新学習指導要領の可能性と問題点

目次
1 改訂のポイント
A 主要ポイント
(1) 社会に開かれた教育課程とは?
(2) 資質・能力を中心とする教育課程とは?
(3)「主体的・対話的で深い学び」(いわゆるアクティブ・ラーニング)とは?
(4) カリキュラム・マネジメントとは?
B 上記以外に注目すべきポイント
(1) 学習評価に関して
(2) インクルーシブ教育に関して
(3) 道徳教育に関して
2 改訂ポイントが孕む問題点
A 主たる改訂ポイントについて
(1) 「社会に開かれた」というスローガンが持つ危険性
(2) 資質・能力を中心とする教育課程の限界
(3)「主体的・対話的で深い学び」の陥穽
(4) カリキュラム・マネジメントの落とし穴
3 展望--新学習指導要領の建設的批判へ
A 主たる改訂ポイントについて
(1)「社会に開かれた教育課程」というスローガンについて
(2) 資質・能力を中心とする教育課程について
(3) 「主体的・対話的で深い学び」について
(4)カリキュラム・マネジメントについて
B 上記以外に注目すべきポイントについて
(1) 学習評価に関して
(2) インクルーシブ教育に関して
(3) 道徳教育に関して


1 改訂のポイント
A 主要ポイント
 平成29年3月改訂学習指導要領においては、その改訂史上初めて、本文に先立ち「前文」(1200文字程度)が添えられ、そこで、教育基本法条文(第1〜2条)の引用に始まり、今次改訂学習指導要領を貫く基本理念が語られている。その語り口には理想主義的とも言えるトーンが漂う。それを象徴するのが「社会に開かれた教育課程」というスローガンであり、その中心軸が「よりよい学校教育を通してよりよい社会を創るという理念」である。その上で、「よりよい社会」の創り手になるために必要な「資質・能力」の育成を中心とする教育課程への転換が声高らかに歌われている。こうした響きは、今回の学習指導要領を、日本の公教育史における明治以来の画期として位置付けようとした中教審答申(2016年12月21日)の序文「はじめに」と共通する。
 このことは何を意味しているのか。この点を理解するために、今次学習指導要領の最も主要な改訂指針を確認しておこう。それは、(1)社会に開かれた教育課程、(2)資質・能力を中心とする教育課程とこれに基づく学習評価法の再編、(3) 「主体的・対話的で深い学び」(いわゆるアクティブ・ラーニング)の推進、(4) カリキュラム・マネジメントの確立という4点に集約できる。
(1) 社会に開かれた教育課程とは?
 社会に開かれた教育課程とは、要約すると、変化する社会状況を広く視野に収めて、よりよい学校教育によるよりよい社会の実現を目指すとともに、そのための社会参画に向けて育成すべき資質・能力を明確化する教育課程を指し、その実施にあたって学校外の人々と連携を図ることを旨とすることを意味する。ここで注目すべきは、社会や世界の変化に対応するという機能主義的・適応主義的な教育観に止まらず、学校教育によってより望ましい社会を構築しようとする社会改良主義的な、その意味で理想主義的な観点が明示されていることである。
(2) 資質・能力を中心とする教育課程とは?
 教育課程を、教師が教えるべき知識・技能の内容項目を中心とするもの(コンテンツ・ベース)から子どもたちが身につけるべき「資質・能力」を中心とするものに(コンピテンシー・ベース)に転換するという企図は、今次学習指導要領の最大の眼目である。このトレンドは、日本のみならず多くの先進諸国の教育改革に共通に見られる方向性と言ってよい。アクティブ・ラーニングの推進もカリキュラム・マネジメントの重視も、このコンピテンシー・ベースの教育課程への転換という要因から派生的に帰結する方策である。
 では、資質・能力中心の教育課程への転換とは何を意味するか?それは、これまでの教育課程が、どのような知識・技能の内容を教えるべきなのかに照準するものだったのに対して、今後の教育課程は、どのような力を子ども・若者が身につけるべきなのかに重点を置こうとすることを指す。文科省は、これを「何ができるようになるか」という言葉で表している。
 ただし、ここで「何ができるようになるか」と呼ばれる資質・能力観は、汎用的な有用性を持つ力を意味する。すなわち、複雑かつ変化の激しい社会においては、今ここで有効とされている知識が、今後、他の場面でそうであり続けるかどうかは簡単に見通しがつかなくなるだけに、また、ICT環境の進化により多くの知識が居ながらにして参照できる時代であるだけに、多くの知識を習得すること以上に、獲得した知識や手に入れた情報をうまく活用して、新たな局面に対応したり、新たなアイデアや価値を創造したりすることができるような資質・能力が求められるということである。言い換えれば、学校内部や従来型の試験でしか役立たない網羅主義的で断片的な知識の暗記ではなく、子どもたちが現実の社会生活の様々な場面で出会う問題を主体的・協働的に解決していけるような力がより重視されるというわけである。
 なお、こうした能力は、一定のノウハウによって得られるような限定的で、特定の分野別の知識・技能に止まらず、領域横断的で不定形な能力や意欲・態度など非認知的能力を含む人格総体にまで及ぶものとして表象されることになる。このように考えると、育てようとする資質・能力とは、育てたい子ども・若者像と言い換えることもできる。よって、資質・能力を中心とする教育課程では、育てたい子ども・若者像を目標として明示する教育課程と等置されることになろう。
 さて、資質・能力を中心とする教育課程への転換に伴いクローズアップされることになるのが、のちに再度触れる学習評価法である。ここで確認しておきたいのは、次の点である。すなわち、そもそも、資質・能力を中心とする教育課程は、育成を目指す資質・能力=育てたい子ども・若者像を教育目標として明確化することを出発点とし、最終的に、その目標がどの程度達成されたかを評価するという作業を必然的に伴うという意味で、その評価法として目標準拠評価を要請するということである。
(3)「主体的・対話的で深い学び」(いわゆるアクティブ・ラーニング)とは?
 上記のような資質・能力論の導入、あるいは、学力観の転換は、教育方法にも刷新を要請する。すなわち、多くの内容項目の習得を優先する教育においては、効率的な知識伝達が可能な講義型(チョーク・アンド・トーク)の授業で不都合はなかったかもしれないが、新たな局面における創造的問題解決に向けて、局面に応じて、必要な情報を選択したり、既得の知識を活用したり、あるいは、他者と交渉・協働したりしていけるような資質・能力の獲得を主眼とする教育においては、できるだけ現実・本物に近い文脈において学ぶ側の主体性や能動性がより十全に発揮されるアプローチが求められることになる。
 ところで、ALに関して、今次学習指導要領改訂動向において着目すべきは、文科相による諮問文(平成26年11月20 日)からの定義変更である。同諮問文では「課題の発見と解決に向けて主体的・協働的に学ぶ学習」と表現されていたALは、最終答申文(2016年12月21日)及び今次改訂学習指導要領では、標記の通り「主体的・対話的で深い学び」と定義づけられることになった。
 まず、「協働的」が「対話的」に変更されたが、その背景は、上記答申文でALに関する注記として、「形式的に対話型を取り入れた授業や特定の指導の型を目指した技術の改善にとどまるものではなく」(p.26)と、また、同答申文及び学習指導要領解説総則編で「対話的学び」に関して、「子供同士の協働」にくわえて「教職員や地域の人との対話,先哲の考え方を手掛かりに考えること等を通じ」と述べられていることから推察できる。すなわち、協働的な学習という言葉が使われることにより、ALと言えば、判で押したように小集団での話し合い活動ばかりになり、しかも、そこに従うべき特定の方法論があるかのような受け止め方をする傾向が、学校現場に少なからず見られたという事情を受け、対話的な学びという表現に変更した上で、対話という形態の幅広さを示すことで、ステレオタイプ化した学習のあり方に見直しを迫る意図があるものと考えられる。
 次に、「深い学び」という要素が付されることになった背景には、子ども中心主義的ないし経験主義的な教育への伝統的な批判が念頭にあると考えられる。たとえば、活動あって学びなし、這い回る経験主義といった指摘である。このように、主体的あるいは能動的な学びが必ずしも質の高い学びに帰結するとは限らないという問題意識に基づいて、質の高い学びを表す標語として「深い学び」が用いられることになったと言えよう。
 が、さらに特筆すべきは、この「深い学び」実現の鍵として、(特別の教科道徳を除く)各教科・領域で「見方・考え方」なるものが定義・導入されたことである。この見方・考え方という観点は、社会科や理科ではすでに「社会的な見方や考え方」や「科学的な見方や考え方」という表現で現行版(平成20年改訂版)でも既出なので、真新しい観点ではない。が、こうした全面的導入は学習指導要領改訂史上初のことである。それは、「その教科等ならではの物事を捉える視点や考え方」で、「各教科等を学ぶ本質的な意義の中核をなすものであり,教科等の学習と社会をつなぐもの」(中学校学習指導要領解説 総則編 p.4)とされ、(特別の教科道徳以外の)各教科・領域の「目標」に、この「見方・考え方を働かせる」ことが明記されることになった。これらは、それぞれ個別の知識を多く習得するということに止まらない当該教科・領域を学ぶことの本質的意義、つまり、その教科・領域はいったい何ができるようになるために学んでいるのかという問いに対する答えをできるだけ明確化し、その意義を踏まえた教育・学習を促すために定式化されたものと言えよう。
 くわえて、今次改訂版では「単元や題材など内容や時間のまとまりを見通し」という表現が頻繁に挿入されている点にも注目しておこう。これは、汎用性の高い資質・能力の育成や、そのための主体的・対話的で深い学びやその評価を、1時限の授業という短いスパンを基準として進めていくことはできないという理由からである。
(4) カリキュラム・マネジメントとは?
 カリキュラム・マネジメントとは、学校の教育目標(育てようとする資質・能力=子ども・若者像)を明確化し、その目標を達成できるようカリキュラムを計画・実施した上で、評価・改善していくという一連のサイクルを意味し、その際、教科横断的な視点を採用すること、子どもの姿やその実態を表す各種データに基づくこと、学校内外の様々な人的・物的リソースを有効活用すること、これらに配慮することが求められる。
 こうした取組が重視される背景には、上述の資質・能力中心の教育課程への転換という文脈がある。すなわち、各学校は、各教科別の知識・技能の習得にとどまらず、「育てようとする(汎用性の高い)資質・能力=子ども・若者像」を教育目標として明らかにし、目標実現への努力が求められることになるので、その目標を学校全体で共有し、特定の教科・領域に限らず全方位的に、さらに全学年を見通したビジョンをもって、カリキュラムの計画・実施・評価・改善を進める必要があるというわけである。とりわけ、教員の間で、学級・学年だけでなく教科という壁もできやすい中学校や高校では、そうした壁を超え、子ども・若者たちの育ちを、学校全体で、さらには学校を支える家庭や地域、外部諸機関と連携して支えて行くことが求められることになる。したがって、この意味でのカリキュラム・マネジメントは、管理職だけでなく学校現場の教員一人ひとりに要請されている。
B 上記以外に注目すべきポイント
(1) 学習評価に関して
 今次改訂学習指導要領では「第3 教育課程の実施と学習評価」、同解説総則編では「教育課程の実施と学習評価」(第3章第3節)として、学習評価が節立ての冠として明記されることになった。その内容上注目すべきは以下の2点であろう。第1に、今次改訂学習指導要領の学習評価法に特徴的なのは、学校教育法第三十条に基づいて、資質・能力(学力)が[1]「知識及び技能」、[2]「思考力・判断力・表現力等」、[3]「学びに向かう力・人間性等」という3つの柱からなるものとして再編され、特別の教科道徳を除く各教科・領域別の「目標」もこれに準じて再定義されたこと基づき、学習評価の観点も、従来の4観点(関心・意欲・態度、思考・判断・表現、技能、知識・理解)から上記3つの柱に対応する3観点に再整理される見込みであるという点である。そして、次期指導要録の書式は、これにしたがって改訂されるとともに、この観点別評価が高等学校の指導要録にも導入される可能性が高い。第2に、資質・能力の三つの柱のうち、「学びに向かう力,人間性等」に関しては、観点別評価や評定になじまず、個人内評価(個人のよい点や可能性,進歩の状況について評価する)を通じて見取るべき部分があるということが指摘されている点である。
(2) インクルーシブ教育に関して
 中教審による最終答申では明記されていた「インクルーシブ教育」という文言が、学習指導要領にもその解説総則編にも一切登場せず、「インクルーシブ教育」と密接に関連する「合理的配慮」という概念にも全く触れられていない。同答申では、「教育課程全体を通じたインクルーシブ教育システムの構築を目指す特別支援教育」という表記で、その重要性が唱えられていただけに、この懸隔には注意を向けざるを得ない。
(3) 道徳教育に関して
 道徳が特別の教科として教科化されたことに伴い、今次改訂学習指導要領では、「第1章 第6 道徳教育に関する配慮事項」として、また同解説総則編では「道徳教育推進上の配慮事項」(第3章第6節)として、独立した節が設けられ、位置付けが格上げされている。ここで目を引くのは、同解説特別の教科道徳編では明記されているような「考える道徳」「議論する道徳」への転換という文言が、学習指導要領や同解説総則編では全く登場せず、むしろ、その叙述上の力点は、指導体制における校長による指導力の発揮や、指導内容における規律、規範意識、伝統・文化、愛国心などの重点化を謳うというトーン、道徳教育によっていじめを防止するという論調が目立つという点である。また、改訂学習指導要領の道徳教育に見られる全面主・徳目主義・網羅主義という特徴を反映して、いわゆる「別葉」の作成が示唆されていることも無視できない。
2 改訂ポイントが孕む問題点
A 主たる改訂ポイントについて
(1) 「社会に開かれた」というスローガンが持つ危険性
 「社会や世界の状況を幅広く視野に入れ、よりよい学校教育を通じてよりよい社会づくりを目指すという理念」それ自体は有意義とも言える。実際、文科省は、この理念を非常に理想主義的に語っている。が、ことはそう単純ではない。いったい社会や世界のどのような側面を特に視野に入れるべきものとして重視するのか、また、よりよい社会とはいったいどのような社会を意味するのかという点に、容易な合意はあり得ず、これらは常に対立・葛藤を伴う問いだからである。残念ながら、文科省にはそうしたメタ認知が欠如しているか、あるいはそうした認識を明示できないか、いずれかのようである。よりよい社会を目指すという社会改良主義的な理念を、権力・行政側が持ち出すのと、市民が持ち出すのとでは意味が異なる。こうした必然的に対立・葛藤を伴う論点を含んだ理念を、そういうものとして明示しない場合には、そうした対立・葛藤の存在や様々な立場の違いは等閑視され、ソフトではあれ危険な全体主義が忍び込むことになりかねない。
(2) 資質・能力を中心とする教育課程の限界
 第1に、資質・能力観、つまり、育成しようとする子ども像・若者像は、どのような社会を望ましいと考えるかという社会観と相即不離であるという点があげられる。このことは、教員側の社会認識が深まらないと、その資質・能力論も浅いレベルに止まる危険性があることを意味する。しかも、資質・能力観のベースに一定の社会観があるとすれば、上述のように、そこには必然的に対立・葛藤を伴うことになるので、そうした対立・葛藤の可能性を(特に権力側が)自覚できない場合には、ここでも、全体主義的風潮を呼び込むことになる。しかも、「学校として育成を目指す資質・能力が明確であること」は、教育課程編成の基軸を成す教育目標を設定する上で最も重要な要素の一つであることを考えると、この危険性を看過することはできない。
