教育の政治学(1b):カリキュラム・グローバリズムの政治学

minor-pop2008-05-02

 ここに載せる文章は、2008-03-28の日記に書いたことをもとにした原稿だ。アメリカ教育学会会報第28号に掲載されたものの一部訂正版になる。屋上屋を架すようなことになるが、前回日記よりも文章としてのまとまりを意識して仕上げたのものなので、のっけておくことにした次第。

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教育におけるグローバリズム=「コスモポリタニズム」の政治学
―トーマス・ポプケヴィッツ氏講演会備忘録―

 ウィスコンシン大学教育学大学院教授トーマス・ポプケヴィッツ(Thomas Popkewitz)氏の講演会(アメリカ教育学会主催3月15日[土]@名古屋大学教育学部)に参加し、翌日、会長のK先生と私で、同氏を名古屋市内の徳川園と徳川美術館に案内した。ポプケヴィッツ氏は、ミシェル・フーコーの理論を、教育の分析に積極的に応用してきたことで知られる米国の教育学者の一人だ。参加者は学会員以外を含めて10名程度で、質疑応答もかなり自由に行われ、その意味では、講演というよりもセミナーといった趣を持つ会となった。
 タイトルは「コスモポリタニズム、そして教科の諸科学:子どもの育成により社会を形成する際の文化的諸命題」(原題は、Cosmopolitanism and the Sciences of School Subjects: Cultural theses in the Making of Society by Making the Child)であった。これは、彼の最近著『コスモポリタニズムと、学校改革の時代:子どもの育成により社会を形成する際の文化的諸命題』(2008)に基づく議論で、いわば教育におけるグローバリズムの意味を解析したカリキュラム論である。
 私は、この著作は未読で、しかも、講演で扱われた論点そのものに関しても十分に理解しきれていない部分が少なからずあるので、ここでの報告内容には無視できない曲解や誤解が含まれている可能性がある。その点、識者の御教示を乞いたい。
 さて、この講演の最も中心的なキーワードである「コスモポリタニズム」は「世界市民主義」とでも訳せようが、国家や共同体の狭い枠にとらわれない、一種の普遍主義を標榜する立場を意味する。それは、世界中どこでも通用するような思考・行動様式の存在を前提とし、それを中心に世界を形成しようとする構えのことだと表現できよう。こうした構えを持つコスモポリタンは、ローカリティを捨象された「故郷喪失者」(バーガーら)として描かれたこともある。ポプケヴィッツ氏は、こうしたコスモポリタニズム的な志向性を、19世紀以降の近代社会において一貫して強化・拡大してきているものとして描いている。
 氏の議論で、教育学的に興味深いのは、「生涯学習者」という存在を「未完のコスモポリタン」とみなす視点である。私たちは、新たに生じる様々な問題に柔軟に対応して問題を解決する能力を培い、身体的にも精神的にもより健康な人間になるよう促されると同時に、自らそうあろうと努力するが、こうした努力は世界中どこに行っても重要なもの、つまり普遍性を帯びたものとして表象される。私たちは、おそらくあらゆる問題に対応できる資質・能力を習得することも、完全な意味で健康になるということも論理的・現実的にあり得ないのだが、生涯にわたって、その可能性をどこかで信じて強迫観念的にその努力を継続しようとし、そうした努力が賞賛されもする。
 氏は、こうした学習のあり方を「錬金術」というメタファーで表現する。錬金術は、いわば不可能なものを可能であるかのように思い込んで、その実現に勤しむということを意味するものと言えようが、生涯学習とはまさにそのようなものだというわけである。
 私なりに別の言葉で表現すれば、ポプケヴィッツ氏は、コスモポリタニズムというものは不可能であると同時に不可避なものであることを具体的に分析しているように思われる。氏は、この論点と様々な教科教育に関わる諸問題に関しても、著作の中で詳細に論じているが、それに関してはまだ私の中で未整理なのでここでは報告できない。
