ソーシャル・マジョリティ研究会セミナー2014

 久々の更新。TwitterFacebookを通して、自分ほど得しているやつはなかなかいないだろうと思えるほど交友関係が広がって、しかも、自分にとってすごく大事な友人(と相手に思ってもらえているかどうかはともかくとして)と繋がることができたことには非常に喜んでいるのだけど、その人たちが概して、まあめちゃくちゃ文章が巧くて、自分のヘタクソな文章をさらすのは少々辛いと思うようになったことは否定できないところ。文章って、楽器演奏とかとちょっと似てて、巧いヘタが素人目にもハッキリするから。けど、気にしても仕方ないし、以下は、夏休みの宿題みたいなものだと自分勝手に考えて、書き残しておくことにした。

 昨日、8月23日(土)に以下の研究会に参加してきた。

ソーシャル・マジョリティ研究会セミナー2014 

【社会的多数派の会話・コミュニケーションのしくみ】
東京大学先端科学技術研究センター バリアフリー分野/ソーシャル・マジョリティ研究会) 
第5回 8/23(土)午後3−5時 

「場面ごとにちょうどいいやりとりのルールってどんなもの?」 

浦野 茂(うらの しげる)さん (三重県立看護大学 教授)
http://kokucheese.com/event/index/159743/

 各回の講演者には、エスノメソドロジー研究(EM)関連の方が多く名を連ねておられる印象だったので、フロア側にEM者の方が多くおられるかと思ったら、これは完全に小生の予習不足による誤った推測で、このセミナーが、発達障がいの人々が抱える諸問題の解明や、そうした人々への支援の仕方に関して考察を深めるためのものだったため、参加者の大半は、発達障がいの当事者やご家族、支援者であるように見えた。
 とてもよかった。この研究会の趣旨も、浦野さんの講演も両方とも。もっと効果的な宣伝はないものかと思うほどだった。今回は170名収容の会場に、その半分ほどの参加だったように見えたが、もっとでかい500人超くらいのキャパの会場をとって、そこが埋まるくらいとかでもよいほどの有意義な一般向け講演会。全ての回の講演をYouTubeにアップしてほしいくらい。あるいは、各回講演者に講演内容を文章化してもらって、そこに主催者側が序論と結論をつけて、この都合7回のセミナーを書籍化するくらいのつもりで最初から企画してもよかったかも。なんて、偉そうなことを書きながら、今回、初参加だったわけですが。 
 それはともかく、研究会の趣旨と、浦野さんの講演に分けて、何がめちゃよかった(と小生が思った)のかを、以下に簡略にまとめておきたい。


【研究会の趣旨について】
 この研究会の企画を主導されたのが、冒頭に挨拶された東京大学先端科学技術研究センター特任研究員の綾屋沙月さん。著書も多く、有名な方なので、ご存知の向きも多かろう。ご本人自身、発達障害の当事者である(以下、URLの動画で一部、ご本人のそういう履歴が語られているが、その動画では、発達障害当事者研究についても解説されていて必視聴と言いたい)。
http://tedxkidschiyoda.com/speakers/1382
 その綾屋さんは、この研究会の趣旨を次のように説明されたように思う。端的に言えば、社会と個人とのすれ違いによって生じるコミュニケーション上の諸問題が、発達障がいという個人の側の特性によって記述する概念でのみ語られてしまうことがあまりにも多いが、そこに見られる個人の問題と社会の問題との混同を避け、この両者を切り分けて考えて行く必要がある。特定の人々が、様々な感覚や認識のしかたに一定の特徴的な性質を備えているにしても、その人が抱える社会性やコミュニケーション上の諸問題の全てを、発達障がいという個人的特性にのみ起因するものと考えるのではなく、社会の側にある諸要因をも視野に入れて、その問題の解決法を考えて行く必要があるのではないかと。その点で、ソーシャル・マジョリティ(社会の多数派)の社会関係の作り方やコミュニケーションのしかたを知ることが重要な意味を持つ。ソーシャル・マジョリティが、知らないうちにこんなルールで会話やコミュニケーションをしているという、「普通」の人々が「普通」にすることのしくみを理解することによって、その知見が、マイノリティの側の社会適応の参考材料になったり、あるいは、社会批判の根拠になったりするであろうと。非常に明快で、きわめて有意義な趣旨説明であった。


