手に持ち、下から上に一気に振り上げながら、彼らは舞台中央に移動する。何度も振り上げ、ブーンッというかすかな音が会場に響き渡る。これから何かが始まる予兆のように。
 このペットボトルは、別の場面では、当然水を入れて用いられ、給仕が客のコップにあふれるほどそそぐというような場面で使うことも、それぞれ椅子にきれいなドレスを着て座った5名の女性に、同数の男性がそれぞれボトルごと頭から水を注ぐという場面でも使われる。
 ちなみに、ペットボトルの後には、長い細い棒を持って、同じ男性二人が登場する。容易に想像できるように、その棒を鋭く一振りすると、さらにはっきりとビューンという音が鳴る。この後、伴奏音楽が始まり、別のいろいろな舞踏が展開されて行くのだが、この棒は、後の場面では、足の不自由な人(に見えるダンサー)が足を引きずりながら移動する際の杖のように使われたり、あるいは、水浸しの舞台上で、この棒を支えにして足を滑らせながら、船をこぐ船頭のような動きで舞台上を上手から下手へと移動して消えて行く場面で使われたりしていた。
 こう書くと何か筋書きがあるような印象をお持ちになるかもしれないが、部分的に演劇的なところはあるし、セリフさえ用いられるところはあるにしても、普通の意味での筋は全くない。水と巨大な石を中心に、とめどなくアイデア豊かなダンス、パフォーマンスが繰り広げられるばかりだ。
 舞台には小道具として、椅子が頻繁に登場するが*2、紙コップと水鉄砲という小道具もあった。「水をテーマにして、水鉄砲と来たか!」というわけで、場内はまた笑いに包まれる。それは巨大な石の上にロングドレスを着た女性を立たせた裕福そうな男性が、その女性の頭の上に慎重に紙コップを乗せ、自分は石から降りて、少し離れてその紙コップを一所懸命に撃ち落とすという場面で使われていた。
 さらに、浅い池のようになった水たまりを泳ぐように舞台下手から上手へと移動する場面、マッチの火を点ける男性を見て、別の男性が手で水をすくってそれを消すという行為が数回繰り返される場面、水で濡れた舞台が滑るということを利用して、座った状態で両足を開いて前にあげ、手で床を押しながらお尻で滑って行くという動きを、男女10名のダンサーがずぶぬれ状態で繰り返すシーン、水を!というかごとく、雨乞いに似た躍動的なグループダンス、などなど、大量の水と効果的な照明の中で繰り広げられるソロダンス、グループダンス(緩叙楽章的、耽美的なもの、躍動的なものなど、その多様な表現に完全に飲み込まれた)など挙げれば枚挙に暇がない。
 終演後の会場はスタンディングオベーションに包まれ、3度のカーテンコール。ずぶぬれのダンサーには申し訳なかったが、拍手は止まなかった。そこにはダンサーとともに、ピナ・バウシュの姿も加わり、拍手喝采はさらに勢いを増した。まさに言葉では尽くせぬ体験になった。
 ともあれ、最後に触れておきたいことがある。それは、この他の日記で書いてきたことと無関係ではないポイントが、今回の鑑賞体験でも現れたからだ。
 この公演は、言葉によるまとめや説明を必要としないようなそのパフォーマンスを見せながらも、その公演が新宿で行われていることを十分に思い出させる舞台になっていたように思う。『フルムーン』は、すでにヨーロッパで何度も演じられてきた演目のはずだが、今回の公演は明らかに日本バージョン、あるいはむしろ、新宿バージョンだった。
 それは、この舞踏の合間にときおり現れるセリフのほとんどを、外国人ダンサーも日本語で話していたということだけではない。新宿という清濁入り交じった異種混交的な街で私たちが鑑賞していることを、改めて振り返らせるような仕掛けだったのかもしれない。厚化粧に派手な赤いドレスを着た女性の皮肉たっぷりな話し振り、白いドレスを着た女性が、上半身だけドレスをおろして、黒いブラを男性に外させる場面など、セクシュアルで猥雑な空気感を部分的に演出する。しかし、ブラを外させるのも、何秒でできるかを女性が数えながら、その速さがだんだん上達するのを女性が褒めながら、という演出で会場の笑いを誘う。
 この新宿文化センターは、あの歌舞伎町と目と鼻の先である。始めてこの会場を訪れた私は、新宿東口からの最短コースを知らなかったために、アルタ前を北上して、歌舞伎町に入り、歓楽街を横断して会場にたどり着いた。途中、交番ではなく、各所に立つ呼び込みのおにいさんに道を尋ねながら(^^;;)V。その手の店に入るそぶりなど全く見せなかったのに、おにいさんたちみなさん親切だったm(_ _)m。それって、もしかして、「きっとこいつは帰りによってくれる」とか思われたから?(^^;;)?、そういう顔に見えたから??(^^;;)??。