 第2に、流動化の激しい社会における汎用性の高い資質・能力、すなわち、人間性や主体性といった包括的な資質・能力というものは、明確な定義が本来的に困難で曖昧なものであり、実生活あるいは現実の活動場面から切り離された事前の試験によってつかみとれるようなものではなく、実生活あるいは現実の活動場面における具体的実践を通じて事後的に見いだせるものでしかないという点があげられる。
 第3に、資質・能力中心の教育に必然的に伴う目標準拠評価は、学習評価として一定の限界を有する。資質・能力中心の教育では、より本物の問題解決に資するスキルの獲得に重点を置くという点に一定の肯定的意義を見出すことは可能だが、目標準拠評価では、定義上、一定の目標(資質・能力の獲得)が達成されたかどうかを見る評価である以上、子ども・若者を到達目標から見ることになるので、彼女たち/彼らを、そうした資質・能力が欠如した存在として否定的に捉える危険性を孕んでいる。
 第4に、資質・能力中心の教育で、その学習評価が個人に照準することの問題点に目を向ける必要がある。個人にとって何らかの資質・能力を欠いているという事態そのものは、仮にその他の人々によってその欠如が補われたり、欠如そのものが困難を生まない環境が構築されたりしていれば問題にならないはずだが、資質・能力の育成という教育的視点が過度に優先されると、そうした欠如がもっぱら個人に帰責される風潮に棹差すことになる。しかも、現代的な資質・能力論は、包括的で全人格的な様相を帯びていることを踏まえると、この問題が持つ危険性も看過できない。
(3) 「主体的・対話的で深い学び」の陥穽
 第1に、先に参照した通り、「協働的な学習」に特定の型があるかのような誤解が生まれたという状況を是正するために、より広い概念として「対話的」という表現を用いることにしたという文科省の意図は一定程度理解可能であるが、この表現の変更は、より個人に照準する資質・能力論と親和的であると言えよう。こうした資質・能力観は、主体性の欠如を個人に帰属させるような評価的視線に偏ったり、関係性の中で生じるゆたかな学びを実践の場ですくい取れなかったりするという問題を生じさせかねないであろう。
 第2に、「深い学び」という視角に潜む危険性として、先ほど主として目標準拠評価に関して指摘したのと同様の問題が確認できる。当然のことだが、深い学びは、浅い学びに対する批判的視点を伴うものである。このことは、目の前で展開されている子どもの学びの姿を否定的に捉える視線が先行する可能性が十分にあるということを意味する。深い学びには一定のゆとりが必要であることを踏まえれば、性急に深さを求めることは、かえって深い学びの実現を損なう危険性がある。
 第3に、「深い学び」実現の鍵として導入された「見方・考え方」という視点に現れている限界について確認しておきたい。この視点は、先に見たように「その教科等ならではの物事を捉える視点や考え方」で、「各教科等を学ぶ本質的な意義の中核をなすものであり,教科等の学習と社会をつなぐもの」という趣旨で導入されている。特定の学問分野にその分野に固有のアプローチ、すなわち見方・考え方と呼びうるものが存在している場合もあろう。こうした学問的・科学的なものの見方・考え方を踏まえた授業は、表層的な知識の習得に止まらない概念的な理解への到達に資する可能性が高いという点で、学習の質向上に資する可能性があることは十分に理解できる。が、こうした文科省が示した「見方・考え方」には、異論を唱えることができる余地は十分存在し、決して、普遍的意義を持つとはいえない水準に止まっているものも少なくない。
 第4に、汎用性の高い資質・能力の育成を中心とする教育の転換には、Less is More.(より少なく学んでより多くを学ぶ)という標語で表される理念が重視されてよいが、今回の改訂では全く欠如している。つまり、より深い学びの実現に要する時間の確保に向けた教育内容の削減・精選が全く視野に入れられていないのである。学習指導要領が最低基準だとすれば、その指導項目は(特に高校で)多過ぎるのではないだろうか。
(4) カリキュラム・マネジメントの落とし穴
 カリキュラム・マネジメントは、マネジメントという用語がわざわざ適用されているという点でも、PDCAサイクルの確立や、利用可能な資源の有効活用が強調されるという点でも、ニュー・パブリック・マネジメント(NPM:公共部門・政策に、民間企業の経営管理手法を適用することで、効率化や提供するサービスの質向上を測ろうとする行政管理論)の新自由主義的なベクトルと無関係ではない。こうした文脈に無自覚でいると、その陥穽に陥ることになりかねない。以下では、カリキュラム・マネジメントが抱える限界を指摘しておきたい。
 第1に、カリキュラム・マネジメントは、各学校における教育目標を実現するためのあくまで手段であって目的ではない以上、そこで実現しようとする目標が十分な正当性や妥当性に欠けている場合には、かえって、価値のある教育の実現を阻害する危険性がある。
 第2に、学校現場における教育実践は、PDCAサイクルという言葉から連想されるような線形的なものではあり得ない。それは、多層的・多元的な状況への対応なので、むしろ、一定の柔軟性、曖昧さやいいかげんさを必要とし、それらが積極的な意義を持つことも多い。たとえ一区切りの実践を振り返った時に、その実践の意味づけを言語化できるとしても、子どもたちとの関係性の中で経験的に培われた「勘」を頼りに手探りで進めて行った学級経営が、なんとはなしに軌道に乗っていくが、事前にはPDCAサイクルに乗せられるほど明るい見通しも明確な計画性もなく、言語化もできてはいないという事態は十分考えられる。PDCAサイクルという工学的発想とは相容れないように見えるこうしたプロセスを、単に疑わしいものとして斬って捨てるべきではない。
 第3に、カリキュラム・マネジメントでは、学校内外の人的・物的資源の有効活用が要請されているが、この論理は、現に学校に配分されている資源を所与として、その配分の限界を批判的に捉える視線を奪うことになりかねない。要するに、学校に与えられている予算をはじめとする諸々の資源が不足していることや、学校が抱えている諸条件に無視できない限界があるという事情から、学校目標の達成に支障を来しているという場合でも、カリキュラム・マネジメントの論理だけに依拠すると、その責任は、資源を有効活用できていない学校やその教員にあるという「自己責任論」的見方の方が優先されることになりかねないからである。
3 展望--新学習指導要領の建設的批判へ
(1)「社会に開かれた教育課程」というスローガンについて
 まず、現場の同僚と、文科省が美しく語る理念の意義だけでなく、上述のようなその理念の提示の仕方が持つ危険性に関する認識を広めることであろう。その上で、何をもって社会に開かれた教育課程とするのかという問いについて各学校現場で葛藤・対立を含む議論を重ね、その答えはボトム・アップで模索・明確化し更新していくべきであろう。
(2) 資質・能力を中心とする教育課程について
 第1に、各学校において資質・能力論には、教員側の社会認識を不断に深めていくことが必要になる。同時に、資質・能力観がそれを支える社会観と不可分であるとすれば、そこには多様な立場の違いがあり得るだけに、ここでもトップダウン型で設定するのではなく、教員間で十分な議論と合意形成を通して明確化していく必要がある。
 第2に、実生活あるいは現実の活動場面における具体的実践を可能な限り意識したテストであっても、人工的な環境設定にならざるを得ないテストという手段では、現在重視されている類の資質・能力を測定することには大きな限界を有する。そうした試験の結果が学習評価の対象として優先されると、一人ひとりの子どもの生にとって学習が持つ意味、学習のゆたかさは切り詰められてしまうだろう。従来型の学力テストを見直し、改善していくことには意義があるものの、テストで測定できる能力には限界があり、筆記ないし情報入力によるテストという形式である限り、実生活あるいは現実の活動場面における具体的実践を通した本物の問題解決能力の育成よりも、出題傾向への対策に重点が置かれてしまうという懸念は払拭できない。この点で、学力テストの結果が各学校における実践で最優先されないように訴えていくべきであろう。
 第3に、目の前の子ども・若者たちの実態からカリキュラムを編成し、一人ひとりの子ども・若者にまず肯定的な眼差しを向けることを最優先するならば、目標準拠評価とともに、あるいは、それ以上に、個人内評価やゴールフリー評価(目標にとらわれない評価)の重要性を打ち出し、後者に重点を置いた学習評価・授業評価・カリキュラム評価のあり方を、各学校現場での実践活動や協議を通じて具体化していくべきであろう。
 第4に、個人の資質・能力を育成するためにも、その前に、また、その基盤的前提として、一人ひとりの子ども・若者にとって自らの存在が尊重・承認されていると感じられ、安心して楽しく過ごせるインクルーシブな空間を学校に実現するという目標を優先し、この視点を日々の実践においても評価においても一貫させる必要があろう。
(3) 「主体的・対話的で深い学び」について
 第1に、子どもたちの学びが深いか浅いかの前に、また、子どもたちが学びに向かっているかいないかの前に、目の前にいるその子どもたち一人ひとりの存在をまず肯定し、ケアするという側面を優先させるとするならば、深い学びの達成を熱心に目指すあまり、子どもに対する否定的な評価視線が先立つということは回避されるべきであろう。これは、学びは浅くてもよいということではない。が、深い学びは、その基礎としての学ぶ意欲や学びの楽しさと切り離せないと考えるべきだろう。また、学びが深いか浅いかという点でも、子どもたちの姿を通して、その声に耳を傾けることによって判断するという構えを忘れないでおくべきだろう。子どもたちは、自らの学びが浅い場合には、その学びに内在的に動機付けられなくなる可能性が非常に高いからである。
 第2に、各学校現場は、文科省が深い学びの鍵として示した「見方・考え方」を金科玉条とせず、あくまでその教科・領域における学習の中核的意義を再考するためのヒントとして、対話の相手として参照すべきであろう。
 第3に、文科省は、ゆとりか詰め込みかという二項対立的な観点を否定し、学習内容の削減は行わないと宣言しているが、限られた授業時数の中で多くの知識項目を扱わなければならないとすれば、じっくり時間をかけて深く学ぶということが必然的に制約されざるを得ないだけに、教育内容の精選を現場レベルで認められるように運動を展開していくべきであろう。ALの場合、各教員に相応の工夫とその工夫に費やすための準備時間がより多く必要になることが多いため、最低基準としての学習指導要領における指導項目が削減されないとすれば、指導項目の精選に関する裁量が各学校現場に全く与えられないとすれば、多忙化に拍車をかけることになろう。
(4)カリキュラム・マネジメントについて
 第1に、一部教科における学力テストの成績向上を優先的な教育目標とするカリキュラム・マネジメントには、明確な異議申し立てがなされてしかるべきであろう。
 第2に、カリキュラム・マネジメントで実現が目指されている学校目標それ自体の問い直しや再評価が、ボトムアップで不断に実行されていくべきであろう。その点で、PDCAサイクルを含むカリキュラム・マネジメントの手続きの厳格化に走るのではなく、常に、カリキュラム・マネジメントと呼ばれる作業過程そのものを、メタレベルで観察し、検証する作業が必要になるだろう。
 むしろ、カリキュラム・マネジメントの中心軸となる学校目標には、何よりもインクルーシブな学校空間の構築に資するような指針が据えられるべきであろう。それによって、何よりもまず、どんな子どもも排除されず、一人ひとりの存在が肯定されるような学びの空間の構築が目指されるべきであろう。
 第3に、学校の教育目標にとらわれずに子どもの学びの姿を振り返るという意味でのゴールフリー評価に基づいて、つまり、子どもたちの実態に基づいて教育課程を見直すということが視野に入れられるべきであろう。
 第4に、カリキュラム・マネジメントは、管理職や教務担当者のみが関与する取組ではなく、学校全体で実施することが要請される取組であるとすれば、最終責任を管理職が負うにしても、ここでも、トップダウンではなく、ボトムアップ型の民主的な意思決定を尊重したカリキュラム・マネジメントが推奨されるべきであろう。管理職のリーダーシップの主眼も、権威主義的な統率力にではなく、多様な教職員の一人ひとりを活かす対話型のコミュニケーション能力に置かれるべきであろう。子どもたちを民主的な主体として育成していくためにも、まずはカリキュラム・マネジメントという学校全体で実施すべき取組に関して、民主的な職場環境を整備していくことが重要な意味を持つだろう。
B 上記以外に注目すべきポイントについて
(1) 学習評価に関して
 観点別評価が、高等学校にも導入される見通しであることが確実であるが、高等学校の場合には、通信制定時制をはじめとして、多様な状況を含んでいる。その中で、指導要録における評価の観点がどのように改訂されるのかという点に関して、ひきつづき注視する必要があろう。また、こうした評価方法の導入が多忙化問題の悪化に繋がらないように、指導要録改訂動向を注視する必要があるだろう。
 他方で、従来型の知識項目の習得中心の学力試験一辺倒の評価から、学習指導要領改訂に伴う教科書改訂、大学入試改革等に伴って、観点別評価が導入されることは、生徒たち一人ひとりをより多角的に捉え、今後の社会で必要になる資質・能力を生徒たちが獲得できる可能性につなげることによって、よりゆたかな学びの実現につなげるチャンスにもなりえよう。目標準拠評価の限界を十分に踏まえた上、という条件付きではあるが、従来の狭い評価観から脱却する学習評価のあり方を検討していくことも考えられてよいだろう。
(2) インクルーシブ教育に関して
 障がい者権利条約の批准を受けて、中教審答申で明確に項目立てされていたインクルーシブ教育に関する記述が、学習指導要領では全く削除されてしまった点に関しては、学習指導要領にも明記されることを求めて行く必要があるだろう。
 また、インクルーシブ教育の実現に不可欠な「合理的配慮」の概念も、現在の学習指導要領における「特別な配慮」という曖昧な概念とは別に明示されるように求めていくと同時に、文科省がこの観点を導入しなくても、学校現場における合理的配慮の重要性を訴えていくべきであろう。
(3) 道徳教育に関して
 今回の特別の教科化に際して強調されている「考える道徳」、その際に「多角的・多面的に考え、判断する力」、「道徳科の授業では,特定の価値観を生徒に押し付けたり,主体性をもたずに言われるままに行動するよう指導したりすることは,道徳教育の目指す方向の対極にある」という、総則で明記されてはいない諸点こそ重視されるべきであり、総則にこれらのポイントが明記されていないことに関しては、道徳教育重視のもう一つの方向性である同化主義・国家主義権威主義というベクトルの表れとして警戒していくべきであろう。
 さらに、改訂学習指導要領における道徳教育の全面主義・徳目主義・網羅主義という特徴に対して批判的な認識を各学校現場で共有するとともに、こうした特徴を反映して、各教科各単元と道徳の内容項目とをリンクさせて一覧にする「別葉」の作成は義務では全くないこと、及び、このような「別葉」の実際的有効性が極めて疑わしいということの認識も広めていくべきであろう。

教育という社会的領域の自律性は?