 「そこでエスノメソドロジーですよ」というフレーズが脳内にこだまするよという方がおられたら、酒井泰斗さんの営業戦略にかなり乗せられていると言えよう。悪い事ではない。ていうか、それ、俺である。第4回までは都合がつかず参加できなかったが、この第5回は、その酒井さんがコーディネートした研究会で、何度かその発表に接し、個人的には、そのクリアさ、緻密さと誠実さから、理想の研究者像を体現されているという印象を持っている浦野さんのご登場で、これを逃すことはできないと参加してきた。


【浦野氏の講演について】
 この日の演題は、「場面ごとにちょうどいいやりとりのルールってどんなもの?」であった。発達障がいと診断される人は、その場面その場面にあわせてちょうどいいやり取りをしていくという、いわば「普通」の人が「普通」にやっているように見えることをするのに甚だしく困る局面に立たされることが多い。それだけに、上記のテーマは、この研究会の趣旨にドンピシャ。しかも、EM者が自家薬籠中のものとしているトピック(のはず)。
 ただ、こういう講演の難しさは、専門性に根ざした質を保証しながら、一般のかたに向けて、難解にならないように構成し、表現を選ぶという点にある。が、今回の浦野さんの講演は、この点を見事にクリアされていたと思う。むろん、専門性に関する判断は素人の自分にはできないけれど、EMの専門用語をできるだけ出さずに、明快に論点整理され、わかりやすいストーリーを組み立てて頂いて、私以外の参加者の方もいろいろな意味で目からウロコ体験を経験されたのではないだろうか。
 講演をする側にとっても、聴く側にとっても、大事なのが、この目からウロコ体験。する側は、何とか自分が研究の中で得たのと同様の目からウロコ体験を、専門家ではない聞き手に追体験してもらえるように講演を構成することが、その研究分野の社会的存在意義の一部を担保することにつながるし、聴く側は、目からウロコ体験によって、学習し続けることに動機づけられ、学問を一ユーザーとして活用する機会を手に入れて、自分の抱える問題をより望ましいかたちで解決できる可能性が高まると考えられるからだ。
 以下、一人の教育さん(教養に乏しい教育研究者・教育者)として、どんな点で目からウロコ体験ができたかを覚え書きとして残しておきたい。2点だけ取り上げるが、ともに理論的というよりも、きわめて実践的な問題に関係する。なお、講演全体のポイント整理や要約をする余裕はないので、あしからず。
・目からウロコ体験ポイント その1 
 今回、個人的に最大の目からウロコ体験は、次のような点に関するものだった。ある発達障がい当事者が、他の人から、「あなたは字義通りに受け取る」「あなたは言葉の裏がわからない」と言われて困ることがあるけれども、一般に、他人の発言を字義通りに受け取ることと、そうでない受け取り方をすることとはどう区別されているのか、という趣旨の質問が予め寄せられていて、この質問に回答することが浦野さんに求められていた(ということが、綾屋沙月さんによる最初の趣旨説明と講演者紹介の中で披露された)のだが、この問題に対して、講演の中で浦野さんは、こうした字義へのこだわりは、問題としての「症状」というよりも、そこで生じている問題に対する一つの「対処法」として考えるべきだと回答されたのである。言い換えれば、発達障がい当事者が、あるコミュニケーションにおいて字義にこだわるとすれば、それは、特定のコンテクストの中にある相互行為に参加することが困難な状況に対して、積極的に対応しようとして選択した一つの手段なのだと。
 くどいけれども繰り返す。発達障がい当事者が、あるコミュニケーション場面で「字義通り受け取る」ということは、往々にして私たちが考えるように、その人の「症状」という一定の状態を意味するというよりも、むしろ、その人なりに選んだ「積極的対処」という行為なのだということである。
 では、この知見には、どのような意義があると言えるのか?ここにも、私の解釈が入り込んでしまうが、浦野さんのレジュメや講演から理解できた限りでパラフレーズすると次のようになる。それは、「字義通り受け取る」という現象を「症状」と見なすと、外から治療・矯正すべき望ましくない状態として捉えることになるけれども、それが、当事者の「積極的対処法」だとみなすと、当事者自身が、他の人々の協力を得て、その対処法が有効でなかった理由を理解するとともに、より効果的な別の対処法を、特に、字義に焦点化される通常の口頭による文表現以外のコミュニケーション手段による対処法を主体的に選択する可能性が開かれるという点で、この両者の捉え方の違いは非常に大きいからである。前者においては、「普通」の人々が「普通」にしている文表現によるコミュニケーションを不変のものとして、それに対応する資質・能力の方のみが改良の対象になる傾向があるように思われるが、後者においては、当事者側は、たんなる欠如状態にあるのではなく、問題解決に関与する主体性を備えた行為者として立ち現れ、同時に、当事者側の条件とそれを取り巻く社会の側の諸条件を、ともに調整・更新の対象と捉えることができるようになるだろう。
 この点の重要性は、次のことを考えると一層際立つ。すなわち、「あなたは字義通りに受け取る」「あなたは言葉の裏がわからない」と言われて困るという、発達障がい当事者による先の質問には、当事者自身も、期せずして、それを「症状」として捉えることを自ら引き受けてしまっているという事態が表現されているからである。
 これ以上くどくど書き連ねることは控えるが、こうした諸点で、「字義通り受け取る」という現象が発達障がい当事者の積極的対応なのだという視点は、学校教育一般に関しても示唆に富む目からウロコ体験をもたらしてくれるものだったのである。 