 それはともかく、ピナ・バウシュは、この街のことをきっとよく知っている。たぶん、きちんと街を歩いて、わくわくしながら観察したのだろう。自分が公演をする場所がどんな場所であるかを知って、その会場に合わせて演出したのか、それとも、この公演のためにあえて新宿を選んだのか、それは私にはわからない。大量の水を使うという制約から、この公演会場が選ばれたとするならば、前者だったのかもしれない。
 いずれにせよ、純粋な芸術が、その純粋さを保ちながらも、その中で、同時に、そのような現実社会が映し出されることで、鋭敏な政治性が表現されていたように思う。むろん、その政治性は、今回日本で演じられたもう一つのプログラム『パレルモパレルモ』に関してよく語られるような「ベルリンの壁の崩壊」といった、よりマクロな水準の政治性とは異なるのかもしれない。が、現実社会に存在する力関係および諸矛盾に対して、単純素朴な解答を提示せず、会場を一歩出て、辺りを見回せば誰でも気づくことができる力関係及び諸矛盾を寓意的に表現している点では、この『フルムーン』新宿版も十分に政治的だと言いたい。
 別の日の日記で、教育のポリティクス(政治性)の問題を扱っている。一部の方には唐突に聞こえるかもしれないが、道徳教育も、何を善と考えるか、という、その考え方に関する正統性をめぐる力関係=政治と無縁ではない。
 新しい学習指導要領(3月28日告示)を見ると、そこに現れる道徳は、規範意識として、まずは上から注入されるべきものとして、その重要性が強調されている。それは、教育再生会議での議論を経て、その影響のもとになされた教育基本法改正の底にあるイデオロギーを反映したものと言えるだろう。それは安倍前首相とか、再生会議とか、そういう個人とか主体性のレベルに帰することができない、より構造的な問題、つまり、世の中全体の風潮とシンクロするものなのだろう。いずれにせよ、子どもには善悪の区別をしっかり指導しなければいけない。それは道徳の時間だけでなく、他の教科でも徹底させよ、というわけである。
 そのように、善悪の区別、と言われる以上、区別は常に明瞭にできるものとして印象づけられることになり、おそらく、そこでは、今回ピナ・バウシュが演出したような猥雑なものは忌避されるものに入れられるだろう。たとえば、売春、あるいは性風俗。学校の道徳教育では、そんなものはまるで存在してはならないものであるかのようだ。しかし、ピナ・バウシュは、「ほら、そこにあるよ。あなたたちの見ているこの舞踏芸術のすぐ近くに。これを見にやって来るときも、帰りにも、あなたたちの通る道のすぐ近くにあるものだよ。」と言っているかのようだった。「ハイ!、私はそのお仕事の方たちに、ここに来る道を教わったおかげで、公演の時間に間に合いました!(^_~)。」
 で、教員は、性風俗産業に関わる親、売春経験を持つ子どもと相対することになるのだ。
 そこで、私はあえてピナ・バウシュという権威を利用させていただこう。質の高い作品・パフォーマンスに触れれば、再生会議を擁護する立場の人々が主張するような「清く、正しく、美しく」みたいな単純素朴な結論にはならないよ、と。熱血主義も根は同じ。で、そういう人たちに限って、「昔は俺もワルやってたんだよ」みたいなブイブイ武勇伝を持ち出す。
 そろそろ、悪は、どのように、どのような種類のものが、どの程度まで許容されるか、それはなぜそう言えるのか、って議論を、きちんと道徳教育論の中でできるような準備を始めないとだめじゃないだろうか。で、いま少しずつ始めている。
 やっぱ、すごい芸術というのは、多層的に考えさせてくれるよなあ、と一人で感心。これを読んで、それ見たかった!って思う人は、ゼロだろうけど、実は明日4月2日に琵琶湖ホールで最後の公演(ここでは1回だけ)がある。
 琵琶湖バージョンはさすがにないか? とすると、上の読みも深読みし過ぎと言われるかもしれない。がくっ(^^;;)>。

*1:YouTubeでPina Baushで検索すれば一部動画も見られる。それは各自の判断でどうぞ。e-plusの動画は、こちら。http://mv-theatrix.eplus2.jp/article/84681352.html

*2:使われる椅子は、ピナ・バウシュ自身が登場し舞うことで有名なあの『カフェ・ミュラー』で出て来るものと同じものだろう。ちなみに、この『カフェ・ミュラー』はアルモドバルの映画『トーク・トゥ・ハー』の冒頭数分で引用されるから、興味のある方はレンタルビデオショップへどうぞ。