 もし政府が望ましい内容の答弁を出したのなら、こういう閣議決定で教育課程行政の一部が決まっていくということに問題はないのだろうか。そうなると、少なくとも、教育という社会的領域の自律性が少なくとも部分的には損なわれることになるように思う。

 自分が十分理解できていない研究に触れるべきではないかもしれないが、N.ルーマンという社会学者は、近代社会に特徴的なあり方を機能分化として捉えて、これが私たちの個人としての人権が尊重される社会の基底的条件になっているみたいなことを言っている(『制度としての基本権』)

制度としての基本権

制度としての基本権

と思っているのだが、だとすれば、この機能分化も、ちゃんと守らないとまずいんじゃないか。そして、これも「諦めたら、そこで終わる」のかもしれない。つまり、あって当然と自明視せず、反省的・意識的に守ろうとしないと、介入的アクションがなければ、終わってしまう可能性だってあるのではないかという。

 ただ、社会学で「相対的自律性」という表現も用いられるように、自律性を守るべきだとしても、絶対でない以上、程度問題として捉えるべきなのかもしれないし、だからこそ、どの程度の自律性かということが問題になるのかもしれない。

 こういうことを書いている時に念頭にあるのは、最近のヘイト・スピーチ問題とこれに対する規制法のこと。私は、この規制法を評価しているので、国家によるすべての規制は危険という考え方には与しない。

 なので、教育の自律性を取り戻せだけではあまりにナイーブになるのではないかとも思う。

 けれども、教育再生実行会議という政府与党内の機関が、学習指導要領の改訂という教育課程行政の本丸に対する介入の度合いを確実に強め、その上、今回の閣議決定という介入。

 くわえて、重田園江氏が、最近指摘されていたように、「経済のボキャブラリーがあらゆるところに浸透している」*1ということは、教育にも言えて、その点でも自律性は危うくなっている。

 さて、ここから先、教育という領域のどういう自律性をどのように再構築していくべきなのか、これも公教育の再編問題の一部なのかもしれない。

 しかし、Does this make sense? と自分の問いに問わざるをえないほど自信はない。けど、どうも気になって書き留めた。

 きっかけは、冒頭に書いたように、最近の教育勅語関連問題だったので、以下に、資料集代わりに、その経緯を加担に記載しておく。
[付記:そういえば、小山裕氏の本が、積読のままでちゃんと読んでないのがバレバレだ(なのに、本に自分の書き込みがあるというのも困りものだが)。もしかしてドンピシャかもしれないこれ読んで勉強すべし。*2 ]

・2月9日 森友学園への国有地払い下げ問題に関する報道開始
・2月17日 衆院予算委員会 森友学園への国有地払い下げ問題に関する安倍首相発言「私や妻は一切関わっていない。もし関わっていたら間違いなく、首相も国会議員も辞任するということを、はっきり申し上げる」。以降、各紙報道過熱。塚本幼稚園での指導の様子を映した動画も拡散流布。
・2月27日 逢坂誠二民進党質問主意書提出 質問番号93:教育基本法の理念と教育勅語の整合性に関する質問主意書[→3月7日 答弁受理]*3
・2月28日 大阪府森友学園の調査開始の報道(→3月31日立ち入り調査、書類確認できず調査継続の報道→4月13日調査続行の報道)
・3月7日 質問番号93(2月27日)の答弁受理
・3月9日 逢坂誠二議員(民進党質問主意書提出 質問番号118:稲田大臣の「教育勅語の精神は取り戻すべき」発言に関する質問主意書[→3月17日 答弁受理]*4
・3月14日 松野博一文部科学大臣記者会見*5
・3月17日 質問番号118の答弁受理
・3月21日 初鹿明博議員(民進党質問主意書提出 質問番号144:教育勅語の根本理念に関する質問主意書[3月31日 答弁受理]*6
・3月31日 質問番号144の答弁受理
・4月3日 公教育計画学会理事声明文発表:「教育勅語」の容認と銃剣道の学校教育への導入に強く反対する*7
・4月4日 松野博一文部科学大臣記者会見で教育勅語関連問題に言及*8
・4月6日 宮崎岳志議員(民進党質問主意書提出 質問番号206:「教育ニ関スル勅語」の教育現場における使用に関する質問主意書[4月14日 答弁受理]*9
・4月6日 宮崎岳志議員(民進党質問主意書提出 質問番号207:アドルフ・ヒトラーの著作「我が闘争」の一部を、学校教育における教材として用いることが否定されるかどうかに関する質問主意書[4月14日 答弁受理]*10
・4月7日 衆議院第5回内閣委員会 泉健太民進党)質疑と義家文科副大臣答弁:朝礼における教育勅語の唱和も、憲法教育基本法に反しなければ問題ないという趣旨の答弁*11 参考:第98国会参議院決算委員会第11号議事録*12
・4月8日 朝日新聞が義家文科副大臣答弁について報道*13
・4月10日 長妻昭議員(民進党質問主意書提出 質問番号219:教育勅語を道徳科の授業で扱うことに関する質問主意書[4月18日 答弁受理]*14
・4月14日 質問番号206及び207の答弁受理
・4月18日 質問番号219の答弁受理
・4月24日 長妻昭議員(民進党質問主意書提出 質問番号259:幼稚園児や小学生等に教育勅語を朗読させる教育に関する質問主意書[5月8日現在、答弁に関しては未完了または未公表]*15
・4月27日 教育研究者有志「教育現場における教育勅語の使用に関する声明」発表*16本田由紀氏らによる記者会見。同日、各紙報道。
・5月8日 教育史学会声明文発表:「教育二関スル勅語」(教育勅語)の教材使用に関する表明について*17
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市民的自由主義の復権: シュミットからルーマンへ

市民的自由主義の復権: シュミットからルーマンへ

閣議決定=政府答弁という「形式」による教育への介入

 学校教育における教育勅語の取り扱いに関する最近の政府答弁に対して、教育研究者が有志や学会として、批判する声明を発表しているのはとても有意義なことだと思う。

 いや、どこの国でも「諦めたら、そこで近代が終わるよ!」(たしか岸政彦のツイート)って、ほんとそうだなと。ちゃんと、歴史に介入できるなら、できることはしておかないと、と。だから自分もコミットしているわけで。

 しかし...

 我々の批判・反論は、政府答弁書閣議決定の内容の批判であって、その形式の批判ではない。内容を批判するだけでとどまると、期せずしてこの形式の方は容認することになりかねない。というか、そうなってしまっているという皮肉があるように思う。

朝礼における教育勅語朗読の是非をめぐる国会質疑・答弁

2017 04 07 衆議院内閣委員会
https://www.youtube.com/watch?v=xJMVkf28X2A
より一部文字起こし。

泉 健太(民進)議員による質疑とそれに対する答弁は、1:40:25から2:16:25まで。

答弁の問題点や質疑の課題がどこにあるのかがよくわかる。

明らかな誤記などあれば、ご指摘ください。

                                                • -

泉議員:[2:01:30]あのー、積極的に政府として、現場で活用する考えはない。別に積極的じゃなくても困る話だと思うんです。消極的であっても。官房長官、その積極的にという言葉を使われますけれども、その言葉というのは、ある意味すり替えというか、ちょっと言い訳的なところがありまして、積極的に使うかどうかの論点ではないと思うんです。別に積極的かどうかを問うているのではなくて、やはり衆議院における排除の決議があって、それを踏まえて23年に通知が出ている、にもかかわらず、教育現場で、まあ、教材として使われているという矛盾が生じるんじゃないかと思うんですね。じゃあ、まあ、さらにちょっと前に進めていきたいと思うんですが、ま、えー、ま、そのー、かつて、昭和58年にですね、5月11日参議院の決算委員会の質疑で、えー、本岡昭次さんという国会議員さんが、ある高校をとりあげまして、そこでその高校におけるですね、教育勅語の唱和が行われているということで、朗唱が行われているということで、その時の質疑の資料でまる2の資料で持ってまいりました。ちょっと、コピーが繰り返しで見えにくい字で恐縮なんですが、その中のですね、議事のやりとりで、当時の瀬戸山大臣がお答えになられております。「教育勅語を朗読しないと、 学校教育において使わないことでありますから…」、えー、あ、一番上の、ちょっと緑で線を引いてあるところですね。「自後教育勅語を朗読しないこと、学校教育において使わないこと、また衆参両議院でもそういう趣旨のことを決議されております。でありますから、そういうことで今日まで指導してきておる」と書いてあるわけです。そして、その次の黄色いところですが、「教育勅語そのものの内容については今日でも人聞の行いとして、道として通用する部分もありますけれども、教育勅語の成り立ち及び性格、成り立ち及び性格、そういう観点からいって、現在の憲法教育基本法のもとでは不適切である、ということが方針で決まっておるわけでございます」ということで、ですねえ、この島根県の認可学校ですので、「島根県を通じてそういうことのないように指導をしてくれと、こういうことをいま勧告しておるわけでございまして」というふうに書いております。ですから、文科省は、えー、もしこういったかたちで、えー、教育勅語をですね、えー、朗読しないこと、学校教育において使わないこと、ということで、文科大臣が当時答弁されていますけども、そういうことが教育現場で行われていたとすれば、これは、現在も指導を行うということでよろしいでしょうか。

(注)第98回 参議院 決算委員会 昭和58年5月11日 第11号|国会会議録

秋元委員長:義家副大臣

義家副大臣:[2:04:42]ご指摘の昭和58年の島根県私立高校に関しましては、えー、式日に、えー、教育勅語を朗読するなど教育勅語を我が国の教育の唯一の根本として戦前のようなかたちで教育に取り入れ、指導しているとすれば、問題であるということを島根県を通して指導したものでございまして、これ、あのー、正確に断っておきたいのですが、教科書に載っていることを知識として教える、たとえば、教育勅語というもの自体は無効でございますけれども(泉:それは論点じゃない。)歴史の一つ一つには中身、教訓がありますから、それについて教材として、こういう解説なんだということについては、までは制限されるものではないだろうと思います。式典で戦前のようなかたちでということです。

秋元委員長:泉くん

泉議員:[2:05:34]私も教科書で使われることを全く否定はしていません。はい。その上で、いま、戦前のようなというのが何を指すかというのはですね、これまたよくわからないわけでありますが、当時文科大臣はですね、やはり、成り立ち、経緯からしてということも含めて、「教育勅語を朗読しないこと、学校教育において使わないこと…そういうことで今日まで指導してきておるわけでございます」。で、いまー、ね、私と副大臣が同意をしたように、そういうこの答弁があったとしても、教科書に載っていることを否定していないというのは、私も共通しています。そこはもう論点から省きましょう。そうではないかたちでのこのまさに例示ですね。えー、教育勅語を朗読したり、学校教育において使うと。そうではない、学校の教科書においてではないかたちで使うことについては、これ、指導してきておると、いうふうに言ってますが、その答弁を現在も踏襲しているということでよろしいですか。

秋元委員長:義家副大臣

義家副大臣:[2:06:34]あの、ご指摘の、えー、瀬戸山文部科学大臣の答弁は、式日等における教育勅語の奉読を行わないことなど、教育勅語の取り扱いについて周知した昭和21年の、えー、趣旨を端的にお答えしたものでございます。で、教育基本法に反しない適切な配慮のもとで、教育勅語を声に出して朗読することまで否定されるものではないと考えております。

秋元委員長:泉くん

泉議員:[2:07:02]えとですねー、式日だからということでは、これないはずですよ。議事録をよく読んでいただくと。じゃあ、また、今日、資料を持ってまいりました。まる4。えー、これは、ある幼稚園のホームページであります。最近有名になっている幼稚園でありますので、ご承知かと思いますが、そのホームページに現在もこう載っております。「毎朝の朝礼において、教育勅語の朗唱」ですね。これは…これが事実とすれば、あるいは、ま、これは幼稚園の名前が出ておりますが、その幼稚園に特定をしなくても結構です。毎日の朝礼、毎朝の朝礼において、教育勅語を朗唱するということは、文部科学省の考え方から言って、問題のある行為でしょうか、問題のない行為でしょうか。

義家副大臣:[2:07:56]え、教育基本法に反しない限りは、問題のない行為であろうと思います。(泉議員?:えええ!?)

泉議員:[2:08:06]その教育基本法に反しない限りは、というのは何を指すんですか?

義家副大臣:[2:08:14]あの、教育行政は法律に基づいて行われているものでありまして、憲法の下に教育基本法があり、で、さらにはそれに基づいた学習指導要領があり、そして、教育が担保されているわけでございます。たとえば、読むこと、朗読することのみをもってダメというならば、これは教科書の、教科指導ができません…できません。(泉:教育勅語のですよ。)教育勅語が教科書に載っております。それに対して、声を出して読むことさえ、教育勅語を読んだことだからダメだと言えば、これは、教育はできないというふうに思っております。(泉ほか:毎朝の朝礼。毎朝の朝礼..)それは、それぞれの所轄庁がまずは判断することでございます。(泉?:いやいやいやいや。)[やや、騒然]

秋元委員長:「泉副大臣…あう、泉くん。すみません。」

泉議員:[2:09:00]それはまずいんじゃないですか、というか、文科省、今日、副大臣以外に、答弁できる方おられるんですかね。あの、もう一回聞きますよ。その、毎朝の朝礼において、別にその、なになに幼稚園のということではありません。毎朝の朝礼において教育勅語を朗唱することは、今の文科行政においては問題ないですか?文科省、じゃあ、事務方で結構です。もう一回…

秋元委員長:白間審議官

白間審議官:[2:09:31]いま、あの、副大臣の方から御答弁させていただきましたけれども、個々の学校において、そのどういった教育が行われるかというのは一義的に、それぞれの学校で創意工夫しながら、考えるということでございまして、それについて問題があるかどうか…問題があるかどうかというのは、法令等に照らして問題があるかどうかということについて、もし仮に不適切なものであれば、それは所轄庁である都道府県、設置者において適切に対応されるものだと考えております。

泉議員:だから、不適切なのか、と聞いているんです。

白間審議官:[2:10:02]それについては、都道府県所轄庁等において適切に判断されるべきものと考えております。

秋元委員長:泉くん

泉議員:[2:10:08]え、じゃ、だから、その、昭和58年の時に、所轄庁を通じてなんです。認可学校に対して指導すのは、ね、設置者ですよ。それで、いいんです。文科省は、毎朝朝礼において教育勅語を朗唱している教育機関があっても、それを黙認する。所轄庁に、ま、あのー、設置者に任せて、何も言わないという理解でいいんですか、文科省は。

秋元委員長:じゃあ、白間審議官

白間審議官:[2:10:36] いまご指摘のようなことに関しましては、まず、責任を持っている都道府県所轄庁ないし教育委員会において、適切な判断をし、対応をされるべきものということを申し上げているところでございます。

秋元委員長:泉くん

泉議員:[2:10:50]まずじゃないんですよ、これ。事実を、たとえば、認識していたとしてですよ、文部科学省もその事実を知ったにもかかわらず、まず所轄庁だと言って文部科学省は、所轄庁に対しても何もしないんですか?問い合わせもしない、調査もしない、そして事実が確認されても、何も問題ないということで所轄庁に任せるんですか。

秋元委員長:白間審議官

白間審議官:お答え申し上げます。私が答弁申し上げましたのは、まず、所轄庁において判断すべきということであり、そこにおいても仮に不適切なことがあり、所轄庁において適切な対応がなされないということであれば、それはその際文科省において判断し対応するということだろうと思います。