・目からウロコ体験ポイント その2
 目からウロコ体験その2は、上のその1と関連する。それは、発達障がい当事者が、コミュニケーションにおいて対処の仕方に困った時に「立ち止まる」「ワンクッション置く」という選択肢をとることの積極的意義が強調された点である。
 これは、講演後のフロアからの質問(講演後の短い休憩時間に、小さな紙に質問を記入し浦野さんに手渡すというかたち)として、障がい当事者と思われる方から出された、「質問と詰問の区別がつかないことがある。そういう場合にはどう対応したらいいか?」とか、「自分の言うべきことを相手に語られてしまった場合、あるいは、自分が行うべきことを、相手がしてしまった場合、相手にそれはおかしいとおだやかに伝えるにはどうしたらいいか?」といった質問に対して、浦野さんが示された考え方だった。
 つまり、質問と詰問に関しては、後者が、聞き手に、その質問への回答に必要な知識を必要としないような質問、あるいは、相手に一定のことを言わせようとするような問い方と考えていいが、そういう怪しい質問が来たら、すぐに答える必要がなく、いったん立ち止まって、そこでやり取りを修正して行く、相手にその真意を問い返すというようなことがあってもいいと。コミュニケーションというのは一気に進むものではなくて、時間をかけて順順に進むものなので、進んでまたいったんもどってという間合いを作って行けることが望ましい。発言の所有権を奪われて、相手にそれはおかしいとおだやかに伝えるという上でも、同様に、いったん進んだやり取りを立ち止まって修復して行くという選択肢があり得る。たとえば、その場ですぐに判断して対応するのではなく、「えっ?」ととぼけてみる、あるいは、「それってどういう意味ですか?」と尋ねてみる。こういうワンクッションを置くということがあり得る。詰問の場合も、発言の所有権を奪われる場合も、詰問された側や所有権を奪われた被害者の側に、なかなかそういう考える隙を与えないようにされてしまう場合もあるので、だからこそ、何とかスペースを作って行く、ワンクッション置くという努力が必要になるだろうという趣旨の回答を浦野さんがされていた。
 これを、「目からウロコ体験 その1」と関連させて考えれば、こうした「間合い」を作る努力は、発達障がい当事者にのみ求められるというわけでは決してなく、当事者を取り巻く社会の側、つまり、マジョリティの側や、指導や支援に回る側にも求められることが考えられてよいし、そうすべきだということになろう。何気ないことだが、障がい当事者の関わるコミュニケーションが、当事者にとってより望ましいかたちで進むように、当事者により大きな困難を課さないために、そのためのスペース、間合い、余裕をつくる、そのために立ち止まる、待つという構えを、マジョリティの側が意識することの重要性が、EMの研究成果に基づいて明確化された点は、学校現場で実践研究に携わる私には、きわめて示唆的であった。
 学校現場で授業研究に携わる実践家の間では、よく「出(で)」と「待ち」という言葉が使われる。指導する側は、子どもの思考力・判断力・表現力を育てる上で、どこでどのように出て、どこでどこまでどのように待つべきかを、常に意識し、省察する必要があるということだが、教師が、ついつい出てしまい過ぎること、待つということの難しさが、同時にそこで話題になる。特に、授業についていく、あるいは適応することが難しい子どもへの支援を考える場合に、そうした問題にフォーカスされることが多い。
 この点を踏まえて、目からウロコ体験ポイントの1と2をあわせて振り返ると、障がい当事者を含む、そうしたコミュニケーション上の困難を抱えている人々が示すような一般に問題視される現象は、いつもすでに、その当事者なりの積極的対応の不成功であり、その不成功の要因は、その当事者とマジョリティの間に存在するのであるから、それが一定の成功を収められるような修復の方向性について、その双方が理解を深めたり、折り合いを付けたりするための時間的・空間的余裕、スペースを作り出す努力と工夫が、特にマジョリティの側に求められるということになるのかもしれない。これは、マジョリティが、障がい当事者のために与えるというよりも、マジョリティ側が理解を進めるうえでも必要な間合いだと考えるべきであろう。
 こういうことを書いていると、最近NHKで放映されたドキュメンタリー「君が僕の息子について教えてくれたこと」が想起される。この番組は、近々また再放送されるとか、あるいは、いまどこかネット上で視聴できるとからしいので、ぜひ視聴されることをお勧めしたい。
 それはともかく、今回の研究会を主催された綾屋さんはじめ先端研の方々、そして、浦野先生に感謝。このブログ記事に、あまりに誤った理解や解釈が含まれていなければいいんだけど。それに、話の内容としては、ここに取り上げた以外に重要な知見が豊富に扱われていたので、それに全く触れないのは少し申し訳ない気もしている。たとえば、「普通であることは成し遂げられること Doing 'Being Ordinary'」とか、行為をなしとげるための手続的規則としての「構成的規則」の問題とか、類型的な行為連鎖としての構成的規則とか、情報の縄張り問題とか、目からウロコ体験をもたらす重要な諸々の論点。完全スルーですが、お許しを。
 この研究会は、あと2回あるので、できれば両方出たい。最終回は、荻上チキさんがいじめ問題に関して話されますよ。一緒にいかがですか?申込方法は、上のURLからどうぞ。