 もう一点、注目しておきたいのは、コスモポリタニズムという普遍主義に根ざして、全ての子どもにある種の教育を施そう、また全ての子どもを救おうとする「包摂」が同時に「排除」を生み出す、あるいは、全ての子どもを理想的存在に近づけるために、そのための目標として示される理想像は「希望」を人々に与えるものであると同時に「恐怖・不安」を与えるものでもあるという逆説的現象が生じると氏が指摘している点である。
 たとえば、有名なNCLB法は「落ちこぼれがなくなるように、説明責任・柔軟性・選択制をもって、学力到達度格差を埋めるための法律」という正式名称を持つ。要するに、全ての子どもに一定の学力を身につけさせるように努力し、また、その結果をテスト結果で示すように学校に求める法律である。この法律は、全ての子どもに必ず身につけさせなければならない知識があるということを前提にしているという点で、コスモポリタニズム的志向性に合致するものと言える。
 ところで、落ちこぼれをなくすという目標を聞くと、私たちは条件反射的に頷きたくなる。少なくとも反論する気にはなれない。が、「全て」というのは不可能である。というよりも、「全ての子ども」と言ったとたん、そこには何らかの範囲が常に既に設定されている。たとえば、何らかの種類・程度の障がいを持つ子どもが、そこではカウントされていないかもしれない。「全て」と言ったとたん、その「全て」に入らない子どもを生み出すことになる。
 これが「包摂=排除」という逆説である。全ての子どもを包摂しようとしても、その「全て」が原理的に一定の線引きを前提にせざるを得ない以上、その「全て」から排除される存在は必ず生じることになるのだ。
 このことが「希望=不安・恐怖」という逆説的図式とつながる。落ちこぼれがゼロになるという見通しは、ひとつの希望ではあるが、同時に、もし自分の子どもが落ちこぼれになったら、という不安は、希望と同様にそのネガとして増幅されることになるからである。
 学力の問題だけではない。一定の規律や行動様式を善きものとして全ての子どもに身につけさせようとするときにも同様のことが生じる。安心で安全(あるいは清潔、健全)な人的環境を創出しようとすれば、その一方で、その分、安心・安全(清潔・健全)とは見なされない存在に対する恐怖は増し、全ての人々にとって安心・安全(清潔・健全)な社会を目指すことが、その規準に合致しない存在を排除することにつながって行く。
 こうした分析は、ある意味で私たちを非常に息苦しくさせる議論なのかもしれない。ではどうすればいいのか、という出口が見えないからである。しかし、現状の改革が、現状のより的確な認識によるとすれば、私たちが目をそらすわけにはいかない重要な問題がここで提起されていると言えよう。
 最後に、ポプケヴィッツ氏の考察に対する私の疑問を二点掲げておきたい。氏の議論は、モダンとポストモダンの区別を取り払い、モダンの論理でポストモダンを分析しているとように思われる。ポストモダンは、モダンの徹底化と捉えれば、この分析の方向性に一定の妥当性はあるが、徹底化が生じさせる諸問題を分析できないということになりかねないのではないか。ドゥルーズは、フーコーの「規律社会」に対して、「管理社会」というポストモダン社会の新たな局面を指摘した。ポプケヴィッツ氏の議論はフーコー的視角でのみ分析が進むので、そうした要因を十分に踏まえた議論になっていない。たとえば、氏が言うように、教育学を下支えするための理論的道具として長らく心理学(発達心理学など)が援用されては来たが、最近の脳科学ブームは、ドゥルーズの言う管理社会的要因、東浩紀の言う動物化的要因と結びついているような気がしてならない。
 次の点も、当日、氏に質問したことだが、コスモポリタニズムが世界を覆い尽くしつつあるという分析は、グローバリズムが言われる今日、やはり一定の妥当性を持つものだが、最近の政治学理論でコミュニタリアニズム共同体主義)の隆盛が見られることを考えると、そうした普遍主義に対する対抗軸が積極的に打ち出されているという側面を否定することは難しいように思うが、氏の分析ではその点に関しては明確に議論されていない。
 こうした質問に対して、講演会の場では明確な回答は得られなかったが、ポプケヴィッツ氏の議論が現代世界の教育改革事情を統一的に理解する上できわめて示唆的であることは間違いなく、氏の議論を土台にして、こうした自分なりの疑問に関しても追究して行ければと思う。