秋元委員長:泉くん

泉議員:[2:11:38]あのー、私はですね、官房長官、あのー、さきほど冒頭申しましたように、政府はいま、憲法教育基本法をですね、根拠にして、ま、この教育勅語の、まあ扱いの解釈をしておられるわけですが、私が、こう、資料で示させていただいたように、昭和23年の国会決議によって、文部科学省は通達を出しているわけですね。で、そこには、まさに、根拠として衆参の決議があって、それが万全を期されるようにということで通知を出しているわけです。ですから、国会決議は他の国会決議以上に、これは、非常に、政府の行政に密接に関わっている国会決議なんです。国会決議っていうのはさまざま、あ、みなさまもご承知かと思いますが、私も今回のことで、本当にいろいろ勉強させていただきましたけれども、もちろん、そのー、北朝鮮のミサイル発射に対する国会決議もあれば、不信任決議もあれば、一つ一つの重たさというのは、ま、種類も違いますけれども、こと、この23年の国会決議というものは、その国会決議を根拠にして、文科省をして全国の教育機関に通知をされるほどの、徹底をするための国会決議でありまして、で、そういった意味では、これは、いまも有効でなければならないんです。で、その解釈に立っていただかなければいけないと思いますし、そういった意味で、ですから、私は、憲法教育基本法等に反しないようなかたちの中に、国会決議も含まれているんだと、私は例示もしていただきたいくらいですけれども、あらためてですが、憲法や教育基本等に反しないようなかたちの、その等の中には、この23年国会決議、衆参両院の決議が入るということで、官房長官、よろしいですか。

秋元委員長:菅官房長官

官房長官:[2:13:40]え、まず、まあ、戦後の、この教育ですけども、まあ、地方自治を尊重し、そして教育の政治的中立性、それと教育行政の安定というものを確保することを目指し、教育委員会制度が設けられたところであります。それによって、制度設計がなされてきている。ま、政府としても、積極的に教育勅語を現場では活用しない、ここは明確に申し上げました。一方で、教育については、教育基本法の趣旨を踏まえながらも、学習指導要領にしたがって、学校現場の判断で行うべきものであるというふうに考えており、憲法教育基本法等に反しない場合、禁止することは法制上難しいというのが、まあ、見解であります。

秋元委員長:泉くん

泉議員:[2:14:30]私も、あらためてですね、あのー、この学習指導要領、生きる力というものも読ませていただいていますけれども、まあ、教育勅語に書かれていて、まあ、自民党の複数の閣僚の方々がすばらしい、すばらしいとおっしゃられることはですね、たいてい、この指導要領に載っておるわけであります。にもかかわらず、なぜ、教育勅語をですね、引き合いに出さねばならぬのか。ここが、非常に不思議で仕方がないところでありまして、まあ、あえて言えばですね、たしかに、夫婦相和し、というのは今の学習指導要領に書かれているわけではないですね。あるいは、憲法を重んじというのも、別に学習指導要領に書かれているものではない。しかし、いわゆる徳目と言われるものはですね、ある意味で、指導要領には書かれているわけですから、ぜひ、官房長官、あのー、わざわざ教育勅語を引っ張ってくるその意味はなんなんだと、あるいは、なぜその必要があるんだということをですね、ぜひ各閣僚のみなさまにもお伝えをいただきたいと。でなければ、日本の教育は大きく誤解をされてしまう。もう、最後にしますけれども、この衆議院のですね、国会決議の中でも、あの書いてあるのはですね、あのー、「且つ國際信義に対して疑点を残すもととなる」という表現があります。ですから、臣民と呼ばれるかたちでですね、朕思うにから始まるこの教育勅語がですね、え、我が国が主権在君国家であることの象徴であるし、ま、それが教育の現場で使われるということが「國際信義に対して疑点を残す」ということまで想定をしてこの決議を作っておりますので、ぜひそういったことで閣僚への徹底をお願いして私からの質問を終わらせていただきます。

マイケル・W・アップルへのインタビュー(1999年)

 以下は、もう15年以上も前になるが、アメリカ合衆国の教育学者マイケル・W・アップルがカリキュラム学会の招待で来日した折に、彼に対して行われたインタビューの記事だ。雑誌『解放教育』に掲載された。
 情報としてはかなり古いけれども、web上では読めないし、他方で「多様な教育機会確保法」の制定が目指されている今の日本では、まだ参照されてよい視点が示されていると思うので、アップすることにした。ただし、アップに際して、一部訳語を変えたところもある。

                                                                    • -

マイケル・W. アップル;長尾彰夫、澤田稔訳
「緊急インタビュー マイケル・W・アップルに聞く―チャーター・スクール、ホーム・スクールをどうとらえるか」
『解放教育』29(10) p.118-131 1999
http://ci.nii.ac.jp/naid/40000385502

マイケル・アップル氏へのインタビュー 
聞き手:長尾彰夫(通訳・訳 澤田稔)

長尾:(旧知の間柄のアップル氏に)はじめまして.(笑)

アップル:お会いできて光栄です.(笑)

長尾:アップルさん,今回で日本は何度目になりますか?

アップル:3回目になります.

長尾:さて,日本の教育状況に関してアップルさんはどのような情報をお持ちでしょうか?また,その情報源はどのようなものなのでしょうか?

アップル:ご存じのように,幸運にも私には,博士課程の学生として私の指導のもとで学んだ,あるいは学んでいる日本人の教育研究者を数名知っています.というわけで,常日頃から日本の教育状況に関していろいろと教えてくれるように頼んでいます.これが情報源の一つでしょう.また,同時に,私自身,教育における国家の役割やそこにおける文化的闘争に関心を持ってきたわけで,その点を共に議論する上で,日本の様々な教育学者の方々と交流する機会が途絶えたことはありません.これも一つの情報源だと言えるでしょう.その中で,規制緩和の問題について,あるいは規制緩和とは現実にどのような事態を指しているのかといった問題について話し合ってきました.
 私の博士課程の学生には,家永教科書問題に関する論文まとめている女性がいます.彼女から得られる情報は私が,日本において公式的知識をめぐる歴史的闘争がどのようなものであったかを理解する上で,また文部省行政の非常に保守的な方向性を知る上で,大きな助けとなっています.私は,これまでずっとカリキュラム改革の政治性=政治学という点に関心を持ってきましたので,総合学習やカリキュラム統合の問題も私には非常に重要です.実際,長尾さんやその他の日本の教育学者の方たちとの対話を通して,総合学習やカリキュラム統合について,あるいは,学校改革の可能性やそれに対する批判的視点を明確化する作業を続けてきました.このように,様々な文献を読んだり,日本人の教育学者との交流や,私の教えている大学院の日本人留学生らから,日本の教育状況に関して様々な情報を得てきました.

長尾:なるほど.さて,今日は,日本の教育状況に関しても明るいアップルさんに,現在日本で進められている教育改革上の諸問題と密接なつながりを持っていて,かつ合衆国でも教育改革上の焦点となっている問題についてお尋ねしたいと考えています.
 まず,規制緩和あるいは学校教育の私事化という論点が日本でも話題になっていますが,こうした公共性よりも,私事的な領域を重視する方向性は,しかし,日本に限ったことではなく,アメリカやイギリス等他の先進諸国でも広く見られる事態であるように思われます.多くの国で講演されているアップルさんからご覧になって,こうした認識についてどう思われるでしょうか.

アップル:たしかに,そうした状況は世界の多くの国で見られます.公のレベルに対して攻撃を加え,「公」のものは何であれ悪であり,「私」のものは何であれ善であるという議論が,経済・政治体制その他に関して,多くの国々に共通してわき起こっています.もっとも,それと同時に,こうした議論が現れてきている背景は,国によって異なっているという点も考慮しておくべきでしょう.事態は単純ではありません.もう少し具体的にお話しましょう.
 合衆国においては,中央政府の力が相対的に弱く,他の国に比べてより古くから地方分権的な体制が確立され,それが重んじられてきたという背景があります.ですから,日本と違って,いわば正式なナショナル・カリキュラム〔全米規模のカリキュラム規準〕は存在しません.したがって,教育の私事化=市場化という事態も,日本とは部分的に異なる理由から行われることになります.日本では,中央政府の力が伝統的に強く,教育に関しても(たとえば,カリキュラムの決定や教科書作成について)文部省を中心とする強力な中央主権的体制が続けられてきました.
 もちろん,私事化=市場化の進展から生じる帰結には類似点があります.つまり,それを促進しようとする理由や動機は国により多少の違いがあるにしても,背景にはやはりグローバルに見られる経済危機あるいはそういう危機感とそれに伴うイデオロギー的変化いう状況があります.そこには特定の社会集団が及ぼしている影響力の大きさを見逃すことはできません.この社会集団は,様々な国に共通に現れてきているもので,多くの国でますます多くの支持を勝ち取りつつあります.しかしながら,同時に先に述べたような合衆国と日本との間で政治的文脈の違いも存在するわけで,全てを経済的要因に還元して理解することはできません.私事化=市場化のグローバルなレベルでの進展という現状の認識には,こうした複雑な諸関係に関する理解が必要です.
 最後に,次の点を指摘しておきましょう.こうした教育の私事化=市場化政策が,すでに存在する持てるものと持たざるものの格差を是正するどころか,拡大しているということを示す実証的研究が現れてきており,そのような方向の教育改革が望ましいものであるとはとても言い切れないのが実状なのです.

長尾:さて,そうした教育の私事化=市場化政策の一つとしてチャーター・スクールに対する関心が,日本でも高まって来つつあります.そこで,この学校制度に関する合衆国での現状と,それに対するアップルさんの評価をお聞きしたいのですが.

アップル:合衆国におけるチャーター・スクールを理解するには,これ以外の学校改革に関して知っておく必要があります.チャーター・スクールは,より徹底した私事化政策であるヴァウチャー・プランと,メインストリーム式の公立学校制度ととの間に現れた妥協案なのです.
 実は最近,私が編集した著作に収めた実証的研究によって,チャーター・スクールに関する全く由々しき事態が明らかになりました.チャーター・スクールは,理屈の点では,経済的・文化的に被抑圧的な立場に置かれている人々に----たとえばアフリカ系アメリカ人のような人々に----より大きな選択の自由を与えることに寄与すると考えられます.実際,いくつかの都市で,アフリカ系アメリカ人のための学校が設立されたりもしています.その点で,一部の地域では,チャーター・スクール制度により,学校文化を変革する上で一般の教員やコミュニティーの人々がより大きな力を手にすることができるようになっています.しかし,それは非常に限られた範囲の人々にしか当てはまりません.チャーター・スクールをめぐる状況として,より頻繁に私たちが眼にするのは,次のような現実なのです.
 それは,一つには,俗に「白人の逃避(White Flight)」と呼ばれる事態を指します.つまり,裕福な白人が,アフリカ系アメリカ人やラテン系アメリカ人が一緒に学んでいる公立学校から,自分たちの子どもを連れ出して,その利益を守ろうとしているわけです.つまり,チャーター・スクールは裕福な人々が公立学校に自分の子どもを通わせないですむようにするための手段として利用されているわけです.このことがもたらしている結果は,憂慮に耐えないものです.
 また,チャーター・スクールはある点で法に反して利用されています.つまり,特定の宗教を中心とする,しかも保守主義的な学校を設立する予算を取り付けるために,この制度が利用されています.アメリカ合衆国では,公的資金を特定の宗教のために獲得することは法的に認められてはいません.ところが,特定の宗教的原理主義者(キリスト教原理主義者)たちは,自らの宗教的信仰に基づくカリキュラムの宗教的偏向性を隠しながら,自らのチャーター・スクールの認可の申請を行い,いわば違法に公的資金を獲得しているのです.
 したがって,私自身は,チャーター・スクール制度の導入にはきわめて慎重でなければならないという立場を取ります.今述べたように,この制度は,ほとんどの場合,裕福な人々や宗教的保守主義者がメインストリーム式の公立学校から逃れるために利用されているというのが現状である以上,チャーター・スクール制の是非をどちらかと問われるなら,あえて否と答えてもいいくらいです.もっとも,事態はより複雑ですが.

長尾:では,ホームスクールに関してはどうでしょう.

アップル:「改革」と呼ばれる事態が急速に進む中で,合衆国ではホームスクール型の教育を受けている子どもの数は少なくともすでに100万人以上,おそらく300万人程度にのぼると思われます.統計的数字を見る限り,相当の速さでホームスクールは拡大しています.
 しかし,そのほとんど,つまり80〜90%は宗教的原理主義者の家庭であるというのが現状なのです.彼らによれば,学校とは「悪魔の道具」なのです.彼らは,公立学校に異を唱えます.なぜなら「神がいない」からだというわけです.教師たちは,危険な文化の方へ子どもたちを導いていると言うのです.この種の人々は,いわゆるキリスト教根本主義者たちです.
 ホーム・スクールは非常に複雑な問題です.まず何よりも,自分の子どもの教育に真剣に取り組んでいる保護者は賞賛されこそすれ,非難されるべきではないでしょう.私自身はホーム・スクールに非常に批判的ですが,子供の世話や教育に懸命に取り組んでいるお父さんお母さん方のことは賞賛したいと思います.しかし,やはり他方で,私の目から見れば,ホーム・スクールは,私たちが俗に「繭ごもり」と呼ぶようなものになってしまっています.つまり,自分自身を防護幕の中に包み込んでしまって,現実の世界との関わりを遮断することになるからです.同時に,ホーム・スクール制度は,チャーター・スクールと同じように利用されてもいます.つまり,「他者」の文化から,黒人の文化から,多様性の文化から逃れるために利用されているのであり,全面的にではないにしても,少なくとも部分的には人種隔離的な動きとして,あるいは宗教的隔離を目指す動きとして見なさざるを得ないものなのです.その点で,非常に危険な動向だと私は思います.この動向は,また,居住地区の分離という事態とも類似しています.つまり,コミュニティーを閉鎖的な地域社会として組織し,そこに属さないあらゆる人々を排斥するという,たいへん差別主義的な方向性です.
 したがって,チャーター・スクールに関して私が述べたことと同様のことを,ホーム・スクールに関しても指摘しなければなりません.それは非常に興味深い試みではありますが,同時に,宗教的保守主義者たちの画策が見られる危険な動向でもあるのです.

長尾:チャーター・スクールやホーム・スクールの危険性に関しては理解できました.ただ,一方で,クリントン大統領もチャーター・スクール制を政府としても支持する旨を説いているようですし,実際政府としては,21世紀の教育制度としては,そのような方向で行くのだろうと思いますが,その点に関してはいかがでしょう.

アップル:そうですね,何よりもまず,クリントンは選挙のためには何でもするでしょうし,何でも言うでしょう.何をするも言うもまず選挙のためです.理解しておいていただきたいのは,合衆国が「弱い国家」であるために,ナショナルなレベルにおける政治の多くは,レトリカルな〔言葉のうえでのことにすぎない〕ものだということです.したがって連邦政府,あるいはクリントンは,私事化一般ではなく,チャーター・スクールのような学校選択制度の一部に対して支持を表明しもするでしょう.しかし,クリントンにはそれを現実に押し進める権力は全く備わっていません.だから,たいていは言葉の上でのことにすぎないのです.

長尾:とすると,クリントンは実際にはチャーター・スクールなどを支持していないのですか?

アップル:というよりも,レトリックのレベルでは支持しているわけです.クリントン自身は,ホームスクールに関して支持表明は行っていません.従来の公立学校制度の範囲内における学校選択制度を,つまり,マグネット・スクールやチャーター・スクールなどを支持しているわけです.しかし,ホーム・スクールやチャーター・スクールといった制度を実地に施行するのは,ウィスコンシンイリノイ,カリフォルニアやニューヨークといった州レベルの法律によるのです.大半の州で,チャーター・スクールの制度が大きな支持を獲得しています.そして,全米レベルの教員組合や教員組織が,チャーター・スクールを支持するようになってきました.