 なんだかダラダラと長くなってしまって、またあまり誰にも読んでもらえないかもしれないものを書いてしまった。しかし、これで夏休みの宿題1個だん。実は、あと二つあって、先日、会員の大半が学校現場の先生方という学会のシンポに登壇して、その時は思いつかなかったけど、自分としては、こういうことかと今になって納得したことがあって、これを簡単にまとめることと、その学会の直前に本務校で開催した教員免許更新講習(必修講習)の受講者(学校の先生方)の試験答案にいたく勇気づけられていることについてまとめることとを、夏休みの宿題と思ってるんだけど、どうなりますやら。
 いやいや、まだあるな。若手研究者に頂いた論文読んで感想とか。
 ああー、終わりそうにないなー。子どものころから、変わってないや。しかし、まあ、やらされてた子どものころの自由研究と、いまの自由研究はだいぶ違うか。さて、お仕事しよ。

追記(2018.12.10):
そして、ついにこの研究会が書籍化されたのである。めでたい。てわけで、下に書影をば。

ソーシャル・マジョリティ研究: コミュニケーション学の共同創造

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エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)

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概念分析の社会学 ─ 社会的経験と人間の科学

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発達障害当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい (シリーズ ケアをひらく)

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現代思想2011年8月号 特集=痛むカラダ 当事者研究最前線

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