長尾:しかし,それは一部の組合や組織ですね.

アップル:そうです.全てではありません.しかし,平等,人種差別に反対する正義,あるいは学校を特定の宗教的目的のために利用しないという規制を必要と認める限りで,そうした教員組織の支持表明は納得のいくものです.つまり,現在の教育制度には官僚主義的な側面があまりにも強く含まれている,と彼らは言うわけです.もっと民主的な学校を作りたいと言うのです.もっと,学校・コミュニティーレベルの運営を,自らの予算配分で行いたいと.だからこそ,チャーター・スクールを設立したというわけです.しかし,同時に彼らは,法律によって学校を宗教目的に用いるべきではないと言う規制が敷かれる場合にのみ,また教員の年功権や給与に影響を与えない限りで,チャーター・スクールを支持すると表明しているのです.
 しかし,一部の州では,現在さらに,チャーター・スクールだけでなく,ヴァウチャー制へと移行しています.実際,つい先週のことですが,フロリダ州では,州全土で,親が州から教育ヴァウチャー〔義務教育費用のための金券〕を受け取り,それを〔私立学校を含む〕どの学校に行くのにも用いてよいと定められました.

長尾:そうした動向や,チャーター・スクールあるいはホーム・スクールというのは,教育の私事化が進む中で当然出てくる自然な流れだとお考えですか? 日本では,そのような動向は多少の驚きをもって受けとめられるでしょうが.アップルさんは驚くに値しないと思われているのですか?

アップル:というよりも,私はチャーター・スクールの危険性を指摘したいと思います.チャーター・スクールは,先ほどある種の「妥協案」と述べましたように,その他の提案の間の中間的な位置にあるわけです.合衆国において最も大きな圧力や問題を伴って迫ってきているのは,チャーター・スクールよりもむしろヴァウチャー制度の方だと言えるでしょう.この制度においては,義務教育段階の子供を持つ全ての親が州からヴァウチャーを受け取り,それを特定の宗教に関わる学校に行くのにも,あるいは民間企業が経営する学校や,非常に人種差別的な思想を持つ白人専用学校へ行くのにも,どこに行くのにも等しく使えることになります.ですから,チャーター・スクールは,こうした方向性と,メインストリーム式の公立学校とのちょうどいわば中間に位置するものなのです.
 しかし,チャーター・スクールが危険だというのは,それが単にこのような中間的位置にとどまるものではなく,ヴァウチャー制など,教育の私事化におけるさらに次の段階へ進むための最初の一歩になっているという点です.つまり,チャーター・スクールの支持者の多くが,覆面をしたヴァウチャー制支持者である可能性が高いわけです.つまり,彼らはチャーター・スクールに対する支持を表明しながら,実は本当に望んでいるのは,より徹底した教育の私事化であり,いったんチャーター・スクールが実現すると,さらに次の段階へ進もうとするのです.したがって,チャーター・スクールを推進しようとする動向の背後には,それとは別の非常に保守主義的で同時に強力な市場化への圧力が隠れているわけです.私がチャーター・スクールに大きな懸念を抱いているのはそのためです.

長尾:ミネソタ州では,たしか,マイノリティを何パーセントか含むようにしない限りチャーター・スクールの認可が下りないように定められているというような話を聞いたことがあるのですが,これもやはりまやかしにすぎないのでしょうか.より拡大した市場化へのワンステップにすぎないとお考えですか?

アップル:ミネソタに限らず,ほとんどの州で,チャーター・スクールの認可には,生徒数の人種的バランスに関して何らかの規定が設けられています.しかし,それは必ずしも強制力のあるものではありません.たしかに,ミネアポリスやその他の都市には,アメリカ原住民(インディアン)のためのチャーター・スクールが設立されたりしています.ここは非常に興味深い学校です.ところが,こうした学校はチャーター・スクールの中でごく少数にすぎません.そういう学校が一つあるとすると,残りの百は,生徒全てが白人で,非常に保守主義的な伝統的カリキュラムに回帰し,文化的にも一元的で,その他の多様な文化については教えない,教育の質の堕落が生じているような学校なのです.ですから,次のように言えるでしょう.チャーター・スクール制度は,非常に少数の興味深い,進歩主義的で,批判的社会意識に根ざした学校の設立につながると同時に,他方では,それとは全く逆の学校が数多く出現することになるわけです.

長尾:チャーター・スクール制度などに対する教員組合の動向に関してもう少し伺いたいと思います.教員組合は一般的にチャーター・スクールに反対していると聞いたのですが.たとえば,教師の専門職制が失われる等の理由で.

アップル:合衆国では,先ほども申し上げたように,教員組合の動向を全米レベルで一括して述べることはできません.場所によって,組織によって大きな違いがあるからです.非常に進歩的な教員組合や組織があるかと思えば,その反対に相当保守的な団体もありますので.
 しかし,たしかに多くの地域で,教員組合はチャーター・スクールに反対しています.それはそうした教員が,チャーター・スクールをヴァウチャー制への一歩と見なしているからです.そして教員たちは,多くの私立学校が組合員の教師をくびにしたり,組合員の教師の給与をカットしたりしてきた歴史的経緯があることを知っているからです.あるいは,エジソン・プロジェクトを導入してきたことなどを知っているからです.これは,ある教育関連企業にカリキュラム作成を依頼したりするもので,いわばマクドナルド的に学校をチェーン化するようなものです.また,そうした私立学校は,少数の教員に高収入を払い,大半の教員は安い給料で雇うという方式を採っていることが多いことを,組合員の多くの教員たちが知っているからです.
 他方で,チャーター・スクールを支持している教員組合も存在します.それは一つには,日本でもそうだと思いますが,官僚制の縛りが非常に強いために,教員が創意工夫をこらした教育を行うことが困難な状況が見られるからです.つまり,一部の教員たちは,官僚主義的統制が弱まる限りで,チャーター・スクールを支持するわけです.
 ですから,チャーター・スクールを是か非か決めつけることは,実はかなり難しいのです.ただ,おそらく大半の教員は,チャーター・スクールに対して少々疑念を抱いていると考えられます.それは危険性を認知しているということであり,理解できることです.

長尾:ホームスクールの数はこれからまだまだ増えると言われていますが,それにかんしてはどうでしょうか?

アップル:先ほども申し上げたように,数の上では大変な勢いで増えています.ただ,ホームスクールを一枚岩的に論じることはできませんが.たとえば,ラディカルな社会思想の持ち主は,学校があまりにも保守的であるからという理由で,学校から子どもを引き上げ家で教育を施そうとするわけです.ただし,これはきわめて少数派です.他方,8割から9割のホーム・スクーリングは,キリスト教根本主義者たちによるものです.彼らはホーム・スクール制度を推進しようと躍起です.教材やコンピューターを揃えるための公的資金をさらに手に入れようとしています.
 繰り返しますが,この種の動きは非常に危険なものです.一つにはそれが,「白人の逃避」という人種統合に反する差別的な傾向を強く帯びているからです.しかし,もう一つより大きな問題があります.
 現在合衆国では,人種的な棲み分けがますます悪化する傾向にあります.統計予測によれば,西暦二千年には,就学人口の半数以上が,アフリカ系・ラテン系・アジア系などの有色人種になります.ところが,このように人種的多様性が増していく中で,ホーム・スクールで教育を受ける子どもたちは,こうした「他者」の文化から逃避し,狭い一つの文化状況に閉じこもることになります.反対にそうした文化的多様性の度合いが高まれば,私たちはさらに相互交流しなければいけません.しかし,ホーム・スクールやチャーター・スクールの一部を含む特定の学校の人々は,こうした交流の機会がほとんど無くなるわけですが,そのとき民主主義とはどんなものになるでしょう.学校は,公共的領域が現実に構築される最後の民主主義的制度機関の一つなのです.にもかかわらず,一部の人々は「繭ごもり」することで,私的な領域に閉じこもり,きわめて利己的な状況を作り上げるのです.

長尾:教育の私事化=市場化がもたらすそうした危険性について,合衆国の一般の人々はどの程度認識しているのでしょうか?

アップル:そこには興味深い点があります.合衆国の主な右派勢力,すなわち新自由主義者新保守主義者,権威主義的ポピュリスト(宗教的原理主義)らは次のように言うわけです.つまり,学校は全く失敗である,と.そして,世論調査などを見ると,一般の人々の多くが,学校は一般的にその役割を十分に果たしておらず,チャーター・スクールやヴァウチャー制を導入すべきだと答えています.ところが,その次に,あなたの子どもが通っている現在の学校についてはどうですか,と尋ねると,多くの親がかなり高い評価を下すものなのです.よって,右派勢力は世論をうまく操作してきたわけです.
 右派はこう言います.あなたのコミュニティーを見てみなさい.仕事はなく,またあっても家族を養うには低すぎる賃金の職でしかありません.こうした状況で公立の学校は何の役にも立っていません,と.そして,そういう困難な状況ではこれがある程度説得力を持つのです.資本でも,人種差別主義でもなく,学校の失敗と見なされるのです.
 たしかに,学校一般に関して問われると,多くの人々が,官僚的にすぎるとか,教員が十分コミュニティーに耳を傾けないなどの問題があると指摘しますが,これはあまりに漠然としています.もっと具体的に自分の子どもの学校について尋ねられると,概ね肯定的な評価を与えており,その学校を変わりたがってはいないものなのです.
 したがって,大半の人々がチャーター・スクールやホーム・スクールを支持しているというのは難しいと思います.人々は抽象的に学校にはどこか問題があると言っているように思います.大半の人々は自分の子どもが通っている学校に満足しており,チャーター・スクールやホーム・スクールの問題をそれほど気にかけていないと考えています.

長尾:さて,チャーター・スクールやホーム・スクールの危険性を克服していくときには,何が一番重要なキーになってくるでしょうか.それは,いわゆる学校の公共性を再び問い直すと言うことなのでしょうか.コミュニティーの再構築ということなのでしょうか.または,教師の専門職性を取り戻すといった問題にあるのでしょうか.

アップル:まず最初に,ご指摘の通り,公共性の問題は非常に重要だと思います.マス・メディアは,学校は失敗であるという言説で埋め尽くされています.大半の学校が相対的に成功しているということはほとんど聞かれません.しかし,一方で学校が成功を収めているのは一部の人々に対してであって,学校に対する批判が生じるのも十分肯けるところがあります.
 私は,アントニオ・グラムシに強い影響を受けていますが,同意していただけるかどうかともかくとして重要な指摘をしています.彼の思想を考慮に入れると,学校は自分たちの文化に,自分たちのコミュニティーに耳を傾けてはいないという批判を無視することはできません.実際,社会的に被抑圧的な立場に置かれている人々によるそのような批判は当を得たものです.その点で,そうした人々が設立するチャーター・スクールを私は積極的に支持します.
 さて,問題が単純に,教師の専門職性の復権にあるとは言いたくありません.教師の専門職性とは場合によっては非常にエリート主義的なところがありますね.「私はプロである.よって自律性を与えられ,尊重されるべきだ.私の決断は私が行う.だから端からとやかく言わないでもらいたい.私は専門家なのだから」というわけです.これは,コミュニティーに耳を傾ける必要はない,とか批判を考慮する必要はないという態度につながる危険性があります.
 ですから,専門職性といっても,教師間の共同作業やコミュニティーとの協力といった点を含んだ新たな専門職性の定義が必要になるでしょう.日本でも,総合学習やカリキュラム統合が話題になっていますが,カリキュラム作成における学校内に限った問題としてそれが議論されているのであれば危険です.それは,教員間や学校間,さらにコミュニティーとの関係において捉えられなければならない問題だと思います.
 その他にも必要な対策があるでしょう.一つは----これは公共性という点とも再び関係する問題ですが----教育政策に関する国際的な比較研究が必要になるでしょう.長尾さんもそれに参加されているように.つまり,「改革」というレトリックの奥底で,現実にはいったい何が起こっているのかを明らかにすることです.アメリカ合衆国で,非常に高い聴取率を誇り,約2000万人が聞いているラジオ・トークショー番組のホストは,公立学校は全てだめだと言い放っています.私たちには,批判的な教育政策研究によって,現実に何が起こっているのかを明確にし,それを公に知らせるための別のメディアが必要です.つまり,教育の私事化によって何が進行しているのかを広く認知せしめなければなりません.
 それとともに必要なのは,成功している公立学校を公の眼に見えるようにすることです.私たちは,そのような仕事を季刊新聞『学校再考』を通して行っています.それは,教員が,他の教員とあるいはコミュニティーとどのように協力して学校づくり,カリキュラムづくりを成功させたかを知らせ合い,議論し合うフォーラムとなっています.また,進歩的あるいは批判的教育家が関わってきた政治的・文化的闘争についても広く知らせることが必要です.こうした作業の成果であり,日本語にも訳された『デモクラティック・スクール』〔アドバンテージサーバー刊〕は全米で30万部が刷られました.ここで,私たちは,学校の改革に関して,右派勢力が言うような方向性に加担する必要はないということを,また,保守的な圧力が強まる困難な状況下でも,民主的・批判的・解放的な教育にめざましい成功を収めている公立学校が存在していることを明らかにすることができました.
 こうしたことを全体として行っていく必要があります.また,批判的教育家も孤高の位置にとどまることなく,確固とした協力関係を築いて作業を進めていかなければなりません.

長尾:ここで話題を日本の問題に向けたいと思います.ご存じのように,日本では現在総合学習に関する議論が盛んですが,これについてはどのような見解をお持ちでしょうか?

アップル:すでにご承知の通り,私は合衆国において統合カリキュラムに関する試みを積極的に支持してきました.しかし,私の立場は両義的です.そこには肯定的も,否定的も存在すると考えます.まず,第1に,この世界の問題の理解に不可欠なのは,総合的な理解です.たとえば,環境問題や差別問題をについて考えようとすれば,多元的な視点が必要となります.よって,非常に抽象的なレベルでは,統合カリキュラムあるいは総合学習の試みを支持したいと思います.しかしながら,他方で,ディシプリン〔各学問領域に基づく知識〕というものが持つ重要性も指摘しておかなければなりません.それは,労働者階級の人々や社会的に被抑圧的な立場に置かれている人々が,そうした学問的知識を理解し吸収する機会を奪うべきではありません.総合学習やカリキュラム統合を,そうした人々が教科のテストで満足な成功を収められないという事態の言い訳にしてはなりません.そうした人々は学校以外の場所で学問的知識に,つまり「高級な知識」に触れる機会をほとんど持っていません.合衆国では,統合カリキュラムの試みが主に都市部〔貧しい人々や有色人種の割合が郊外に比べて高い〕で進んでいるだけに,この点には特に慎重であるべきです.
 日本での試みについても支持を表明したいと考えると同時に,批判的に捉えてもいます.これは最近考えついたことなので,もっとよく考えなければならないことかもしれませんが,日本では統合とか総合という概念の定義にある種の限界があるように思います.つまり,それは知識領域間の統合を意味するにとどまっていることが多いように見えるのです.しかし,まず,これが,現実のコミュニティーおける政治的・文化的問題との間に密接な関連を持つものでなければ,また社会に対する批判的な視点との結びつきを持たないときに,果たしてどれほどの意味があるのか疑問です.さらに,これと関係することですが,統合とは,知識領域間のそればかりではなく,学校とコミュニティーとの統合をも意味するものであるべきでしょう.しかし,現時点で私の知る限り,そのような試みが十分広く行われているようには思われないのです.
 つまり,統合ということが単に教育方法上の技術論的な問題として語れれる節があります.これは統合とか総合という言葉に関する,非常に狭い考え方です.それはもう一つの教授法であるだけで,あるいはその動機となっているだけで,批判的政治的作業ではありません.という点で,私には日本の試みに懸念を持っています.しかし,またこうした現在の試みを,より根本的なカリキュラム改革へのステップとして期待してもいます.つまり,カリキュラム決定上の闘争にコミュニティーの人々が参加し,より批判的な社会的視点が反映された教育方法を伴うようなカリキュラムへの一歩であるとすれば,それは価値のある試みとして評価したいと思っています.

長尾:最後に,日本で教育の私事化=市場化や保守的動向に抗して闘っている批判的教育家に何かメッセージをいただけませんでしょうか.

アップル:わかりました.そうした動向は国際的なものであるだけに,それに抗する闘争もまた国際的なものであるべきだと考えています.したがって,合衆国の批判的教育家や,社会正義のために闘っている教育家たちは,日本の批判的教育家の人々による社会的闘争を応援して行くべきなのです.
 そこで私が送るメッセージは次のようなものです.私たち両国の批判的教育家にとって,つまり,みなさんにとっても私たちにとっても,闘いは続きます.よって,問題の解決は多くの点で国際的なものとなるはずです.それだけに,互いに互いの闘争を支持し合うことを,闘争の中心に常に位置づけてるようにしたいものです.そのために私にできることは何でもしていきたいと思います.ですから,日本の教員組合とも,またお隣の韓国で闘っている批判的な教育家とも団結していきたいと考えています.

長尾:非常に短く過密スケジュールの日本滞在の合間を縫って,長い時間にわたって,多くの質問に丁寧にお答えいただき,また心強いメッセージをどうもありがとうございました.また,お会いできるのを楽しみにしています.

労働法教育見学こぼれ話

 久々の更新、めっちゃ軽め。

 今週月曜日、神奈川県のとある公立高校を訪問して、労働法教育の授業を見学した。この道で有名なNPO団体POSSE(「労働相談を中心に、若者の「働くこと」に関する様々な問題に取り組むNPO」)がいろいろな高校で、出張授業として労働法教育を実践していることをTwitter経由で知り、この取組に深く関わったこられた本田由紀さんがTwitter仲間だったので連絡とったら、そこで中心的な役割を果たしてこられたPOSSE事務局長の川村遼平さんをご紹介頂き、訪問日程の調整を経て、今回の見学と相成った次第。まずは、お二人に多謝!

 さて、今回高1の2クラス(5限と6限各1クラス)で見学した労働法教育で、個人的に一番ヒットだったのは、授業中(その中のグループ討論の最中)に「懐かしい〜」という言葉を発した生徒が、偶然、両方のクラスで複数いたこと。なんや、その「懐かしい〜」って。

 こんなふうに、授業内容の話や講師の教え方の話をしないで、いきなり生徒の私語にフォーカスして授業を振り返るのは、もしかすると、ごく一部の教育さん以外にとっては奇妙なことなのかもしれない。けど、一部の教育さんは、授業見学の際に、何よりも児童・生徒の姿を見ること、声を拾うことに集中する(先生の立ち振る舞いや発問・受けごたえを捉えるのは当たり前)。それは、その授業の意味・無意味は、何よりもまず、その児童・生徒たちの姿や声に基づいて判断できる、その児童・生徒たちの姿や声こそが証拠(データ)になるという考え方からきている。

 てな話はともかく、今回の授業内容の概要は以下のサイトでわかる。今回の授業も、基本的に、このガイドブックに沿ったものだった。
             

http://bktp.org/news/1244


 ところで、この労働法の授業を受けてる生徒が発した「懐かしい」っていったいどういう意味なんでしょう?これって、こういう意味なんじゃね?という話をする前に、これがどういう場面で発話されたかを確認。

 この言葉が耳に入ったのは、授業内で、労基法とかの話が出てきた時のことだった。ある生徒が、「なんか、ほらほら、なんだっけ、労働なんとかとか、社会科の勉強であったことない?ほらほらほら、そうそう、団体交渉権とかなんとか、あれあれ、あれだよ。やったじゃんね、テストで……うわあっ、懐かしい〜。」と来たわけなのだ。

 これ労働三権のことですね。よう勉強したはるわ(さすが進学校)。今回は高1のクラスだったから、つい昨年の高校入試のための受験勉強で暗記した頃のことを思い出したんでしょうねぇ。

 見学した最初のクラスで2名、後の方のクラスで1名、この「懐かしい〜」という言葉を発したたんけど、二人とも女子生徒(そういえば、両クラスとも女子生徒の方が圧倒的に元気だったな)。で、その「懐かしい〜という言葉の意味合いを、その後の表情とか活動の様子をみて考えていたんですよ、教育さんとして。とにかく、こう、なんというか、彼女たち、嬉しそうだったわけです。で、グループでの意見交換にも積極的だった。

 それでこう推察した。彼女たちは、中学の授業や受験勉強では、単に暗記させれられていた/していたにすぎない知識だったのが、ここで、その知識の内実の一端に触れられたことに、また、勉強した知識と社会問題の具体的な事例が結びついたことに、あるいは、無味乾燥と思っても受験のために一生懸命詰め込んだ知識がブラック企業問題とかについて考える上でつながっているということに、ある種の快感を、喜びを覚えたんじゃないだろうかと。

 こんな反応を引き出せる有意味な学習として、労働法教育は可能性あるな、と感じた次第。てのが、教育さんの感想。深読み杉太郎ですかね?(笑)

  これと、この授業で高校生が授業中にした私語の中で印象に残ったのは、ダンダリン(段田凛←漢字調べたわ 笑)。まあ、ことほど左様に、意味のある授業では、私語にも十分意味があるんだよね。タレントの話しかしてないように見えて、ちゃんと考えてる。こういう呟きにレスポンシブに対応しながら授業進めようよ、というのは授業の素人には酷ですけと。

 どこかでまた、POSSE労働法教育の授業を見学に行くつもり。そして、いずれ教育実践の専門家(と自認することを許されるなら)として、上記ガイドブックや授業に関して、もう少しちゃんとコメントするつもり。

 今回お世話になった講師の方々(POSSEボランティアの院生や大学生)、いろいろお世話になっている本田さん、川村さん、ありがとうございました。できれば、今後ともよろしくです。そして、見学を受け入れていただいた某公立高校にも深謝です。

教科における自立型学習に関する授業研究:単元内自由進度学習とその意義 

(『個性化教育研究』5号、2013年10月、2-14頁)

0  はじめに

 本稿の目的は、各教科における子どもの自立型学習(一人学び)としての単元内自由進度学習について、その授業研究の進め方および意義を明らかにすることである。いわゆる一斉指導方式や協同的学習といった方法の実践は多く見られるが、それらとは大きく異なるこの学習に関する現時点での実践事例は非常に少ない。が、この論考で指摘するその意義に鑑みれば、この方法論の実践もまた、他の方法論と同様に重視されてしかるべきであると思われる。そこで、本稿では、外部講師として、学校現場でこの方法に基づく授業研究に携わってきた立場から、その入門的解説を試論として示す。
 以下では、次のような順序で説明を進めて行くことにしたい。第1に、単元内自由進度学習の概要を紹介する。第2に、この学習の目的・目標について整理する。第3に、この学習の詳細に関して、内容面=カリキュラムづくりの側面と、方法面=実践上の留意点という側面に分けて説明する。そして、第4に、この学習の研究授業と事後検討会がどのように行われているのかを簡潔に整理したい。そして、最後に、こうした授業実践の歴史的背景及び意義に触れたい。

1 単元内自由進度学習の概要

 単元内自由進度学習とは、教科学習のための一方法論で、ある教科のある単元において、個々の子どもが、予め準備された教材を用いて、自分なりのペースで主体的・自立的に進める学習を意味する。たとえば、ある教科に10 時間で実施する単元があるとしよう。この10時間のうち、最初に、その単元全体の見通しを子どもたちに与えるために行われる「ガイダンス」の1時間と、最後に、単元全体の振り返りのために行われる「まとめ」の1時間では、子どもたち全員を一斉に相手にした教師主導の授業が展開されるが、その間の8時間は、子どもが自ら立てた学習計画表に沿って、自立的に学習を進める。その中で、子どもたちは、一人ひとり個別に、あるいは、時には互いに協力しながら、自立的・主体的に学習を進めて行く。子どもたちは、ホームルームや多目的スペースなど、許された範囲内の各自思い思いの場所で、あるいは、その時々に必要な場所で、自らのペースで学習を進めて行く。
 ただし、自由進度といっても、学習指導要領上、その単元で最低限扱う必要がある指導事項については、どの子どもも、その単元の授業時数内で終えることが求められる。そのような事項に関しては、チェック・ポイントとして、学習カードの確認・添削や小テストなどの機会を設けることになる。
 他方で、この学習では、一つの単元に対して、子どもたちが自由に選択できる複数のコースを設けるのが一般的である。どのコースでも、上述のように最低基準としての学習事項は必ず扱われるが、同時に、コース毎に他とは異なる作業内容や手順・方法を取り入れることで、それぞれ部分的に異なる一連の学習カード等の教材が準備される。子どもたちは、最初のガイダンスの時間に、複数のコースの違いについての説明を聞き、その中から、自らが興味を持った、あるいは、自分に合っていると思うコースを選択し、コース毎に準備された各種学習材や教科書を用いて、自立的に学習を進めることになる。
 くわえて、これら各コースの学習材の他に、発展学習として、より高度で追究的・問題解決的な課題、あるいは、より多様で子どもにとって魅力的に映るような課題も合わせて用意され、規定の授業時数内で各コースの学習材を早く終えた子どもたちは、自らの興味・関心や適性に応じて新たに課題を選択し、さらに学習を継続できるように工夫される。こうした学習形態が、現行学習指導要領で言うところの「個に応じた指導」あるいは「個性を生かす教育」という趣旨に沿うものであることは明らかであろう。
 

2 単元内自由進度学習の目的・目標

 この学習の目的は、第1に、一斉授業では実現が難しい水準の「個に応じた」学習プログラムを準備することによって、また、多様な子どもをそれぞれに動機づける多様な教材や環境を整備することによって、どの子どもも最低限身につけるべき学力を形成できるようにし、同時に、それぞれの持つ資質・能力を可能な限り伸ばす機会を保証しようとすることである。第2に、学習上の大幅な自由度を子どもに与えることによって、「自己学習力」と呼びうるものを子どもたちが身につけられるようにすることである。このことは、端的に、現行学習指導要領の言う「自主的, 自発的な学習が促されるよう工夫すること」を明確な実践方法として具現化したのが、この学習方法であるということを意味する。
 これら2点に関して敷衍しておこう。単元内自由進度学習を導入するのは、単なる習熟の差のみならず、多様な子どもの興味・関心、学習スタイル、学習のペースなどにも対応し、それらを生かすことを目指すためである。子どもによっては、新しい学習内容の導入に際して、言葉や文字情報による解説が取り組みやすい子どももいれば、その前に、その単元に関連するものづくりなどの手作業から入ることではじめて学習に動機づけられる子どももいる。また、教科書だけでなく、それ以外の図鑑や図録を使う方が、あるいはVTRで何度でも必要な情報を確認しながらの方が、また、コンピューターを用いながらの方が、より学習に集中できるという子どももいる。さらには、その単元のどの部分でより時間を要するか、どこにどんな時間の掛け方をすることで、より単元目標に近づきやすくなるかといった点でも、子どもにより違いが見られる。これらは、必ずしも序列化されるべき差ではなく、各子どもの持ち味として生かされるべきものである。 
 だからこそ、この学習では、一つの単元内で、それぞれの子どもの特性が活きるような、あるいは、普段の一斉授業では否定的に映るような特性が否定的にのみ扱われなくなるように、工夫を凝らした複数のコースを設けたり、できるだけ自由な学習場所を認めたりする。あるいは、それぞれの子どもが自らのつまずきのポイントを着実に乗り越えられるように、また、自分の資質・能力をそこで可能な限り伸ばしてくれるように、さらには、自分の追究したい課題にじっくりと取り組めるように単元構成を図る。こうした工夫を通して、子どもたち全員に、ミニマム・スタンダード(最低基準)の達成と、より高度な、あるいは多様な学習機会を保証することを目指す。
 このような手立てやプログラムによって、学習の内容面に関する充実化を図るのみならず、この学習は、主体的で自立的な学びの作法を、つまりは「自己学習力」と呼びうるものを子どもたちが身につけることを目指す。ここでいう自己学習力とは、他人からの命令・指示によってではなく、自分の意志・判断によって、自分の学習を組み立て、進めて行くことができる能力を指す。単元内自由進度学習は、自分がこれから取り組む内容や方法が、自分以外の誰かの指示に大きく依存するような状況においてではなく、子どもたちが、大幅に与えられた自由度の中で、自分で自分をコントロールし、自分の学び方を工夫し、その中で学ぶ楽しさや充実感・達成感を味わうという経験を積み重ねることができてこそ、自己学習力は育つという視座に根ざして導入されるものである。「指示待ち人間」ではなく、あるいは、自分の動き方を他人に委ねてしまう存在ではなく、失敗や停滞を経つつもそれを克服し、主体的に自分の課題を解決できるような存在により大きな価値を置き、そうした能力を育てようとするのが、この方法論なのだと言えよう。
 

3 単元内自由進度学習の内容面と方法面:カリキュラムづくりとその実践上の留意点

(1) 単元内自由進度学習の内容的側面=カリキュラムづくり

 単元内自由進度学習では、子どもたちが、基本的に自分一人で学習を進めて行けるように、学習カードその他を含む一連の教材を、教師が作成することが必要になる(こうして構成された単元およびその学習材を「学習パッケージ learning package」と呼ぶことがある)。先に触れたように、この学習の特徴の一つは、単元毎に複数のコースを設けることにある。よって、この単元全体の構成には、a.複数のコースを含む単元計画、b.学習材づくり(子どもたちが書き込みをしながら進める学習カードや、それに取り組むためのヒントカードなど)、c.学習環境づくり(掲示資料・展示物の作成・設置など)が含まれる。
a. 単元構想
 単元構成においては、まずどの単元をこの方法で実施するかを決める必要がある。一般に、この学習では、個人差が現れやすい手作業的な活動が多いものや、創作的な活動を含めやすい単元が向いているとされる。また、一定の時間数を子どもに任せることで、ある程度自分なりの「見通し」を持って計画を立てさせることに意味が生じ、自分なりに学習を深めるための追究活動にある程度じっくりと時間を費やすこともできるようになるので、8-12時間程度の単元を選ぶのが標準的である。
 実施する教科と単元が決まると具体的に単元計画案の作成がスタートするが、そこではまず複数のコースを設定する。ここで最初に参照すべき最も重要な資料は、該当教科の学習指導要領解説と複数出版社の検定教科書である。学習指導要領解説は、単元目標、内容の取り扱いや指導事項、活動例などを丁寧に再確認し、その単元で最低限達成されるべき目標を明確化するために参照する。それと同時に、必ず複数の教科書を比較検討する。該当単元に関して、自校採用の教科書に含まれていて、別の出版社の教科書には含まれていない事項があるとすれば、それは、学習指導要領上最低限必要とされる内容ではない可能性が高いことがわかる。くわえて、複数のコースを組み、その学習材に関するアイデアを豊富化していく上で、自校採用教科書以外の教科書から大きなヒントを与えられることも多い。
 さて、コース設定の複線化は次のような手順を基本とする。まず、標準的なコースとして、教科書準拠のコースがある。すなわち、自校で用いている教科書の流れにほぼそのまま沿う学習カードが作成され、子どもたちは、主として、このカードの指示や問いに従って教科書を順に読み進め、教科書の内容や活動をフォローしていくことで、学習を進めて行くことができるようなコースである。それに対して、教科書の流れとは異なるコースも設定する。たとえば、教科書では、何らかの原理を理解してから、あるいは、特定の知識を理解した上で、ものづくりなどの制作的ないし創作的活動に入るという流れになっているところを、単元の冒頭から、制作的ないし創作的活動に入ることで、原理的思考や知識習得へと動機付け、その上で、教科書的な文字情報による学習に導くようなコースが考えられる。また、教科書よりも、さらにスモール・ステップの発問形式を採用したコースを設けるという方法もある。他方で、反対に、よりオープンで根本的な課題を与え、自らの試行錯誤によって、目標とされる理解に向かおうとするように仕向けるといった単元構成も考えられよう。いずれにせよ、こうした複数のコースは、どのコースであれ、学習指導要領上最低限身につけることを要請されている項目が必ず含まれるように、また、多様な子どもの特性や持ち味に応じて、それを生かすように、様々な仕掛けを施して構成する。
 このコース設定の作業において、特に我々が重視しているのが次の2点である。第1に、このコース設定やその運用に関する企画を、学年団等の教員チームで進めるということである。第2に、その企画過程で、子ども「たち」ではなく、具体的な一人一人の子どものことを強く意識するということである。「〜が得意な子どもと不得意な子ども」という集団的表象に留まらず、「…クラスの○○さん」という一人一人の子どもの名前を上げながら、「こんなコースにすることで、あの子が生きてくるはずではないか。だから、こんなコースをこう設定しましょう」といった協議を教員チームで積み重ねることになる。子どもたちの姿や声を「束」としてではなく、「固有名詞レベル」で振り返り、その子が活きる要素を織り込んだコースをチームワークで考案するのである。
 ところで、単元構成には、複数のコース設定以外にもう一つ重要な仕事が含まれている。コース学習は、その単元で最低限押さえるべき指導事項について学習する部分だが、その先に、自由に選択できるいくつもの発展学習を準備する。魅力的かつ価値のある発展学習を用意することで、子どもがコース学習を効率よく終わらせ、さらに学びを深める機会を手に入れようと動機づけられることにもなりうる。
 では、そのような発展学習はどう準備されるのか。一人一人の子どもの特質・持ち味を考えつつ、教師陣がチームワークで企画することはコースづくりと共通だが、発展学習では、教師陣が様々な資料や情報を渉猟しながらも、自分たちの想像力・創造力を駆使して、子どもの興味関心を生かすと同時に拡げられるような内容や、一斉授業では実施が難しい作業、教科書では扱われていない追究的な活動等々を用意することになる。他方、単に、より難易度の高い問題集を用意したり、その子どもが最初に選択したのとは異なる別のコースをもう一つやってみることを認めたりするという選択肢も、発展学習の一つとして用意することがある。 
 最後に一つ補足すると、きわめて逆説的なことだが、一般受けを狙ったコースや発展学習が案外多くの子どもを生かしきれず、反対に、固有名詞レベルのピンポイントで特定の子どもに狙いを定めた仕掛けの方が、かえって多くの子どもを学習に惹き付けるということが、これまでの経験で見られてきた。その点で、普段からの深い子ども理解が優れた単元構成の基盤になることは間違いない。
b. 学習材づくり
 コース設定が決まると、各コースに合わせた学習材づくりが開始される。その学習材には、各コース毎に準備されるものとして、(1)子どもが各コースについて単元全体の見通しを持てるように作られた「学習の手引き」、(2)子どもが選択したコースに沿って学習をどのような順序・進度で進めて行くかを明記した計画表と、その計画通りに進められているかという点を含めて各授業後の感想が書けるようになっている「学習計画表・振り返りカード」、(3)子どもが書き込みながら学習を進めて行くことになる「学習カード」、(4)その学習カードを進める上での支援的役割を果たす「ヒントカード」、さらに、(5)これらのカードと連動した各種資料(図鑑・図録・マンガ・絵本を含む各種書籍、視聴覚資料、実物資料、様々な器具・用具など)が含まれる。また、ゲスト・ティーチャーを招くこともあるので、このような人的資源も、また次節で述べる各種学習環境の大半も、広義には学習材の一部となる。
 担当教員チームは、設定したコースにおける子どもの自立的な学びが充実したものになるよう、これらの多元的・多層的な学習材を整合的に結びつけて構成する必要がある。中でも、我々の経験によると、これらの学習材作成の中で最も重要でかつ苦労を強いられるのは、学習カードづくりである。たしかに、「学習の手引き」は、そのコースにおける学習へと子どもをいざなう動機付けの役割を担う重要な位置づけにある。が、その手引きに、子どもを十分に惹き付けられるような明快かつ魅力的な前口上を入れるには、一定の確信を持って作成された学習カード本体が不可欠になるからだ。また、学習カードの出来がよければ、教師が直接教え込まなくても、学習カードの指示に依拠し、学習環境との相互作用の中で、子どもが従事した学びを展開する可能性が高まるからである。
 教科書準拠コースの学習カードは、一斉授業において、教科書の流れに沿って、教師が子どもたちに向けて口頭で行う指示や発問を徹底的に明確化・整理した上で、それを文字にし、一区切り毎のプリントに落とし込んだものである。子どもたちは、カードの指示にしたがって、教科書を参照しながら、様々な学習活動(実験・観察、製作・創作活動などを含む)を展開し、カードに示された問いの解答を作成して、一枚一枚のカードを仕上げて行くことで学習を進めて行く。
 他方、教科書準拠コースと異なるコースの学習カードに関しては、単純な作成パターンを示すことはできない。教科書準拠以外のコースをどう設定し、その学習カードの内容をどう組んで行くのかは、各担当教師、あるいは、学年団などでチームを組む教員陣のまさに腕の見せ所である。が、若干の例を挙げると、自校採用の教科書よりもオープンかつ根本的な問題解決過程を経験させるようなコースの学習材として、算数や理科で、その単元で習う新たな公式や実験方法を、子どもたち自身が、それまでの既習事項を前提に、試行錯誤によって自ら導き出すような課題を設けた学習カードを準備するという方法がある。それは、子どもを小さな数学者や科学者に見立てて、最も深い思考に誘うような一連の流れを準備するというやり方である。また、社会科で、歴史上の人物が学習カードに写真や絵入りで登場し、その吹き出しセリフとして、直接、現代の子どもに語りかけるような設定を凝らし、その単元で考察して欲しい課題、調べて理解して欲しいことを、その人物らしく語りかけたり問いかけたりするような発問形式を用い、その課題の解決や調べ学習に、教科書その他の資料を駆使せざるをえなくなるような学習カードを作るといったやり方も考えられる。他方で、自校採用教科書の該当単元にはない手作業的な活動やものづくりなどを織り込んだ学習過程を含むコースの学習材として、国語科の物語単元などで、その主人公の名前を出し、「〜さん(主人公)に手作りのプレゼントを送ろう」という目当てを掲げ、そのプレゼントの説明を含んだ、その主人公への手紙を作成させるといった課題を含む一連の学習カードを準備するというやり方などもあり得よう。
 このようにオリジナリティ溢れるカードを準備することは、教科書を新たに編むに近い作業でもあるので、創造的活動に必然的に伴う苦労がある。が、だからこその楽しい作業にもなり得る。同時に、教師は、中心教材(=教科書)を与えられ「使う」という立場だけでなく、それを「作る」のに近い立場に身をおくと、検定教科書編集上の細部にわたる工夫や意図がより深く読み取れるようになり、多くの英知や技を結集して編集される検定教科書の質の高さを実感できることにもなる。
 他方、教科書準拠以外のコースの学習カードを作成して行く時に、より単純簡明な方法として、我々が頻繁に採用している方法がある。一つには、教科書準拠以外のコースでも、そのうちの何枚かの学習カードは教科書準拠コースと同じカードを用いるという方法がある。実際、教科書準拠コースとさほど大きく変わるところはないが、学習内容や活動の順序を教科書準拠コースと入れ替えただけというコースの組み方も考えられる。また一つには、教科書準拠コース用のカードの何枚かを部分的に改編したカードを用いる方法がある。つまり、教科書準拠コースと、学習順序・活動順序にさほど大きな変化はないが、その内容に、難易度を含む若干の変化をつけたものである。
 これらを考えると、基準となるコースとしての教科書コースの学習カードが、丁寧に作成されることが重要な意味を持つことが分かる。検定教科書には「教師用指導書」が発行されているので、教科書準拠コースの学習カード作成は、さほど難しく思えないかもしれないが、我々の経験では、この作業にもいろいろな工夫や苦労を要する。特に、どの子どもが読んでも、その意味するところが、子どもの頭の中ではっきりとした像を結ぶように、明快かつ適切な指示や発問を準備するのは苦戦を強いられる。口頭による指示・発問では、言い直したり、言い足したりすることが可能だが、学習カードではそれができない。指示や発問の設計とその言葉選びは、学習カード作成上の鍵である。また、子どもたちが取り組む手作業に関しても、その作業手順を子どもが理解できるようにするために、適切な図や画像の挿入などに難儀することもある。くわえて、見やすいレイアウトに腐心することにもなる。
 よって、こうした作業も、教師個人としてのみならず教員チームとして取り組むことが大切である。つまり、ある教師が叩き台として作成した学習カードを、チームを組む他の教師に見てもらい、問題の解答例を作成してもらったり、発問や指示に関する感想を述べてもらったりしつつ、互いに改善案を出し合うなどという手順を踏まえることが必要になる。こうしたチームワークが、教員集団全体の教材・授業の理解や、教員同士の相互理解を深め、実践の質を高めることになるのである。
c. 学習環境づくり
 ここでいう学習環境の構成物には、単元名を示したパネル、学習上のヒントやアドバイス掲示、学習過程で用いる器具・用具や材料、拡大判の図版・地図・写真などの資料や各種図書等、あるいは、実物・模型展示、子どもによる思考・表現の成果を紹介・共有するための掲示板などがある。この学習においては、子どもたち自身が「自立的に学ぶ」という形式を基盤とするので、必然的に、教師による直接的な指示よりも、予め準備・構築された学習空間による、子どもたちに対する間接的な動機付けや支援を軸に、子どもの学習が成立することを目指す。教師には、子どもが興味・関心を引き起こされ、学習活動を楽しんで、持続的に進められるような、さらに、その学習に関する子どもの理解が深まったり、広がったりするような仕掛けを縦横に張り巡らせた学習環境を構築することが求められる。
 こうした学習環境が目指すのは、その単元に関する一大「学習ワールド」を出現させることである。たとえば、算数の図形単元であれば、教室・廊下・オープンスペースなどの壁・窓・天上・床をあらゆる方法で駆使して、「図形学習ワールド」を作り上げるわけである。天上からは学習する図形をあしらった単元名掲示を吊るし、子どもの目の高さの壁にはその図形の性質が一目でわかるパネルや図形クイズなどを、共有スペースの真ん中には、学習カードのヒントとなる情報が視覚的にわかりやすく示された立て看板的なパネルを設置し、いくつかのテーブルには様々な図形遊び体験のためのパズルやタングラムを、その横にはタングラムの出来上がり例の拡大コピーを、さらに、窓にも縦横にテープを張り巡らせて構成される図形模様を、くわえて、別の壁面には子どもたちが作った図形的製作物が貼り出されて行く巨大な台紙を、棚には図形にまつわる様々な図録や絵本などの紹介コーナーを、というように、その学習空間の学習情報密度を客観的にも主観的にも飛躍的に上昇させることで、教師の直接的指示が極小化されても、子どもがその環境との相互作用によって、そこでの自立的学習の充実度を極大化できるように環境構成が行われるのである。それは優れた幼児教育現場の環境構成と多くの類似点を持つ。そこでは、単に平面的な掲示だけでなく、より子どもたちの目を引くような凹凸のある、あるいはダイナミックな三次元の構成物を含む様々な掲示やコーナーが、色彩豊かに、かつ、学習に最適な子どもの動線が確保されるようなレイアウトで配置することが目指される。

(2) 単元内自由進度学習の方法的側面=実践上の留意点

 実践上の留意点は、当然ながら、まずはこの学習の目的・目標から直接導き出される。その目的・目標とは、上述のように、「個に応じた」あるいは「個を生かした」学習指導・学習支援の可能性を拡げること、また、「自己学習力」を身につけられるようにすることであった。
 したがって、第1に、子どもが他の子どもに迷惑をかけたり、共有財産としての学習材や道具を手荒に扱ったり、使用したものを元通りに片付けなかったりというルールが破られない限り、子どもたちの学習活動に対する教師による直接的な指導や支援をできるだけ控え、教師は、授業中、子どもの様子を見取り、それを記録し、見守ることの方に重点を置く。一斉授業・集団学習では、一定の学習速度やペースが全ての子どもに共通に当てはめられることになりがちで、自分の机について一定の姿勢を保つことも要求されるが、この学習では、授業中、少々の停滞・沈滞や間違い・失敗があっても、すぐに介入せず、その子ども固有のペースや学習スタイルを尊重することを原則にしている。というのも、子どもによっては、やり始めのペースがゆっくりでなかなか進まず、支援が必要に見える場合でも、ひとたびスイッチが入ると、集中してどんどん自分の学習を進めていくという場面が見られるからである。あるいは、学習をサボっている子どもも、傍で集中して黙々と進める他の子どもたちを見たり感じたりして、それに刺激され、自ら一念発起して実質的な学習活動に復帰するという場面も見られるからである。
 また、この学習では、何かの必然性がない限り、机につく姿勢を正させることもしない。子どもによっては、椅子に座らず、机の前に膝断ちで、時には、立ったまま、あるいは、地べたや低いところに教材を並べ、あぐらをかきながら、それでも学習には集中しているという場面は多々見られる。人に迷惑をかけなければ、公共財を丁寧に扱っていれば、そして、実質的に学んでいれば、原則「好き勝手」が許される。途中で集中力が切れて作業が進まず、徘徊したり寝ころがったりする場合でも、他の子どもを妨害しない限り、また目に余るということがない限り、「適度な自主休憩」さえ容認する。そうした停滞や沈滞があっても、大部分の子どもは、自分の学習へと戻る場面が多く見られるからである。もちろん、目に余る場合には、その子どもに合わせて即時支援や事後指導を行うことになるし、この学習の経験の浅い学年などでは、教師による助言や支援をやや厚くするが、基本的に、子どもたち自身が課題を自分で乗り越える契機を大切にする。ただし、与えられた時間内で最低限のコース学習が終えられない場合には、宿題や居残りというかたちで補充学習をしなければならないことは、予め子どもたちに伝えられている。
 第2に―これは第1の点と繋がるが―この学習では、子どもたちが教員に支援を求めても、教師は、できるだけ子どもが自分で解決しようとするように促す。そこでは、子どもたちに自由には責任が伴うことに身をもって気づかせ、学ぶ楽しさとともに学ぶ苦労も経験させたいという意図がある。たしかに、その場で分厚い支援が必要な子どももいるので一概には言えないものの、基本的に、教師は、子どもに質問されたり頼られたりした時には、その子どもに対して、学習カードや教科書を開いて再度よく確認することを励ましたり、ヒントコーナーやその他の学習材を利用することを勧めたりすることで、子どもが自立的に課題に取り組み、解決する場面を増やすことを心がける。
 第3に、多様な子どもの視点・思考の共有という側面が、この自立的な学習では軽視されると批判されることがあるが、この問題への対応について述べておきたい。たとえば、学習カードの指示によって、あるポイントに関する子どもの感想や意見を付箋で貼り出すコーナーを設けると、普段の直接的な意見交換の場では積極的な発言が見られない子どもが、そこに何枚も自分の考えを書いて披露するということがある。さらには、人の意見を聞きましょう、と直接指示しても、なかなかそういう指導が通じない子どもが、授業中だけではなく休み時間にも、その付箋に書かれた友達の考えにじっと目を通しているという場面が生じる。
 くわえて、協同学習と呼ばれる方法論では、協同的活動がそれ自体目的として織り込まれる計画が立てられることになるが、その点で、協同学習が教師によって仕組まれるわけだが(そして、その重要性は強調されてよいが)、単元内自由進度学習では「自然発生的/自発的な協同性」を重視する。子どもたちは、それぞれ自立的に学習を進めていても、様々な場面で、時には意外な子ども同士の間で、お互いの学習活動について意見を交換したり、互いに相談・助言したりする場面が見られる。その点で、このような個別の自立的な学習の中でも、意味のある協同性が育まれる可能性が充分にあると見ている。
 第4に、この学習で教師は、その子どもの活動を肯定的に価値付けることができる場面を見いだし、その肯定的評価を子どもに返すことを心がける。この学習では、子ども一人ひとりの自立的・個性的な活動の中に、できるだけ「いいところ」を見出し、適切なタイミングで(手段としてのみならず)実質的に「褒める」ことができるようにすることを旨としている。特別な支援を要する子どもの一部を含めて、通常の一斉授業では要求される秩序に収まらず、否定的評価を受けることが多い子どもに対しても、この学習においては特に、できるだけ肯定的に捉え、その自尊感情が掘り崩されないように配慮し、その子どもが、自らの失敗や挫折と向き合いながら、試行錯誤を通して課題を解決していけるための、そして、自己を肯定的かつ批判的に捉えることができるようになるための基盤づくりが目指される。その意味で、この学習においては、いわゆる「個人内評価」により重要な位置づけが与えられる。
 第5に、ここまでの留意点と一見矛盾するように見えるような柔軟な対応を、局面によっては取ってよいということも確認している。たとえば、学習カードの文言の思わぬ不備などから、子どもの間に無用な混乱が生じたり、過度の停滞が生じたりした場合には、自由進度学習の途中でも一斉指導を入れ込むという禁じ手も否定しない。現場での具体的な実践には、いろいろな要因が複雑に絡みあって、生じた問題の原因を常にすぐに明確に理解できるわけではない。しかし、そこで生じている事態に大きな問題を担当教員がチームとして感じるとすれば、その原因の追究の前に、あるいはそれと同時に、まずは問題となっている事態への具体的な対応を教師陣は求められるからである。
   

4 単元内自由進度学習の研究授業と事後検討会

 この研究授業の第1の特徴は、その指導案において「本時」という枠組が存在しないことである。一般に、単元内自由進度学習の研究授業の場合には、子どもたちによって、選択したコースや学習のペースも違うので、本時の指導案というものが意味をなさない。よって、この学習では単元全体の指導案のみが作成される。その研究授業は、コース別の学習が開始されて、子どもたちの自立的学習が本格化して行く単元中盤から、発展学習に取り組んでいる子どもが多く現れる単元終盤に設定することが多い。
 他方で、この学習でも、本時という枠組を伴う時限も存在する。それは単元当初のガイダンスと単元最終のまとめの時間である。これらに関しては、学年ないしチームを組むクラスの子どもたちを一斉に集めて行われるので、本時の指導案を作成し、時系列的な活動計画の詳細を明記した指導案を作成する。ガイダンスでは、子どもたちを今後の学習に動機づけ、設定した各コースの特徴をよく理解して、子どもたちがそれぞれ選択コースを決定できるように、また、発展学習を含めた単元全体の見通しを持てるように、単に一方通行的なコース解説に終始しないという点を含めて、教師陣が様々な工夫を施す。最後のまとめの時間では、クラス全体で様々な視点や考え方などについて共有する機会がほとんどない単元内自由進度学習であるだけに、そこで共有しておきたいポイントや、全員で重点的に確認したいポイントを扱うことが重要な目的の一つとなる。同時に、この単元で子どもたちが取り組んできた学習活動やその成果・作品、子どもが示した学びの姿や声を、全員の前で、教師が適切に価値付ける重要な「評価」の機会でもある。これらガイダンスやまとめの時間も、この学習の重要な一要素なので、一定の経験を積むようになった段階で研究授業として設定してもよいだろう。
 第2の特徴として、研究授業における授業者と参観者の視点や動き方に関する点が挙げられる。一斉指導と異なり、授業者の側は、子どもたち全員の前で発問や説明をすることはないので、子どもたち一人ひとりの学習状況を、できるだけつぶさに把握すること、必要に応じて最小限の適切な支援を行うことを、安全面の確保とともに心がけることになる。
 他方、参観者も、この研究授業では、ひとり一人の子どもの具体的な学びの姿を見とることが最も重要な目的になる。その際に、典型的な参観方法として次のようなやり方が考えられる。一つには、学習スペース全体を歩いて全体を見渡した後、特定の子ども(たち)に焦点を合わせて、その子どもを追って観察するという方法である。その子どもが、どのような時間帯に、どのような進み具合や停滞を示しているのか、何に関心を示し、何に困っているのか、どのような子どもと交流し、どのような学習材や環境の活用の仕方をしているのかを、ミクロに見て行くのである。その際重要なのは、表面的な子どもの行動記録だけでなく、できるだけ子どもたちのつぶやきや声を詳細に拾い、むしろ、そこでの思考・内面を推察しながら観察することである。また、一つには、ある場所で定点観測するという方法もある。特定のコーナーに、どのような子どもたちがやってきて、そこをどのように活用しながら学びを展開しているのかを観察するのである。さらに、特定の授業者を追うことで、この学習における授業者の視点や、子どもへの支援の仕方、それに対する子どもの反応などを観察するという方法が考えられる。実際には、これらを適宜組み合わせて授業を参観することになろうが、いずれにせよ、子どもの学びのあり方を、固有名詞レベルで分厚く追うことが基本になることは間違いない。この点は、単元内自由進度学習に限らない重要な点だが、この学習ではとりわけ不可欠な見方である。
 この種の研究授業の特徴として、最後に、次の点を掲げておきたい。すなわち、この授業では、あくまで「単元」こそが、その基本単位であるということである。単元とは、英語で言うunit、つまり単位のことなので、これは当然のことでもある。どのような方式の授業でも単元計画を作成する以上、この点に変わりはないはずだが、多くの研究授業に接して言えることは、「本時」には相当の労力と時間をかけた準備が行われ、それに関する議論もなされるものの、授業者も参加者も、本時にのみ強く意識が向きすぎて、単元全体での子どもたちの学び・育ちという視点や考察が十分でないという印象を持つことが少なくない。単元内自由進度学習の研究授業では、単元全体を通して、その子が充実した学びを展開して行けたかどうか、あるいは、最低限の目標を達成することができたかどうか、授業者の狙いが単元全体で達成されたかどうかといったことに着眼点が置かれる。
 こうした特徴を持つ研究授業の後に行われる検討会も、その特徴に対応した内容を持つものとなる。何よりもまず、検討会の話題の中心は、子どもの具体的な学びの姿や声であるということである。毎年多くの教師が参観に訪れるような公開研究会を開催している公立小学校での検討会は、まさに徹底して固有名詞を挙げながら、その子どもが、普段はどんな子どもで、どのような興味関心・思考様式・行動様式の持ち主で、その子どものことを授業者がどのように感じているのか、そこでの学習でどのような学びがその子どもに生じることを狙っているのかという点を確認しながら、その研究授業時におけるその子どもの実際の学びとその意味について振り返るということが行われている。その意味では、単元内自由進度学習だけではなく、集団学習や協同的学習においても、検討会における議論の中心軸を具体的な一人ひとりの子どもに置くという観点は、より注目されてもよいだろう。
 

5 まとめにかえて:ルーツとしての二教科同時進行単元内自由進度学習とその意義

 意外に思われるかもしれないが、実は、単元内自由進度学習は、日本では「二教科同時進行単元内自由進度学習」として始まった。今から30年以上も前、日本のオープンスクールの草分け、愛知県東浦町立緒川小学校で当時米国留学から帰国したばかりの教育学者加藤幸次の指導・助言を受けつつ、同校研究主任成田幸夫(現岐阜聖徳大学教授)を中心にこの学校で開発され、週間プログラム学習(週プロ)と呼ばれていたのが、この方法論であった。
 では、いったい二教科同時進行とは何か。たとえば、算数10時間と社会10時間の単元があるとすると、各々の教科に複数コースと発展学習、そのための学習材及び学習環境を整備し、合計20時間について、子どもたちは自分の選択したコースに沿って計画を立て、その計画が担当教師に認められたら、その計画に沿って学習を進めて行く。各教科単元に割り当てる時数も、極端なものでない限り、子どもの見通しに基づいて自由に決めることが許される。算数は得意なので8時間で終えられそうだが、社会には12時間費やそうとか、あるいは、算数は好きなので思い切り発展学習に費やしたいので12時間、社会はあまり好きではないので最低限のコース学習を8時間で終えることにするという計画も許される。もちろん、学習指導要領上、各教科とも年間最低授業時数が定められているので配慮が必要になるが、その学校での年間授業日や授業時数が最低基準よりも多めに実施されていれば、こうした法律上の問題に抵触することは皆無である。各教科に割り当てた時数の具体的な配列例としては、算数と社会を1時間づつ交互に進める子どももいれば、算数2−3時間の次に社会2−3時間という計画を立てるとか、あるいは、算数を10時間連続で終えてから、社会を10時間続けるという子どもも見られる。
 ところで、この二教科は、相関カリキュラムやクロス・カリキュラムのような関係にあるわけではなく、合科関連指導のような視点は含まれていない。むしろ、文系科目と理系科目などのように、互いの学習の性質の違いがある程度際立って、子どもの得意不得意もある程度分かれるような教科目・単元を組み合わせるようにすることもある。その方が、子どもたちが自立的に学習を進める上で、得意だったり好きだったりする単元における学習の充実度や、その学習を楽しみにしている気持ちが、そうではない方の単元の学習に肯定的に影響することが期待できるからである。実際、子どもたちは、好きな教科や得意な教科の方の学習で充実感を味わうことで、その勢いをもう一方の学習に持ち込んで、「意外に自分は、こっちの教科も進められた」という感想を示す子どもも少なくない。また、他方で、おいしいものを後に残すように、好きな学習を後でたっぷりやりたいので、好きではない方の教科を、チェックテストに合格するように速めに頑張って進めるという子どもも見られる。
 したがって、二教科同時進行単元内自由進度学習における両教科間には、必然的な結びつきがある必要はなく、むしろ、その方が子どもの多様性を生かす可能性が増す。むろん、合科関連指導やテーマ別単元学習の重要性は強調されてしかるべきだが、二教科同時進行単元内自由進度学習はそれを目的としたものではなく、もしそうした学習をカリキュラムに組み込みたいということであれば、緒川小学校がそうであったように、別枠でカリキュラムを構成し、実践することができよう。実際、緒川小学校では、この週プロ(二教科同時進行単元内自由進度学習)を含む合計6つの学習プログラムを設定し、個と集団(協同)や、今でいう習得と活用・探究、系統性と総合性といった座標軸間の均衡を図ったカリキュラムがデザインされていたのである。
 ここに紹介してきた子どもの自立的な学習に基づく教育方法論は、さらに遡れば、アメリカ合衆国における有名な進歩主義的教育実践であるウィネトカ・プランやドルトン・プランに行き着くと考えられる(後者は、特に今で言う教科センター方式のルーツである)。それらで模索されたのは、子どもたちが受け身的な学習に終始する集団主義的な一斉指導に対する代替案であった。
 将来の民主主義社会を担う子どもたちは、重要な意思決定において何らかの権威や他人に頼るというだけに終始せず、自立的に判断し、その上で他者と協同して問題を解決していける力を身につける必要がある。上位機構やエリートと呼ばれる人々に任せて、我々が思考停止に陥ることが、どのような悲劇を生むことになりかねないかということは、最近この日本で大きな痛みを持って感じてきたことではなかろうか。
 さらに、ポストモダンと呼ばれる飛躍的に流動性の高まった社会においては、いま必要とされている知識・技能が十年後二十年後も同様の価値を持ち続けるとは限らず、反対に、新たに重視される知識・技能の出現が常態化する。このような社会は、時に知識基盤社会と呼ばれるが、それは多くの知識を獲得することが求められる社会という意味ではなく、新たな知識が社会のあらゆる分野で飛躍的に重要性を増す社会を意味する。とすると、そこで子どもたちが身につけるべき能力とは、教師に習得するよう指示された内容を指示通りに習得し再現できるというだけでなく、自らの思考と判断に基づいて新たな事について学ぼうとし、新たな局面において、その時点で持っている自らのリソースを活用して、必要に応じて他者と協同しながら、問題を解決していけるという類いのものであろう。こうした理念こそ、PISA などで探究されていることでもある。上記のアメリカにおける教育実践は、その先取り、嚆矢と考えることができる。
 このように、生涯学習が求められる時代には、自発性や意欲の持つ意味がより増すことになるが、外からの強制や圧力(命令や受験など)がなくても、自らすすんで学んで行こうという姿勢を保つことができるためには、そうした学習が楽しかったという経験と、時に苦労や失敗や挫折を経た上でそれを乗り越えてきたという実績とが不可欠になる。だからこそ、ここで紹介してきた単元内自由進度学習の実践において、一人ひとりの子どもが学習を楽しいと感じられるように工夫し、子どもが自由を与えられて経験する楽しさのみならず苦しさをも意味のあることとして、その子の成長に活かしていく道を探ろうとするのである。
 最後に、我々は、この自立型学習としての単元内自由進度学習によって、個の孤立化を是としているわけではない。むしろ「開かれた個」をこそ念頭に置いている。が、日本の学校文化には、集団性、「みんな一緒」性に過度に比重を置く傾向があるのではないかという批判的認識が我々にはある。その意味でも、ここに紹介した方法論の意義は、やはり大きいと言えるのではないだろうか。

<参考文献>

  • 愛知県東浦町立緒川小学校『個性化教育へのアプローチ』明治図書、1983年
  • 加藤幸次監修・愛知県東浦町立石浜西小学校編『子ども・保護者・地域を変える多文化共生の学校を創る―「理想は高く、現実に絶望しない」教師集団の実践』黎明書房、2009年

※本研究は、文部科学省科研費(課題番号:21530894)の助成を受けたものである。